2009年05月18日
immigrant
住宅困窮者自身からの提起、その後:
沿革:
2000.01 y2k問題は、何事もなくクリアし過ぎていってしまいどーってこと無い日が続く
2000.05 知人の在日外国人の仕事量が減ってきたといった報告があった(気のせいかもねといったいい加減な対応をしてしまった)残業のことだと思う
2000.12 障がい児者・在日外国人等のためのケアハウスに関しての会合を持つ
2001.01 ●●地籍ブラジル民族レストラン“ベンブラジル”での生活者相談開始
2002.08 日系ブラジル新聞報道機関への困窮発信 当時の県営住宅並びに町営住宅に住宅困窮者のためのコミュニティケアとした場に再利用できないものかを××県住宅供給公社に打診(当時の回答等の原本担当者等詳細はコチラ)
2003.03 ××町政へ打診したが、何も回答は得られず、難色を示された
2004. 一部の県営住宅が取り壊された、日系人等含め、非常に悲しい思いをし、ショーゲキが走る(何月に取り壊されてのか記憶があいまいになってしまっている)
2005.07 在日外国人等の生活状況は更に悪化の一途であったが、鋒鋩に相談してはみたが、どこへ行っても‘わからない、知らない、難しい’といった調子であったし、生活のQOLや在日外国人の教育等の相談窓口が業務時間や担当者が一人とかいった狭いものであったために解決困難にさせていた
問題点が理解できないのが問題となってしまっている:
1.人種の違いや様々な差別的な待遇から働く意欲や地域からの孤立を余儀なくさせられた上に何らの対策という対策も配慮しないために更に荒み切った生活に陥っていくばかりだった Japanese takes no heed of what others say.
2.住宅確保に関してまったくのところ闇に包まれていて安心が確保されないとか、その住宅費を支払うための職場を確保しなければならないために日本国内を行ったり来たりしなければ立ち行かなくなって、自治内では最低線の水準で、ほぼ難民状態で暮らすことを余儀なくさせられてしまっている
3.信頼できる方の恩恵のみでは限界域に達してきている
4.中には、心的外傷後ストレス障害といったライフワークを持ち合わせているが、本人には病識がなく一口にくくっても、うつ病・性的虐待・DV・差別等々の重度重複障害を併合し抱えているためにどこにどー相談をし、絡まりあった複雑懐疑な詳細の解決を見出すかは、すべてが自己責任に押し付けられてしまっている (本人が好き好んでこのような状況に遭遇させられた訳ではないにも係わらずに)
5.当事者が、口々に発するのは、現状の住居の地籍近くが殺戮の遇った場である拷問を強いられているためにその被害を口にすることでの報復やお礼参りを恐れて躊躇してしまっていてガチガチにフリーズしている
6.国境を越えてネットワークを整備する必要に迫られている(裁判員制度は、これらにとってはモメンタムだといえよう!)
7.上記並びに国境を越えて続々と日本を目指してこられる働く意欲のある方々には、飽くなき学習意欲の継続性が重要であり、これらの移民側が、いったい何を望み、どんなライフスタイルを目指され、何に時間を傾けたいと考えているのかといった揺らぎのない指針が尚一層求められるであろう (今後、日系人の多死社会による孫世代の大量な介護を必要とされる多文化といった排除されがちな地域社会の孤独死における深刻な課題等、目白押しであることは考えに及ばないはずでもある)
日系人の死に際がどんな状況下におかれているのか 多くの人間が存在するところではまだ、それらは何か仕組みが当然、組まれてはいるのかもしれない ただ地方、特に閉鎖的なカースト制度が歴然として布かれてしまっている現地ではどうだろう? 行き倒れに近いし、その後も誰にも後始末もされないまま、死んだ場所で、樹木のように身動きがとれないまま、そこで朽ちていくといった状況ではないか そこには干乾びた人間関係の成れの果てが顕著に観てとれるのである ただ骨が残るという意味においては、このような最後は故人が生き抜いた証しとでもいうものが残るので、さほど氣にはしなくてもいいのであろう 残されたものがどのような遺志を継ぐのであろうとも、いま生きている人間の行動次第ではないのだろうか 感情は仕方ないのである 異常感情をどーのこーのと批判はできない その怒りに満ちた感情をどういった行動で顕すかが、いい大人の考えなくてはならない難関であることは間違いないのでもある These tires endure for several years.
社会倫理の視点から見れば、報恩施についても崇高なる評価と、財モノを用いなくも行なえる布施として、眼施・和顔悦色施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施の無財の七施を実践することで、陀羅尼経をあげるように貪らない心を呼びさますのだとも教えられてきた また、ビジネス面においても、“三輪清浄”が、布施によって貪りの心を離れつつ彼岸に達するといった大乗仏教の教えである布施波羅蜜を実践していこう 当方では、早4年目となりましたが、房舎施を有難く、御布施させて頂いております お近くにお立ち寄りの際にはコメント等に、ご連絡をお願い致します 蓮華合掌
沿革:
2000.01 y2k問題は、何事もなくクリアし過ぎていってしまいどーってこと無い日が続く
2000.05 知人の在日外国人の仕事量が減ってきたといった報告があった(気のせいかもねといったいい加減な対応をしてしまった)残業のことだと思う
2000.12 障がい児者・在日外国人等のためのケアハウスに関しての会合を持つ
2001.01 ●●地籍ブラジル民族レストラン“ベンブラジル”での生活者相談開始
2002.08 日系ブラジル新聞報道機関への困窮発信 当時の県営住宅並びに町営住宅に住宅困窮者のためのコミュニティケアとした場に再利用できないものかを××県住宅供給公社に打診(当時の回答等の原本担当者等詳細はコチラ)
2003.03 ××町政へ打診したが、何も回答は得られず、難色を示された
2004. 一部の県営住宅が取り壊された、日系人等含め、非常に悲しい思いをし、ショーゲキが走る(何月に取り壊されてのか記憶があいまいになってしまっている)
2005.07 在日外国人等の生活状況は更に悪化の一途であったが、鋒鋩に相談してはみたが、どこへ行っても‘わからない、知らない、難しい’といった調子であったし、生活のQOLや在日外国人の教育等の相談窓口が業務時間や担当者が一人とかいった狭いものであったために解決困難にさせていた
問題点が理解できないのが問題となってしまっている:
1.人種の違いや様々な差別的な待遇から働く意欲や地域からの孤立を余儀なくさせられた上に何らの対策という対策も配慮しないために更に荒み切った生活に陥っていくばかりだった Japanese takes no heed of what others say.
2.住宅確保に関してまったくのところ闇に包まれていて安心が確保されないとか、その住宅費を支払うための職場を確保しなければならないために日本国内を行ったり来たりしなければ立ち行かなくなって、自治内では最低線の水準で、ほぼ難民状態で暮らすことを余儀なくさせられてしまっている
3.信頼できる方の恩恵のみでは限界域に達してきている
4.中には、心的外傷後ストレス障害といったライフワークを持ち合わせているが、本人には病識がなく一口にくくっても、うつ病・性的虐待・DV・差別等々の重度重複障害を併合し抱えているためにどこにどー相談をし、絡まりあった複雑懐疑な詳細の解決を見出すかは、すべてが自己責任に押し付けられてしまっている (本人が好き好んでこのような状況に遭遇させられた訳ではないにも係わらずに)
5.当事者が、口々に発するのは、現状の住居の地籍近くが殺戮の遇った場である拷問を強いられているためにその被害を口にすることでの報復やお礼参りを恐れて躊躇してしまっていてガチガチにフリーズしている
6.国境を越えてネットワークを整備する必要に迫られている(裁判員制度は、これらにとってはモメンタムだといえよう!)
7.上記並びに国境を越えて続々と日本を目指してこられる働く意欲のある方々には、飽くなき学習意欲の継続性が重要であり、これらの移民側が、いったい何を望み、どんなライフスタイルを目指され、何に時間を傾けたいと考えているのかといった揺らぎのない指針が尚一層求められるであろう (今後、日系人の多死社会による孫世代の大量な介護を必要とされる多文化といった排除されがちな地域社会の孤独死における深刻な課題等、目白押しであることは考えに及ばないはずでもある)
日系人の死に際がどんな状況下におかれているのか 多くの人間が存在するところではまだ、それらは何か仕組みが当然、組まれてはいるのかもしれない ただ地方、特に閉鎖的なカースト制度が歴然として布かれてしまっている現地ではどうだろう? 行き倒れに近いし、その後も誰にも後始末もされないまま、死んだ場所で、樹木のように身動きがとれないまま、そこで朽ちていくといった状況ではないか そこには干乾びた人間関係の成れの果てが顕著に観てとれるのである ただ骨が残るという意味においては、このような最後は故人が生き抜いた証しとでもいうものが残るので、さほど氣にはしなくてもいいのであろう 残されたものがどのような遺志を継ぐのであろうとも、いま生きている人間の行動次第ではないのだろうか 感情は仕方ないのである 異常感情をどーのこーのと批判はできない その怒りに満ちた感情をどういった行動で顕すかが、いい大人の考えなくてはならない難関であることは間違いないのでもある These tires endure for several years.
社会倫理の視点から見れば、報恩施についても崇高なる評価と、財モノを用いなくも行なえる布施として、眼施・和顔悦色施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施の無財の七施を実践することで、陀羅尼経をあげるように貪らない心を呼びさますのだとも教えられてきた また、ビジネス面においても、“三輪清浄”が、布施によって貪りの心を離れつつ彼岸に達するといった大乗仏教の教えである布施波羅蜜を実践していこう 当方では、早4年目となりましたが、房舎施を有難く、御布施させて頂いております お近くにお立ち寄りの際にはコメント等に、ご連絡をお願い致します 蓮華合掌
2009年05月18日
むし
昨日までの暴風雨も止んで今朝はカラッとした良い天候に恵まれてている 昆虫たちの慌ただしい生活雑記を観るにつけ面白おかしくもなる どこからこんなにも大量に涌き出てくるのかと思うくらいの虫たちがごまんといる 蜘蛛以外は、ほとんど羽根を持ち自由に辺りを飛びまわれるので、人間にはこのような芸当が望めないのだから昆虫様なにに羽根を持たされないで、その虫の子宮から生まれてきてしまったのか こうして観ていると、激しく動き回るのは‘ほぼ生活のためだけに’といった或る意味それが‘目的化’されるに至ってもいる昆虫活動である こんな朝っぱらから、昆虫を眺めて喜んでいられるのは私くらいのもんだろうが、それらがどーにもこーにも人間の生態に似通っていることに氣付かされてしまうのである 「あーこれって、小学校時代の校長に似てるな」だとか、近所の特徴のある灰汁の強さを醸し出しているおばはんだとか、そーいった一種の擬人化されたおかしみでもある 昔カマキリ顔の人間にストーカーちっくにされてカマキリを観ると違和感を感じているあるプチ整形した女の子だとか、自然界を観ているだけでオドロしくもなってしまったりする まだこの春、カマキリには遭遇してないんだけど、みんな花には眼を奪われるけど、この虫たちの活動には、むしだけに無視されているようだ それとも無私になっているのだろうか 私は確かに‘●▼■むし’と付く生き物が嫌いだった 出来れば避けたいと念じてもいた どーも頭とか目玉だとかの周辺に眼の上のたんこぶ的にうろつく虫がいっぱいいて、私の視界を塞ぐのである こーいった体験はアウトドアをライフワークにしておられる方々は頻繁に遭遇すると思われるんですが、もうこりゃーハンパじゃない ( -ω-)ノ-=≡≡≡ 白眼に飛び込まれて眼の中を掻き回された暁には、ゴロゴロ感がひどくなって、まさか、こいつら地下鉄に一気に飛び込むのと勘違いしてんじゃないのかって、疑念の流布がする どーもこうした思いに縛られてしまう きっとこのような感覚を感じてしまうには、やっぱ、どーもこの眼といった洞窟のような中に一心腐乱のような勢いをつけてわざわざ飛び込むなんていうのは、虫けらといった無自覚さしかないのである なので、飛び込もうとしている人間には、あなたは、虫ではない(( ^_^)^^ ) というのを標語のように伝えなければならないのではないだろうか 今まさに躊躇なく飛び込んだり、飛び降りたりをしそーな人間に伝えよう!「キミは、虫ではなく、人間だ!」といってただそれのみを自覚してもらおう それでなければ、自分も他人もみんな虫として認知しているうちは、どーにもこーにもその呪いからは醒めないのではないか 迷信というものは恐ろしいものである それか、虫ではないと思ってはいるもののその他の動植物だとか、最も在る決まった場所で動けなくなってしまっている樹齢何百年の巨木だというのを思いこんでしまっている可能性もある 人間なのに、自分は実は人間じゃなくって、虫けらだったとか、爬虫類だったとか、もうとっくに死んでいた( ̄- ̄)だとか、そーいうイメージを覆していくといいのかもしれない 自然界を観るっていったって、何をどうしろっていうこともできなければ、こーやって観るんだなんていって、強制的に連れまわすわけにもいかない なんで夜な夜なシャシャリ出るような活動をするのかっていえば、やっぱ夜だけ活動してるようなのはね、ドブネズミみたいなやつらとか、コウモリ野郎だとか、擬人化の名を借りれば、自分はもうそーいった存在になり下がってますっていうのを自覚しているにすぎないよね 夜の蝶とかってオシャレな感じもしてるんだけど、こんなのは燐粉をまき散らす‘ドク蛾’系で不気味な蛾のことじゃん 自然の蝶なんか、だいたい夜なんか活動してないし そんなもんですね 里山を守ろうって現代の人間が唸っていたって、その昔一世を風靡した鉈だとか、鋸だとかの道具を使える樵を養成するんならいいけど、なんか損益計算が発生してしまうような金銭価値の比重がでかいものは、もうそこで、間違いだって感じてしまう ただそれは、時代に逆行というのを反逆されてしまうんだけど、そんなんで、ボランティアが無償っていう話とは関係ないんですがね ボランティアなんか無償に決まってる お金なんかとれるわけないんだ だけど、そーいうのを学んでいない連中がごまんといる ボランティアっていうのは、お互いさまの尊い精神であるし、無償の愛そのものなんだから、お金をとりたいんならビジネスにしないとね どーしてこんな単純な意味が理解できなくて喧嘩になってるんだろう 喧嘩とか争いって、結局は‘貪り’ですね どーしてもそーなんだから仕方ない ‘貪ってしまう’ので、本人にはその氣はなく無意識かもしれないけど、「こんなに金がかかった」どーのこーのって文句を論う わかんないから 教育されてこなかった その御父さんだとかお母さんも誰も教えてくれなかった もう貪るだけ貪れっていうシステムが動いてしまっている 現実社会がそーなって、一層慌ただしくさせている 自分だってその渦中に巻き添えになって飲み込まれている 今まさに飲み込まれていて、「何もやらないクセに」だとか、「結果を出してない」だとかって叱咤されつつ激励もされてしまう なんだか不自然な感覚だし、そういって説教している人間が、実は一番怪しかったりする 独学でなんかやったとか、なんか独りだけでやってきたとかって意気がってるのは、貪りの何物でもないよね かといって、張本人ってのは氣がついてない(  ̄O ̄) 無意識の境地なのかもしれない(  ̄O ̄) 私のような外部から観ているといった感覚を持ったらそーいった感覚には陥らずに済むのかもしれないのかな 最近なんだけどね、こんなことを感じてしまうようぬいなってきたのも ただ今日は、すごくオモシロい方を紹介されたので、楽しみにしてる、それじゃごきげんよう(v^-^v)
Posted by このは なさくや at
11:10
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