2009年05月06日

トカゲの尻尾

何だかね、他のドーデもいいようなことは雑記に聴こえてしまうし、もっと違うことを考えないといけないのかなとも感じられて仕方がない氣がする 覆面広告の手法だとかっていうんじゃなくてね 何か私としては、トカゲの尻尾斬りみたいな感じもします 続くなるといなので、トカゲを捕まえてはみるものの尻尾が左右に振っただけなのが残って、本体のトカゲには逃げられちゃうというもの こういう手法は謎めいていて面白いとかね 今更ながらマインドマップを見返すと改めて観えてきてしまう観点がある いったいそもそも人間とやらは何のために生きているんだろうかとか・・・あまりにも、強欲な人間達の阿鼻叫喚とさせられた輩(やから)の存在的にも感じられてショーもない やはり、人間自体のやることには、国境というものが存在はしないように 生活に関わる人間本来の生き様だとかや行き様というのは、どこに行っても普遍性を帯びているわけで、そこでは、一体何がベネフィットかどうか?何かを考えていく 具現化させていく ラフデッサンを描くことなのかもしれないし、それは決して一人の個人的な単なる抽象的なイメージ画ではなく、あくまでもそこに存在する人間のQOLであることは間違いない ただ、そういった前例だとか、先駆的なだとか、お化けだとか、天使だとか悪魔だとかいった迷信じみた画に置き換えられてしまったので、これらを具体的に “自分のことですよ”というスタンスに置き換えてあげるような映像が求められているように思える でなければ、何処か果てしなく遠い遠い、時空的にも距離的にだって、及びもよらないような偏狭の地での単なる他人の戯言だといったことにさせられて、そういった風に片付けられてしまうんだ 既にかなりの期間をこういった無駄で無意味な時間を費やし続けてきたわれわれという感もしてしまわないでもない 要は、一番に迫害に晒されている人間にどう付するのかだとか、全く教育というものなんかを知らずに半径1kmほどの圏内を行ったり来たりしているような内地人の思いになれるかどうかに掛かっているようでさえある ほんの数分しか離れていないような人類が、限りない土つぼのただ最中に嵌ってもがき苦しんでいるのを放置できるだろうか?ただ、もがいてはいるものの助けは求めずに、自己解決に委ね続けその現地時間を闊歩させられているに過ぎないある意味、揺れの中で存在価値を見出しているだとか・・、多種多様なので、そういったモノは、結局はやはり、決め付けられないし、どう考えを及ばせているのかのみであって、他には何もない 私なんかは、博打に苦しめられてきた感がなきにしもあらずであるためか、宝くじだとかそのような博打の類といったものは買いたくない存在でもあったがしかし、博打もある意味では、心がざわめくような葛藤だとか、その興奮だとかのスリル感が味わえるとなるともう抜け出せなくなるといった調子なのかもしれない 所謂それは、依存症のような分類にされてしまうのかもしれないけど、いたって本人なんかには、依存などとは思わないし思えないわけで、大体にしてこのようなテーマで悩むといった自身に何らかの不遇なるものを感じずにはいられないわけでもある いいじゃんもう、過ぎ去った過去なんかを変えることなんか出来ないんですから・・・、今からスタートしていけばいいわけで、そんなとこで悩んでいたって始まらないぞていう何か明確なアプローチなんかを示していくことが善いのかなと・・・それによって、自分っていったい何者なのかな・・・?というのを感じること事態が、最大公約数的に必須事項だったりするんですよね 私なんかは、いつだって、“M51”なんかを背負っているような氣もしてしまう訳ですらあり・・・ 古典や古書に何かしら描いて記されてあった詳細っていうものは少なからず大事にはしたい けど、蔑ろにされがちなのが今なんですけどね 何も知らなかった頃のエピソードとかが今になって初めて役に立つような向きなのかもしれないです どこへ行こうが何をしようが・・・といった観点がポイントなのかなって思われます 蓮華合掌  


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2009年05月06日

日日、有難うございます

 今日は昨夜からの雨が激しく降り続いています 天からの水分が干上がりそうな人間活動をうるおしてくれそうな氣もしました そーいえば、神宮寺の高橋住職の存在をうっかり忘れておりましたことを申し訳なく感じます ここで謝罪いたします 私などよりも住職がこういったことはプロなので、これは、また別の機会にお会いさせて頂くことにします 積もり積もりっぱなしのようでもありますが、何がザガットなんじゃいと御叱りを受けそうですので、ご期待に添えずに申し訳なく感じさせてます 以前から、こういったものや、何やらを提案してはみるのですが、あまりにも、個々での活動が多忙を極めておられるために取材の余裕もなくなっているか、若しくは活動もしているが、ライフワークというか、飲食いの日銭を何とかしなければならないような状況でもあるので、そこのところは何かしらの埋め合わせというか、議論とかいうと、焚火のようにも思われてしまいますが、意見とかいう薪をくべて、赤々とした炎のようなディベードが燃え盛ったり、燃え広がったりしてはするものの後にその炎が消え、そこに残った残骸のようなカスさながらの灰とか、真っ黒焦げになった炭素様のシロモノはいったい誰がどう引き取るのか?というか、そんなものは、そこに放置させておくだけでいいのか?私には、そのような野焼きや焚火の後始末に思えて仕方がありません どういうわけか、そう感じます もう跡形もない場合には、せめてもの弔いにそこここに弔いの木喰仏をひっそりと置くだとか、「あぁこんな場所で、こういった悲惨な瞬間が遭ったのか…?」といった、人々が眼にするたびに分かるようなふうな悼みの何らかの対象を設置するというのは、願ったり叶ったりなのかもしれない よく悲惨過ぎた交通事故だとかや、そういった現場には、遺族や仲間が花を手向けてあるのですが、花っていうのは、朽ちて腐っていくそれはそれでもいいけど、もっと言えば交通安全なんていうのより、もうそこで亡くなってしまったといった証を込めて、本来ならもっと生きながらえるはずに決まっていたわけで、無念な場所なわけですよね そういう所に限って、丸くて白いのがフワフワって浮いてきてますもんね コレッて私はみなさん見えると感じておりましたが、他の人は怖いだとか、そんなものは見えないとか、私なんかは音まで聞こえてしまう時もあったりしますが、みんながみんな見えるわけではないにしても、やはりこういう悲惨で無残な事故だか事件現場っていうのを何かと弔うのは、今後も必要かなって感じはしています じゃなきゃ、その御霊みたいなものが、無念さで何にかで出てきてしまう感じです まぁ、こういったことを言っていても、あまり信用はないのですが、私は自分がもうないからか、なんとも思わないし、むしろそれらの湧き出して来られるものに関して、最低限の礼のよういなもので御納めといっても善いのかどうか、わかりませんがそういう何かはあります ただ、私は果てしなく人間ですので、すべてがすべて、こうしろとかあーしろって言ってるというのではありません こうやって、人と人の社会が最果てのような惨めな お互いさまの精神という面では、まったくのところ発展途上国の本邦なので、それをやはり、一種の機会と捉えればいいのかなとは思ってます 蓮華合掌   
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Posted by このは なさくや at 11:34Comments(0)ヒューマンフォーミュラ