2009年08月27日
Odd and Even
半ば、卒業式のよびかけにも似た傾向で始まったばかりではあるが、暑さ寒さも彼岸までというように 朝夕はグッと冷え込んできた 住民がボランティアで出来てしまうような土手の草刈りや、何か‘やってます’的に音や人手が公にもわかるブルーカラーを 「住民が望んでいる、頼んできた」と、言い逃れ的にビーバーで刈る こんなムダな所に 人手と金を投入させ、本来やらなければならない事業、しかも最優先的に促す必要がある事業というモノの判断が全くできなくなってしまっている 何がボランティアで出来るのか、何が企業としてできるのか、何が公権力としてどこまで出来るのかといった視点が、すべてにおいて、利害関係、云わば管理者サイドの頂点からの指令であるのは間違いない にしても、ばくち討ちに高じているような今でもある それら因果関係を証明する事が出来なくなっている無責任なトップが事態を一層深刻さの折り重なった呪われた淵へと、あばら屋で賭博に明け暮れる その場限りのお楽しみにアブク銭を突っ込んでのお楽しみ最中だ そのご様子は、みんなが観ている あばら屋の中に一緒にいてお零れを与る側近も観える 多くの取り巻きの人々は、あぁすれば、利益といった儲けに与れるといったことで学ぶ ただ忠実に真似ている もっと多くの取り巻きだけの人々は、あぁしたら儲かるけど自分はあぁまでして儲かりたくないな、ふつうでいられることが一番だと思っっている 取り巻きの中でもその様子が、取り巻きの何重もの輪でよくわからなかったり、ここにどうして取り巻きが出来ているのかすら理解できないというもっともっと多くの人々は、何をしているのかなと気になりながらも、自分には関係ないのかなというので、通り過ぎてしまい、その取り巻きの輪からは最も遠ざかった場所や、そもそもそのような場所に出かけていくことすら困難な状況に措かれたおびただしい人々も多い ただ今は、一人で二台も携帯を保持する人や、生きていくのに食べモノよりも、JOB情報といった情報受取人らの感情は、行動へと盛り上がりつつもある みんながみんな呪われたように 誰も何も頼みもしないのに同じ方向を目指して向かってしまうのは、それこそが不思議な地籍そのものだというシャバ世界でもある 人が人の間で何が起こっているのかとも読み取れるのだが、シンパシーが得られるというその間においては、釈迦の仰られた通り、その御霊が、生まれ変わり死に変わりを繰り返さなければならないという命題なのかもしれない ただ、今よりももっと前の方が、ずっとずっと考える人類も少数だったに違いなく、それらを忘れてはならないとも感じる 例え僅かな善いことなら何でもやってみるという意識での商人を目指す 10年前にも同じようなことをやっていて、気がついたら10年前とまったく同じメンバーだった 支えるサイドの不足が顕著でもあった しかしながら、単に教育をしたからだとか、何らかの弟子になったからだとか、何だとかかんだとかといったヤツで、本当にその中で、“このままじゃダメだ!変えよう!”と自発的に主体性を持って、自らの言葉と態度で話で、“変わりたい!変るんだ!”という“変体願望”が維持できるのかどうかでもある グロテスクな幼虫だった蛹世代が長引いているといった共有財産である筈の人財として、何にもつながっていないチホー難民ならば、情報発信者サイドがあらゆる手法を総ナメにさせても紡いでいくことが、これら病み社会の精神的貧困の解決に向けたスクラムが可能に成り得るのではないか われわれは、金銭が愛しいのでもなければ、誰かに頼まれたというわけでもなく、ましてや今の今までも、セイジや企業や、そういったところが手を出せなかった分野の開拓期でさえある もはや未知との遭遇ですらあるわけで、殺人鬼や投機オタクや無差別殺傷能力を撒き散らかす隣近所や、それらの冬扶持稼ぎに一緒になって付き合っているというんじゃなく、あれらの冬扶持稼ぎは、一面的なモノであって、本来は人は多面的人格の宿主であるのを認めていくしかない というこちらサイドが“このままじゃダメだ!変えよう!”を試されてもいる ここは慎重にことを進めていくのみなのだ 誰をお得意様と呼ぶのか?ただ買ってくれるだけのひとなのか、それらは “施者・受者・施物”が、“三輪清浄”か\(^○^)/ 蓮華合掌
2009年08月22日
マイルストーン
都市生活ぐらい、不便なものなんかはないに等しい にも係わらず、そこに住まうことでの自立ならぬ独立を強いられてきたのも否めない 危惧しているという事のおびただしい中の一つとすれば、今後の大量孤独死というものだろう 誰からもまともに向き合うこともされずに亡くなって逝くという孤独 それこそが、マザーの残した“いのちのことば”通りである 都市生活の方がそれらは顕著であるといっても過言ではない しかしながら、それがあるというので、安否確認をボランティアだけで支えるというのでは立ち行かなくなってきてしまう そこで誰とでもうまくやっていく発想とすれば、毎日誰かどうかが、日替わりで訪問したりできる何らかの手段が必要とされるのでもある ただ心を頑なに閉ざされてしまっているとはいえ、こうした精神的貧困のアドボカシーとすれば、これらも単なる多面的なものの一つではあるが、ほぼシンデイルといった状況であるから、ある程度は永く生き延びられている というのも事実だ ほんの僅かな食料と水と空気に満たされていて、あとは何らの欲得もなく、髪も伸ばしほうけだったり、だらしなく時もまた経過する しかしながら、場の安心が戻ったというきっかけを提供することで、一斉に封を斬った如くにかっ飛び出していくのも人間なのではないかなとも感じているところです 中間山村地における定住願望を実現させるためには、医療の問題並びに安く手に入れられる土地家屋の問題、収入の問題といったことを考えれば、理に適ったことをやっているのであって、ここに共鳴できないというのは、こちらサイドというよりも、都市生活者自身が、精神的貧困の呪いから、自分の夢を現実的に描けないのと同じなのではないのだろうか・・・ そんな気もしなくもなく、昨日はなんと理事会に参加から始まりのPTAのお母ちゃんたちがおりましたので、ひとつ叫んでみたのは、二学期も始まりまして、通学路の区内にあるコンビニにおけるトイレを借りる場合に遭遇する‘いかがわしい雑誌’が並んでいる所をすり抜けなければならなく、非常に不安を抱えている児童がいるということ そして、これらの‘いかがわしい雑誌’に掲載されているのが、どう見ても未成年のような子どもが出ていたりするのを立ち読みしている男性が立っている後ろを恐怖に戦きながら通り抜けるということが繰り返されてしまっている せめて、通学路内にあるコンビニ連盟は、ゲリラ的な営業手法を改め、そういった雑誌類は、トイレ近辺から遠ざけてもらいたく切に願ってもいる また未成年が激写されているような制服姿で引き付けようとするのも、学齢期の子どもを養育する親にとっては、勿論一般的にもではあるが、立派な性犯罪であり、こういったモノが堂々と処罰も成されずに売られている地域社会の倦みを今後とも鑑みていきたいといった意見も出された 数年前ではあるが、こうした問題は、問題にもならずに、しかもお笑いの対象と看做されてもきた そして、その当時、●▼■中学校の数学の教師Hが、著名な○○駅付近で、女子高校生を車で待ち伏せし、車内に連れ込んで、性的暴行があったという この教師Hに至っては、‘いけません’という意味がわからない先生であって、同一人物によるこれらの行動によって、複数の女生徒がその欲望の餌食となっている このように単に‘いけません’といって、しかられてきても、その‘いけません’という事実は、何がどう‘いけません’なのかを知らない 学習障害者に見られる、宗教的な観点からすれば、法施を学んでいないし、他人の痛みを自分の傷みとして学んでいない人間が、教育者として教壇に上がってしまっているといった恐怖にも似た戦慄である 教員は人格者ではなくても務まるというのであれば、ただメカニズムを組ませるだけのアンドロイド化された家畜のように飼育されている頭脳の持ち主だけが、教鞭を執っていただけなのだろうか 哀れで居た堪れない被害者の多くは、泣き寝入りを強いられ、自責の念と、嘘つき呼ばわりされる拷問に苦悶しながら、今をどこでどうなさっておられるのかと思うにつけ、あれらの脅威を何のケアもされず、ただそーですかそーですかそーですかと、スクールカウンセリングの人に聴いてもらっているだけで、振替伝票も何も起こせないでいるのだ こういったことがまかり間違って、押し通されてしまうこのチホーといったところに 誰が定住を望めるのだろうか その事件によって奪われた尊厳だとか品位だとかを悉く掻き毟られ、毛の一本も残ってないというのを誰も観ないのである こういった現実がやってくるなんてことは、悪魔が来たりてフエをふいていたのかもしれない 社会の制度が窮屈になればなるほどに子ども達の不安は増大していくばかりです 子ども達の不安は、覚せい剤の乱獲に現れているような昨今となり、経済の流れに従えば、そういった覚せい剤がPL法の何かをも潜り抜けて、不法に金銭価値との交換がなされしまう これらはゲリラ軍隊に加担する人を人でによって誘き寄せているようなもの 列記とした犯罪にも係わらずに犯罪被害者ではないという結果を下されてしまって、そのショック&トラウマが頭痛・腹痛・腰痛のタネになってしまってもいたりする しかも、それらを煽動しているトップが一番に学んでもいないし、誰もブタレテはいない 「忙しい忙しい忙しい」の暮らしの中で、「こどもにご飯もつくってあげられなくて、この会議に参加させられている」というのや、「金曜日の真昼間の会議に仕事を休んでわざわざ出席して、この会議のコンセプトは何なのですか」「都会からいらした方々に“安曇野”ってどこですか?」などと聞かれてしまうなどと云った事が茶飯事になりました そんなこんななのではあるけれども、社会的地位というものがチラついている陰でのくさばのかげ状態ですらある あまりにも、その価値判断に関するピンからキリまでの部位が、統一化とさせられ続けている 人間は自然の一部であるわけなのに 自然の前に社会の一部、社会の一員などと言ってしまっている こうした発言にしても、一切皆苦となってしまってきた 特にまだ何も染まっていない子どもたちの純真さを歪めているだけの教育者が、ただの一人でもいるのなら、それらはあってもなくても、最初っからどうだってよかったのである 単なる時間の暇つぶしだったのだ 河原に水浴びに行くと、川の中の石がツルツルっと滑って危ない 藻が付着していて、これらは‘ミズワタ’などと呼ばれている水生のカビの一種である このような‘ミズワタ’はビッシリと石を取り囲い、ドブさらいのBrで、鼻を憑くようでもある これらの生活者らは、菌類やバクテリアの増加にも繋がっているが、アオコもその近辺のため池風な箇所にもあった アオコが発生した池の水を飲んだ家畜が行き絶え絶えに死んだとするアメリカで起こった事件は、水道水の処理過程で、発ガン性物質までをも発生させてしまうということであった というよりも、こうした何かが混じってしまった水は、薄めていくしかないわけであって、どんな毒性も劇症なのも、忠誠を誓って製造したはいいが、それを取り除くことは極めて困難であり、それらを何とかしようとするには、水を大量に消費しなければならなくなったのだ そして、限られた資源のことを考えれば、水が干上がるというリスクが話題にならない方がどうかしているのでさえある そして、またこうした水問題を考慮してみての我々が、どういった行動様式を選択したらいいのか、脳死ではない人類ならば、それらの判断は極めてラクに成されるだろう 蓮華合掌
2009年08月21日
予告無しに
国民健康保険税なるものの未納のために今後、財産調査や財産差押が予告無しに行なわれ、勤務先並びに金融機関に対する社会的信用が喪失するなどとする脅迫文書が、本日軍部統制局、国民年金担当より届くに至った 勤務先に関して云うならば、特に自営業で、ボツボツとやっているわけなので、特にどーというものでもなさそうだが、金融機関に関しても、金融機関なんてのは、単に通過媒体としての機能であって、今後は金融機関などといった無駄な組織は消滅するといったシナリオに従えば、特に社会的信用なんかは、それらの部位における無意味な脅しとしかとれなくなった しかも、軍部当局者らは、日付を指定して、相談窓口を開くから、来いという通達であった けしからぬ対応と、呆れたやり方に対し、契約の履行を武器にさせるという、窮めて横暴な軍事的な破壊的脅しを受け、それらの殺人鬼に対する防衛をしなければならない事態に陥ってしまった もう被保険者証なるものに関すれば、歯科及び外科以外は、特に不必要であるので、必要最低限での医療分野の確保のみを必要とするのであり、それらに至っても、恐るべき幼児期よりの虐待事件を加味すれば、それらおびただしい虐待の惨禍を潜り抜けた人類に対する償いをしてもらわねばならない軍隊当局自身の切腹でもある訳であり、財政健全の名の下において、メカニズムに組み入れられた人と人とのあいさを今後、どのように損害賠償して頂けるのかを見守りたくもある 人々の健康問題や、こころのケアや様々な機械には判定の有無を判断されない分野をも、それらの財政健全にインプットさせるといった迷信めいた拷問が罷り通る 在日だとか、外国籍呼ばわりされていたり、見かけがそれ風であるといっただけで、ケイサツが、身分証明になるものを出せ!●▼■登録証を出せ!被保険者証を見せろ! キサマ、持ってないのか?こっちへ来い! などと云って、通りの隅の方に連れて行かれて、‘5マンでどうだ、所持してないのを許してやろうじゃない’などと云った彼らに対するカツアゲが、正当化されているという このようなチホーにおける人権侵害は、おびただしい これらを先ず、率先して取り締まる筈の機関が全くのところ、何も考えてない 考えがない 人権尊重などと云った錆びた御題目が擦れた、消えかかったブザマナ垂れ幕と化してしまっている これらをすべて、公とすることを私一人の脳裏に焼き付けさせても、どうする事も出来ないが、悩む本人に至っては、発言力は全くない 声をあげる手段がないに等しい 字が辛うじて、自分の名を書けるのみといった知的障がい者にも、決まって、他の難しい漢字で書いてある数人の名前をこんな短期間で覚えられるわけもなく、しかもサイバンカンなんていうのは、辞めさせたいという名ばかりが連なっていても、一般的には何ら恩恵のないチホーでは、名前も顔も知らない、何の裁判を決定してきたヤツラなのかも何も情報もないのにその人間の名前を書け!と、拷問されているようなものでさえある ほとんどの底辺を担う人々の民意が何のことかも分かってもいない 況してや、養護学校などでは、セイジなんていう言葉すら、何のことなのかもわからなく、勉強も何も教えてももらえなかったわけでさえあって、こうした矛盾というものに 単に代理人が対応するなどといった事では、そこに偶々居合わせた代理人と称する人の判断に影響を受けてしまうのではないのだろうか…? 何も云えないからといって、強制的に進められていく判断という悪魔といつも隣合わせにいるのである 全くのところ、決めつけられてしまった判断下で丸めこまれる様相を呈してしまっているだけだ 子どもたち自身が今、本当は何を感じているのか 大人サイドが指揮命令するのではなく、大人の厭味な質問に答えているだけではなく、‘安心した場というものがない’ということ、そんな今、時間ばかりがかかる こうしたことが何も進められない殺人鬼の言うがままとなってしまう 下手な抵抗をすれば、どうなるかというものを考えると本当に恐ろしく、いまこの場に居続けなければならない事に慄いてもいる なぜ動けないのか…?それすらも分からない なぜかこうして、殺戮の場へと舞い戻ってきてしまうのである また、他に行っても同じことが何度も何度でも繰り返されてしまうのではないのかという思いも根強い こうして、再び私が行動を起こすことによって、殺人鬼らが、殴りかかってきて、何もしないくせに などと嗾けられ、お終いになるといった地獄画図が観え隠れしてしまう 新月の今日は本来ならば、願いの方向性を伝えなければならない所である 難病患者らの目線に立った地域となることは、どこでも可能なのか これでもまったく平等という名のもとに我慢を強いられるだけ、強いられて死んで逝くだけでもいいものなのかどうか こういった強制収容所に詰め込まれた期間が長期に及んでくるたびに そらオゾマシイ侵害事件の映像が、これは本当にここでの騒ぎなのか、それらがなかった事を証明するのは、まさしく酋長のセップクにもかかってくる一大事でもあり、慎重に扱うべき案件とされている 社会的信用の喪失という脅しは、もともと、ここではアウトカーストになっているので、そんなものは一切のところ、無関係でさえあって、なので、広報の具現化というものが重要とみなされてもいたわけである プレゼンの手法と云うか、メディアの見せ方も大事であるし、トレーニングをするためのソフトが必要でもある 全世界規模共通のコンセンサスを要し、精神的貧困の撲滅という目標も掲げてきたわけでもある 人材育成を叫んでいて、倫理や道徳といった観点では、本来の口が酸っぱくなるほどのトレーニングはあったのかもしれない ただゆりかごから墓場まで、その場でかたつむりのように過ごすチホーとすれば、動けない人類の身に積まされる不都合をや、注文をどうやってバランスをとってやっていくのかどうか、こういったモノが試されているし、こうしたことが、社会的実験とでもいうのかもしれない 毎度のことではあるが、土を観るということは、土の下の地下水に聴いてみるということを先達は、知っていたようでさえある むごたらしい人権侵害の放置は何れ、ひ孫や玄孫といった世代がそのままを忠実に継承するだけが続くのであれば、ただ単にみながその辺を右往左往として、その細胞が生きていたり死んでいたりをしてるだけにしか感じられない 何も感動もない 何も学びもない ただ干乾びたようにか細くなってか弱くなっていく女の子らが多い その正反対であるニクも多いのだが、それらに負けじとトリガラのような女の子、風で飛ばされて行きそうな感じで、ニコニコしているだけだ いつでも、ただニコニコとしている 恐らく何かを底辺の中に閉じ込めたまま… 蓮華合掌
2009年08月17日
戸別訪問
去年は、灼熱地獄のただそのさなかを自転車乗りならびに徒歩及び早足によって懸命な面会を続けていた 午前中から始まったこれらの訪問は、ちっともそれらローン天国化した家には人っ子一人いなかったといった展開で、ピンポーンを押しつつ、硬く閉められた開き戸の引っかかりに重力をかけてもいた 毎度ながら、この板についてしまった行動様式は、次々に戸を開けていくという中では、時に戸が、意表をついて、開いてしまう場面もあって、そんな時には、驚いてその家の玄関にツンのめるように滑ってしまう 家人の対応は、こちらのスマイルに由らざるモノでもなく、汗ばんで髪の毛が顔にへばりついたようなこちらの顔面と遭遇した顧客は、冷たい麦茶を氷入りで差し出してくれもした もう尋常ではなく暑いし、暑さに任せて汗がすごいことになっていたので、移動の際に手鏡で確認すると、描いた眉毛が“麻呂”になってしまっていて、自分でもその鏡の中の“麻呂”に驚きを隠せないでいた 太陽があまりにも真上にまで昇らぬうちに草むしりをするといった野良仕事の知恵は、今ではほとんどの人に知れ渡ってもいるところでもある また、眉の終わっている線画の続きを誰かの家の生垣の柵にでも身を潜めつつも描いているといった調子で、その場を凌ぎ、またある時は、リップ塗りに転じ、顔面から流れ落ちたミネラルの一部の土砂災害に対し、崩落現場のテカテカした輝きを一瞬にして蘇生させもした 今どきは、玄関がどこなのか、、、果たして、このお家は玄関いや、門というか、どこから入ったらよいのか?全くの所、理解に苦しむ佇まいも多く、漆黒の武家屋敷造りなどでは、玄関がカラクリのような小細工がなされていたりして、こんな御屋敷に住んでいたら、忘れ物でもして、また家の中に入ろうとするには、このカラクリを解き操りながら入らなければならないんで、非常に面倒チックなのである 股上の短そうな敵に対する仕掛けとでもいえそうなヤケに高い敷居だとかが、潜るたびに躓きそうで危ないことにもなっている その生垣を乗り越えてみたら、ブルドックと見間違えそうなお母さんが、ひょっこりと、シミーズ姿で露出してきた まぁ女同士、仲良く行こうやと云ったところだろうか 噴き出す汗が打ち水の様にポタポタしてもいた こうして、歩いて歩いて歩き、常態を前進させながら進んで行くと、家の中にひきこもり歴が、地層化された方々もおられる しかしながら、ひきこもりっきりだということや、あまりにも普段からのお付き合いで、同類の方々だけだとしか話し合ったことも何もないというと、それらには、心を閉ざされた歴史があまりにも長きに及んでいたので、その延長では、突如として現れた宇宙人では、コミュニケーションなどは、以ての外であって、すべてに於いてを閉ざされてしまっている どんな些細な事柄がきっかけだったにせよ、もう閉ざし続けるという頑な反比例が後押しをしているようにも思えた これらが、“アマテラス化”というものでもある 結局、ひきこもりきりの人がお住まいの地域っていうのは、必ず何らかの尊厳だとか品位だとかいったその人間らしさが、どこかで打ち消され続けてきたといった過去からのメッセージが観えてくるのでさえある 事態が急変することは決して容易にはいかないとすら映る しかしながら、特別視をするというのもどうだろうかと感じてもしまう こうした行動の選択をさせてしまったのは、あくまでも、今このような行動に陥ってしまっている人間サイドの一方的や、一時的な感情ではなさそうである アドボカシーとすればこうだというんであって、本心とやらは、どうにも掴めそうもない こうして何だか、過去をやり直す訳にはいかないのだけれども、それでも何か、悪事を働くのも人間なら、善いことをするのも人間であって、どうしてもこういう面においては、善いことをする人間が少数派に廻ってしまってはいる昨今でもあり、然もすればそういったモノでも、育てるといったトレーニングに関しては、このラボ:ヒューマンフォーミュラで云うならば、褒美の与え方なのかなとも、思われます とは言うものの金、銀、銅や宝石、骨董品等は勿論、大事な宝であって、こうした価値での評価はなされているのではありますけれども、こうした価値観というモノは、あくまでも多面的なモノのうちの評価の一つである筈なわけです そうして、いつものように結果というものを究めてはいるのですが、直ぐに結果的な判断を出さないのではあるのですが、何かにつけて、人が人の間で何かを成そうというのには、今与えられている場、時間、経済的な意味だとかから始めてみるというのが、慈悲心をもって独立起業するには、もってこいの状況であるともいえます 個人的な立場で云えば、もう4歳前頃からテレビアニメの動画を画いてみたり、美容師のおばさんの行動を忠実に見て、お昼には身体の弱った幼児に粉薬を飲ませるなどと云った行動をしてきてしまった訳ではありましたが、そんな中から何かしらの“天職”じみたモノが生まれてくるというのであって、そういった働きを続けつつも、様々な分野に精通していく その場に合った職を“天職”とさせるのであって、所変われば、また違った職にも触れ合うだとか、多面的な観方とすれば、こうした考え方も採用か不採用であって、場が変わっても一様に同じ動きが出来るというモノを目指すのも、このラボの考え方の一つでもあるのです つまるところ、人と人とが暮らすその間に役立つメカニックだとか、習慣化する過程での育成トレーニングが、こちらのラボでの存在感なのでもあるのです “ふるさと”なんていう童謡の歌詞が何だか変わってしまって、ウサギなんかは追いかけなくなってしまったし、鹿が増えてしまって狩人が足りないし、こう暑さ残暑が厳しいと、必然的に大型ショッピングモールで、ブラインドショッピングに明け暮れてる方が涼しさの確保のための叡智かもしれなくもない きっと、ビーチサンダルで川の流れを体感したことがないというのは、さびしいし、子どもも大人もですが、こうした体感が失われていくということでは、自然界の恵みや暴走の脅威に対応していくだけのリスクを最小限に抑える技術とでもいうのかもしれない 数年前、友人の鶏小屋は、餓えて凶暴化したイタチだかの仕業による鳥獣害に見舞われ、当ラボにSOSが入った これは酷過ぎるその場の大惨事を観せられてしまい、もう呪われていたような気配すらあった いつものようにここではその詳細は記述出来ないが、咄嗟に南米から、わざわざこんな観光地へと出稼ぎにいらしておられたご家族の息子で中学生のカ○ロスくんにもお手伝い頂き、無残なお姿で犠牲となった茶色い首なしやら恐怖のあまり血しぶきをまき散らされながらの亡骸が、運搬され解体&そのガラスープ製作にと向かわせた 南米系おばさんの手際の良さと、カ○ロスくんの慣れたとも熟練された毛剥ぎ裁きを目の当たりにし、私はこれまで、このトランジット期間を単にムダに経過してきてしまったような反省や、自責の念さえもが脳裏を霞めて行くばかりだった 非常にムリとムダと無茶苦茶な時間が経過していた暗黒時代が横たわり続くのを気にしながら、美味満点の獣鍋にベロベロ鼓を打つ、こういった観点が生きてて良かったといったQOLであって、その他の感覚と云ったのは感じらることも何もない こういった不況風に煽られてしまっているといった時には、殊更ながらにして、理不尽さを究めつけられるエピソードが度々ながらにして、この世相を襲撃するのでもある こういった現象は、時空を飛び越えながらにして、怪しげにもやってくるといった調子でさえある オカルト神話を覆させるだけの器量を持ち合わせてしまったのが仇となってさえもいたりしたので、どうにもこうにもなのではあるが、キビシイ時代には、厳しさが募ることを今更ながらにしての追憶セレナーデなのかもしれない そこには、ふとしたことでの何かの時代錯誤とでも迷信がまかり通ってしまうようなフテブテしさも潜んだりしている どうも水木センセーの仰る幾許かの古典的解釈には、私の個人的に感情移入させられている箇所を痛切に抱かせてしまってたりもするのかな 実の所は、うちの娘が、鬼太郎の女の子ヴァージョンなんではないのかってな風にも感じてたりしないでもなさそうで、、、どうも風貌が似通い、何かを発せなくも分かるような、分かってしまっているような、そんな感じでもあり、主なモノも皆白くなってきた して、様々にして各地に纏わる曰くつきの怪しげなお話といった類いにつき物でもありそうな、凄まじい呪われた過去だとか、顔に至ってはバッサリと食べられちまっただとか、蕩けてきたなんていった、昔の‘黒さを強調させたゴミ袋’さながらだともいえるのではないか・・・ あの暗黒時代には、ゴミ袋っていうヤツは決まって、ドス黒かった ただドス黒いと言ったって、あまりにもお肉のタケが大きすぎたり重過ぎたりしたら、とんでもないくらいにその黒さは、透き通りもするので、そんなトコにも恐怖を感じさせたりしちゃうのだ 特に個人的にしても、我乍ら痘痕と線に統一化傾向著しい見栄えといった恐怖&それらの孔に至っては激しくも損傷が著しい有り様であるために とてもではないが、メディアに晒されるような風貌ではなく、寧ろこのようなオゾマシゲな顔面はもう、生まれ付いての悪辣なるお面と化してもいるのであるのだから、こういった顔面に対する不必要な、普通の人間ならば、全くのところ、何一つ悩まない所に悩む我が身であって、これらは、ちょっとやそっとでは、整形のし様もないのでさえある 何しろ、常に崩れてしまうので、秒単位でのメイクが必須でさえあるのだから、どうしようもなくなっている いっそのコト、顔面のことは忘れ去り、顔面抜きの仮面舞踏会を開こうともしたのではあるが、ところがどっこい、そんな小細工をしたところで、クビから下というヤツに至っても貧相極まりないのでもある 化けもんが、或る朝言った「ねぇ、おまいさん、さてはてこの胸のへっこみ具合はどうしたものかねぇ、謎解きされますの」そんな安土桃山だったその昔みたいな会話がしてきたりもするので、ここでは、前出でのそんなカラクリなんかは、何も在ったモノでもないんですけれども、肉があるので、説明するには、その今は昔、嫉妬に狂い死んだエリートが、その見える肉のすべてを自分の支配下にしたいといった欲望を満たす、唯一の願望達成であったために この顔面及び至る所の肉などの組織や細胞をメチャメチャに破壊させ、手元に置くという あまりにも欲望に苛まれた、半ば病的ともとれる私的なコレクション収集家の怪しげなる行動様式であって、これらのアウトカーストならぬシュードラに嫁せられてもいた使命だともいえそうである 一時のアヴァンチュールでもなさそうだ これらには様々な臆測も潜んでいるのであるが、どっちにしろ、銅鐸は楽器なんだろうかといった災いも転じてくる 昔のパソコンはみんな銅製だとかいうヤツを見れば、それらが頭脳集団の祟りとも記されてくるものでもある まったく片付かない難問奇問の続出だけが押し寄せ、後はナニモノでもなさそうであり、今年もまた、海には行かなかったじゃんとか、海には入れなかった不幸を思えば、いったい何年に1篇の海なの・・・だろうか、しかも、そこに辿り着くまでには、干上がってしまうのかもしれないにも係わらずにである 個人的には、一人の時間を大切にするといったスタンスが変わりなくあり続け、風呂の薪なんかを探し回るばっちゃんが自転車をこいでやってきてしまってから、じゃ~、リンゴの枝っぷりなんかがサイコーだよって云って、小豆よりも、そっちへのベクトルを傾けてたする 傾ける方向っていうヤツを誰がどう決定打させるに至るのだろうか、、、今もってもわからず終い、そうこうしているうちに遺言書の効力をあの公証役場に座っている方々に述べられてしまう 何もしないでいても、それら祖先の歩んできた道のりをちょっとづつでもいいからその四方八方を活かすのはどうやら、間違いなくヒューマンフォーミュラなのだろう 蓮華合掌
タグ :鳥獣害対策
2009年08月10日
慧眼
22:39 2003.03.06
ゲンバの切実な声と言うものをお聴きさせて頂くという使命だとかといった、色んなカテゴリーとしてのリサーチをしていく まさに駆け足で、それがてっとり早いやり方だと思う 名乗りを挙げてしまった以上、そうこうしながら改めていくよりないんだ 決して間違いではない ただ住みよい社会を構築することに徹する その部分に尽きる 何らかの枠などは取っ払っていく 防犯対策を教えてください でもいいし、こちらサイドの質問であるQが、多岐に渡ってしまって、果たしてどれだけ答えてもらえるのかどうか そこから始めていかなければならないのではないか こういうのは●▼■家の仕事だとか云う決まりきったパターン化ではなくこう感じる 様々な虫達が活動体勢を整えつつも模索を始めるこの日に、必要な部分は残していく、不必要な機能していない部分の絞込みをし、それらの生業を実態として可視化しておこう そんな感じの準備段階であり、まだまだ滑走路に進行方向も向けられないような状況ではあるが、最もこれらに相当する料金の見直しに焦点を当てても逝かねば成らない “すべて自分”とは、、、自分が出来ないことをお願いさせていただくということ 頭を下げさせて頂き、合掌させて頂く 仕組みはこれから創っていくということであって、それらの流れは、“ゆらぎ”で変えていこう 単に“変える”というよりも、“還す”という意味での還し方かもしれない これがキーワードにも成り得るのだろうか きっと、これらは鏡・玉・刀である 顔を合わせたら誰にでも笑顔ですぐに自分から この実践しかない 質問などのQはどこにでも用意されている 近所付き合いと言うものにこそ、重大なる落とし穴が潜んでいる そこで、ファシリテーターが、しかもよく訓練されている橋渡しの役が必要である 第三の人物として機能させるように情報技術をすぐさま抽出する分野を描けることが、第一要件ですらある 善い事をする人々を育んでいくということ 意志のあるイメージ画を持っている人をどれだけ育てられるかということ “すべて自分”とは、、、常にこうした面の面取りにも似た寛容な精神において、しかしながら、いくら歴史は繰り返させられてきたからといっても、実際には背負う人々が皆病んでいるような現状では、先ずはこの健康問題をどうするのかといった観点こそが重要である しかもこれらの精神的貧困課題に処する方策そのものである うまくいったとする事例をやはり真似ていかなければどうしようもない それらは、単にどこぞの怪しげなワークショップという呪いの除け方的なものではなく、きっぱりと宗教を学習し、その中から自分に合ったふさわしい宗教学を学んでから、選択するといった選択肢であって、何も生まれ落ちたところが無宗教だから、児らはそれらをその父母から継承するというのでは決してない そして、ある学齢期までは、親の信仰に縋り付くのも、致し方ないにしても、物心ついた場面では、世界の宗教学に触れる機会が多くならなければならないと感じる これまでにも、何らかのカリスマ的な怪しげな信仰といった迷信帯びるおまけつきで、私たちは臨床例の一例とさせられての巻き込まれた感も否めないのである ゾンビを思わせるこうした祟りは、スパッと切れたりしてきた 忽然としてなくなるとかいった帰依ならぬ、消えるというその他大勢に埋もれるといった能力である 全くの所は誰彼にも何も知られないのである そういった目立たない影の存在の重視をしなければならない いかに普通の中に溶け込んでいられるか・・・ こういう不思議な隠れ旋法みたいな忍術は、本来どうしたことか、怪しまれる しかし、自由自在になる人にとっては、何の不思議でもない そういったこれらに氣がつくに至った 自己解決力に導き、これらを育むには、問いかけ方の工夫だという 何か問題が起こってしまったときに「○○さんだったらどうすればいいと思う?」「どんな方法が思い当たりますか?」どのように解決しようと思っているのかという意志を大切にすること 「なぜお金を借りて○○○をしないのですか?」といった問いかけを繰り返す そこの部分での双方のバランスをとっていくのである いつもだったら、こんな少額なんかは、ちょこっとその辺でバイトすれば返せる額面でさえあるので、特に大騒ぎするようなことでもないのである だが、そうした構造にまた埋め合わせをさせられる期間というのを思えば、あれらの振替伝票と引き換えになってしまった自然の音階を乱された航空機の金属悲鳴音や、バイクの激しい爆発エンジン音や、最も恐ろしいモノでは、いつまでもトップに居座り続けて、命令ばかりをしている軍部の人事が何も変化しないことであり、その揺るぎのない悲劇は一元的な誰かが始めに訳した解釈に副った形骸化著しい ある何らかの事象とか、異常気象下での人類のリスクマネジメントやその中でも、どのような対応を行動によって示すのか、こういった過去にも起こった事態という現象は全てにおいて、その異常の名の示す感情様式さながらに多面的な検証があらゆる異業種によって論議すべきモノだといえそうである しかも、こうした大惨事と化した恐るべき事案が、八ッ墓村さながらでもある 異常感情時における行動のとり方であるのかもしれない こうした考えは、宗教なくしては語れないのであり、小さい頃の自然体験と同等に大事な教えであると言っても過言ではなさそうである ただ宗教を大声を蹴散らして騒ぎまくるというわけではない こういった疲れ過ぎた社会においては、こうした宗教的な拠り所となる精神性を最も求道するのも人間である お盆という時期がやってくる もうご先祖様は、8月に入った途端にその家々を懐かしんで戻ってきているのだという 私が特に訴えたいのは、幼子が例えば、「お母ちゃん、さっきね、カミサマを見たの」ということを云ってきた場合に 何としてもこの幼児の言葉を全面的に受容れて欲しいと願いたい 殆どのママは、バカにしてしまう 開口一番に何か、この児はちょっとアタマがいかれてしまったじゃなにのかって云わないで貰いたいと思っている人類の一人です 実に少数の人々しか、こんなこととかって思われてしまうのですが、、、ただそうも云っていられなくなってしまってもいるここでは、やたらと何かを用意してやるといったお情けにおいての精神的破錠も目立つ しかしながら、それらの解決策に当る糸口を掲示しても、ただ10万やるから、自由にお品書き通りにやれという、非協力体勢であって、話が通じる人々が身近では見つけられない いるにはいるのかもしれないが、そういう人々は集中的に忙しさを究めた人々でさえある 安全パイに住まう人々に対しては、不可抗力としかいいようもない、ただ人道という面からであれば、凄まじい暮らしぶりの改善の一助となるような考えであっては欲しい、、、それもこれもどれも、何もかもがダメだというものであって何も理解も何もしないし、今の連続を楽しむというだけであれば、それはこれまでの所と何もどうしようもないので、全滅化するのみだと感じてしまう いくらムリを承知で頑張りぬいていても、何も動かせないわけだし、何かもっともっと人数を集めてから出直して来いというので、それもそうで、みんながチグハグで喜んでいるのにネガティヴ路線の爆弾を持ち込もうとしているようなものかもしれない 穢されたといった感情が、ときたまにして襲撃した場合に いったいどんな行動をとるのか若しくはとれるのだろうか? それらがなんぴとも怪しむことすらない乳幼児の時期であったなら・・・ばだ 穢されたというのは感情であって、受けた側の行動ではない といったのは確認可能とされる 穢される側に穢してもまったくのところ、何ら無感覚というかマヒしてしまっている そんな土壌ではいったいどのような行動を皆が一様にとるのか 一時的や偶発的に突起させられた不快感情に関し、それらの行動のデータベースがどんな経過を辿るのかといった過去からの経験則は存在してはいるのだが、活用されることなく埋没させらているのみが現状なのかもしれない 突飛な課題とされた過去の演習が何の役にも立たないというのであったなら・・・こういった面倒な事態を考えあぐねているといった状況が続く 予習や復習をやらされた所で、何ら本質の課題解決そのものには何も機能しない 寧ろもっとそれらに関する異常な反芻エクササイズをしなければならない こうして、マヒ状態が必然的に起こってしまったのではなかろうか、、、そのような氣がしないでもなさそうでさえある ほぼ死んでいるといった状況といえども、その状況は人によって落差もあるのかもしれない ただほぼシンデイルといった思考そのものは、正しく何かの麻酔様な笛の音なんかは、何らの効用など成さないのは確かである そこで、穢された感といったモノは、例えば肉体とか、霊媒体といったヤツでは開きも出てくるのかな ただその両等遣いで行なわれた場合には、極めて悪質な状況のナニモノでもない 何が歴史的蓄積のその最中で災いしてしまったのか そういった危機であるリスクというものは何らかの警告等で避けられなかったのだろうか 然もすれば、こういった公といった課題は公僕に働きを任されている有能者が気付き、考え出していくといったシロモノなのであった ただいつものように結果を急ぐといったわけではないにしろ、あまりにも不自然が罷り通ってしまい、そもそも傾けねばならないベクトルが見失われてしまったとさえいえそうである 再びにして結果のツベコベとされた報告書の類をやっているのではないにしろ、娘さんは全戦よりいのちの重みを地下足袋に感じさせて頂かせて帰路に その間に一緒だったトモダチの一人に印象に残った男の子がいたという 正しくそのおばさんに当る人が亡くなったことを悼み、また噎び泣きつつ、軽カーのハンドルを握っていた 空も泣き出す始末だったし、前方の水滴が吹きつけた勢いで見通しも覚束なかった しかしながら、まだ幼かったころの何もなかったような幸せを思うにつけ、人間っていうのは、子どもで過ごすことが、何より勝る贅沢に思えてきてもいるので、行を変えてみます
丹波の山奥の寂れた寺にあまりにも多くの破損仏が、京都と兵庫に跨るその存在が確認されているという その近辺にその昔、JR福知山線列車脱線事故があり、多くの犠牲者を出してしまった これらがもし仮にあの顔をなくし、供養もされずにただ放置された仏さま集団の祟りであったならと思わさせてしまうのはの土壌についてを考えさせられるにも至るのである 限りなく傷んだ仏像の夥しさと、それらが平気で放置されている現状とに何か、あまりにも無念な社会を導かせてしまうようにも思われてならない この観音堂の仏像群が、戦後専門家集団によって、調査・鑑定がなされ、1965(昭和40)年に京都府福知山市指定文化財となるまで、これ以前にそれがどういった謂れのモノかどうかさえ、この地元人にさえも、知られてもいなかったのだという(出典:太陽)何かこういったようなその県境だとかいうような限界集落を思わせるような中間山村地における置き忘れられた寂しさvs.古代と未来の混合した現世のような悼みを感じさせる それらが現時点ではどのようなコンディションになっておられるのかというヤツは確認できてはいないが、その場にこういった置き去りにさせられてしまったものを何らかの手段でせめて、手を合わせるとかいう子どもがあったり、そういった宗教めいた動作というのを批判されはしても、ただ礼の心得を感じて生きるよう、かかわれる地域での大人が成さなければならない、こども時代に何か経験させておいてあげたい、相手を敬うといった行動様式のように感じる所でもある 最期まで忍耐強くお読み下さいまして有難うございました 蓮華合掌
ゲンバの切実な声と言うものをお聴きさせて頂くという使命だとかといった、色んなカテゴリーとしてのリサーチをしていく まさに駆け足で、それがてっとり早いやり方だと思う 名乗りを挙げてしまった以上、そうこうしながら改めていくよりないんだ 決して間違いではない ただ住みよい社会を構築することに徹する その部分に尽きる 何らかの枠などは取っ払っていく 防犯対策を教えてください でもいいし、こちらサイドの質問であるQが、多岐に渡ってしまって、果たしてどれだけ答えてもらえるのかどうか そこから始めていかなければならないのではないか こういうのは●▼■家の仕事だとか云う決まりきったパターン化ではなくこう感じる 様々な虫達が活動体勢を整えつつも模索を始めるこの日に、必要な部分は残していく、不必要な機能していない部分の絞込みをし、それらの生業を実態として可視化しておこう そんな感じの準備段階であり、まだまだ滑走路に進行方向も向けられないような状況ではあるが、最もこれらに相当する料金の見直しに焦点を当てても逝かねば成らない “すべて自分”とは、、、自分が出来ないことをお願いさせていただくということ 頭を下げさせて頂き、合掌させて頂く 仕組みはこれから創っていくということであって、それらの流れは、“ゆらぎ”で変えていこう 単に“変える”というよりも、“還す”という意味での還し方かもしれない これがキーワードにも成り得るのだろうか きっと、これらは鏡・玉・刀である 顔を合わせたら誰にでも笑顔ですぐに自分から この実践しかない 質問などのQはどこにでも用意されている 近所付き合いと言うものにこそ、重大なる落とし穴が潜んでいる そこで、ファシリテーターが、しかもよく訓練されている橋渡しの役が必要である 第三の人物として機能させるように情報技術をすぐさま抽出する分野を描けることが、第一要件ですらある 善い事をする人々を育んでいくということ 意志のあるイメージ画を持っている人をどれだけ育てられるかということ “すべて自分”とは、、、常にこうした面の面取りにも似た寛容な精神において、しかしながら、いくら歴史は繰り返させられてきたからといっても、実際には背負う人々が皆病んでいるような現状では、先ずはこの健康問題をどうするのかといった観点こそが重要である しかもこれらの精神的貧困課題に処する方策そのものである うまくいったとする事例をやはり真似ていかなければどうしようもない それらは、単にどこぞの怪しげなワークショップという呪いの除け方的なものではなく、きっぱりと宗教を学習し、その中から自分に合ったふさわしい宗教学を学んでから、選択するといった選択肢であって、何も生まれ落ちたところが無宗教だから、児らはそれらをその父母から継承するというのでは決してない そして、ある学齢期までは、親の信仰に縋り付くのも、致し方ないにしても、物心ついた場面では、世界の宗教学に触れる機会が多くならなければならないと感じる これまでにも、何らかのカリスマ的な怪しげな信仰といった迷信帯びるおまけつきで、私たちは臨床例の一例とさせられての巻き込まれた感も否めないのである ゾンビを思わせるこうした祟りは、スパッと切れたりしてきた 忽然としてなくなるとかいった帰依ならぬ、消えるというその他大勢に埋もれるといった能力である 全くの所は誰彼にも何も知られないのである そういった目立たない影の存在の重視をしなければならない いかに普通の中に溶け込んでいられるか・・・ こういう不思議な隠れ旋法みたいな忍術は、本来どうしたことか、怪しまれる しかし、自由自在になる人にとっては、何の不思議でもない そういったこれらに氣がつくに至った 自己解決力に導き、これらを育むには、問いかけ方の工夫だという 何か問題が起こってしまったときに「○○さんだったらどうすればいいと思う?」「どんな方法が思い当たりますか?」どのように解決しようと思っているのかという意志を大切にすること 「なぜお金を借りて○○○をしないのですか?」といった問いかけを繰り返す そこの部分での双方のバランスをとっていくのである いつもだったら、こんな少額なんかは、ちょこっとその辺でバイトすれば返せる額面でさえあるので、特に大騒ぎするようなことでもないのである だが、そうした構造にまた埋め合わせをさせられる期間というのを思えば、あれらの振替伝票と引き換えになってしまった自然の音階を乱された航空機の金属悲鳴音や、バイクの激しい爆発エンジン音や、最も恐ろしいモノでは、いつまでもトップに居座り続けて、命令ばかりをしている軍部の人事が何も変化しないことであり、その揺るぎのない悲劇は一元的な誰かが始めに訳した解釈に副った形骸化著しい ある何らかの事象とか、異常気象下での人類のリスクマネジメントやその中でも、どのような対応を行動によって示すのか、こういった過去にも起こった事態という現象は全てにおいて、その異常の名の示す感情様式さながらに多面的な検証があらゆる異業種によって論議すべきモノだといえそうである しかも、こうした大惨事と化した恐るべき事案が、八ッ墓村さながらでもある 異常感情時における行動のとり方であるのかもしれない こうした考えは、宗教なくしては語れないのであり、小さい頃の自然体験と同等に大事な教えであると言っても過言ではなさそうである ただ宗教を大声を蹴散らして騒ぎまくるというわけではない こういった疲れ過ぎた社会においては、こうした宗教的な拠り所となる精神性を最も求道するのも人間である お盆という時期がやってくる もうご先祖様は、8月に入った途端にその家々を懐かしんで戻ってきているのだという 私が特に訴えたいのは、幼子が例えば、「お母ちゃん、さっきね、カミサマを見たの」ということを云ってきた場合に 何としてもこの幼児の言葉を全面的に受容れて欲しいと願いたい 殆どのママは、バカにしてしまう 開口一番に何か、この児はちょっとアタマがいかれてしまったじゃなにのかって云わないで貰いたいと思っている人類の一人です 実に少数の人々しか、こんなこととかって思われてしまうのですが、、、ただそうも云っていられなくなってしまってもいるここでは、やたらと何かを用意してやるといったお情けにおいての精神的破錠も目立つ しかしながら、それらの解決策に当る糸口を掲示しても、ただ10万やるから、自由にお品書き通りにやれという、非協力体勢であって、話が通じる人々が身近では見つけられない いるにはいるのかもしれないが、そういう人々は集中的に忙しさを究めた人々でさえある 安全パイに住まう人々に対しては、不可抗力としかいいようもない、ただ人道という面からであれば、凄まじい暮らしぶりの改善の一助となるような考えであっては欲しい、、、それもこれもどれも、何もかもがダメだというものであって何も理解も何もしないし、今の連続を楽しむというだけであれば、それはこれまでの所と何もどうしようもないので、全滅化するのみだと感じてしまう いくらムリを承知で頑張りぬいていても、何も動かせないわけだし、何かもっともっと人数を集めてから出直して来いというので、それもそうで、みんながチグハグで喜んでいるのにネガティヴ路線の爆弾を持ち込もうとしているようなものかもしれない 穢されたといった感情が、ときたまにして襲撃した場合に いったいどんな行動をとるのか若しくはとれるのだろうか? それらがなんぴとも怪しむことすらない乳幼児の時期であったなら・・・ばだ 穢されたというのは感情であって、受けた側の行動ではない といったのは確認可能とされる 穢される側に穢してもまったくのところ、何ら無感覚というかマヒしてしまっている そんな土壌ではいったいどのような行動を皆が一様にとるのか 一時的や偶発的に突起させられた不快感情に関し、それらの行動のデータベースがどんな経過を辿るのかといった過去からの経験則は存在してはいるのだが、活用されることなく埋没させらているのみが現状なのかもしれない 突飛な課題とされた過去の演習が何の役にも立たないというのであったなら・・・こういった面倒な事態を考えあぐねているといった状況が続く 予習や復習をやらされた所で、何ら本質の課題解決そのものには何も機能しない 寧ろもっとそれらに関する異常な反芻エクササイズをしなければならない こうして、マヒ状態が必然的に起こってしまったのではなかろうか、、、そのような氣がしないでもなさそうでさえある ほぼ死んでいるといった状況といえども、その状況は人によって落差もあるのかもしれない ただほぼシンデイルといった思考そのものは、正しく何かの麻酔様な笛の音なんかは、何らの効用など成さないのは確かである そこで、穢された感といったモノは、例えば肉体とか、霊媒体といったヤツでは開きも出てくるのかな ただその両等遣いで行なわれた場合には、極めて悪質な状況のナニモノでもない 何が歴史的蓄積のその最中で災いしてしまったのか そういった危機であるリスクというものは何らかの警告等で避けられなかったのだろうか 然もすれば、こういった公といった課題は公僕に働きを任されている有能者が気付き、考え出していくといったシロモノなのであった ただいつものように結果を急ぐといったわけではないにしろ、あまりにも不自然が罷り通ってしまい、そもそも傾けねばならないベクトルが見失われてしまったとさえいえそうである 再びにして結果のツベコベとされた報告書の類をやっているのではないにしろ、娘さんは全戦よりいのちの重みを地下足袋に感じさせて頂かせて帰路に その間に一緒だったトモダチの一人に印象に残った男の子がいたという 正しくそのおばさんに当る人が亡くなったことを悼み、また噎び泣きつつ、軽カーのハンドルを握っていた 空も泣き出す始末だったし、前方の水滴が吹きつけた勢いで見通しも覚束なかった しかしながら、まだ幼かったころの何もなかったような幸せを思うにつけ、人間っていうのは、子どもで過ごすことが、何より勝る贅沢に思えてきてもいるので、行を変えてみます
丹波の山奥の寂れた寺にあまりにも多くの破損仏が、京都と兵庫に跨るその存在が確認されているという その近辺にその昔、JR福知山線列車脱線事故があり、多くの犠牲者を出してしまった これらがもし仮にあの顔をなくし、供養もされずにただ放置された仏さま集団の祟りであったならと思わさせてしまうのはの土壌についてを考えさせられるにも至るのである 限りなく傷んだ仏像の夥しさと、それらが平気で放置されている現状とに何か、あまりにも無念な社会を導かせてしまうようにも思われてならない この観音堂の仏像群が、戦後専門家集団によって、調査・鑑定がなされ、1965(昭和40)年に京都府福知山市指定文化財となるまで、これ以前にそれがどういった謂れのモノかどうかさえ、この地元人にさえも、知られてもいなかったのだという(出典:太陽)何かこういったようなその県境だとかいうような限界集落を思わせるような中間山村地における置き忘れられた寂しさvs.古代と未来の混合した現世のような悼みを感じさせる それらが現時点ではどのようなコンディションになっておられるのかというヤツは確認できてはいないが、その場にこういった置き去りにさせられてしまったものを何らかの手段でせめて、手を合わせるとかいう子どもがあったり、そういった宗教めいた動作というのを批判されはしても、ただ礼の心得を感じて生きるよう、かかわれる地域での大人が成さなければならない、こども時代に何か経験させておいてあげたい、相手を敬うといった行動様式のように感じる所でもある 最期まで忍耐強くお読み下さいまして有難うございました 蓮華合掌
2009年08月04日
a true heart
暫らくぶりで、綿の生育具合を観ていたら、発芽率0.167%といったモノで、これは種苗屋のおっさんに苦情を申し立てなければならないほどの発芽促進どころではなかったことにショックを隠しきれないでもいます 最初の二葉が開花するまでは、朝夕と水やりは欠かしませんでした そして発芽から二葉になるのは、あっという間の数日は、大小さまざまのアブラムシ軍団に占拠されるといった忌わしい惨事と科されており、そのまま放置し、様子見後は順調に茎も上に向かって真っすぐに伸びているし、葉は小ぶりではあるが光合成を楽しんでいる こう晴れ渡ると、またかっと思われるような光景が視界を覆い尽くす それらは、除草目的に大量噴霧といった人為的行為であり、そこら中への撒き散らかしであり、少なくとも、除草のみならずそれらのドク浸透は、正常か異常かを問わず脳への鮮烈な刺激といった信号を送信してもいる 私は個人的にではあるが、これらを‘知らない’というヘッタクレがあちらこちらで最優先させられてしまう事態にこそリスクが存在していると感じてしまう人類の中に一人かもしれない ところで、スイカが美味しい季節になりました しかしこの野菜原産地が一体どこかというものは、味及びミネラルなどの栄養素に影響を与えます しかも、どーもこれらの素性から、面構えも然ることながら、尚且つその重要な濃厚な味だとかに至っては、天国と地獄のくらい違います 何かブランド化といった所在地を通年とされていた商業化させられて画一化に分類された育ちといった野菜が、野菜面(づら)はしてはいるものの いくら食べても生体反応に必須なミネラルなんかは何もないような薄っぺらなモノの価値しかない 特に人類の口に入る食物に関しては、こういった事実は重大である こういうものは、あまりにも微少であるばかりに見過ごされていたり、特にどうということもないといった扱いになってしまうことさえある 上空をグオングォン、キぃーンと数分ばかりの音声公害をまき散らしていくといった飛行機ではあるが、常時こうした音に耳を劈かれてしまって鼓膜が、更に聴こえという機能を向上させるかのように研ぎ澄ます 搭乗機で出発前、自分のTSAロックが壊されたかのように航空機の会社のデモテープのような白いビニールテープでグルグル巻きにされたスーツケースが観えた 胸騒ぎとともにそんなことにはお構いなしに便は、滑走路に向かって助走をはじめていた 何食わぬ顔で、なんだけどそーじゃない 夕方うちの二階の外壁伝いに30羽ほどのチャ毒ガorウスバカゲロウのハーフと言ったやつらがそれぞれに旋回をしつつ、多忙を極めるようなダンスに励んでいた 前にはありったけ大量のイナゴ軍団が西山の方に飛んでいくのを目撃したが、あれらは何かの間違いではないかと思ったこともあった こんなに人間だけの出来高優先に傾くというか、特定のヨクバリバリ殺人鬼さんが、害虫もそれらと一緒に夥しくも儚い益虫とともに殺す 殺し続けてしまうという現実には、目を覆いたくなるものでさえある 今年は日照不足の感がしないでもなく、いくらか除草剤や殺虫剤を多めにしたところで気象変化までをも制御は出来ないといった、人間の僅かばかりな過信が見え隠れもする この頃は、ガマの穂が発生してきたのを嬉しくも感じ、来年の夏様にヨシズをこの冬に編んだりしていた古代人の思いを少しは理解したくもなった 古代人つまり、神代の言い伝えの様なものだとかの解釈がまったくのところ変化してきてしまった これらは、本当に有り難いといった現象でさえある バルサミコをコーヒーに入れて飲んでみた いつもはウォッカを入れてみたりするんだけど、酸っぱくて夏にはいいかもしれない 昨日私は、喜怒哀楽の感情がその前後若しくは左右、上下といった行動に必ずしも結びつけなくても善いのではないだろうかと記述した しかしながら、宗教界隈では、お叱りを受けるのかもしれない罪の部分があった しかし一過性との関連性なんかを自然摂理に当て嵌めて観れば、どうも行動とのゴッチャが疑われてしまう 感情即行動では、ケダモノなみであるのはそのスピードが物語るともいえる 蝉が勢いよく鳴き始めたと思ったら、もうその辺の樹木の幹あたりで、息絶えていた あまりにも短すぎた命を思えば、精一杯さっきまで鳴いていたのは、キミではなかったか、、、こんな溢れるような自然に居ながらも、耕運機やバイクのガチャcガチャした喧噪の中である もっと山奥の秘密基地へと遁れるだけ遁れようと必死に足掻き尽くしていた やっとこうして辿り着いてしまった ここはその昔故郷の湿地で、この底なし沼には珍虫さんや食虫植物や水鳥や…宝庫だったんだ それは昔のままに戻したいだけの“ゆめものがたり”にはしたくない 蓮華合掌
2009年08月03日
昔話のお相手
何かとてもではないが公には出来ない辱められる事態なんてのは秘密裏の内にそれら何らかの重大事項が解決させられてきた経緯が否めない それらが確かに昔からそんなふうなことは起きていた 少なくともちょっと小耳に挿んだとかいうのですらもでわあるが、こうした内容は、よく大学等での一コマでの設定で取り上げられたりして話題性を持たされたりしてもいた その後、また同じような問題が、別の場所で起きるのだが、また一からやり直しで、人間が単に入れ替わったか、それらの営みである筈の‘不都合や不安’といった精神的貧困が、その場では解決済みだとされてしまう 解決済みの結果を出されてしまう ということは、もう半永久的にはこの手の課題は、起きないというのを想定している筈でもありそうなのに、、でも…また違う場所で、同じようなことがあって大騒ぎに拍車がかかるようなものであって、結局はそんなので、可もなく不可もなく或いは、善悪の裁きもなく、感情論や組織論といった、一瞬の出来事とされる即行詩人的な裏技に時間を割いている これらの時間が占める割合を無駄と無理と無茶クチャとすると、人類は果てしなく、これらに時間を割いているかのようでもある 喜怒哀楽主義がそのナニモノでもなさそうではあるが、いつの時代にも、“笑うこと”は身体に良いとされた信仰をもたされてきた 笑うこと、泣くことで清々するような行動への準備の感情のようでもある 随って、それら笑うといった感情には、害がないし、寧ろ奨励するばかりである昨今だ 私はこれらに疑問を抱く者の中の一人になるかもしれない 激怒したり、楽をしたりという感情は有害性の迷信を強いられてもいる よく言われていることは、怒るとなんちゃらかんちゃらリンが体内から発せられて、身体を蝕むし、ラクしたいばっかりにや、楽しいことばかりしていたら身上を潰すといったモノまでもある 私も痛みという行動がどんなときに認知されて、すべての痛みをとろうということで、様々な痛みの苦悶を抱えておられる方々にお会いさせて頂ける機会があった 外傷や歯痛とか、、、とされた傍目から確認できるような観えている部分での痛みが、自身がそれらの肉が痛むといった感じはない、にも関わらず内面的な痛みとされている腰痛、頭痛、腹痛といった苦痛は分かったりする しかしながら、こうした苦痛というのは、個人差も然ることながら複雑化してもいる 決定打の原因因子というものがない あるとすれば、それら全体が責任であるにも関わらずに 全体の責任は何もないとされているのが、現実でさえある ここで叫んでみたのは、きっと様々なところでも叫ばれてしまっているんだとしか言いようもなくなってしまった 先月の月末に ダンナの給料が乏しくも出たということで、前抱っこ紐で吊り下げられた赤ちゃんのいる若くキレイナお母さんが、大きなカートにありったけの買い物をしていた 特に注意をして観ていたのではなかったが、このお母さんがキレイだったので、ちょっと見とれてしまったのですが、、、何か一週間分くらいの買い物をしていたのである そこにダンナさんの姿はなかったし、平日の真っ昼間ということもあって、もう食料のやまと化していたそのカートの中には、きちんとレジ袋は要りません表示をし、三つものトートバックをカートの上下に入れて、レジの方がそこへ会計済み食料を丁寧に入れていくといった様子だった 生後5~6ヶ月ばかりの赤ちゃんがムズがって、「ごめんごめん」とお母さんが赤ん坊の背中をさすりつつ、財布からお金を出していた こんな光景はいつも観る 観ている度に何かムダ・ムリ・ムチャな生活だなぁと感じていた 宅配便とかそういった繋がりの手が届かない人がいる 個配とかは高価で、一定の人々しか手にできないものとなっている情報網があるだけだ こんなことも感じ、やっぱり今日もスーパーの特売に出かけていく、ただこういうのが楽しみとする人々が大勢いるんだから、大型スーパーへと向かう 考えてみれば、この前の夕方、腰の曲がりが120度くらいになっている高齢者が一人で、お買い物カゴを腕に下げて、惣菜コーナーで品定めをしていた 継母が、私が家族と一緒のご飯をとらないといった悩みで悩んで悩んで、発作的に深夜、叫び声とともに嗚咽が始まった こうしたことはずっと以前から続いていて、そのたびに私は氣付いていたもののどうすることもできなかった がしかし、私がやさしい言葉をかけることでや、孫たちがやさしく接するということで、これらの継母の不眠対策には一定の効果がありそうだと感じ、今までの無視といった私の行動を懺悔させて頂くとともに翌日からは、行動は変えないが、感情はやさしくするということに徹し、孫らはもっとこれらの殺人鬼にやさしい言葉かけや、温かい態度といったものを 昨日まで以上にしましょうということで、行動も変えてみようといった努力をしようと試みてもいたりする 昨日は昨日で、友人とカフェ、…のつもりだったが、ハチャメチャな領主のもとで半ばレイバーになっている彼らは、ほとんど寝てもいないのにまた、そういった領主の気分次第なレイバーに就かされ続けた 私はいつも彼らに会う時には、コーヒーを飲む 彼らのその宗教性というか、“血の道”を感じることがある そのコーヒーは、どこの種類よりも私には飲みやすいし、なくてはならない水や空気のような存在なのかもしれない そしてまた、彼らも私と全くのところ同じ内容のことを言うのでもある 私には、祖国がない、しかしながら祖国なんかは、舞い落ちた種子みたいにではあるが、外来種という分類にさえも入らないのかも知れないのではあるが、それはそういうことでいいんだと思えるようになった 子どもの頃は、何も不思議ではなかった行事だとか、その他大勢の●▼■人と言い張っている友人には、私の訴えが空気のように透明だった 大なり小なり、ただ単に頼まれることは甚大に多かったし、頼まれはしたが私の注文は決して聴いてはくれなかった 心が通じないのかなって諦めてもいる とっくの昔からそうだった だけど、こういう内容はタブー視させられている ‘心が通い合わない’という昔話に付き合ってきただけだった そして今日は清々しい夏らしい夏、風もサラサラ吹いてくると、風鈴が幻想的な音色で耳を包む 蓮華合掌
タグ :コーヒー
2009年08月01日
いのちびろい
人生僅か30年だとか50年といった人類滅亡の危機や、自然の連続性がたびたびにして途絶えたらどうなるか?といった遇ってはならにような事態というか、空間というかに偶々にして在ったとした 古代の人類は、現代のような不自然さで汚染された人類の魂を切なく思うだろうか それとも、自然には逆らえないわけなので、実に哲学的な見解になるかもしれないが、精神世界での繋がりが急速に広まっていくのだろうか 自然とわかってくるだとか、成っていくといった現象というやつは、信頼性に長けているし、またそういうものは永く続くと考えられている ここで“律義な商人”というやつが出てくるのだが、おととい私は、個人的に在日外国人と、この辺では呼ばれている方々の集まるレストランへと出かけて行った そこで、様々な方々と懇談させて頂き、帰ろうとした際、二階から降りようとした 階段を上の3段目くらいから踏み外したというか、夏様ミュールのヒール幅の狭いサンダルだったことも加担し、履いていたレース様の網の目のような引っかかりにミュールのヒールが絡み付いてしまった ギョッとした 一世を風靡した蒲田行進曲の階段オチじゃぁあるまいしね、そこから転げ落っこちたのだ 途中で体勢を立ち直せるようにも出来そうだったが、書籍だらけの厚い辞書までもが入ったトートバックなんかを持っていたために及ばず終い、その重みもあっての‘見てくれの大惨事’となってしまった 居合わせたのは、店の奥さんと他二人、みんなの目の前でのサプライズだった 恐らくもう二度とこんなことは出来ないかもしれない… すぐに椅子に座って、私は兎に角、どーいうことになっても痛みを感じられないといった調子なので、痛いところはない、ただ、両腕、両足に擦り傷と、右手首を突いたのか、血が流れ落ちてくるように真赤だ しかしながら衝撃のサプライズは、居合わせた人々の丸で何か咄嗟に忍法が飛び出したかの如くに訓練された身のこなしだったという ただ本人は、そういったものは一切のところ、何ら思わないし、自然だった ただ呆気にとられていただけだ そして、その後(これが一っ番重要なんだけど)、店の奥さんの温かい介護が嬉しかった 身体を看て、傷が観られるところをすべて、清潔なタオルに氷を包み、ご自身の手が冷たさで真っ赤になっていたにも関わらずに介抱してくださった、さっき御目にかかった半ば通りすがり的な私人に対して、誠に在り難いことです 人の慈悲心に接したという場面でした 今朝は、“水の日”これらの記述は後にするとして、両腕なんかは階段落ちなどの行動は、何事もなかったかのような調子、スネ皮膚の特に左足と臀部に擦り傷が確認されているだけでしたが、相変わらず痛さといった感覚がマヒ そういう自然界の中にいるだけです 魅せられたっといったのは、ジュディーオングさんの歌ではないにしろ、車中泊を迫られている方々の生きざまには、胸を締め付けられるものがあります それでも、こういった生き方もあったのかというのには、もう感情を奪われてしまうようなサプライズがあります ただここで詳しいことは述べないにしても、自然ではない人類だからこそ、“自然から学ぶ”といったことが子ども自身の自己像を形成していう上でなくてはならない経験の一つだと思います ただ自然から学ぶということについても、今は夏休みで、ムシ籠と虫とり網を持ってそこら辺をうろついている子どもらをチラホラと見かけますが、物珍しさの延長での昆虫採集です ベランダにウジが這いまわっている なぜこんな尺熱の場に丸々と太ったウジが這いまわっているのだろうか?疑問は深まるばかり、金めのモノならぬ、肉めのモノが在るのだろうか…ベランダのウジやキッチンのウジは、ご主人さまでおわす奥方の‘肉’のムンムンとする毒々しさを醸し出すニオイに誘き寄せられているに違いない 奥方の出没する場には、大体ウジが出没しているからだ そこにはカマドウマの姿は確認されない ゲジゲジもいた ゴキブリは寝ている間、足もとに潜り込んで、‘肉’の甘い誘惑を避けられないようだった 友人が先日、大きな鯉を携帯電話の画面に映したヤツを見せてくれた :「どーしたの?」 友人:「釣りして、こう網かけてとりました」 :「こんなビックなのだったら、私だったら市場とかどっかで競売にかけるよ!」友人:「煮て食べました」:「そっかぁ、肉厚で美味しかった?」友人:「三日間食べ続けたよ」:「表彰もんだね、キミは、、、」そんな暮らしぶりにも拘わらず、ニコニコしていた彼は、「この前、●▼■人に‘オマエは、世の中が厳しいことを知っとるのか’と怒鳴られました しかし、今、衣食住の心配の何もない●▼■人からそう言われても…」:「対等じゃないし、フェアじゃないし、全部なくなっても何も知らないと思うよ、そういった●▼■人なんかね」こんな展開だった さて、本題の“いのちびろい”ですが、これは深海の懐に似た何かがあり、そのパワーだとかエネルギーが培われた瞬間に私たちは、いのちをあらゆる場面で失いも拾われもする 運命というよりは、自然の成り行きかもしれない 私は今、こうした経験に裏打ちされたヒューマンフォーミュラとしたパワーを少なからず感じずにはいられない 二重の虹が歓迎してくれてもいた 蓮華合掌
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