2009年05月17日

孤独

 今朝は寒気がする こんな寒気がする日は、或る日の出来事を思い出さないわけにはいかないくらいだ 当時、犯罪被害者ボランティア養成募集とした試みが、このような地方の●▼■大学でも行われていた そーいった関連にはしょっちゅう、首を突っ込んでいたので、ここでの事実は、今後どー始末をとられるのかどーかの判断材料にもなり得るのかもしれないと感じつつ、過去歴をアップしたい その募集要綱には、400字詰め原稿用紙に自らの筆跡で、震え帯びた手描きを要求されるがまま、3枚くらいにまとめて仕上げたのと、簡単な写真付きの自己形成史なるものを添付したのである このような厄介な原稿を●▼■大学に持参し、書類選考の上、面接なるものがあった 面接に出向いた日、私は何か‘利用されているのでは’などと言った不安に貶められてもいた 地元●▼■大学の面接会場は、もう自動ドアを過ぎるとすぐの小さな会議室だった 心臓がゴットンゴットンと脈打つのが脳下垂体に伝導するかのようにそのドアをオープンさせた そこで待ち構えておられたのは、今でもそのショー劇を観るにつけ、震撼としてしまうのみであるが、三人組のいい大人がおわされた そこでのこれら面接官なる●▼■大学での教授らは、私に一方的な言動のQ&Aを浴びさせ、さらにその面接官らの顔つきであった表情であるが、一律に画一的にニタニタとほくそ笑んでいた これらが私の脳を翳めるたびにこの●▼■大学には足を運べない唯一の震撼とさせるエピソードとなってしまってもいた もう二度とそこへは、行かれなくなってしまった なぜなのかもわからない ただもう、あの面接の日からどのくらいが経ったかはわからないのであるが、●▼■大学で、何かの善いことが行われていたとしても、もう二度とは足を踏み入れたくはなくなってしまったし、ガクガクとしてきてしまう その近くにさえも近寄れなくなったのは、紛れもない事実である ただそれは、三人組に 1:3とした中でのそーいった映像である 他の人々からは、「なーに言ってるだ」とか軽々しく扱われ交わされるだけである ‘そんなこと’といった軽微で空虚な潜在意識下でのことになってしまっていたとはいえないだろうか その後も何度か、あの大学のあの教授らが、そーいった募集を大々的に行い続けていたが、その間に黒焦げになったり飛び込んだりといった拷問は、無くなってはいない むしろ、増えているのではなかろうかとさえ感じてもいた 何かそーいったボランティアを養成するだの何だのかんだのと威圧的なテキストで縛り付けるのは、それを自己評価させているのだろうかとか、疑念は少なからず感じる 今が旬であるからだとかって、普遍性を意識したものであるし、そこでの四季折々を観るのでもある ボランティアと呼ばれる活動に論文を画かせたり、テストのような試験をやらせたり、面接をさせたり… これらは、ヒューマンフォーミュラには、理解が不能であるといっても過言ではない もし今ここで、巨大地震が瞬時に人々の生活を踏みにじった場合、未来少年コナンの前奏みたいに宇宙船に乗っかれるごく僅かな生命体は別としても、金持ちも貧乏人も犯罪者も全知全能万能な宇宙人的人間もほとんど同時に この激震に遭遇してしまうのは紛れもない事態である ただそういった激震は瞬時には往ってしまうのであるが、自然界に掻き回された際の後始末は、誰が一番に被るかということである 若者は年寄りを押しぬけ食料を貪り、中年の女はやたらと若い男性に媚りまくり、そのうような結果とすれば、何も罪のない人間が被る心身共の外傷や、ショックや、厳しい現実を突き付けられて長期的に痛手に堪えに耐え続けてから死んで逝くといった怨念じみたことになりかねなくもない 偲び難きを堪えといった‘我慢’だとか現実的にはたくましく生きているだとか言って、何もしない自治体や周辺の人々 オロオロとして、金は有り余るほど持っているクセに自分たちだけが有利になるようにつくった地元基準の法に縛られて手出しは何もできなくしてしまっている しかも、それで次世代はショーがなくなって、貪りの境地にいた一部のおじいさんや貪ることを洗脳され尽くされたおばあさんの残した罪深き十字架を無意識に背負わされた孫たち、周辺からは‘御気の毒に’などど拝まれてしまう そんなシナリオがどこにでも存在してきたにすぎない 在る一部の少数者が声を荒げて勢いをつけて挑んではみたが、●ネ●ィ大●領の最後のような結末が残されているだけである ほんとうに末恐ろしい船上ならぬ、殺伐とした土壌に ただ置き去りにさせられてしまった こう感じている人間がきっと、どこかに散らばって存在してしまってその保護を救出させるのを待ちわびるといった幻想を描いているだけのようでもある しかしこんなマグレみたいな博打は存在しなかった みんなグルになっている みんなで面白がっているだけ 今に自分もそーなるとかはまったく関係ないと言い除けてしまう 果たしてこんな事態が遭ってもいいものなのだろうか そこで、犯罪被害者支援に関する事項に戻れば、何もこの●▼■大学ばかりではなく、その他への場にも、多くノコノコと出かけて行ったりもしていた それを全部、公表させる氣は毛頭ない ただ、そこではやはり、マインドリーダーとか何とかは誰もいなかったし、自分達が遭遇してきた個人的で私的な事例の暴露を何の躊躇も咎めも何もなく、本人は黄泉の国なので知るかっといわんばかりの態度だった そしてそれらで稼ぐといったことだった そこでは自らの体験してきた事例とかではなく、他人の私的な相談をこれこれこーいったことが在るといって公にさせることでの講演だとかセミナーだとかいったいわゆる、成功事例としたもののみをピックアップしていたにすぎなかった また震撼させられていた もう二度と参加できない理由の一つにまたもやなってしまっていた どんどんと参加の場が限られていっただけだった そして、馬の骨扱いが頻繁でもあったりした それはこの人間をどーせよあーせよだとかっていうのは、その本人さま次第なんだし、どーしてやることも何かに頼らせるということもできない なので我々は少なからず“法施のモメンタム”を感じている生活生命体の一人の人類であり、仏教界におけるこのような希薄な倫理性とすれば、仏教では“平等・慈悲・報恩”といった三つの基本思想から派生してくる“四摂事”という4つの徳目であり、即ちこれらを具体的に生活の中にすんなりとしっくりと入れるとすれば、
〇施すこと(布施) 
〇愛されるべき言葉を語ること(愛語) 
〇この世で人の利益になることを実行すること(利行) 
〇あまたの事柄について適材適所にて共同して働くこと(同事)
 これらの4つの徳目は回転する車のクサビのように機能するものであるとのことであり、これらを家庭・教室・職場、ひいては地域社会の中で生き抜くための徳目であると、原始仏教は教えているのです 四つの徳目を生活の中にを合言葉のように過ごせたら善いでしょうね 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 10:02Comments(0)