2009年05月16日
abject
“狩野芳崖の悲母観音”が描かれた時代的な背景や、こういった緻密な描写というか、こういったものは何処かでも観た風景でもあった どーしてこういうイメージ画が描けるのだろうかということに感嘆としたりした しゃぼん玉のような中に赤ん坊がその観音さんの眼差しに何かを示しているような清浄なこの二者の瞳という氣がしてならない これが、われわれドロップアウトした少数精鋭派の目指しているものは、事実上、施者の三つの縁が、この赤ちゃんと悲母観音の無償の愛ともとれるお互い様を映し出したいと考えているわけだし、そういうモノを創り上げていこうというのみでもあります どうしても、二者という存在では、証明をする必要に迫られてしまうし、ゲームは二人からというルールの前衛のようなものまでがあった これは何か違うような氣がしてしまう やはり、三人からといったルールを定着させる なぜか それは追々と説明をつけてはいきたいのではありますが、日本人の文化としての三すくみを辿ると、その関係がよくわかるようにも感じられてなりません こういったことは、どこかの新聞の社説にもございましたが、兼ねてからわれわれが願うのは、何かの利害関係がまだ発生しないという観点からの出発でした そりゃー何か善い事をやっていくというんだから、仲間を作った方がいいに決まっている だけど、そういった際にどーしたらその場が生まれるかっていうのを考えてみたら、何もないとかどこかの地位から抜け出しているだとか、今現時点で何処かに所属し何かを命じられているようなビジネスでは、身体を縄でグルグル巻きにされた上にまだ頭や足の裏や側面から圧縮されてしまって呼吸困難な空間に晒されているというものであり、そのしがらみからは逃れられない かといって、その柵から自由になったりすることは、非常に勇氣がいるだとか、労力が掛かるとか、法律的な縛りがあって、どーにもこーにも自由ではない 自由という言葉が齎すものが、自由がゆえに恐怖に感じている人々が大勢いる その前衛に鎮座するのが、何か日本の教育界っていう感じがしてしまう じゃなくて、そう なぜ、そんなことを感じるのかといえば、あまりにも知識一点バリのバリバリの所謂、頭脳集団を生産しはしたけど、そこにはある意味、日本はみせかけの知識集団をいっぱい産み出しはしたので、これはある意味においては成功だったのであろう がしかし、こういった頭脳は、持っているというただこういった部分がジャマになってしまう場合が多くなって悩んでいるという変な循環になってしまっていると感じる 頭脳は持っていても、気持ちが追いついてこないといった状況なのかもしれない 例えば、自然界では、石について、辞書には、石というのは冷たいとか、そういった冷却として冷え冷えとしたことは書いてあるわけですから頭脳ではお利口さんになってれば分かる でも、石のみんながみんないつも冷たいかっていえば、それは場所によっても違うし、そこに出かけてみて初めて、冷たいのかそーじゃないのかとかが分かるというものだということなんだなと・・・ こういうのを人間に置き換えてもそーなんです わたしなんかは、どーも、ある集団からは、「あんな●●校のPTA会長やってんだって、ふふふっ、★★じゃないの」と陰口を叩かれてしまっている これは集団とか全体主義に染まっているほぼ90%の地元人間もっとかもしれない99%かもしれない そー言われたりどこかの●ち●ん●るとかいうやつに平然と発言は繰り返されている そんなこともう50年くらい変わってないし、知っているけど、誰もそれが重大な国際法を無視したジェノサイドに加担しているといったことを意識していないし、意識せずに済まされた地域が出来上がってしまっている これはもうわれわれドロッピングアウトしてしまった少数精鋭派にとってはゲームオーバーのなにものでもない そういった小ざかしい変な意味でのインドのカースト制度みたいになってしまっている そこで競争社会に打ちのめされてそこでの居場所をあてにしていた友達とか家族だとか親戚だとか、そういった人々にさえも、刃向かえないのが現状である もうそーいったカースト制度さながらの枠が決定されてしまって、そこに収まったやつらには、低所得や低賃金や非常に劣悪な就職しか見当たらないのである 誰も努力だとか何かの能力だとか成果だとかを一番身近な親でさえ認めてはくれない 認めないどころかそういったジレンマを暴行や虐待といった態度で、さらに脆弱と思われる誰か、例えば個人的に筆者だとか そういうやつらに もうさんざんにぶちのめす ぶちのめされている本人なんか、何でそーいった状況なのかっていうのはまったくのところ、把握できてないし、そんなヒマなんかない そーいう最も、先ほどのしゃぼん玉の中に入っている赤ちゃんみたいな人間に対する“態度”が、人道を標榜させている人間に限って、貧困そのものなのである 貧困っていうのはね、何も銭かねが、家中かき集めたって一円しか出てこなかった人間( *極端な事例ですんで決してマネはしないでください)だとは限らない ほんとうの貧困っていうのは、すぐに潰されて跡形もなくなるってわかりきってる“しゃぼん玉”の中に包まれてどーなるのかわからない赤ん坊を一捻りでお陀仏にさせている‘力’が漲った全体主義とした悪魔さながらのなにものでもない これだけははっきりとしているのは確かであり、しかもそーいったことには、何も意識なく向かってきた 法施を学んでいない乞食集団とも似た、疚しく野蛮で無智で、迷信をただひたすらに信奉する ありのままありのままっていう 信頼できるつながりっていったいどういうものなのかなって? そんなのは検索してたってわかんないし、すぐにつながりたいっていってて、違う言語圏の人々とやりとりが完璧にこなせるっていう技術的な手段を持ち得ない 理不尽なんだよね こういったことで、どんなにか心の闇を抱えている人間らしい人々が、抑圧され続けているのかってことに そんなのは、ある人がどういった画を観ているかだとか、どういった本を観ているかだとか、どういったことを伝えようとしているかで、想像つくし、どういったことをしゃべっているかとで判断が容易にできてしまう だけど、今まではこーだったけど、やっぱこーの方がいいなとか、そんな小さなことから氣付いてくることで、場が生まれてくるのかもしれないと切実に感じてさえいます 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at 12:40│Comments(0)
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