2009年05月28日
人返し令
限界集落化を加速させてしまった主因といったものはいったい何か?というやつを勘ぐった際に私の個人的な思惑には、やはり一種の“情報の質”に課題が存在しているのは否めないのである 私は特に一極集中の集団的な軍隊化が加速する都会へは、足を踏み入れたいと思わなかったし、あまり生活をしたいとかって感じたことはなかった 働くという意味では人口が密集すれば、何をやっても(良きにつけ悪しきにつけ)或る意味での自己実現が達成できるのは必然的なことだろうと思える 即ち特にあまり労力を使わなくても職業が確保され、特に騒がなくてもサーヴィスの質も頭の質も上昇するのは、特に珍しいことではなさそうだ ただ相対性理論的にいえば、時間軸の回転が異常な加速を示すのは周知されてもいる われわれは年を重ねる 年をとるということは、酸化が促進する、ものすごい加速して、心臓の回転がフルモードで全開する 消耗が夥しい というのは、結局は、‘浪費に全身全霊突っ込んでいるだけ’それだけが今 こういったことに氣付くか氣がつかないでシンでしまうか こんな二者択一的な文明が築かれてきたのではなかろうか いろいろとクソミソなことを鋒鋩が騒ぎたててはいるが、誰が聞き役なのだろうか 実のところ、誰がひそやかな暮らしぶりを訴えるのだろうか? たまたま営業で寄った民家で、引きとめられて人生相談を請けてしまう その内容は深刻なものばかりだった がしかし、なぜ…? 私のようんばモノにこーいった深刻極まりのないことを玄関を開けてみたら、一秒の瞬間から訴えてこられるのだろうか? 私は聖徳太子の耳も持っていなければ、二宮尊徳の態度もない ただただ、右から左へと流れていくだけ どーなるものでもないし、どーしよーもない そーいった話が右往左往している 家族にも話してないとか、妻には話せないとか、ママには言いたくないとか… 山のように積み重なり続ける‘訴え’の地層化 ここ50年足らずで高く聳え立つ山脈は縮んできたが、人々の混沌とした‘シニタイ病’のような‘訴え’が積み重なり続けていた 誰も聴かない ‘知るかっ’といった態度を主張し、横柄にあくまでも個人的に基づいた極めて利己的な‘自己主張’をオープンにディファインする しかも、その主張は何にも基づいてはいない、根拠がなく、痺れの切れる、子孫を脅かす、自然界の破滅をも齎すような… それが正しいという 手を叩いて賛成する 賛成は大多数である 多数派の軍指令のもとにひれ伏すしかない いわゆる‘むし化’しかも、顕著なそれである いまを大切にすることは貴重なことである 勿論持続性も大切かもしれない ただわれわれ、〝ヒューマンフォーミュラ〟におけるキーワードには、左の文字は見当たらないだろう それは、あくまでも、むしより人間だし、いまよりむかしに学ぶし、持続より循環を選ぶからだ 比重をどこに置くのかとか、何をどーというものは、個人的にあっても、そんなもんは一過性の感情みたいなものだし、それを話題にするなんていうこと事態が極めて取るに足らないことのナニモノでもない 前置きが長すぎたので、行を変えます
あまりにも一極集中した人口をどうバランス良く地方へと配分させるのかというやつが、今後の極めて重大なプロセスでもあるのかもしれない 誰からそーいった移動は始まるのかだとか、もう始まっている 知らないうちにそーなっていく 自己実現だけでは、目標が足りなかったのかもしれない そーいって空虚になって、また地元にUターンしてくる そんなことの繰り返しみたいな氣もする ただこういうのは、氣がついたからという意味であって、一極集中型ライフプランだった人生の折り返しをするという判断が適当なのかもしれない 先日、新宿御苑の中を散策させて頂いたところ、その後山の手線に乗車したら、真新しい制服姿の小学生が、一人で乗り込んできた この小学生らは、きっと、この辺りには生活の居なんかは求めないだろうなと…、もう姿を観ただけで、将来像まで観えてきた ただ日本かどこかは想像に絶し難かった あまりにも野蛮化の加速する現状が、この教育の貧困国に課せられた罪深い十字架にも観て取れる 犯罪の起こる主因が観えても、水際でなんとか出来たに違いなく感じさせて頂く なぜか… それはやはり、その人間が触れ合ってきた人々から成るのではないのだろうか そして、それは“人為”そのもの だとしたら、われわれは、この目の前の人間にどー接していくのだろう それはほんの一瞬のこと…のようだけど 蓮華合掌
あまりにも一極集中した人口をどうバランス良く地方へと配分させるのかというやつが、今後の極めて重大なプロセスでもあるのかもしれない 誰からそーいった移動は始まるのかだとか、もう始まっている 知らないうちにそーなっていく 自己実現だけでは、目標が足りなかったのかもしれない そーいって空虚になって、また地元にUターンしてくる そんなことの繰り返しみたいな氣もする ただこういうのは、氣がついたからという意味であって、一極集中型ライフプランだった人生の折り返しをするという判断が適当なのかもしれない 先日、新宿御苑の中を散策させて頂いたところ、その後山の手線に乗車したら、真新しい制服姿の小学生が、一人で乗り込んできた この小学生らは、きっと、この辺りには生活の居なんかは求めないだろうなと…、もう姿を観ただけで、将来像まで観えてきた ただ日本かどこかは想像に絶し難かった あまりにも野蛮化の加速する現状が、この教育の貧困国に課せられた罪深い十字架にも観て取れる 犯罪の起こる主因が観えても、水際でなんとか出来たに違いなく感じさせて頂く なぜか… それはやはり、その人間が触れ合ってきた人々から成るのではないのだろうか そして、それは“人為”そのもの だとしたら、われわれは、この目の前の人間にどー接していくのだろう それはほんの一瞬のこと…のようだけど 蓮華合掌
2009年05月25日
解法
公式を何かとか、考える以前の取り組みに様々な“定義”に関する軸にも触れていかなければならないあらゆる公式といったものはよく覚えてあって、おりこうさんの誰でもが公式には詳しいのであるが、肝心なこの“定義”が忘れられてしまっていたd_(>o< ) ヨクデキマシタァー!のでは何にもならないからでもある これらの定義が◇◇◇であるならば、だとか、ゆえに◇◇◇だとかそーいったモノである 私はこれらを敢て、数字化はしませんが、数字の得意な方々は時系列で現してみてください そもそも、なぜ人間性の公式が必要に迫られたかといった事態が発生していた 人道を何か説いてきたことそのものに何らかの疑問が噴出してきたのではなかろうか・・実際、事件や事故は何故起こるべきして起きてしまうのか?しかも、それらのほとんどが、人為性を帯びているように解説を付記される あくまでも人間が何らかに、もう少しだけでも注意を払っていたり、その行動を起こす以前に何らかの学びがあったなら、そんなとんでもない行動をとらなかったであろうということにも匹敵するのである つまり、快楽に感けただとか、普段からの怠けた態度や他人を自分の支配下に独占させるだとかいったゴーマンな揺るぎのない態度であっただとか、子ども時代を振りかえると、‘わがままを押し通す’というキライがあっただとか、今の義務教育そのものの集団生活による軍隊化とした流れ、一種のあまりにも抑圧的で画一化された時系列の中に閉じ込められている家畜化された時間を過ごすことが、6・3制に及んでいる 保育園だとか幼稚園だとかいったのまで含めると、10年以上の期間をそーいった時間軸にねじ伏せられているのが、現状のスタンスでもある 統制化されたといった方が正しい表現なのかもしれない 誰もがみな疑いの余地もなく突き進んできた時間の流れの中に強制的に入れられてきた 一部の不登校になったといった時間を過ごす人間については、特異性をもったものといった観点を強いられた しかしながら、よくよく考えてみれば、統制化の軍隊的な教育体制にねじ込められていた期間といった異様な時間で過ごせるということの方が、よっぽど異常事態だとはいえないだろうか 少なくとも私自身は、これら人道的な公式を考える視点からはそのように汲み取られてならない むしろ、不登校で学校に行かない選択をしただとかいう方が正常な感覚なのだ しかしながら、道具を使えなくなってしまったり、自然界での動きがまったくわからなくなってしまったり、如いては今日の天気がなんだったのかさえも知らなかったりといった感覚でその一日づつを繰り返し積み重ねているだけで、こんな風に人工的に慣らされてきた子ども時代彡(-L-彡)を同じように経過させられてきた人々が、他人の痛みを分かるだとか、気付くだとか、そーいった感度は、そもそも養われてはいないし、自然界から遠のくようなことばかりを強いられてきたのであもある この不幸は、取り返しのつかないことなのではないかといった戦慄を感じてもいる なぜ、極悪ともとれるような行動をするのか?喜怒哀楽がそのまま、そーいった行動に出てしまうのか?感情と行動の一致とは、そもそもなんなのか? 感情と行動の区別を司る唯一の機能とか、習慣だとか、倫理感だとか、それはいったいどーいったものなのだろうか?というモノでもある 他の一般的な方、特に団塊の世代と呼ばれて久しい方にお会いさせていただくと、二極化しているのが、この教育といった捉えかたなのかもしれない 一方では、大変に感じているが、その他方では、教育だとか学びはまったく不要であると云ってしまっている 特に女性の奥方の方には顕著にこういった傾向が見られてしまうのである このような中年の方々の教育に対する危機的な感覚の差といったものが、われわれ子孫のギャップとして報いられてもいそうである 自分には学習は必要ではないが、子や孫には、馬車馬のごとく学校へ行け!勉強しろ!と威圧的にさせてしまう 悪しき‘棚上げ症候群’とでも云うべきであろうか・・・ なので、実際にところは、こーいった奥方が、どーしたら学習に意欲的になれるかどーかといった視点も重要極まりないのではないか?たまたま、介護を任されているからそれどころではないだとか、遊びに忙しくて学習には価値を感じないだとか、益々そーいった哀れなジャンクフード世代が激増していく ほんの一握りの人々が分かっていたりするだけで、あとの夥しい民衆は、どーってことなく貪りの境地に腰を落ち着かせて喜んでいるというか、一喜一憂してしまっているに過ぎない その中での底上げをいかに工夫できるかどうかに掛かっている そんな風に感じている 先日また聴きであったが、24時間営業のファミレスに深夜、どー見ても60台の夫婦と、その娘、その赤ちゃんが、隣でなにやら食事をしていたという ただどー考えても食事の時間ではなさそーだったが、その娘はジャンクフードを食べ、赤ちゃんは冷房に曝されながらにも係わらずおくるみにくるまれているでもなく、薄着でくしゃみをしながら、その長いすに置かれたまま、落っこちそーだった((;゜Д゜))という 何かこの赤ん坊は、単なる飾りであったりそれらの一部のような感覚でしかないに等しかったそうでもある 少なくともこーいった祖父母や母親らの周辺の態度を観つつ、次の世代はそれらの情報を偽りかそーでないかに拘わらず忠実に伝えていく(  ̄ー ̄)ノ◇ ザブトン1マイブンダネ のみであるのは間違いない 特異性といった一種の言葉の彪のようにくくってしまってもよいのだろうか? ただたまたまそこにそーいった人々が存在していたといった事柄で片付けてきたに過ぎない こーいった脆い人間性に陥っている教育のなさない世帯の多さ いったい、教育がないというのは、どういう意味なのか? ただ単に掛け算ができないとか微分積分がわからないだとか、漢字をしらないとか読めないとか書けないとか、そういった単純な事柄ではなさそーである 表題に戻すのならば、この“解法”なのである こういった定義の中には膨大な項目が存在してくるかもしれないし、分けることは出来そーで出来ないのかもしれない 意識して変化を起こすというよりも、ガラッと転換するのは、楽だけど、戸惑いも多くなる ただ自然にしておくというのは、やはり時間はかかるだろう しかしながら、現状維持が困難な状況になるのは、もう目に見えてしまっている そういった疲労は予想していたのだ 予想といった頭の中で考えていただけで、その予想に対する準備を怠ってきたに過ぎない 準備がいったいどーいったものか?だとか、全くのところ予想とは食い違った展開が起こってきただとか・・・ 自然界には起きてしまっている ただこれだけは◎◎◎をつけよう 蓮華合掌
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2009年05月22日
風
まぁね、やる氣がないんならやんなきゃいいわけですから…投げやりな態度ととって頂けるかもしれませんが、ここでこーして打ってることってには、もう今じゃないんですよね 刻々と過ぎて往く時間軸のことであって、あぁ、昔そんな風なことが在ったよね~あんときは、誰も協力してくんなかったよねだとか、自分の態度のでかさ比べをしてたよね というやつが残っただけで、どーということもなくなってしまった 第一、発展途上国の制度とこの御国のかたちと、どこが違うのかとというのがある 一部の人間は、三権分立さんけんぶんりつサンケンブンリツと叫んでたって、周囲の人間は、一権ずつの分業になってしまってるわけで、その前後左右だとかや、繋がりは毛頭考えないし、何も繋がってることを意識しないで、個々の独立を奨励しているだけとしか思えない 広大な敷地内に血筋系統だった二世帯だとか三世帯住宅の塔を建立し、そこでやっと独立しただとか、独立させてやったといった証になってしまっているにすぎない 私なんかは、この独立宣言に対抗し、古民家に籠城していたこともあったが、その顛末は見事に破壊させられたのでもある そして、なぜそんなことを感じていたのかと言えばだっ、それはビジネスとかそーいったほっつき歩いている時間棒の方が長かったので、ただそこに在るといった場所には、そもそもまったくのところ架空と化されていたからでもある つまり、外に働きに往っている時間軸が極めて多くを占めているわけであるし、またその移動時間も長きに及ぶ このような言わずと知れた理不尽極まりなく、エネルギー浪費のようなどー観ても観なくても、あってもなくても済みそうな時間軸に大量の時間を浪費染みての吸収せざるを得ない こんなにも文明が進んでいるというのにこのザマである 私が以前から取り組んでいた地域の課題だとか何だとかかんだとか言った類は、そこに住んでいる人が決めることだというのを認識していた 極端に言えばだが、東山の保全などは、必ずそこの市長なりが率先して藪を片づけたり、ナイフを使ったり鉈で作業したり、早朝住民の誰よりも早く起きてこの仕事をすることが、そこの市長の唯一課せられた仕事であって、ソファーのような所にふんぞり返って青っチロい宇宙人風な人でなしではないのは、紛れのない事実だった そーいった学習会を積み重ねてきていた しかし、その先達も寿命がきて逝ってしまった 霊魂は死んでないと往っても、私だけが観えていても、他の誰も観ないし、判断ができない だから、霊魂なんかない 実際在ってもない いろいろと無念だったに違いないことを感じている またこーいった事柄に触れるだけで、悔し涙が頬を伝う 別に自分のことではないし、こんなことを張り裂けそーな思いでいるっていう時点でもう、バカ扱いだっていうのは勿論知っているし、いつだってそーだった ただどっちがバカなのかは…? そうとー疑問だったことも確かだった 兎に角、もうこの打ってる瞬間ていうのは、課題が課題ではないような氣もしてしまう 過ぎ去ったものなのであり、もう取り返しがつかなかった ただそーなってしまった そして、今日も風当たりが強さを一層増してきている 逆風には従えというものだろうという流れでもある 向かい風も経験値のうちのただ一瞬にすぎないような氣もする 今年は石垣イチゴが毎日収穫できる グミも実がついてきた 枇杷も青くなってきた 花ばっか咲いて実が出来ないっていう年もあったが、今年は花も咲いた実もついた そして、コットンの発芽も確認されてきた 一部の種子は、逆さまになってしまい、根元が天を仰いで干からびて発芽してきたものもあったので、憐れんでいたりもした まるで、発芽とシンクロナイズドスイミングをかぶらせたようでもあった 芽の双葉は何やらもじゃもじゃとしてくしゃくしゃっとなってギャザーが入っている まだ開かずに手を合わせて天を向いている こーいった過程といったものも実際に観た方が感動的なのかもしれないし、こーいったシネマが干からびた人間の気持ちに潤いを与えるのかもしれません 蓮華合掌
2009年05月20日
天使門生
国家が戦争を選択(o_ _)o なんかしてた頃の話というやつをつい先日、ジジに詳しく聴いてみたさ...((((ノ^^)ノ ジジはその当時、航空自衛隊員として空の御用を掌っていたという小刻みにナイフを用いて鉛のえんぴつが削れるとか、鉈で50年ほどの年輪の樹木を割れるとかが器用に出来ることは一つのステイタスではないのだろうか ナイフを使って人はアヤメるのは出来るが、えんぴつなんかは削ったことはないといった貧相な世代が引き起こす闇に一抹の嘆きにも似た戦慄を奏でられてしまう 米軍の某軍人に「お前は飛行機に乗ったことがあるか?」と聴かれ、「ない」と、その通りに答えると、「乗れ」といって、その軍人の二人乗りのヘリコプターもどきみたいな神風号のコックピットに搭乗したそうだ そのときに観た房総半島の黄色い菜の花の萌えるように鮮やかな色を上空から眺めたり、あの茨城の海岸あたりだとか、太平洋湾岸沿いをただ跳んで魅せてくれたようだ としか、話を聴かされている方には思えない話しぶりであった 航空自衛隊が、単に遊覧飛行をこの若い日本兵の若葉マークに対し、浪費のようにも思えることが決行させられていたようだ その後、古ぼけたアルバムをよく観てみたが、自衛隊のヘリの前で、かっこつけてる若かりしジジがそこにはいつも存在しているだけである あの戦争はいったいなんだったのであろうか・・・このようなにこチャンマークのような微笑からは、戦乱の混乱は想像しにくい風に感じる そして、子どもの頃の戦争の情報は、唯一このような微笑みの画が溢れていた それ以外の情報は伝わってはこなかった 飛行機やアメリカ人やあたりの風景は、戦争時代のようなニュアンスを醸し出しているのだが、夥しい人々の顔つきは、全員どーってことなく笑っていた しかし、先日浅草に行った際の碑には、空襲の恐怖が建立されてあって、新聞報道などの公のメディアでは、決して語られることはなかったというように どれを観ても残されていたのである そして、一番観たかった仏像はなかったというよりは、一般には公開されていないようだったし、現地人たるそこで、創業70年以上経過してただとかそーいった歴史のある食堂だとか店屋の人さえ、聴いて回ったが、悉く‘知らない’と云うばかりだった 意図的にしらないというものではない氣がしてくるのでもあった よく私も道に迷うので東京みたいに今日あった場所が明日はないといったスピードが要求されているような場所では、コンビニのバイトの人に道を聴くのは常だが、東京のコンビにでは、例え、お隣のビルだったりするところでさえ、「ここで働いているだけですので、この辺のことはわかりません」と難色を示されてしまうのだ そこへくると、田舎だと、もう地図まで出してくれて教えてくれるのである しかも勿論、そんな場所へは、自分では一度も行ったことなんかないような学生みたいな人が親切だ ただ中年の女の人は、都会と一緒で‘知らない’とあっさりと拒否られてしまう つまり、レジを打ったりする他の余計な労力には一切金輪際係わりたくないという意味のことを表明されているのである いわゆる、もうこれぞ‘むし化’傾向が強まっているとはいえないだろうか そんな傾向が覗えたりもするのである 国家が戦争を選択していた時代とはいったいどういった時代であったのものか 戦争はある意味では自然界でもあったのだろうか そして、それらは、行き過ぎた‘生活の為だけに’といった害虫駆除できなかった結果としての自然だったといっても過言ではない ただ断言するのは危険を帯びてもいる 駆除されたはずの害虫が悪魔よろぴく派生してくる過程というものは、必然的には嫌なニオイが関連しているのである 鼻がもがれてしまうような悪臭がしてくる場所でのリスクは、見逃せないのである 例えばこういったところに湧く分解者が健全に働いてくれると、悪臭などはほとんどない筈である にも係わらず分解者たる微生物らしきその存在の所在が不明か、亡命か、ほとんどがいないことになってしまった 消えたのだ このあたりが生態系を考える際の重要なポイントゲット方法でもあるといえる 循環が破壊されたといった壊滅説もあれば、食物連鎖のピラミッドが破壊されたといった説も疑いの余地はない 自分がまだ幼かった頃の方が、もっと多種多様なむしけらがいた ただいた それにあたりの山々も、子どもの頃観たよりも てんてんてんまりてんてまりといったようにマリで撞かれてしまった凹みが感じられてならない こいうおかしなことを以前から、色々な方々に表明して口にしているのだが、考えすぎだとか、たわけとか、頭がおかしいとか、入院しろとか、そーいうコメントをその他大勢の人々から絶賛されていた 有難い こんなにもそーいった評価を成されているその他大勢の群集のみなさま こーいった評価は私には、ただただ有難いことだとしか感じられては来なかった ところで、アカシヤの花のてんぷらの時期になった このアカシヤのてんぷらを打ち立ての蕎麦に投げ込んで食すのは、感慨深い アカシヤの花の蜜の甘みもあるので、わさびの辛さもビミョーに辛くってうまいよO(≧∇≦)O イエイ!! ぜひ、その辺から摘んでいって、明日なんかはアカシヤのてんぷらを食べてみてはいかがでしょう・・・? 歩いていって採ってくるくらいの距離にはあるように思われますが、あたりにはない場合は、河川沿いなどに行ってみますと、もう白い花が満開なのでわかります 恐らく誰のものでもないとは思いますが、誰かの敷地内の場合は、許可が必要かもしれません そーいう場合はご注意ください その他の場合は、特に無料で摘んでこれますので、貪らない程度に魚篭等に採ってくるといいでしょう 天候にも恵まれている今日は、そんなこんなを感じさせていただきながら、またイソイソと出かけていくのでした 蓮華合掌
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2009年05月18日
immigrant
住宅困窮者自身からの提起、その後:
沿革:
2000.01 y2k問題は、何事もなくクリアし過ぎていってしまいどーってこと無い日が続く
2000.05 知人の在日外国人の仕事量が減ってきたといった報告があった(気のせいかもねといったいい加減な対応をしてしまった)残業のことだと思う
2000.12 障がい児者・在日外国人等のためのケアハウスに関しての会合を持つ
2001.01 ●●地籍ブラジル民族レストラン“ベンブラジル”での生活者相談開始
2002.08 日系ブラジル新聞報道機関への困窮発信 当時の県営住宅並びに町営住宅に住宅困窮者のためのコミュニティケアとした場に再利用できないものかを××県住宅供給公社に打診(当時の回答等の原本担当者等詳細はコチラ)
2003.03 ××町政へ打診したが、何も回答は得られず、難色を示された
2004. 一部の県営住宅が取り壊された、日系人等含め、非常に悲しい思いをし、ショーゲキが走る(何月に取り壊されてのか記憶があいまいになってしまっている)
2005.07 在日外国人等の生活状況は更に悪化の一途であったが、鋒鋩に相談してはみたが、どこへ行っても‘わからない、知らない、難しい’といった調子であったし、生活のQOLや在日外国人の教育等の相談窓口が業務時間や担当者が一人とかいった狭いものであったために解決困難にさせていた
問題点が理解できないのが問題となってしまっている:
1.人種の違いや様々な差別的な待遇から働く意欲や地域からの孤立を余儀なくさせられた上に何らの対策という対策も配慮しないために更に荒み切った生活に陥っていくばかりだった Japanese takes no heed of what others say.
2.住宅確保に関してまったくのところ闇に包まれていて安心が確保されないとか、その住宅費を支払うための職場を確保しなければならないために日本国内を行ったり来たりしなければ立ち行かなくなって、自治内では最低線の水準で、ほぼ難民状態で暮らすことを余儀なくさせられてしまっている
3.信頼できる方の恩恵のみでは限界域に達してきている
4.中には、心的外傷後ストレス障害といったライフワークを持ち合わせているが、本人には病識がなく一口にくくっても、うつ病・性的虐待・DV・差別等々の重度重複障害を併合し抱えているためにどこにどー相談をし、絡まりあった複雑懐疑な詳細の解決を見出すかは、すべてが自己責任に押し付けられてしまっている (本人が好き好んでこのような状況に遭遇させられた訳ではないにも係わらずに)
5.当事者が、口々に発するのは、現状の住居の地籍近くが殺戮の遇った場である拷問を強いられているためにその被害を口にすることでの報復やお礼参りを恐れて躊躇してしまっていてガチガチにフリーズしている
6.国境を越えてネットワークを整備する必要に迫られている(裁判員制度は、これらにとってはモメンタムだといえよう!)
7.上記並びに国境を越えて続々と日本を目指してこられる働く意欲のある方々には、飽くなき学習意欲の継続性が重要であり、これらの移民側が、いったい何を望み、どんなライフスタイルを目指され、何に時間を傾けたいと考えているのかといった揺らぎのない指針が尚一層求められるであろう (今後、日系人の多死社会による孫世代の大量な介護を必要とされる多文化といった排除されがちな地域社会の孤独死における深刻な課題等、目白押しであることは考えに及ばないはずでもある)
日系人の死に際がどんな状況下におかれているのか 多くの人間が存在するところではまだ、それらは何か仕組みが当然、組まれてはいるのかもしれない ただ地方、特に閉鎖的なカースト制度が歴然として布かれてしまっている現地ではどうだろう? 行き倒れに近いし、その後も誰にも後始末もされないまま、死んだ場所で、樹木のように身動きがとれないまま、そこで朽ちていくといった状況ではないか そこには干乾びた人間関係の成れの果てが顕著に観てとれるのである ただ骨が残るという意味においては、このような最後は故人が生き抜いた証しとでもいうものが残るので、さほど氣にはしなくてもいいのであろう 残されたものがどのような遺志を継ぐのであろうとも、いま生きている人間の行動次第ではないのだろうか 感情は仕方ないのである 異常感情をどーのこーのと批判はできない その怒りに満ちた感情をどういった行動で顕すかが、いい大人の考えなくてはならない難関であることは間違いないのでもある These tires endure for several years.
社会倫理の視点から見れば、報恩施についても崇高なる評価と、財モノを用いなくも行なえる布施として、眼施・和顔悦色施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施の無財の七施を実践することで、陀羅尼経をあげるように貪らない心を呼びさますのだとも教えられてきた また、ビジネス面においても、“三輪清浄”が、布施によって貪りの心を離れつつ彼岸に達するといった大乗仏教の教えである布施波羅蜜を実践していこう 当方では、早4年目となりましたが、房舎施を有難く、御布施させて頂いております お近くにお立ち寄りの際にはコメント等に、ご連絡をお願い致します 蓮華合掌
沿革:
2000.01 y2k問題は、何事もなくクリアし過ぎていってしまいどーってこと無い日が続く
2000.05 知人の在日外国人の仕事量が減ってきたといった報告があった(気のせいかもねといったいい加減な対応をしてしまった)残業のことだと思う
2000.12 障がい児者・在日外国人等のためのケアハウスに関しての会合を持つ
2001.01 ●●地籍ブラジル民族レストラン“ベンブラジル”での生活者相談開始
2002.08 日系ブラジル新聞報道機関への困窮発信 当時の県営住宅並びに町営住宅に住宅困窮者のためのコミュニティケアとした場に再利用できないものかを××県住宅供給公社に打診(当時の回答等の原本担当者等詳細はコチラ)
2003.03 ××町政へ打診したが、何も回答は得られず、難色を示された
2004. 一部の県営住宅が取り壊された、日系人等含め、非常に悲しい思いをし、ショーゲキが走る(何月に取り壊されてのか記憶があいまいになってしまっている)
2005.07 在日外国人等の生活状況は更に悪化の一途であったが、鋒鋩に相談してはみたが、どこへ行っても‘わからない、知らない、難しい’といった調子であったし、生活のQOLや在日外国人の教育等の相談窓口が業務時間や担当者が一人とかいった狭いものであったために解決困難にさせていた
問題点が理解できないのが問題となってしまっている:
1.人種の違いや様々な差別的な待遇から働く意欲や地域からの孤立を余儀なくさせられた上に何らの対策という対策も配慮しないために更に荒み切った生活に陥っていくばかりだった Japanese takes no heed of what others say.
2.住宅確保に関してまったくのところ闇に包まれていて安心が確保されないとか、その住宅費を支払うための職場を確保しなければならないために日本国内を行ったり来たりしなければ立ち行かなくなって、自治内では最低線の水準で、ほぼ難民状態で暮らすことを余儀なくさせられてしまっている
3.信頼できる方の恩恵のみでは限界域に達してきている
4.中には、心的外傷後ストレス障害といったライフワークを持ち合わせているが、本人には病識がなく一口にくくっても、うつ病・性的虐待・DV・差別等々の重度重複障害を併合し抱えているためにどこにどー相談をし、絡まりあった複雑懐疑な詳細の解決を見出すかは、すべてが自己責任に押し付けられてしまっている (本人が好き好んでこのような状況に遭遇させられた訳ではないにも係わらずに)
5.当事者が、口々に発するのは、現状の住居の地籍近くが殺戮の遇った場である拷問を強いられているためにその被害を口にすることでの報復やお礼参りを恐れて躊躇してしまっていてガチガチにフリーズしている
6.国境を越えてネットワークを整備する必要に迫られている(裁判員制度は、これらにとってはモメンタムだといえよう!)
7.上記並びに国境を越えて続々と日本を目指してこられる働く意欲のある方々には、飽くなき学習意欲の継続性が重要であり、これらの移民側が、いったい何を望み、どんなライフスタイルを目指され、何に時間を傾けたいと考えているのかといった揺らぎのない指針が尚一層求められるであろう (今後、日系人の多死社会による孫世代の大量な介護を必要とされる多文化といった排除されがちな地域社会の孤独死における深刻な課題等、目白押しであることは考えに及ばないはずでもある)
日系人の死に際がどんな状況下におかれているのか 多くの人間が存在するところではまだ、それらは何か仕組みが当然、組まれてはいるのかもしれない ただ地方、特に閉鎖的なカースト制度が歴然として布かれてしまっている現地ではどうだろう? 行き倒れに近いし、その後も誰にも後始末もされないまま、死んだ場所で、樹木のように身動きがとれないまま、そこで朽ちていくといった状況ではないか そこには干乾びた人間関係の成れの果てが顕著に観てとれるのである ただ骨が残るという意味においては、このような最後は故人が生き抜いた証しとでもいうものが残るので、さほど氣にはしなくてもいいのであろう 残されたものがどのような遺志を継ぐのであろうとも、いま生きている人間の行動次第ではないのだろうか 感情は仕方ないのである 異常感情をどーのこーのと批判はできない その怒りに満ちた感情をどういった行動で顕すかが、いい大人の考えなくてはならない難関であることは間違いないのでもある These tires endure for several years.
社会倫理の視点から見れば、報恩施についても崇高なる評価と、財モノを用いなくも行なえる布施として、眼施・和顔悦色施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施の無財の七施を実践することで、陀羅尼経をあげるように貪らない心を呼びさますのだとも教えられてきた また、ビジネス面においても、“三輪清浄”が、布施によって貪りの心を離れつつ彼岸に達するといった大乗仏教の教えである布施波羅蜜を実践していこう 当方では、早4年目となりましたが、房舎施を有難く、御布施させて頂いております お近くにお立ち寄りの際にはコメント等に、ご連絡をお願い致します 蓮華合掌
2009年05月18日
むし
昨日までの暴風雨も止んで今朝はカラッとした良い天候に恵まれてている 昆虫たちの慌ただしい生活雑記を観るにつけ面白おかしくもなる どこからこんなにも大量に涌き出てくるのかと思うくらいの虫たちがごまんといる 蜘蛛以外は、ほとんど羽根を持ち自由に辺りを飛びまわれるので、人間にはこのような芸当が望めないのだから昆虫様なにに羽根を持たされないで、その虫の子宮から生まれてきてしまったのか こうして観ていると、激しく動き回るのは‘ほぼ生活のためだけに’といった或る意味それが‘目的化’されるに至ってもいる昆虫活動である こんな朝っぱらから、昆虫を眺めて喜んでいられるのは私くらいのもんだろうが、それらがどーにもこーにも人間の生態に似通っていることに氣付かされてしまうのである 「あーこれって、小学校時代の校長に似てるな」だとか、近所の特徴のある灰汁の強さを醸し出しているおばはんだとか、そーいった一種の擬人化されたおかしみでもある 昔カマキリ顔の人間にストーカーちっくにされてカマキリを観ると違和感を感じているあるプチ整形した女の子だとか、自然界を観ているだけでオドロしくもなってしまったりする まだこの春、カマキリには遭遇してないんだけど、みんな花には眼を奪われるけど、この虫たちの活動には、むしだけに無視されているようだ それとも無私になっているのだろうか 私は確かに‘●▼■むし’と付く生き物が嫌いだった 出来れば避けたいと念じてもいた どーも頭とか目玉だとかの周辺に眼の上のたんこぶ的にうろつく虫がいっぱいいて、私の視界を塞ぐのである こーいった体験はアウトドアをライフワークにしておられる方々は頻繁に遭遇すると思われるんですが、もうこりゃーハンパじゃない ( -ω-)ノ-=≡≡≡ 白眼に飛び込まれて眼の中を掻き回された暁には、ゴロゴロ感がひどくなって、まさか、こいつら地下鉄に一気に飛び込むのと勘違いしてんじゃないのかって、疑念の流布がする どーもこうした思いに縛られてしまう きっとこのような感覚を感じてしまうには、やっぱ、どーもこの眼といった洞窟のような中に一心腐乱のような勢いをつけてわざわざ飛び込むなんていうのは、虫けらといった無自覚さしかないのである なので、飛び込もうとしている人間には、あなたは、虫ではない(( ^_^)^^ ) というのを標語のように伝えなければならないのではないだろうか 今まさに躊躇なく飛び込んだり、飛び降りたりをしそーな人間に伝えよう!「キミは、虫ではなく、人間だ!」といってただそれのみを自覚してもらおう それでなければ、自分も他人もみんな虫として認知しているうちは、どーにもこーにもその呪いからは醒めないのではないか 迷信というものは恐ろしいものである それか、虫ではないと思ってはいるもののその他の動植物だとか、最も在る決まった場所で動けなくなってしまっている樹齢何百年の巨木だというのを思いこんでしまっている可能性もある 人間なのに、自分は実は人間じゃなくって、虫けらだったとか、爬虫類だったとか、もうとっくに死んでいた( ̄- ̄)だとか、そーいうイメージを覆していくといいのかもしれない 自然界を観るっていったって、何をどうしろっていうこともできなければ、こーやって観るんだなんていって、強制的に連れまわすわけにもいかない なんで夜な夜なシャシャリ出るような活動をするのかっていえば、やっぱ夜だけ活動してるようなのはね、ドブネズミみたいなやつらとか、コウモリ野郎だとか、擬人化の名を借りれば、自分はもうそーいった存在になり下がってますっていうのを自覚しているにすぎないよね 夜の蝶とかってオシャレな感じもしてるんだけど、こんなのは燐粉をまき散らす‘ドク蛾’系で不気味な蛾のことじゃん 自然の蝶なんか、だいたい夜なんか活動してないし そんなもんですね 里山を守ろうって現代の人間が唸っていたって、その昔一世を風靡した鉈だとか、鋸だとかの道具を使える樵を養成するんならいいけど、なんか損益計算が発生してしまうような金銭価値の比重がでかいものは、もうそこで、間違いだって感じてしまう ただそれは、時代に逆行というのを反逆されてしまうんだけど、そんなんで、ボランティアが無償っていう話とは関係ないんですがね ボランティアなんか無償に決まってる お金なんかとれるわけないんだ だけど、そーいうのを学んでいない連中がごまんといる ボランティアっていうのは、お互いさまの尊い精神であるし、無償の愛そのものなんだから、お金をとりたいんならビジネスにしないとね どーしてこんな単純な意味が理解できなくて喧嘩になってるんだろう 喧嘩とか争いって、結局は‘貪り’ですね どーしてもそーなんだから仕方ない ‘貪ってしまう’ので、本人にはその氣はなく無意識かもしれないけど、「こんなに金がかかった」どーのこーのって文句を論う わかんないから 教育されてこなかった その御父さんだとかお母さんも誰も教えてくれなかった もう貪るだけ貪れっていうシステムが動いてしまっている 現実社会がそーなって、一層慌ただしくさせている 自分だってその渦中に巻き添えになって飲み込まれている 今まさに飲み込まれていて、「何もやらないクセに」だとか、「結果を出してない」だとかって叱咤されつつ激励もされてしまう なんだか不自然な感覚だし、そういって説教している人間が、実は一番怪しかったりする 独学でなんかやったとか、なんか独りだけでやってきたとかって意気がってるのは、貪りの何物でもないよね かといって、張本人ってのは氣がついてない(  ̄O ̄) 無意識の境地なのかもしれない(  ̄O ̄) 私のような外部から観ているといった感覚を持ったらそーいった感覚には陥らずに済むのかもしれないのかな 最近なんだけどね、こんなことを感じてしまうようぬいなってきたのも ただ今日は、すごくオモシロい方を紹介されたので、楽しみにしてる、それじゃごきげんよう(v^-^v)
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2009年05月17日
孤独
今朝は寒気がする こんな寒気がする日は、或る日の出来事を思い出さないわけにはいかないくらいだ 当時、犯罪被害者ボランティア養成募集とした試みが、このような地方の●▼■大学でも行われていた そーいった関連にはしょっちゅう、首を突っ込んでいたので、ここでの事実は、今後どー始末をとられるのかどーかの判断材料にもなり得るのかもしれないと感じつつ、過去歴をアップしたい その募集要綱には、400字詰め原稿用紙に自らの筆跡で、震え帯びた手描きを要求されるがまま、3枚くらいにまとめて仕上げたのと、簡単な写真付きの自己形成史なるものを添付したのである このような厄介な原稿を●▼■大学に持参し、書類選考の上、面接なるものがあった 面接に出向いた日、私は何か‘利用されているのでは’などと言った不安に貶められてもいた 地元●▼■大学の面接会場は、もう自動ドアを過ぎるとすぐの小さな会議室だった 心臓がゴットンゴットンと脈打つのが脳下垂体に伝導するかのようにそのドアをオープンさせた そこで待ち構えておられたのは、今でもそのショー劇を観るにつけ、震撼としてしまうのみであるが、三人組のいい大人がおわされた そこでのこれら面接官なる●▼■大学での教授らは、私に一方的な言動のQ&Aを浴びさせ、さらにその面接官らの顔つきであった表情であるが、一律に画一的にニタニタとほくそ笑んでいた これらが私の脳を翳めるたびにこの●▼■大学には足を運べない唯一の震撼とさせるエピソードとなってしまってもいた もう二度とそこへは、行かれなくなってしまった なぜなのかもわからない ただもう、あの面接の日からどのくらいが経ったかはわからないのであるが、●▼■大学で、何かの善いことが行われていたとしても、もう二度とは足を踏み入れたくはなくなってしまったし、ガクガクとしてきてしまう その近くにさえも近寄れなくなったのは、紛れもない事実である ただそれは、三人組に 1:3とした中でのそーいった映像である 他の人々からは、「なーに言ってるだ」とか軽々しく扱われ交わされるだけである ‘そんなこと’といった軽微で空虚な潜在意識下でのことになってしまっていたとはいえないだろうか その後も何度か、あの大学のあの教授らが、そーいった募集を大々的に行い続けていたが、その間に黒焦げになったり飛び込んだりといった拷問は、無くなってはいない むしろ、増えているのではなかろうかとさえ感じてもいた 何かそーいったボランティアを養成するだの何だのかんだのと威圧的なテキストで縛り付けるのは、それを自己評価させているのだろうかとか、疑念は少なからず感じる 今が旬であるからだとかって、普遍性を意識したものであるし、そこでの四季折々を観るのでもある ボランティアと呼ばれる活動に論文を画かせたり、テストのような試験をやらせたり、面接をさせたり… これらは、ヒューマンフォーミュラには、理解が不能であるといっても過言ではない もし今ここで、巨大地震が瞬時に人々の生活を踏みにじった場合、未来少年コナンの前奏みたいに宇宙船に乗っかれるごく僅かな生命体は別としても、金持ちも貧乏人も犯罪者も全知全能万能な宇宙人的人間もほとんど同時に この激震に遭遇してしまうのは紛れもない事態である ただそういった激震は瞬時には往ってしまうのであるが、自然界に掻き回された際の後始末は、誰が一番に被るかということである 若者は年寄りを押しぬけ食料を貪り、中年の女はやたらと若い男性に媚りまくり、そのうような結果とすれば、何も罪のない人間が被る心身共の外傷や、ショックや、厳しい現実を突き付けられて長期的に痛手に堪えに耐え続けてから死んで逝くといった怨念じみたことになりかねなくもない 偲び難きを堪えといった‘我慢’だとか現実的にはたくましく生きているだとか言って、何もしない自治体や周辺の人々 オロオロとして、金は有り余るほど持っているクセに自分たちだけが有利になるようにつくった地元基準の法に縛られて手出しは何もできなくしてしまっている しかも、それで次世代はショーがなくなって、貪りの境地にいた一部のおじいさんや貪ることを洗脳され尽くされたおばあさんの残した罪深き十字架を無意識に背負わされた孫たち、周辺からは‘御気の毒に’などど拝まれてしまう そんなシナリオがどこにでも存在してきたにすぎない 在る一部の少数者が声を荒げて勢いをつけて挑んではみたが、●ネ●ィ大●領の最後のような結末が残されているだけである ほんとうに末恐ろしい船上ならぬ、殺伐とした土壌に ただ置き去りにさせられてしまった こう感じている人間がきっと、どこかに散らばって存在してしまってその保護を救出させるのを待ちわびるといった幻想を描いているだけのようでもある しかしこんなマグレみたいな博打は存在しなかった みんなグルになっている みんなで面白がっているだけ 今に自分もそーなるとかはまったく関係ないと言い除けてしまう 果たしてこんな事態が遭ってもいいものなのだろうか そこで、犯罪被害者支援に関する事項に戻れば、何もこの●▼■大学ばかりではなく、その他への場にも、多くノコノコと出かけて行ったりもしていた それを全部、公表させる氣は毛頭ない ただ、そこではやはり、マインドリーダーとか何とかは誰もいなかったし、自分達が遭遇してきた個人的で私的な事例の暴露を何の躊躇も咎めも何もなく、本人は黄泉の国なので知るかっといわんばかりの態度だった そしてそれらで稼ぐといったことだった そこでは自らの体験してきた事例とかではなく、他人の私的な相談をこれこれこーいったことが在るといって公にさせることでの講演だとかセミナーだとかいったいわゆる、成功事例としたもののみをピックアップしていたにすぎなかった また震撼させられていた もう二度と参加できない理由の一つにまたもやなってしまっていた どんどんと参加の場が限られていっただけだった そして、馬の骨扱いが頻繁でもあったりした それはこの人間をどーせよあーせよだとかっていうのは、その本人さま次第なんだし、どーしてやることも何かに頼らせるということもできない なので我々は少なからず“法施のモメンタム”を感じている生活生命体の一人の人類であり、仏教界におけるこのような希薄な倫理性とすれば、仏教では“平等・慈悲・報恩”といった三つの基本思想から派生してくる“四摂事”という4つの徳目であり、即ちこれらを具体的に生活の中にすんなりとしっくりと入れるとすれば、
〇施すこと(布施)
〇愛されるべき言葉を語ること(愛語)
〇この世で人の利益になることを実行すること(利行)
〇あまたの事柄について適材適所にて共同して働くこと(同事)
これらの4つの徳目は回転する車のクサビのように機能するものであるとのことであり、これらを家庭・教室・職場、ひいては地域社会の中で生き抜くための徳目であると、原始仏教は教えているのです 四つの徳目を生活の中にを合言葉のように過ごせたら善いでしょうね 蓮華合掌
〇施すこと(布施)
〇愛されるべき言葉を語ること(愛語)
〇この世で人の利益になることを実行すること(利行)
〇あまたの事柄について適材適所にて共同して働くこと(同事)
これらの4つの徳目は回転する車のクサビのように機能するものであるとのことであり、これらを家庭・教室・職場、ひいては地域社会の中で生き抜くための徳目であると、原始仏教は教えているのです 四つの徳目を生活の中にを合言葉のように過ごせたら善いでしょうね 蓮華合掌
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2009年05月16日
abject
“狩野芳崖の悲母観音”が描かれた時代的な背景や、こういった緻密な描写というか、こういったものは何処かでも観た風景でもあった どーしてこういうイメージ画が描けるのだろうかということに感嘆としたりした しゃぼん玉のような中に赤ん坊がその観音さんの眼差しに何かを示しているような清浄なこの二者の瞳という氣がしてならない これが、われわれドロップアウトした少数精鋭派の目指しているものは、事実上、施者の三つの縁が、この赤ちゃんと悲母観音の無償の愛ともとれるお互い様を映し出したいと考えているわけだし、そういうモノを創り上げていこうというのみでもあります どうしても、二者という存在では、証明をする必要に迫られてしまうし、ゲームは二人からというルールの前衛のようなものまでがあった これは何か違うような氣がしてしまう やはり、三人からといったルールを定着させる なぜか それは追々と説明をつけてはいきたいのではありますが、日本人の文化としての三すくみを辿ると、その関係がよくわかるようにも感じられてなりません こういったことは、どこかの新聞の社説にもございましたが、兼ねてからわれわれが願うのは、何かの利害関係がまだ発生しないという観点からの出発でした そりゃー何か善い事をやっていくというんだから、仲間を作った方がいいに決まっている だけど、そういった際にどーしたらその場が生まれるかっていうのを考えてみたら、何もないとかどこかの地位から抜け出しているだとか、今現時点で何処かに所属し何かを命じられているようなビジネスでは、身体を縄でグルグル巻きにされた上にまだ頭や足の裏や側面から圧縮されてしまって呼吸困難な空間に晒されているというものであり、そのしがらみからは逃れられない かといって、その柵から自由になったりすることは、非常に勇氣がいるだとか、労力が掛かるとか、法律的な縛りがあって、どーにもこーにも自由ではない 自由という言葉が齎すものが、自由がゆえに恐怖に感じている人々が大勢いる その前衛に鎮座するのが、何か日本の教育界っていう感じがしてしまう じゃなくて、そう なぜ、そんなことを感じるのかといえば、あまりにも知識一点バリのバリバリの所謂、頭脳集団を生産しはしたけど、そこにはある意味、日本はみせかけの知識集団をいっぱい産み出しはしたので、これはある意味においては成功だったのであろう がしかし、こういった頭脳は、持っているというただこういった部分がジャマになってしまう場合が多くなって悩んでいるという変な循環になってしまっていると感じる 頭脳は持っていても、気持ちが追いついてこないといった状況なのかもしれない 例えば、自然界では、石について、辞書には、石というのは冷たいとか、そういった冷却として冷え冷えとしたことは書いてあるわけですから頭脳ではお利口さんになってれば分かる でも、石のみんながみんないつも冷たいかっていえば、それは場所によっても違うし、そこに出かけてみて初めて、冷たいのかそーじゃないのかとかが分かるというものだということなんだなと・・・ こういうのを人間に置き換えてもそーなんです わたしなんかは、どーも、ある集団からは、「あんな●●校のPTA会長やってんだって、ふふふっ、★★じゃないの」と陰口を叩かれてしまっている これは集団とか全体主義に染まっているほぼ90%の地元人間もっとかもしれない99%かもしれない そー言われたりどこかの●ち●ん●るとかいうやつに平然と発言は繰り返されている そんなこともう50年くらい変わってないし、知っているけど、誰もそれが重大な国際法を無視したジェノサイドに加担しているといったことを意識していないし、意識せずに済まされた地域が出来上がってしまっている これはもうわれわれドロッピングアウトしてしまった少数精鋭派にとってはゲームオーバーのなにものでもない そういった小ざかしい変な意味でのインドのカースト制度みたいになってしまっている そこで競争社会に打ちのめされてそこでの居場所をあてにしていた友達とか家族だとか親戚だとか、そういった人々にさえも、刃向かえないのが現状である もうそーいったカースト制度さながらの枠が決定されてしまって、そこに収まったやつらには、低所得や低賃金や非常に劣悪な就職しか見当たらないのである 誰も努力だとか何かの能力だとか成果だとかを一番身近な親でさえ認めてはくれない 認めないどころかそういったジレンマを暴行や虐待といった態度で、さらに脆弱と思われる誰か、例えば個人的に筆者だとか そういうやつらに もうさんざんにぶちのめす ぶちのめされている本人なんか、何でそーいった状況なのかっていうのはまったくのところ、把握できてないし、そんなヒマなんかない そーいう最も、先ほどのしゃぼん玉の中に入っている赤ちゃんみたいな人間に対する“態度”が、人道を標榜させている人間に限って、貧困そのものなのである 貧困っていうのはね、何も銭かねが、家中かき集めたって一円しか出てこなかった人間( *極端な事例ですんで決してマネはしないでください)だとは限らない ほんとうの貧困っていうのは、すぐに潰されて跡形もなくなるってわかりきってる“しゃぼん玉”の中に包まれてどーなるのかわからない赤ん坊を一捻りでお陀仏にさせている‘力’が漲った全体主義とした悪魔さながらのなにものでもない これだけははっきりとしているのは確かであり、しかもそーいったことには、何も意識なく向かってきた 法施を学んでいない乞食集団とも似た、疚しく野蛮で無智で、迷信をただひたすらに信奉する ありのままありのままっていう 信頼できるつながりっていったいどういうものなのかなって? そんなのは検索してたってわかんないし、すぐにつながりたいっていってて、違う言語圏の人々とやりとりが完璧にこなせるっていう技術的な手段を持ち得ない 理不尽なんだよね こういったことで、どんなにか心の闇を抱えている人間らしい人々が、抑圧され続けているのかってことに そんなのは、ある人がどういった画を観ているかだとか、どういった本を観ているかだとか、どういったことを伝えようとしているかで、想像つくし、どういったことをしゃべっているかとで判断が容易にできてしまう だけど、今まではこーだったけど、やっぱこーの方がいいなとか、そんな小さなことから氣付いてくることで、場が生まれてくるのかもしれないと切実に感じてさえいます 蓮華合掌
2009年05月14日
light and shade
世の中の動きに時々ついて行きそびれる ついては行けないと言った方が正解だった 周りを見渡してみても誰もいなかったことの方が多かった 視界では確認が困難だったが、そこには移りゆく自然界がただあった 私と同じ病名の人々が早々といのちを誰からも拾ってはもらえずにバタバタと逝ってしまうことに本当に感極まり難い空間を観てしまうのは私だけであろうか もし日本の教育界が、出来なければ宗教界が、出来なければ個々の家庭が、男の子、殊に長男に背負わせるレッテルみたいなナンバリングを外せたら、どんなに空気がうまくなるかと感じてしまう そーいえば、昨日だって大型スーパーでの食料品売り場で、まだ5歳児ほどの男の子がママにきつく、大きな張り裂けんばかりの声で叱られて叩きのめされていた所に遭遇してしまった 男の子は「きゅうりを買わなきゃ」と言ってきゅうりの置いてあるところから離れずにいた ところが、ママは「きゅうりなんか誰が食うんだ」とかって、魚売り場から大声でイカってしまっていた 怒り狂いながら、きゅうりの場所まで駆け足で向かって行き、その男の子を頭を小突いて首を引きずりまわすようにして、私の眼前から遠のいて行った 震撼とした その後も、この親子が現れるのは、私のすぐ斜め横にぴったりといるので、会話が聞こえる 小さな声での会話ではなく、もう5m先でも聴こえるような声なのに隣にいる どうも、この男の子は上に姉のいるような長男らしかった 私は別に聴くつもりではなかったのだが隣にいたし、聴こえてきてしまった 所有物の何物でもなかった 肉や加工食品やジャンクフードに入り浸って、その中でさえも厳選しているようだった 厳選してもしなくても同じような氣がするのだが、そーしていた この時には、もう眼前からがかなり遠ざかっていた 考察をするわけではないが、どうもりんご★家のようだった しかしそーいった詮索はしない なぜそんなにも長男を叱り飛ばし、路線価に乗せたがるのか? ただそこら辺を感じる まだ幼児だとか児童だとか、そーいった時分には特段の意識はなにのかもしれない しかしながら、このような悪しきマザコンの醜態は社会人となってからその人格形成の歪みが噴出してしまうに過ぎない このようなことは蔑ろにされている 一部の人々しかわかっていない 全体の中に小さくなって埋もれているだけだ 中国の人が劣悪な住居に住まわされ、低賃金の御犬さまや御豚さまよりもヒドイ扱いをされているのと同じようでもある 私はこの眼で観てきてしまった 観ようとしたのではなかったが、そこにはそーいった映像が広がってしまっていたのである 本末転倒とはまさしくこのような映像でもあった 日本人のやりたがらない仕事であったりレイバーさながらのワークをとても喜んで、誰にも知られないように楽しくやっている どうしてこのような崇高な人間になり得るのか… 驚嘆せざるを得ないのである それも、在る日には、自分の方がどー考えても給料も、なにもかもが低い貧困と呼ばれている環境でありながら、もっと多くの賃金労働者の日本人に施すのである 何を施すのか ありとあらゆることを施すのである もうこういった進化の世界には、慈しみしか生まれてはこないだろう 蓮華合掌
2009年05月14日
L D
幼いカラスが事故に巻き込まれ、その被写体が平らになってしまった あまりにもギャーギャーと泣きわめく親からす達の深刻な叫びに動揺を隠せずにいた それらは、あのLethal doseが関連しているとしか思われない ペシャンコにお陀仏化された幼いカラスは、毒性に脳が身体がマヒしていたのだろうと…思われてならない でなければなぜ、あんな軽トラの下でウロウロとしているなんていうすばしっこいトリの芸当ではなかろうに 親ガラスは、その最後を信じたくなくて、ギャーギャーと鳴き喚き散し、正気の沙汰ではなかった 凄まじい勢いで、ひき殺したジジめがけて、飛びかかってきそうな感触すらあった もうあの幼いカラスは、この世にはいない カラスが死んだら四次元の世界に逝くらしいから、カラスの遺体は観たことがないんだよって、何かのセミナーで言ってたけど、河原に叩きつけられてフワフワとした幼い毛で覆われ、仰向けで口から、首から流血を観た 目玉に至っては潰されてその外枠が確認できるのみになってしまった 誰もいなくなってから弔いの準備と悼みの線香に火を燈した “幼くして逝ったカラスよ、どうか恨まないでおくれ この全体主義が齎したこの画一化された収益重視の日本での教育の劣悪なる質だった 幼いカラスには何ら関係のなかったことであり、ほんとうに切なく、かけがえのない子供を失った親がらすよ、どうか仕返しをするとは考えないでください、ほんとうにお悔やみ申し上げます” 悔やんでも悔やんでも悔やみきれぬ現実を受け入れ、‘赦し’とはいったい何であるのか? 何がいったい‘赦し’なのであるのか…見極めたく感じさせて頂く 私自身の御身で恐縮ではあるのだが、やはり歯を折られたなどというのは間違っても氣がつかなかった記憶でさえあり、あの終★処★場でのジェノサイドとの因果関係を問われることは先ずなかったし、誰一人としてこの真相究明には加担したくなかったのである ですから、国際法にての然るべき対応を加味しつつ、準備をしなければならないのでもある 真実はどこにあったのだろうか…? いつまでも野晒のままにしておくことは、今後のかけがえのない見ず知らずの生贄を遍く増加させてしまうに過ぎず、誰かが強い意志を持ちたい これだけを今は語ろう そして、真相が明らかにされつつある時に どんなにか不屈のその中におられる友なき友の声なき声がゾロゾロと噴出してくるか あまりにも残酷過ぎた そして、あまりにも長きに亘ってしまった これからだってもっと長い時間を弔いに費やすことにもなる だから、精神の深みのみで活動をしていくよりほかには何もない あるがままといった意味は、現行の体制に付き従うだけといったことになりがちである というよりも、そうであった これが自然の流れというような本邦のさびしい捉え方の顛末だ 中国的思考では、老子ならびに荘子が聖人として、経世の変革を促した 陸続きではないがゆえに集団やまとまりやその中での‘竹槍で一突きだっ’といったあまりにも直ぐに結果を出させようとする野蛮な国民性が教育の賜物として浮き彫りになっていないか まだどこかの国家と陸続きであった方がまだ学ぶことが多かったのかもしれないが、そーいったことはタブー視され、また現行の体制に順応させるのみを推し進めていたのみにすぎない 結果的には、あるがままの状況に単に身を任せただけの日本人特有の自然観がそもそもそういったものであったのだ 出典:人生と仏教 伝統の再発見より 蓮華合掌
2009年05月13日
命の水
どこからどう話そう、そうだ、昨日は、不思議なネパールのバザールに吸い寄せられていたのだ そこでいい氣になったのがそもそもの誤りだったのかもしれない ‘生霊’が憑いているといったことを判断され、“マニボウ”を欲したが故に‘金縛りに遇ってますか?’とも云われた 実は“命の水”について地域文化の掘り起こしを独自にしていて、その中で、大宮熱田神宮へと誘われたのだ そこでは、人っ子一人いなかった ただ鳥が鳴いていた ビデオカメラをまわし続けて、なぜこの場所が、水の神様なのか・・・?といった意味を捉えてもいた 黒沢というものにも関係し得るのではあるが、埼玉から長野へと移行したのはどういった意味があったのか・・・? そのあたりが解明はできない ただ寂れていた 長野県では樹齢にしても何にしても記録的な杉が存在している そして、杉と松が合体したりして、所謂ベトちゃんドクちゃん状態だった それをなぜか縁結びのヨロシク、その樹木の股のような分かれ目には、50円玉が置き去りにされてもいた 50の縁に肖りたいとの切実な願いでも有らせられたようだ その撮影を終えると、確かにこのは入り口付近は、恐らく私が事業を起こす場所なのだなと、壮大なスケールを掲げて脳裏に焼きついたりもさせていただいた 恐らくこういったオーガナイジング・アビリティは、整えられつつ在るのであろう そして、白檀のお香を焚き、身を清めつつ、今朝を迎えはさせていただいたのだが、一向に眠れないのであった 目が爛々とするばかりであった 目は起きていてしまうのだ どーにもこーにも、起きている 抑えようもないのだ そして、丑三つ時を過ぎた頃に 歯磨きをさせていただいた あまりにも眠気が来ないので、歯でも磨けばこの呪縛から逃れられるだろうにといった安易な気持ちでもあった しかし、明け方の五時を回ってしまっていた 氣がついた時には、もう・・・ 常にそーなんだ この朝、子ども達の弁当を忠実に作る 卵焼きだのサラダだの具沢山のスープだのといったようにいつものごとく、それらは何ら変わりない 弁当を作り終え、それぞれを送り出す そーいった決まりきった毎日の動く中で、なんと、継父が劇物毒物である除草剤をこの家の近辺に撒き散らした しかもその後、継母もスプレーに消毒薬の濃いい液体を撒き散らし始めたのである 私はもうどーすることも出来ず、成す術もなく平伏した蛙のような存在になり、事態を見据えた そして、継母は言う「もう二年足らずで寿命」というのを近所の老婆に語っているのであった 叱らば、この毒物のドクロマークが醸し出すオゾマシイ鼻がもぎ取られるような臭いの効能をどのように処分せしめるのであろう? もうこの課題に直面させて頂いて、40年も過ぎようとしてはいるのだが、一向に和解の兆しすら見え難い状況と化しているのも事実である そして、私は寝込んでいた 苦しみに耐え抜いてさえいた しかし、誰もこのようなジェノサイドに晒されているといった意識はない 寧ろジェノサイドは存在しないといった暴行を仄めかされてしまう 野蛮人の群れに在住し過ぎた境地に在住してしまう 稀にとか偶にといった、マクロの偶発的さながらの事態なのでもある カラスが勢い余ってびゃーびゃーと泣き喚いている 分かっている分かってはいるが、どーすることもできずにいる ただ毒薬の★ル★ランが、継父を洗脳させ、継父の寿命を減らすのには一役買ってもいるのであろう もうこのような囚われた境遇に存在するのには、歩度ほど懲りた この人類は何を問いたいのであろうか? 私には今現在さえ良ければいいといった頭にしか思えない しかし、この威圧的なジェノサイドでは、そーいった能書きは一切、通用しないのだ なぜここまで、統制させたがるのだろう…?意味がわからない 生態系が狂ったから、ウシやブタを飼い過ぎるから、蜜蜂が消えたとかって、数日前には言っていたのが、今日はもう日の出前から、殺虫剤をありったけ、この屋敷のまわりにどさまくと撒いておいて知らん顔だ もう朝から苦しくて苦しくて息をしない方がましだとさえ感じていたのに さらに追い打ちをかけるyぽうに継母は、霧吹きでその行為をマスクもせずに続けているのである 驚異の他になんといった表現のしたら良いのだろうか?この悪魔の仕業にどういった態度をとったらベストなのか…? 今のところは未解明鎖ながらでもある そーいえば、ワイナリーの見学をさせていただいた際にブドウの成長新着状況のログまでも教えて頂いた 白い土がブドウの成長には好影響を与えることや、薔薇を傍に植えるということで、害虫などのバロメータになりうるなどの詳細な説明をして頂いたりもした 今後のワインには少なからず期待ができそうだった 引き継ぐことの重要性も与えられたように感じさせても頂いた 明日はもう、継父母の撒いた殺虫剤は、その辺の野山に散らばっていってないのだろうか…? この無知の罪を被るのは、われわれ子孫の宿命なのであろうか…、ほんとにオゾマシイ現状である そして、ここまで画一的に統制され、半ば洗脳されてしまった継父母の憐れさを思えば、不憫でさえあり致し方ない このような教育の熟れの果てをどのように説明をつけるのか?私には今のところ、まったく分からずにいる このように汚染された土壌や大気の回復困難な道しるべをどうしたらいいのか…? 怒りはなく、淋しく情けなさとでいっぱいになってしまってもいる 野蛮人の国に拾われてしまったがゆえに… 蓮華合掌
2009年05月11日
Mindreader
よくリーダーシップを発揮するといった意味での使われ方の多いこの‘リーダー’という言葉ですが、考えてみれば“聞き役”ですね それがどういったわけか、“聞き役”ではなく、責任を転嫁させられるような存在になっているような氣がします “聞き役”といった方々は、年齢を積んでこられた長老といったイメージもあります 色々と人生の航海をし、すったのもんだのを繰り返されてといった経験がある 経験から導かれたり裏打ちされた方々に相談するといった流れなのかもしれない ただ、われわれの現在進行形のこの“リーダー”というのは、つぶさに聴く機関としての機能でありたい しかも、人魚姫のように身体の半分は人間で下半身は魚のような存在にインタビューを決行するといったものでもある 具体的には、上半身は全くのところシャットアウトである これっていうのは、想像とかでも何か全体像が分かってしまうと、「あいつだな」とか、そのしゃべっている本人が特定されて、暗殺されかねないからでもあるヾ( ̄- ̄ ̄ 3) こんなふうに打っている本人だって命がけみたいなところもなくもない それは、こいつが言ったあいつが言ったというのをやっていると、本心はひた隠しにされてしまうだけで、元の木阿弥だし、この先にも改善されるといった兆候はなくなってしまう インタビューはするが、答えたくないことには答えなくてもいいし、しゃべりたい場合は時間が許す限りしゃべり続けていいとしなければならない そこで、スポンサーを募りたいのは、スポンサーと云うとそういう何か利害関係が生じるようでもあるのですが、われわれの考えている資金集めという手段は、出資者から、今回のプロモーション企画に関するプレゼンを購入し、その次の段階の映画に運ぶ資金調達の手法でもある こういった見世物を製作しDVDなりなんなりにして、それらを売りさばいて、短期的に期間を区切り、またその企画を売却し、それらのかかった報酬と経費を差し引いて残った現金を利益とみなし出資者に分配して一航海が終了となるという方法を採択する つまり、現在のような期間損益とは無縁の経理にする こういったシナリオは出来ているので、このスタンスで進めていくことになる 新鮮な“企画”とか、旬の企画が要求されるのですが、われわれが、現時点で直面している内容を考えています 勿論、これはNPO版ザガットといった考え方でもあります ただ、私の現時点での民法的な立場は、‘無能者’といった囚われの身になっているので、この点に着目すると、無能力という立場では、何か‘悪事、悪行’を起こすやりきれないやつらだといったイメージを尽く廃し、‘無能’ということにスポットを充てる そもそも自身が、どこの国籍の誰であるのかを知らないし証明も不可能であるといった存在であり、そういった証明のでき得ない事実という、ジェネラルでは単に珍しいといったことで片付けられていたり、日本人のその多くには「ふーん」という調子しかリアクションも何もないので、そういう5%未満の人々には、直接関係もないらしいので、それはそれとして、その他の夥しい人間らしさの追求に活用できるものになればと感じているのです 歴史は繰り返されているって云ったって、どの部分の歴史がどんなふうに繰り返されてるかなんてのは、断片的なものだけかもしれないし、この部分はそーかもしれないけど、この部分なんかは違うってなる そんなに似てたら変だと思う という見解はあります この“ヒューマンフォーミュラ”なんかも、実際こんな人道的な公式だなんて言ってるのは、どーいった脳みそをしているなのかなって思われても、今これを見てるあなたと大してどこも変わらないと思います ただ、私にはこの社会に下されたレッテルのような烙印のような、然もすれば、強烈な画一的な社会からの食み出しモノであるリストリクションされ続けた人間、みなさんとどこも違わないような暮らし振りなのにどこかが違うという烙印を付与された結果のどこかでの市民みたいな氣はします だからってどこかに所属はしているけど、どこでも通用するというものでなければ人道的な公式とはいえないっていうことです だって、ここではダメであそこではいいよっていうのは、そもそもそういう考え事態が、全体主義の齎すものなのかもしれないし、どこ行ったって何もできないし何をしてもムダな感じがしてしまいます あの国に行ったらできるよだとか、ここならいいよとかって、やはりその昔は、そういうので移民が右往左往していた感じはありますね そうじゃなくて、人間がどう思い何をするのか?がポリシーであって、どんどん食べろ食べろって、作って売りさばくという時間的なコスト計算をいつも念頭に置いた経営をしてて、これっていうのは、もう貪りの境地ですよ ‘食べることが苦しみ’に変わってしまうだけです それは売りたいから食え、食い潰せっていうような政策貧困的な儲け過ぎの農業を一心不乱になってやっているとしか思えない またこういった発言が命取りになる怖れもあるのですが、みんながみんな全員がそんなことに参加できないに決まってる このシーズンは断食をしたいと主張する人だってあれば、通常は梅干粥に少しの味噌汁でいいという人だっている そういうのを聴いてみる それは個人的なことかもしれない 集団ではわからないし、集団の中にその個人的なかけがえのない何かは、かき消されてしまうにすぎない ちっぽけなことだと云われてしまう もっともっと大きなことを考えろとか、大きな企画を考えて儲けろと躍起になる 果たしてそうだろうか・・・?目下のところ、疑問に感じてしまう あくまでも何かその人間の中の限りなく小さな遺伝情報のようなゲノムDNAのようなそういった意志のような思いを大事にする それを親鳥が卵を温めるように孵化させること それが具体的なこのヒューマンフォーミュラというものなのではないか そんな一考を感じさせて頂いてもいる 半漁人のお話に戻れば、なので出資社には例えば、靴のメーカーだとか、パンツやジーンズのメーカー、スカートのメーカーといったもので補えばいいのである それはそのインタビューに答えてくれる誰かがそのメーカーをプッシュするということ こちら側で用意するとかではいけないと思う それにあくまでも地域社会が全員参加するのを目的としているので、一人残らずが、そういった企業の恩恵を意識するだとかの人事ではない自分として何かが目覚めたりする そうなったらいいのかなと感じる それは背中だとか足の裏とかでも通用するかもしれないので、そーいった社会概念上、通用できるかなっていうのを採用したらいいのかなとも感じている ただ地域全員参加とかってお題目的だけど、あくまでも個人に寄与したことであるし、集団的な多数派の意見のみを問い質すようなことにだけはしない けど現存する場所によってはかなりの開きやミスマッチや原住民vs銀河系生命体とかいった光年的開きはあっても、それらが混沌とした今を感じつつ、そういった夥しい生命体への切実な願いを達成することが使命でもあるのではないだろうか 蓮華合掌
●●●●●●●子さん一家に関して: 04/10/15 15:02:09
:現状と見通し
2004(平成16)年10月13日現在、〒xxx-xxxx ●●●郡●●村の村営住宅に長男、長女と住む ●●子さんは、今日時点では、5年以上本邦に居住していたい旨と、住居を希望している 14日になり、12:15頃支援者Mに電話をし、長男(18才)が、ブラジル帰化を希望し、あと一年以内にはブラジルで生活をしたいと期限を決めてきたので、前日の13日の話し合いとは異なり、●●子さんもブラジルに帰化したいとの意向に変更した これは、現時点での住居の保証人である〇〇〇〇さんにはこれ以上のご迷惑をかけられないといった已むに止まれぬ事情が強く、●●子さんの気持ちにも配慮されたい
●●製作所では、14日からまた仕事が再開するので会社の方から来てくださいとのことであった 職場の方々はとても親切になさって頂けるとのことであるというので、現状では仕事のことでは特別な課題は生じていない
(プライバシーの課題)長男●●●くんが、ブラジルに在住している彼女と結婚するかもしれないから、ブラジルでの生活拠点を築きたいと決めている(やっと固まったようである)
●●子さんは、両親が京都在住だったこともあり、日本人の血が半分混じっているんだから、本邦では堂々と権利を主張してもいいと考えている(憲法等)
日系ブラジル人が介護ヘルパーの資格取得を目指すには、2級は試験が免除されるという 一時的にブラジルに帰化なさったとしても、もしかしたらまた本邦に戻ってこなければならないかもしれない ただ介護の実務経験が在るという経験則のみであるのが現状ではあるが、日本語がそれほど理解できないので、課題が生じている 一番には、時代を見据えて、今後ヘルパーとしての職務に就業を希望するかどうかでもある 生理整頓が苦手でもあり、周囲の方々との係わりも大事であるということは知っている 所謂コミュニティケアである ただ支援者サイドが首にナワをつけて介護のヘルパーにというムリにとは云えない また、そんなのは需要があるんですか?といった行政サイドの認識の乖離もある 日系の方も介護の経験は在るもののその介護を受けるサイドによっては、差別意識がぬぐえない方々も少なからず存在してしまう 先日も、某乳児院の園長に日系ブラジル人の赤ちゃんの面倒を看るボランティアをしますといって施設見学を申し出たところ、応接室に通されて、いざ赤ちゃんと面会をとなった際に 「あんたがたは暗すぎる!」などと‘アンタ’呼ばわりされた上に赤十字の看板をぶら下げている人道の人から発する言葉ではないような「暗い!ダメだ!」といって追い返されもしたのには、驚愕したのである(m)
日系ブラジル人に限らず、中国や北朝鮮、韓国、フィリッピンの方々が永住を希望されておられるのに職がないというのでは、現行のリズムから抜け出せないのではないでしょうか? 今回はこのテーマを炙り出してみましたが、これら外国籍の方々に対する職業の確保に 現存する人手の最も足りない介護や子育て分野でのOJTとした人材能力開発が最も急がれているようにも思われます またそれと同時にこのような課題が急務に取り組まれなければならない責務にも感じられて仕方がないのです
上記の類の生活相談に重きを置くことを主眼とし、実務経験を重視します ですので、特に何語がデキルだとかどこ国籍だなんだかんだという事項は設けません ただこちらの運営上、そんなにも多国籍の状況ではないにしろ、いずれはどこにいても誰でもが参加できるそんなゲームになればいいなという論旨です
●●●●●●●子さん一家に関して: 04/10/15 15:02:09
:現状と見通し
2004(平成16)年10月13日現在、〒xxx-xxxx ●●●郡●●村の村営住宅に長男、長女と住む ●●子さんは、今日時点では、5年以上本邦に居住していたい旨と、住居を希望している 14日になり、12:15頃支援者Mに電話をし、長男(18才)が、ブラジル帰化を希望し、あと一年以内にはブラジルで生活をしたいと期限を決めてきたので、前日の13日の話し合いとは異なり、●●子さんもブラジルに帰化したいとの意向に変更した これは、現時点での住居の保証人である〇〇〇〇さんにはこれ以上のご迷惑をかけられないといった已むに止まれぬ事情が強く、●●子さんの気持ちにも配慮されたい
●●製作所では、14日からまた仕事が再開するので会社の方から来てくださいとのことであった 職場の方々はとても親切になさって頂けるとのことであるというので、現状では仕事のことでは特別な課題は生じていない
(プライバシーの課題)長男●●●くんが、ブラジルに在住している彼女と結婚するかもしれないから、ブラジルでの生活拠点を築きたいと決めている(やっと固まったようである)
●●子さんは、両親が京都在住だったこともあり、日本人の血が半分混じっているんだから、本邦では堂々と権利を主張してもいいと考えている(憲法等)
日系ブラジル人が介護ヘルパーの資格取得を目指すには、2級は試験が免除されるという 一時的にブラジルに帰化なさったとしても、もしかしたらまた本邦に戻ってこなければならないかもしれない ただ介護の実務経験が在るという経験則のみであるのが現状ではあるが、日本語がそれほど理解できないので、課題が生じている 一番には、時代を見据えて、今後ヘルパーとしての職務に就業を希望するかどうかでもある 生理整頓が苦手でもあり、周囲の方々との係わりも大事であるということは知っている 所謂コミュニティケアである ただ支援者サイドが首にナワをつけて介護のヘルパーにというムリにとは云えない また、そんなのは需要があるんですか?といった行政サイドの認識の乖離もある 日系の方も介護の経験は在るもののその介護を受けるサイドによっては、差別意識がぬぐえない方々も少なからず存在してしまう 先日も、某乳児院の園長に日系ブラジル人の赤ちゃんの面倒を看るボランティアをしますといって施設見学を申し出たところ、応接室に通されて、いざ赤ちゃんと面会をとなった際に 「あんたがたは暗すぎる!」などと‘アンタ’呼ばわりされた上に赤十字の看板をぶら下げている人道の人から発する言葉ではないような「暗い!ダメだ!」といって追い返されもしたのには、驚愕したのである(m)
日系ブラジル人に限らず、中国や北朝鮮、韓国、フィリッピンの方々が永住を希望されておられるのに職がないというのでは、現行のリズムから抜け出せないのではないでしょうか? 今回はこのテーマを炙り出してみましたが、これら外国籍の方々に対する職業の確保に 現存する人手の最も足りない介護や子育て分野でのOJTとした人材能力開発が最も急がれているようにも思われます またそれと同時にこのような課題が急務に取り組まれなければならない責務にも感じられて仕方がないのです
上記の類の生活相談に重きを置くことを主眼とし、実務経験を重視します ですので、特に何語がデキルだとかどこ国籍だなんだかんだという事項は設けません ただこちらの運営上、そんなにも多国籍の状況ではないにしろ、いずれはどこにいても誰でもが参加できるそんなゲームになればいいなという論旨です
2009年05月09日
perdition
この日本の家では仏教関連の本が無数に散らばっていたのでどーといった事も無げにそれらの古びた古典を観賞していた過去ではある それと同時に中国の故事なんかにも、これはっという感激が自身の中でリンクしていたので、もう手にとるようにわかったというより分らせて頂いたのかな ところで、そーいえば、朝日新聞の記者だった岡部一明氏の著書に非常に関心をもって読破させて頂いて、あーこれって、あのさぁTさんに貸しっぱなしで江戸に行っちゃったんですが、その後絶好調でしょかね? 懐かしく思い出されますが・・・ Tさん、その辺の本棚に埋もれててたら、そろそろ戻してくれませんか? まぁ氣がついた時で一向に構いませんが・・・というように仲間うちとかでは、本の貸し借りはしているが、自分ちがほぼ図書館状態で、生涯学習関連をライフワークに勝手にしているような氣もしないではないので・・・ こんなのって面白いですよね、
ときは流れ流れて____“ロックよ静かに流れよ”なんてのは、憶えてるやつらは少ないのかもしれない アレってのは、あたしらにとっちゃ、唯一の青春って呼べるやつだったのかもしれない ほんとうにトモダチの弟が単車で起こす凄まじい事故っていうのは後を絶たなかった けどあの映画をきっかけに 恐らくモメンタムだったのかなってね 感じますね 若くって飛んでいきたいっていったアラクレ小僧みたいなイケメンな弟がね、コロッとね、ある日突然にあの世に召されてしまった ほんとうに成人式だって迎えてなんかいないのに・・・だよ ツライぜ 家族だってやり切れねーよ、そんなのはね けど現実社会とは、こう真正面から向かい合わされてしまう けど、あんまりこういったのをわかる人間はいない 単車を転がす人間なんか新聞配達のおいさんくらいの僅かばかりの日本になってしまった この季節になると思い出すよ オートバイに乗ってた自分とか・・・あの時は死ななかったけど、まぁドライバーがいいやつだったからかもしれないね ドライビングテクニックっていうのは、何かこういっちゃなんですが、あまり訓練したからとか資格とかそういったものでは顕せないような氣もしますね 通常は歩行者に親切で、いたって車間距離は長い 今で言えばエコドライブってのですかね けど、スピードを快感としている諸君らには及びもよらない世界になってしまう 特にジェットコースターなんかを信奉してる人とかなんかは、氣が狂いそうになるのかもしれない なんてね 映画の話に戻せば、あの時代一世を風靡した あぁいった感動なりなんなりっていうのは、時空と場所を変えても、なんだか新鮮に蘇る氣がしてしょーがない 私だけかもしんないけどね こういうヒマなやつは・・・けど、あのべんとうやなんかも、様変わりしちゃったし、そんなこと事態が遇ったとかなんて、そこのバイトの人に聴いたって知らないっていうだろうね そういうもんじゃないのかな・・・なんだか、さびしいけど 骨と一緒だよね ないと困るって考えてる人もあるし、特に灰であっても、もう自分ではどーすることも出来ないし、後の人間に委ねるしか手立ては何もないんですから こういった意味を考えない 後からくる人もみんな自分と同じことをしたらどーなるんだ?っていうのを考えて行動しない 今の今までもいていなかった 出来なかったという こんなんじゃ、泣き言ばかりで通せるっていう主体性のない人間の大量生産と一緒だとしか思えない 自分のいま暮らしている目の前にいる人が何を大切にして何をしようとしているのかを考えない 目の前の人間すら、どーしてやることも何も出来なくなってしまっている 麻痺が起こっている 悲しく虚しくわびしい今といえないだろうか ただ、私はこんのはごめんだから、こういった考えの‘元カレ’とは今後一切交際を絶ちたいと・・・、絶縁したく感じさせて頂いている 何もこれは人間とは限らない つまりこういった仕組みで動いてしまっている公式とは、あばよっと云ってさよならしたい *ごめん、シンゴちゃんの名セリフを借りちゃって・・・ そんなとこですかね 昨日見た害虫が蔓延する世の中とは、どっかでプッツンとならなければ、自然界ではない そんな今を迎えたのだとはいえないだろうか 蓮華合掌
ときは流れ流れて____“ロックよ静かに流れよ”なんてのは、憶えてるやつらは少ないのかもしれない アレってのは、あたしらにとっちゃ、唯一の青春って呼べるやつだったのかもしれない ほんとうにトモダチの弟が単車で起こす凄まじい事故っていうのは後を絶たなかった けどあの映画をきっかけに 恐らくモメンタムだったのかなってね 感じますね 若くって飛んでいきたいっていったアラクレ小僧みたいなイケメンな弟がね、コロッとね、ある日突然にあの世に召されてしまった ほんとうに成人式だって迎えてなんかいないのに・・・だよ ツライぜ 家族だってやり切れねーよ、そんなのはね けど現実社会とは、こう真正面から向かい合わされてしまう けど、あんまりこういったのをわかる人間はいない 単車を転がす人間なんか新聞配達のおいさんくらいの僅かばかりの日本になってしまった この季節になると思い出すよ オートバイに乗ってた自分とか・・・あの時は死ななかったけど、まぁドライバーがいいやつだったからかもしれないね ドライビングテクニックっていうのは、何かこういっちゃなんですが、あまり訓練したからとか資格とかそういったものでは顕せないような氣もしますね 通常は歩行者に親切で、いたって車間距離は長い 今で言えばエコドライブってのですかね けど、スピードを快感としている諸君らには及びもよらない世界になってしまう 特にジェットコースターなんかを信奉してる人とかなんかは、氣が狂いそうになるのかもしれない なんてね 映画の話に戻せば、あの時代一世を風靡した あぁいった感動なりなんなりっていうのは、時空と場所を変えても、なんだか新鮮に蘇る氣がしてしょーがない 私だけかもしんないけどね こういうヒマなやつは・・・けど、あのべんとうやなんかも、様変わりしちゃったし、そんなこと事態が遇ったとかなんて、そこのバイトの人に聴いたって知らないっていうだろうね そういうもんじゃないのかな・・・なんだか、さびしいけど 骨と一緒だよね ないと困るって考えてる人もあるし、特に灰であっても、もう自分ではどーすることも出来ないし、後の人間に委ねるしか手立ては何もないんですから こういった意味を考えない 後からくる人もみんな自分と同じことをしたらどーなるんだ?っていうのを考えて行動しない 今の今までもいていなかった 出来なかったという こんなんじゃ、泣き言ばかりで通せるっていう主体性のない人間の大量生産と一緒だとしか思えない 自分のいま暮らしている目の前にいる人が何を大切にして何をしようとしているのかを考えない 目の前の人間すら、どーしてやることも何も出来なくなってしまっている 麻痺が起こっている 悲しく虚しくわびしい今といえないだろうか ただ、私はこんのはごめんだから、こういった考えの‘元カレ’とは今後一切交際を絶ちたいと・・・、絶縁したく感じさせて頂いている 何もこれは人間とは限らない つまりこういった仕組みで動いてしまっている公式とは、あばよっと云ってさよならしたい *ごめん、シンゴちゃんの名セリフを借りちゃって・・・ そんなとこですかね 昨日見た害虫が蔓延する世の中とは、どっかでプッツンとならなければ、自然界ではない そんな今を迎えたのだとはいえないだろうか 蓮華合掌
2009年05月08日
全体主義に目下のところ向かうのみの羽根アリ
パソコンに向かってるなんて、瞬きするくらいのほんの僅かな一瞬の出来事なんですけどね、あたしにとっちゃ(c ̄- ̄)・・眼に悪いのはパソコンでこうして打ってるときよか、いくつもの情報を瞬時に判断しなきゃなんないような公道での車の運転だとか猛毒素を吐出し続けるどでかい店とかに居座っている時の方が、ジェノサイトじみた狂気を感じてしまう 本日は曇りで、象徴的産物が雲の中に覆い隠されていたので、精神的な傾向は塞ぎ込みがちでもありました そこでは、多くの羽根アリたちが、我こそはっと先を争いながら全体主義の彼方に向かって羽ばたき続けていた ●▼■所有地という薄っぺらい板にそう書いてあった場所では、先のジェノサイドが勃発していた しかも、この場所をがんじがらめにさせているのは、有刺鉄線や細く鋭く錆びきった針金だった こういった錆びついた線に抑圧させられた地籍でのパニック(_ _,)/~~ カメラを回さなければならなかった こんな事態に限って充電するのを忘れていただとか、持ってこなかったとか…コレ事態がサイテーの失態だ やる氣あんのかよって感じですかね しかしながら、その光景は凄まじかった 次から次へとあたしの前頭葉とか目の上に纏わりつく何匹かもいたし、多くは成虫だったが、中にはシロ光するやつらもその中には僅かばかりであったがよく見ると混じっていた けど、100羽に一羽程度だろうか、そのパニック発作さながらの出来事は、30分も観ていたが、まだまだ続きそうでエンドレスで上演されていた どこからこんな調子で湧き出してきてしまうのか?湧き出させてしまうのか?この全体主義のイマジネーションを自然界は辞さないのである 本当に驚異的でさえあったがしかし、芸術的にさえ観てとれた このような光景は一般的ではないにしろ、実際には起きてしまっている侠気の沙汰でもある このような観ようと思っていて観たというわけではない日常が転がってしまっているのが、自身の変哲さをあくまでも猟奇的に棚引かせている ただただ恐れをなしている こんな自然界に遭遇しつつも、その行く末は、崩壊が待ちうけてもいる 全体主義に統制されたあまりにも区別のつかない軍隊の基地は綻びを繕うなどといったヤワなもんじゃどーにもならないのだ いつか観たこーいった戦場の光景を… 観たにしては生々し過ぎた そんな折にあまりにも大きな声で泣きわめく赤ちゃんとの出会いにも遭遇させられてしまう 御一人目は、診療所内で、もう御人方はドラックストアででしたが、どうやら、いろんな方々があやしても囃し立ててもどーにもこーにもならないといった状況維持で泣きわめいている 周囲の人は子供を出産されたことが在るという経験にほだされていたのは、この赤ん坊のママ&あたしだけだった ほとんどの人はこの泣きやまぬ難儀な生命体に「赤ん坊は泣くのが商売だから」などと言って、言っている割には、傍で観てるだけぇの傍観者なのである 傍観者は、言うも言うが、離れるも離れる このどーしようもない事態に一同は、事態を避けようとする会話を口々に始める まったく赤ん坊の泣き声を無視のように会話を大声でしてしまう こんな時はね、赤ちゃんは‘不安’のただその中に埋もれているだけなんだよ いつも存在している御部屋とは異なったこの診療所なんていうエリアは、その氣から始まって、何もかもが、赤ちゃんにはツライ環境の何物でもないのである そういうことは知らない 赤ちゃんの立場にはなれないならない もうほとんどの人間は通り過ぎてきたただ一瞬の出来事だった 別にどーってことなかった どーってことなく難なく一面クリアでやってきた そんなんで、赤ちゃんの泣き叫ぶジェノサイドの意味を分かろうとはしてもらえない 私はずっと寡黙にしていた 寡黙でやることもあったので、その作業に徹していて何も忠告じみたことは言えないし、口はマスクで塞がってもいたりした 薬局では、待つことなくいつもの御決まりの御薬が大量に遭い整い、あたしを待つばかりであった 一通りの説明を聴いて、「今回は、●▼■がございませんが、よろしいですか?前回に出されていた●▼■2も…」特に必要ではないので、「ご心配どうも有難うございます、今回は結構です」 そそくさと店外へと出ようとしたところ、3歳になるかならないかくらいの男の子が、その店のすぐ出たところに腹ばいになって必死で泣き喚いていた 「あんぱんまんのがぁ あぁあぁあぁあぁ…」と、どうも聴こえる ママは駐車場に1人で行ってしまって向こう側から、ボクを呼んでいた 「今日は、買わないのぉ…ってばぁ」そんなこと言ったって あたしは、一瞬立ち去ろうとしたんだけど、良心が咎めてしまって、この泣き喚いてだだをこねて御母さんを苦しめているボクに囁いてみたんだ 「そんなにホシイ…?」 ボクはタジロイで後づさり気味で、あたしをモンスターが来たっという目付で観た あたしは、腹ばいになって泣き騒ぎ続けてるボクと同じ目線でしゃがみこんでから、腕を伸ばしてボクの脇腹を抱えながら、「今日はね、買わないんだってさ」と言い聞かせねじ伏せるような態度をとってしまった 足をバタつかせながら渾身の力であたしから一刻も早く逃れようと必死に抵抗しながら、訳のわからない権力者への無駄なテイコーや怒りをぶつけながら… 「すみません、ちょっとぉ」ママが慌ててこちらへ向かってくる あたしは、「弟の子どもとそっくりで…」などと会話しながら、黒い軽自動車に向かった ママは妊娠7~8ヶ月の身重な身体だった あたしは、自動車の後部座席のドアを開いて、まだ泣き叫んでいるボクをその中のシートの下のとこに入れてあげた 愕然とした チャイルドシートがない 「すいません…」ママの申し訳なさそうな悪いことをしたような笑顔が、あたしを余計に苦しめた 何も変わっていなかった現実を突き付けられてしまった まだあの息子は泣いている 車内の温度は曇り空といえ上昇していた22℃以上は言っていた まだ泣きやまない 「眠くなってきたのかな…?」そろそろ御昼寝の御時間だよね どーなっちゃうんだっ?!
Posted by このは なさくや at
17:47
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2009年05月07日
10:0
じゃんけんって云っても、二人とか、少人数でのじゃんけんですけど、あいこで勝敗を決めないなら、そういう後のことはどーするんだっていうことが、皆さん思う関心事であるのは否めないのですが、例えば保険の外交員なんかをしている方々とかってお分かりですよね この保険がどう支払われているのかっていうのは、何かやっちゃって、お互いの相互での話し合いというか、縺れないルールがある 自動車社会ではありふれた当たり前のことですが、車体:車体 というのはわかりやすい、どっちにしろ、10:0というのは相当まれなことだと思われます 二人だけでじゃんけんをしていたのと一緒だと思います ですが、人間:車体とかってなりますと、急に変化しますよね 例えばバイクもそうなんですけど・・・ こういった割合が問題になるわけです ひきわけっていったって、様々なひきわけが存在しているわけでもあります 食べ物だったら、半分こぐらいってのはよくしてるんですよね、小さいころから、兄弟でどっちかが、多くなっても半分こは半分ことなる 私の経験上、何か近所の強そうな立場の人が、半分この場合には有利に働きます 半分こじゃなくって、そこに三人加わったとか、五人になっちゃっただとか、そういうので、うまく分けられるかどうか?ということですね 食べ物あたりだと、どうしても配給のような戦時中をイメージしがちです 他でもそーなんですけど、そこで、私には提案があって、結局はそこで暮らしているわけですので、配給だとかっていうんじゃなくて、一緒に作ればどーなのかなって事を感じさせて頂いてたわけです それっていうのは、例えばですが、鍋料理とか中華なんかも、こうやって回ってる台があって、順番に取って食べる こういうところからの発想です だから、造る過程に参加してみるということでしかない おにぎりだったら、もうそこにいるみんなで、総動員で一緒に作るっていうことです 炊き出しだっていって、炊き出しの人だけが、炊き出しをやるんじゃなくて、要は、‘観てるだけの人から一緒にやる人へ’といった意識変化が起こることなのかなって氣はしています それで、Youtubeなんかに そーいった映像をアップしました 私達はさもすると、どーもやらないし、大人はあんなヤツにはやれないとか、そーいったので爪弾きにする 手伝おうとしたら、モジモジしていて教える方が面倒だからって、子どもに御手伝いさせないっていうママと一緒 そーいうママはいつも自分でやった方が早いとかっていって、子どもには何もさせないし、「ごはんだよ」なんて呼ぶだけ これじゃ、子どもだってお手伝いなんか出来ないよね けど、今みたいにスピードを要求される世の中はそーいうのが習慣化されていて、子供達はジャマな存在に成り下がってしまってる 現に私自身そーやって感じてきたし、ただ後片付けだけは、やらされるし、掃除だけは、やれって言われる こう何か強制的な奴隷のような感じで掃除をやらされている 考えてみればね、何で掃除をまとめてやんなきゃならないほどに暮らしが混乱してたのか・・・?そーいった原因には問いかけなくって、そーいうのは、頭ごなしに ‘ない’ことにさせられちゃって、ただ汚してるから片付けるだけの発想 また汚れちゃう だからまた片付けさせられる また汚す この繰り返しばかりで、何ともその主原因であるそもそものなり染めなんかは無視の境地だ そーいう大人は、自分は完璧だって云っているし、変な格好してたり、奇声を発している人を観ると、あのひとはね、神様か獣だから近づくなって注意されてしまう 何が正しいとか悪いとかを論じるその前に こういった迷信めいた教育を受けさせられてきてしまった そんな氣がしてショーがない 蓮華合掌
タグ :じゃんけん
2009年05月06日
トカゲの尻尾
何だかね、他のドーデもいいようなことは雑記に聴こえてしまうし、もっと違うことを考えないといけないのかなとも感じられて仕方がない氣がする 覆面広告の手法だとかっていうんじゃなくてね 何か私としては、トカゲの尻尾斬りみたいな感じもします 続くなるといなので、トカゲを捕まえてはみるものの尻尾が左右に振っただけなのが残って、本体のトカゲには逃げられちゃうというもの こういう手法は謎めいていて面白いとかね 今更ながらマインドマップを見返すと改めて観えてきてしまう観点がある いったいそもそも人間とやらは何のために生きているんだろうかとか・・・あまりにも、強欲な人間達の阿鼻叫喚とさせられた輩(やから)の存在的にも感じられてショーもない やはり、人間自体のやることには、国境というものが存在はしないように 生活に関わる人間本来の生き様だとかや行き様というのは、どこに行っても普遍性を帯びているわけで、そこでは、一体何がベネフィットかどうか?何かを考えていく 具現化させていく ラフデッサンを描くことなのかもしれないし、それは決して一人の個人的な単なる抽象的なイメージ画ではなく、あくまでもそこに存在する人間のQOLであることは間違いない ただ、そういった前例だとか、先駆的なだとか、お化けだとか、天使だとか悪魔だとかいった迷信じみた画に置き換えられてしまったので、これらを具体的に “自分のことですよ”というスタンスに置き換えてあげるような映像が求められているように思える でなければ、何処か果てしなく遠い遠い、時空的にも距離的にだって、及びもよらないような偏狭の地での単なる他人の戯言だといったことにさせられて、そういった風に片付けられてしまうんだ 既にかなりの期間をこういった無駄で無意味な時間を費やし続けてきたわれわれという感もしてしまわないでもない 要は、一番に迫害に晒されている人間にどう付するのかだとか、全く教育というものなんかを知らずに半径1kmほどの圏内を行ったり来たりしているような内地人の思いになれるかどうかに掛かっているようでさえある ほんの数分しか離れていないような人類が、限りない土つぼのただ最中に嵌ってもがき苦しんでいるのを放置できるだろうか?ただ、もがいてはいるものの助けは求めずに、自己解決に委ね続けその現地時間を闊歩させられているに過ぎないある意味、揺れの中で存在価値を見出しているだとか・・、多種多様なので、そういったモノは、結局はやはり、決め付けられないし、どう考えを及ばせているのかのみであって、他には何もない 私なんかは、博打に苦しめられてきた感がなきにしもあらずであるためか、宝くじだとかそのような博打の類といったものは買いたくない存在でもあったがしかし、博打もある意味では、心がざわめくような葛藤だとか、その興奮だとかのスリル感が味わえるとなるともう抜け出せなくなるといった調子なのかもしれない 所謂それは、依存症のような分類にされてしまうのかもしれないけど、いたって本人なんかには、依存などとは思わないし思えないわけで、大体にしてこのようなテーマで悩むといった自身に何らかの不遇なるものを感じずにはいられないわけでもある いいじゃんもう、過ぎ去った過去なんかを変えることなんか出来ないんですから・・・、今からスタートしていけばいいわけで、そんなとこで悩んでいたって始まらないぞていう何か明確なアプローチなんかを示していくことが善いのかなと・・・それによって、自分っていったい何者なのかな・・・?というのを感じること事態が、最大公約数的に必須事項だったりするんですよね 私なんかは、いつだって、“M51”なんかを背負っているような氣もしてしまう訳ですらあり・・・ 古典や古書に何かしら描いて記されてあった詳細っていうものは少なからず大事にはしたい けど、蔑ろにされがちなのが今なんですけどね 何も知らなかった頃のエピソードとかが今になって初めて役に立つような向きなのかもしれないです どこへ行こうが何をしようが・・・といった観点がポイントなのかなって思われます 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at
20:05
│Comments(0)
2009年05月06日
日日、有難うございます
今日は昨夜からの雨が激しく降り続いています 天からの水分が干上がりそうな人間活動をうるおしてくれそうな氣もしました そーいえば、神宮寺の高橋住職の存在をうっかり忘れておりましたことを申し訳なく感じます ここで謝罪いたします 私などよりも住職がこういったことはプロなので、これは、また別の機会にお会いさせて頂くことにします 積もり積もりっぱなしのようでもありますが、何がザガットなんじゃいと御叱りを受けそうですので、ご期待に添えずに申し訳なく感じさせてます 以前から、こういったものや、何やらを提案してはみるのですが、あまりにも、個々での活動が多忙を極めておられるために取材の余裕もなくなっているか、若しくは活動もしているが、ライフワークというか、飲食いの日銭を何とかしなければならないような状況でもあるので、そこのところは何かしらの埋め合わせというか、議論とかいうと、焚火のようにも思われてしまいますが、意見とかいう薪をくべて、赤々とした炎のようなディベードが燃え盛ったり、燃え広がったりしてはするものの後にその炎が消え、そこに残った残骸のようなカスさながらの灰とか、真っ黒焦げになった炭素様のシロモノはいったい誰がどう引き取るのか?というか、そんなものは、そこに放置させておくだけでいいのか?私には、そのような野焼きや焚火の後始末に思えて仕方がありません どういうわけか、そう感じます もう跡形もない場合には、せめてもの弔いにそこここに弔いの木喰仏をひっそりと置くだとか、「あぁこんな場所で、こういった悲惨な瞬間が遭ったのか…?」といった、人々が眼にするたびに分かるようなふうな悼みの何らかの対象を設置するというのは、願ったり叶ったりなのかもしれない よく悲惨過ぎた交通事故だとかや、そういった現場には、遺族や仲間が花を手向けてあるのですが、花っていうのは、朽ちて腐っていくそれはそれでもいいけど、もっと言えば交通安全なんていうのより、もうそこで亡くなってしまったといった証を込めて、本来ならもっと生きながらえるはずに決まっていたわけで、無念な場所なわけですよね そういう所に限って、丸くて白いのがフワフワって浮いてきてますもんね コレッて私はみなさん見えると感じておりましたが、他の人は怖いだとか、そんなものは見えないとか、私なんかは音まで聞こえてしまう時もあったりしますが、みんながみんな見えるわけではないにしても、やはりこういう悲惨で無残な事故だか事件現場っていうのを何かと弔うのは、今後も必要かなって感じはしています じゃなきゃ、その御霊みたいなものが、無念さで何にかで出てきてしまう感じです まぁ、こういったことを言っていても、あまり信用はないのですが、私は自分がもうないからか、なんとも思わないし、むしろそれらの湧き出して来られるものに関して、最低限の礼のよういなもので御納めといっても善いのかどうか、わかりませんがそういう何かはあります ただ、私は果てしなく人間ですので、すべてがすべて、こうしろとかあーしろって言ってるというのではありません こうやって、人と人の社会が最果てのような惨めな お互いさまの精神という面では、まったくのところ発展途上国の本邦なので、それをやはり、一種の機会と捉えればいいのかなとは思ってます 蓮華合掌
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2009年05月05日
シベリヤの民話
シベリアの民話に‘サビシイ小屋のモスの女’なんていうのがある 私はこの民話をおススメする なぜならば、私も同様の経験があるのだ こういったことは、時空だとか国家だとかそういったあらゆるジェネラルを超越しただとか、ざっと観た感だとかの風な氣がしてならない 平気でそうする 何か歴史的背景だとか、文化的なソレは一切無視を決め込む ‘サビシイ小屋のモスの女’は、ひたすら庚申の夜の出来事のような迷信に盗りつかれてしまっているだけなのではなかろうか・・・、兎にも角にも、ひねもす、盗まれるのである 何故こういった事態が起こるのか? これはやはり、布施に関連性を帯びているのは間違いない ‘サビシイ小屋のモスの女’は、いったいからして、裕福なのであり、それらを無自覚のまま、現時勢に押し込まれているように感じられて仕方がない 即ち、だるまさんが転んでいるとかいたような迷信は拭い去ろうといった観点なのかもしれない じゃんけんを推奨するのだけれども、勝敗のないじゃんけんをすることに最大の意味が隠されているのである ただ、結果ばかりを要求されている人々なんかには、到底理解は不可能に達するのかもしれない だから、繰り返す必要があるのではないか・・・? 反芻するという意味である ウシだって、草を何も繊維のカタマリを飲み込んでいるわけではなく、胃からまた口まで戻し・・・を幾度となく繰り返しているのである ウシに引かれて〇〇〇という類は、そういった解釈が、大儀的には在るのだ ここでまた‘サビシイ小屋のモスの女’に戻すが、一旦は諦めに転じる どうしたって、諦めようがないけれども、潔く諦めの境地に赴くというか赴いて観る 冷静にだ だから、一呼吸置くとかいうものなんだけどネ この間を置くことを出来ないし、出来るのにしない奴らが多くを占めている氣もする 自分は孤独でどーしたら善いかわからんとか、泣き言をホザいている前に ‘孤独なりに出来るウィークポイントが在るんだ’というヤツを自覚すればいいだけだ そんなヤツばかりあんんだから、同じような立場にはなれるじゃないかっ! それはね、例えば、10年生きてきたとか、30年生きてきたとか、そういう証しだとかは、精神科でものの3分で凝縮して聴き取る、ある意味事情聴取ではないわけで、10年なら10年、いやそれ以上なのかもしれないほどの息の詰まるような濃いい詳細が噴出してくるといった有り様でもある 然も、ホロコーストなんかを辛うじて生き延びてきた人々なんかは、もう化石に転じるしかないわけでもあるよね つまり、地層化される他は手立てが何もない 普通地層というのは、圧縮されつつあるんだよね どこもかしこも同じなんですね、コレが・・・、再び‘サビシイ小屋のモスの女’から伺い知れる情報とは何ぞやとかネ チンケなことをいたって考えアグネて多死社会に入門させられていくシロモノだとはいえないか 営業をしてると、人間の遍く本性が悉く分るんだよね そういった嘆きに近いものなのかなっていう経緯はあるんだよね もう何かしら、結論めいたものが出てもいるにスギないのだけれど、この一瞬の今を護っていたくて、維持させたくて、どーにもこーにも、それを貪っているだけじゃねーの? といった氣がしてくる 聞き耳頭巾を皆が一斉に被ったらどうなっちゃうんだろうね? 私なんぞは、そーいった危機感だとかリスクに塗れているわけでもある そーいった詳細ばかりを紐解いていたりもしている 然もそれが生涯学習になっちゃたりもしている いいよね そんなこんなで生き延びられてる世襲は・・・ね ‘サビシイ小屋のモスの女’なんかは、相変わらずなんだよね、結局 マザーテレサが平和賞だとかを与えられた日、私の身の上には何が正気していたと思いますか・・・? その映画の公開のその日に 私の眼は見えなくなったんですよ マザーテレサが、その賞といった権力行使みたいなのを欲したが故に 幼い私の視界が寸断された訳です 凄まじい威力を感じさせても頂ました こどもの頃に・・・・・こどもの時代は、ゼロミッションだったとしか伝えようもない 唯一、こどもだったのは、この私のみだったかもしれない みんな成熟していくのがあまりにも早かった それゆえに驚愕やセンセーショナルを感じずにはいられなくなった それが過去からケルンさながらに積みあげられてるだけだった ウラメシヤの世だよね、きっと・・・ 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at
17:47
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2009年05月05日
Afghanistan,
哀しみと痛ましさと侘びしさと…、いろいろとでいっぱいになってくる 胸に込み上げる如きでは間に合いそうもない背中からも押しつぶされそうだ にも関わらず、隣でタバコを銜えたマダムやんの吐息が悪煙を放ちながら、何やら読書をしているのだが、私がこの時間帯でジンを注文したのを横目で眼を丸くしてチラっと観ていた 私はカウンターの中で、「追加料金100円で生ジュースがプラスされます」なんて言って、まだ金をせしめようとして必死の小悪魔の誘いに「じゃ、それお願いします」なんていうしかなくて、しぶしぶ生ジュース入りを注文させられてしまう ドリンカーの手つきは、アイスピックを渾身の力で、これでもかっこれでもかと叩きつけるストレス解消という労働力を見せつけられ、絶句した なぜか今回は学ぶことなんか何もなかった ○○の話以外は、何一つ学ぶことなんかなかった サイテーだった また悪い奴らのしもべに置かれているといった強制連行された映像がちらつく な・な・なんなんだこの異臭煙はっ…?私の細胞の一つ一つがかろうじて酸素を取り込もうとしている孔という孔は防衛体制に入らずにはいられなかった それにしてもでか過ぎた氷のカタマリである こんな氷の欠片をぶち込まれた暁には、ひとたまりもない さっき左隣にカウンターに座った白髪の翁は、台に住宅情報タウン誌とA6サイズのコクヨかなにかのノートと、黒いシステム手帳、過激なショッキングピンクのシャーペンを置き去りにしたまま、どういうわけか店の外に出て行ったきり帰らない舌切雀のような状態だ 相変わらず右では、黒装束のマダムやんが読書に興じている 私はこの異臭煙に耐えながら、今までに見たこともないでかいクルミを食した このクルミの原産地が描いてあるようであった そこに入っていた木の実の類は、でかいものだらけだった 大は小を兼ねる、ひ弱なのは本邦の特徴に過ぎない 癖か何かかもしれないし、ひ弱で脆弱な立場が強調されてしまう 私のようにこんなカウンターで、小さな文字を打っている人はどこにもいなかった こういったありふれた世間の様子をアカララにしかも、場の雰囲気をかぎ取る なんともかんとも、これは宿命に近きものがありはしないかっ…?なんて感じないでもない 伝票の裏には、‘毎度有難うございます’などと走り書きしてある すごい店だ!大したもんだ “毎回毎回、困難だ”と白状してしまっている 御あいそは、「○○ちゃん、帰りに手提げお願いしまぁ~す」などと大きな声を出してしまってもいる また右ではマダムやんが、噴煙のくわばしさのともし火を容赦なくライター点火した 空調の逆風でマダムから朦々と立ち昇った悪煙は私の細胞の孔という孔を叩きのめし尽くしながら向かってくるために再び、私は窒息状態に…、‘あっ眼が沁みてきた’一瞬そう感じたら、隣の翁が舞い戻ってきていて、白煙を燻らせていた もうこんな発展途上国のバックパッカーをこんなブログに綴り続けるのは意味がないような虚しさに襲われた あぁ、左の翁はビンボーゆすりまで始めてしまった 何かリゾート物件の情報を頬杖をつきながら眺め続けて悪煙を何も考えずに隣の私に向かって吐き散らした 翁のタバコはダンヒルの上下が合わさったような黒光したボックスだ バーコードさえ見えなければ洒落てる 何か翁が悩み悶えだしたぞ!顔色を蒼白にさせ両手で覆い考え込みだした… 続きは、また…
2009年05月04日
教育のQOL
日本も世界も法律をやっぱ、法治っていうことですから、忠実にしていきたいと感じ、この憲法問題があると思ってもいる そこで、私なんかは、いつ何が起こるかなんてわかんないような状況下に置かれてアタフタと忙しいので、緊急避難とかいう項目には、目ざとくそれが一番に視界に在って、特に“危難を避けるために已むを得ないでした行為”とかの項目にもあてはまるものなのかもしれないって感じです ところでですが、うちの周辺は、現在も尚、偏狭の地へと転落の一途を辿っているのです これは、1970年代前後に建設された、当時のアメリカの方々に言わせれば、俗称‘ウサギゴヤ’なんていうことをいっていたような長屋風コミュニティがあるのですが、これの明け渡しを地方自治体に向かって叫んできたのですが、未だに住民へは渡さないような状況が続いております 私は、Y2K問題前後に縁あって、IT関連の派遣をさせて頂いておりましたところ、その頃の世界情勢や、もっと云えば、私自身は、「こんなことしてていいのか?」といった危機感が沸いてきて、更に日本語教師にならなければならないというような・・・自分でも訳のわからない何かに憑かれてしまったというか、ミッションが先走りだしたようになって、その暴走が止められなかったし、「このままいけば、とにかく大変な事態になる」というような危機感が、自身の中で大噴火した氣もしていました 前置きが長かったんですが、そーです、移民の方々の労働の質とか、何か小さい頃から、私なんかは、この長屋の連中と、いつも仲良くさせて頂いてましたので、中国の人が、親兄弟や親戚連中を連れ立ってあのせまい部屋に折り重なるように暮らしていただとか、韓国の方なんかもいたりだとか、昔からそーいった低賃金で都合よく、言いなりになってレイバーといった作業に出稼ぎに来るというようなものが混沌として、同じように暮らしていたってことなんですね 他の人たちには知られないようにひっそりと、申し訳なさそうに暮らしているわけなんです それもどこからも誰からも引き取り手がないようなその労働者の多くが教育がなく、無智であり、特異性を有するモノ扱いを受けていて、それは‘ルンペン’の所産というものに起因するのですが、世界何れの国においても避けられない現象であるというのと、この‘ルンペン’の量的・質的に特異性(政策が何か知らない、憲法をしらない・・・・教育がない、出稼ぎにきただけ・・・無智)政治、経済、社会的状況によって存するのは明らかである(出典:浮浪と乞食の民族学)
そんな中で人道的な観点に立たされた際のひとが人としての体温で、どういった態度を成すべきなのか? “こういったものがわかっていながらにして、放置されてきた” 軒並み‘クズ’扱いにされてきたというより、させられてきたというか、いつも私が口を酸っぱくして言うのは、“みんなが観ていたのにそーいうのはとか何とか言いがかりをつけて観なかったとか、そーいうやつはいないし、知らない”ということになっていたというのが、単に夥しい内地人なんかの暴動より、遥かに多く存在していて、それらの不浄なり汚い労働力を下支えさせられていたといえないだろうか 私は今ここでの緊急的な解決の結論を急ぐわけではない、にしても人道という視点からすれば、もう何もとりも直さず、こう駆け足でやらなければならない、特に住居の課題というのは、存在している人類を野や山やドブや水際にどうにでもなれとかいって、目の前の人類をないがしろにしている事実事態に一過性の感情を感じずにはいられないが、こうしたことで、悩むタイムロスなんかはいらないので、最終的には“あいこ”といった視点ではあるけど、あーなればこーなればとは感じられるけど、行動するのは、やっぱ本人次第だと思うのと、情報がないのと、それから…人出があまりにも足りなさすぎる つべこべ言っても仕方がない ‘あぁまた、釈迦に説法か、馬の耳に念仏をあーだこーだと唱えてるのか・・・’ってね 苦しむわけですよね それこそ‘マグダラのマリア’の秘密の箱をひっくり返してしまったとか そういった何か憤懣やるかたない行動に走る 走り続ける 労力のロスと人類のカタツムリ化と、箱の中のみかんが、みんな腐りかけているような感じ イメージとしては・・・ですが そんなこんなで、また悩みのこぶが複雑化していく、限りなく・・・続きが終わらない 出来れば終わらしてもらいたいですが、尚も続く・・・こういった果てしなさに遭って、普段のルーチンワークやセルフヘルプでもある“体内時計の調整”など、隙を縫ってやらなければならない、とてつもなくロングランで利害関係がないものをこういった限られたタイムラグの中でやっていくということ 限られた環境の中でみんなと一緒に悩んだり苦しんだりバカやったり…そういった人間にしかやれないであろう普遍性の部分をピックアップしていく 完璧は求めなくていいし、完璧はないから、少しでもいいから地方にカムバックしてくるような手腕があればいいと思う きっとこれが最も優れた教育のQOLの向上でもあり、“生きてて善かった”というものを自然に感じられるんじゃないのかな 蓮華合掌
そんな中で人道的な観点に立たされた際のひとが人としての体温で、どういった態度を成すべきなのか? “こういったものがわかっていながらにして、放置されてきた” 軒並み‘クズ’扱いにされてきたというより、させられてきたというか、いつも私が口を酸っぱくして言うのは、“みんなが観ていたのにそーいうのはとか何とか言いがかりをつけて観なかったとか、そーいうやつはいないし、知らない”ということになっていたというのが、単に夥しい内地人なんかの暴動より、遥かに多く存在していて、それらの不浄なり汚い労働力を下支えさせられていたといえないだろうか 私は今ここでの緊急的な解決の結論を急ぐわけではない、にしても人道という視点からすれば、もう何もとりも直さず、こう駆け足でやらなければならない、特に住居の課題というのは、存在している人類を野や山やドブや水際にどうにでもなれとかいって、目の前の人類をないがしろにしている事実事態に一過性の感情を感じずにはいられないが、こうしたことで、悩むタイムロスなんかはいらないので、最終的には“あいこ”といった視点ではあるけど、あーなればこーなればとは感じられるけど、行動するのは、やっぱ本人次第だと思うのと、情報がないのと、それから…人出があまりにも足りなさすぎる つべこべ言っても仕方がない ‘あぁまた、釈迦に説法か、馬の耳に念仏をあーだこーだと唱えてるのか・・・’ってね 苦しむわけですよね それこそ‘マグダラのマリア’の秘密の箱をひっくり返してしまったとか そういった何か憤懣やるかたない行動に走る 走り続ける 労力のロスと人類のカタツムリ化と、箱の中のみかんが、みんな腐りかけているような感じ イメージとしては・・・ですが そんなこんなで、また悩みのこぶが複雑化していく、限りなく・・・続きが終わらない 出来れば終わらしてもらいたいですが、尚も続く・・・こういった果てしなさに遭って、普段のルーチンワークやセルフヘルプでもある“体内時計の調整”など、隙を縫ってやらなければならない、とてつもなくロングランで利害関係がないものをこういった限られたタイムラグの中でやっていくということ 限られた環境の中でみんなと一緒に悩んだり苦しんだりバカやったり…そういった人間にしかやれないであろう普遍性の部分をピックアップしていく 完璧は求めなくていいし、完璧はないから、少しでもいいから地方にカムバックしてくるような手腕があればいいと思う きっとこれが最も優れた教育のQOLの向上でもあり、“生きてて善かった”というものを自然に感じられるんじゃないのかな 蓮華合掌