2009年11月20日

山茶

 非常に間を取らさせて頂きましたが、至って私と致しましては、朝から雨音が激しかった数日前の深夜、それほどの雨脚ではなかったものの分厚い雲行きで、雲のその流れは不明 考え事をしていることは多い 先ずは、くるまのことなど 自動車はどうしたらいいのだろうかということである 勿論、このダ●ハ●の軽をなんとかしなければならんのだが、それもそうだが、この二月にあったジュエリー展でのネックレスの保証問題だ もっと早くいえとかって、怒鳴られる筋合いではもない他人にムカつきながら対応をされたのは、兎に角もう、このSS部署では、‘何らかんけいねーこと’であり、××課○○主任に直接に苦情を訴えろとのやりとりの続きだった そのやり取りだって、こっちらからわざわざと出向いたにも関わらずに顔を歌舞伎役者顔負けなほど、眉や口をへの字に折り曲げ、不穏で淫蕩なムカついた顔で、しかも、大変失礼な態度の極めつけとして、禁煙パイポと手持ちのタバコを交互に飲みながら、このお客様を見下すといった、あるまじき行為 対応中にも関わらず、どこぞへ電話をかけ、その無意味な長電話につきあわさせられるといった時間の切り売り状態とされた地獄をみた やはり、自分がまともに対応などは、でき兼ねない相手である 自分のとっている慢心とした態度は、まったくのところ何も非はないという むしろ、「てめぇが、もっと早くこねぇ」といった‘てめぇ’調呼ばわりで、まだまだ保証期間とすれば、一年未満であって、特に遅延損害の様相ではないにも関わらずにそういった調子のやり取りは続いた 身も凍りつくような感情に見舞われてはいたが、常時笑顔を絶やさずにいるしかなかった こちらサイドなどは、特に憤怒する行動はない むしろ、こういった場合には、少額訴訟の対象だとすら考えに至ったにも事実である 消費者への対応とすれば、限りなくマイナスを貫いてしまった姿勢の強さの実権を握った権力との正当性なバトルは、これからだ だが、もうこんなんで、結果なんか出されてしまっているとしか感じられない 物事を二面性として捉えるのは、経理の鉄則でありそのテーゼは、即ち光と影ではあるが、売り上げをあげる最低線の戦略としては、そのフローの流れを収益と費用とに分けて掴まねばならない 最新鋭の武器ならぬ最新兵器を導入するには、そのストックをモノとカネに分けて考慮するのも、2パターン思考に慣れるテーゼでもある 具体的には、表面上の感情は、ニコニコしていたとしても、裏の感情では、腸が煮えくりかえっている感情であって、その他は何でもなくなるようなものなのである ただこうした異常感情が勃発してしまった際にいったいどういった行動をするのかの方が大事なことは、賢い皆さんなら、誰でもがお分かりになることであって、特に誰にどーのこーのを指示や命令されなくても、モノの見方を深められるのではなかろうか それにも増して、あなた自身の将来像を自由に思い描く“傾向感覚”が要求されてもきます こうして、経理屋稼業を営んでいるというのは、そうしない人間よりも、将来を推測する経営計画・予算といった前向きなビジネスに対する倫理的なつかみ方が自然に湧き出してくるといってもいいでしょう 「臨時職員が、セクハラに遭ったなどと恐怖に慄いたなどと話しをしていたが、損益はどうなっているのだろうか」「だいぶ大きな設備投資を作っているが、あのカネはいったい何でまかなったのだろうか」「得意先の水は干上がって、しかも汚染される一方だが、これ以上、汚染された水(-д-`*)ウゥ-を薄めるために飲める水(-д-`*)ウゥ-を使いたい放題に垂れ流し(-д-`*)ウゥ-に拍車をかけてもいいものだろうか」など、経理の体系的で倫理的な見方を活かすと、ちょっとした兆候から、“どうもオカシイゾ!”という“バランス感覚が働く”ことになる こうして考察していくと、コントローラーを設置していくことが、益々要求され、必然的にビジネスも活気に満ちてくるという未来像が見えてくるのは、私だけだろうか 
 別建てではあるが、ホロコーストの痲に痲に限りなく自己主張を続けている誰 (yTДT)yだあぁとは言わないまでも、まぁ何とか自己主張が、曲がりなりにも出来てしまっている人々のそれらのアンチ的なニュアンスとなるであろう、まったくの所、手が及ばない現実に対処していくことは、平和的解決手段といえそうである 今でも太古から始祖聖徳太子の“和をもって尊しとす”でもあるのだが、謂わば以心伝心とかの世界観念でもあって、無我無心とかの境地に導かれてしまっていくような観念か 徐に考えてみれば、某クレジット会社への支払いに関すれば、どうも認識されているだけでも、昔の縁故とされた事故があったのも確かだ あぁあの時にも、子どもたちが急に具合が悪くなったり、学校に行くことは行ったが、もう一時限とかで、早退させなければなならないような病弱さでもあって、仕事どころの騒ぎではなかった かといって、くつろいで何かテレビを見ていたりだとか、そんな過ごし方はなかった 返済の鳴りやまないような電話の呼び出し音にビクビクしながら、キチッと三食の準備や、掃除や、洗濯や、乾いた端から洗濯物を畳む 洗濯物を畳むという行動が、乾燥機を使うと、畳む手間がかなり省けるというのも発見したりした 昔の繊維というのは、ぶ厚かった トレーナーなんていうのは、今は死語化されてしまったかもしれない やたらと袖の部分が厚ぼったくて、襟首周りだとか、袖口の円周が乾かない 乾き難くなってしまう 何度も聴いている歌詞なのに 未だに憶えられないし、記憶の片隅にも残り難く、さっき、アフリカに関しての捉え方というモノを再確認したのだけれど、やっぱどこもかしこも一緒なんだなって思っちゃう 未知の訪問者がやってきたときの態度がそこにはある ギフトとしてもらったモノは、何でも全部使い切ってしまうという(食料とか)のや、やはり銅鐸という楽器は、その音階を奏でることで、邪馬台国の古典的史実が秘められているのではない韓国の遍鐘なのではないのかというものだ あのような高度な模様とされたデコボコが、文字として残されていないといった観点からも伺えはしないだろうか 村上春樹氏の1Q84のその時代背景には、銅鐸が大量に出土したとされている あれらの銅鐸を奏上すれば、太古から変わりなく存在する欠陥を補完するような仕組み作りが解説されているのではないのだろうかと気にもなった あまりにも不自然な音階が聴こえ過ぎる現代、本来の自然な調律を取り戻していくとすれば、人間が人間として大事にされる所に整うのではないモノだろうか そんな気もしてなりません 混じりけのないイルカやクジラが発する声(α波)には、他のどんな療法にも得られない心身への共鳴感覚が得られるという 野鳥の鳴き声にしても然り、秋の夜長の虫らの羽根を擦り合わせる音だとか こうした場では、騙しがない それから、こういった自然界の音階漬けでいると、冷遇されたスペースよりも頭脳明晰になってくるというのは、多少おこがましいのだが、自然界の秩序を乱したくないというメッセージが簸たすらにして、聴こえてきてしまう なぜここに居るというだけで、苦しくなってしまうのだろうか、、、答えはもっと以前から遇ったが、認識もされてこなかったが、公になればなるほど、自分自身が果てしなくキズモノになっていく それは、他の多くの人々にとっては、涙線を潤おす唯一のお相手なのかもしれない 何も思えなくなってしまった 何もかもが、支離滅裂となってしまうだけで、どうもこうもなく、時々誰誰さんの顔が浮かんできては消えてしまうシャボン玉を飛ばしているみたいだ 衝撃的な場面に曝されすぎてしまう ほとんどの人は、滅多にそのような地獄の沙汰界隈には入れないのでさえある 本当に奇妙でもある      


Posted by このは なさくや at 14:18Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年09月08日

シードラゴン

 日本と云う、あまりにも畏れ多い国にトランジットしたばかりに母は、産気づくに到らしめた横須賀の港にて、、、なんこーか、長身にして容姿端麗な控えめジェントルマンな父にはずっと以前からも取り巻くほどの手間隙を掛けたがって、しがみついて来てしまうストーカーちっくな女が棄てるほどいるもいた というと殺戮的な表現になってしまうのだが、これらはしょーがなかった 神業的に妊娠を潜り抜けたそのとある女は弱かったかでもあった この世に生まれて人間稼業で、もう40歳も過ぎて、児の一人も持てないとか、恵まれなかったとかいう悲劇は、女性いや男性としてある意味、どこか何らかの欠陥があるのではないのだろうかとか、そーいった世間の評価はエグ過ぎてみっともなくもあり 失敗と欠陥とではえらい違いかもしれなく、50才に達し手の届く域にしてみれば、それはそれは何か後悔めいた尋問に侵されるのではないものか 出産とかも人道支援さながらとして、その一部を支えてしまっていた しかも、多くに支えてもらわなければならない子ども達や、早期年金受取人とする若い衆を蓄積させてしまうにも至った現状で、これは国策だったのだろうか、国策という名の下でこうした態度である それにしても、スキンシップを楽しむ大人サイドの癒しの始末をさせられているスキンシップナー的児童労働でさえあった それは、律義な商人が行うビジネスでは、もはやないのであって、労働は労働においても、働くということは働くに違いないのかもしれないのだが、もはや見もしない誰だかわからない人のカネ儲けを手伝わさせられて、一生を虫のように短く終えてしまうだけである 具体的には、肖像権の侵害だとか、自分がまったく知らないところで、自分を売買の取引にさせられているような地獄の沙汰でもある そこには、何ら本人は介在してはいなかったし、本人は、やたらめったと苦行を強いられているだけである 痛ましさは募るのだが、その商法なるものは、一人のみが、犠牲者となってその他多くは、そのまま何も関与もなくどーってことなく生き延びている仕組みが続いてしまっている 敢てこれは、進行形にしておくのである ところで、こーした流れの中で、またまた経理が出てくることになる いままさに広告宣伝費を現金取引で入金する 今回は12,600ポッキリと、安さが売りの地元紙である この場合は、なるべくなら手数料が一銭もかからない振込を利用する 平日の営業時間内ならば、手数料もかからないので、そのお取引は済むわけだが、中には24時間365日、特別に手数料がかからないコンビニ決済も利用するわけである 当ラボは、借金人生を歩んでいるわけではあるが、これらの借金というものは、考えてみればチャラになるに決まっているような額面でもあるので、ここは時間の捉え方かもしれない とにかく、正直にビジネスをやろうってわけであり、どっかをごまかしてどーこーやろうぜというのは、アキマヘン それから、借方と貸方に起票していくわけではあるが、ここで、よく電信柱に貼ってある広告っていうのは、あいつらが自分の会社用に使ってしまえる固定資産ってなってるそうだ つまり、減価償却によって費用化しているのだ ここで、当ラボでこういった費用はない 即ち、電信柱へのウスキタナイ広告宣伝はしない のである しかも、あぁいった広告なんかは、一騎に10万も使い捨てていいなんてことになってしまっていて、悪質でもある どーも当ラボの考え方とすれば、交際費であって、約5割増しに付く費用としての扱いかな 今もそーかどーかは、税務署に聴くとして、特定顧客に絞り込んだ承りますといった超特定で冒険呼ばわりされてしまう交際費なのでもある ただこちらのサイドから云えば、こうするには、長かったロスタイムと併せて、それらに掛かってしまった情報量とかを思えば、決して割りに遇うものでもなさそうにも思える しかしながら、こういったものでは、何も期待はしない かといって、この借方と貸方に起票させたものをドブに棄てるという気もない それらは後のお楽しみとして、これらソーシャルエンタープライズそのものでもあるので、目指す方向性は決まっている、透明にしていくというか、どこと取引するかだとか、そういうのは、致命傷的な開きがあるようにも思える 今回は、どういう意味で選んだのかといえば、やはり嘘を許さないという姿勢が伝わるのが一義的な理由となったかもしれない ただ12,600ポッキリといえば、定額給付金を思い出すとした過去の産物になったようにも思われる 盗まれるということの重大さを鑑みれば、こうしたキタナサの枠の中へ、サインを求められる手の震えが止まらなくなってしまったクセの強い人々のような感じだ 大船に乗った航海を楽しむようなビジネスをするという意味においては、この船には、いったい乗組員は何人いて、その監禁させられたようにこの船内をウロツキマワルだけの人々か、それともここには、殺人鬼もいれば投機オタクとかもいながらにして、ハクチらも一緒に乗り込んでいることだろうな ここには立て板看板も電信柱はないのだから・・・ 昨日もお地蔵さんの口元に水を注いできたのですが、そうとうな乾きようでした お地蔵さんの様子が、どうも人間には観えない 未確認生命体か何かの生命体めいた顔つきをして、その瞳を閉じていた 瞳を見開いてしまっているような道祖神もあられるが、あれはもう、視界はゼロなのである 恐らくエクステの植え過ぎか、目の周りに過剰な毒物を盛られてしまったような今のような感じだとさえ思えてしまう 怖ろしき悪魔と出遭ってしまったものだ サイレントキラーである しかしながら、みな汚染させられている人々とまったく同じ空気を吸い、同じように活動をしているにも係わらずになぜ、こうした重症の度合いがピンキリ化されてきたのだろうか このあたりにも不思議な空気が淀んでもいる 児もないのに死亡受取人を国家とでもするのだろうか などと思わなくもないが、インドだったら同じカースト出身者を両親が決定するのだから、もうどうしようもない ただこうした方がいいのだろうとは思う 続くという意味においては、、、ですけど 人工的な産物には、耐性がない人間は、そのチホーにおいて、どういうわけか解らなくなっているが、ただ一つ云えるのは、その母がどんな水の状態に浸かっていたかどうかなのだ そして勿論ではあるが、それらの浸かり具合と同時に何か信仰がるかどうか、ただそれのみでもある 信仰っていったって、流れ星にお祈りしているだけの人もいれば、オイシャサマ様殿などという信仰まで、あらゆる角度にもある それらは皆、信じるもの この一航海では、そういった判断がモノを云うのでもある チャンスがキミのところに戸を叩きにやってくるのではなく、チャンスは常にいつもここにあって、戸を叩くのはキミの判断にかかっているといっても過言ではなさそーだ 万葉集に“玉久世の清き河原に禊ぎして斎ふいのちは妹がためこそ”とある 生命と清らかさが一体となっているまさにお清めなのである 有り難いことでもあるし、極々一般人に受け入れてもらえそうになれば、尚有り難いわけでもあった 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:40Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月22日

マイルストーン

都市生活ぐらい、不便なものなんかはないに等しい にも係わらず、そこに住まうことでの自立ならぬ独立を強いられてきたのも否めない 危惧しているという事のおびただしい中の一つとすれば、今後の大量孤独死というものだろう 誰からもまともに向き合うこともされずに亡くなって逝くという孤独 それこそが、マザーの残した“いのちのことば”通りである 都市生活の方がそれらは顕著であるといっても過言ではない しかしながら、それがあるというので、安否確認をボランティアだけで支えるというのでは立ち行かなくなってきてしまう そこで誰とでもうまくやっていく発想とすれば、毎日誰かどうかが、日替わりで訪問したりできる何らかの手段が必要とされるのでもある ただ心を頑なに閉ざされてしまっているとはいえ、こうした精神的貧困のアドボカシーとすれば、これらも単なる多面的なものの一つではあるが、ほぼシンデイルといった状況であるから、ある程度は永く生き延びられている というのも事実だ ほんの僅かな食料と水と空気に満たされていて、あとは何らの欲得もなく、髪も伸ばしほうけだったり、だらしなく時もまた経過する しかしながら、場の安心が戻ったというきっかけを提供することで、一斉に封を斬った如くにかっ飛び出していくのも人間なのではないかなとも感じているところです 中間山村地における定住願望を実現させるためには、医療の問題並びに安く手に入れられる土地家屋の問題、収入の問題といったことを考えれば、理に適ったことをやっているのであって、ここに共鳴できないというのは、こちらサイドというよりも、都市生活者自身が、精神的貧困の呪いから、自分の夢を現実的に描けないのと同じなのではないのだろうか・・・ そんな気もしなくもなく、昨日はなんと理事会に参加から始まりのPTAのお母ちゃんたちがおりましたので、ひとつ叫んでみたのは、二学期も始まりまして、通学路の区内にあるコンビニにおけるトイレを借りる場合に遭遇する‘いかがわしい雑誌’が並んでいる所をすり抜けなければならなく、非常に不安を抱えている児童がいるということ そして、これらの‘いかがわしい雑誌’に掲載されているのが、どう見ても未成年のような子どもが出ていたりするのを立ち読みしている男性が立っている後ろを恐怖に戦きながら通り抜けるということが繰り返されてしまっている せめて、通学路内にあるコンビニ連盟は、ゲリラ的な営業手法を改め、そういった雑誌類は、トイレ近辺から遠ざけてもらいたく切に願ってもいる また未成年が激写されているような制服姿で引き付けようとするのも、学齢期の子どもを養育する親にとっては、勿論一般的にもではあるが、立派な性犯罪であり、こういったモノが堂々と処罰も成されずに売られている地域社会の倦みを今後とも鑑みていきたいといった意見も出された 数年前ではあるが、こうした問題は、問題にもならずに、しかもお笑いの対象と看做されてもきた そして、その当時、●▼■中学校の数学の教師Hが、著名な○○駅付近で、女子高校生を車で待ち伏せし、車内に連れ込んで、性的暴行があったという この教師Hに至っては、‘いけません’という意味がわからない先生であって、同一人物によるこれらの行動によって、複数の女生徒がその欲望の餌食となっている このように単に‘いけません’といって、しかられてきても、その‘いけません’という事実は、何がどう‘いけません’なのかを知らない 学習障害者に見られる、宗教的な観点からすれば、法施を学んでいないし、他人の痛みを自分の傷みとして学んでいない人間が、教育者として教壇に上がってしまっているといった恐怖にも似た戦慄である 教員は人格者ではなくても務まるというのであれば、ただメカニズムを組ませるだけのアンドロイド化された家畜のように飼育されている頭脳の持ち主だけが、教鞭を執っていただけなのだろうか 哀れで居た堪れない被害者の多くは、泣き寝入りを強いられ、自責の念と、嘘つき呼ばわりされる拷問に苦悶しながら、今をどこでどうなさっておられるのかと思うにつけ、あれらの脅威を何のケアもされず、ただそーですかそーですかそーですかと、スクールカウンセリングの人に聴いてもらっているだけで、振替伝票も何も起こせないでいるのだ こういったことがまかり間違って、押し通されてしまうこのチホーといったところに 誰が定住を望めるのだろうか その事件によって奪われた尊厳だとか品位だとかを悉く掻き毟られ、毛の一本も残ってないというのを誰も観ないのである こういった現実がやってくるなんてことは、悪魔が来たりてフエをふいていたのかもしれない 社会の制度が窮屈になればなるほどに子ども達の不安は増大していくばかりです 子ども達の不安は、覚せい剤の乱獲に現れているような昨今となり、経済の流れに従えば、そういった覚せい剤がPL法の何かをも潜り抜けて、不法に金銭価値との交換がなされしまう これらはゲリラ軍隊に加担する人を人でによって誘き寄せているようなもの 列記とした犯罪にも係わらずに犯罪被害者ではないという結果を下されてしまって、そのショック&トラウマが頭痛・腹痛・腰痛のタネになってしまってもいたりする しかも、それらを煽動しているトップが一番に学んでもいないし、誰もブタレテはいない 「忙しい忙しい忙しい」の暮らしの中で、「こどもにご飯もつくってあげられなくて、この会議に参加させられている」というのや、「金曜日の真昼間の会議に仕事を休んでわざわざ出席して、この会議のコンセプトは何なのですか」「都会からいらした方々に“安曇野”ってどこですか?」などと聞かれてしまうなどと云った事が茶飯事になりました そんなこんななのではあるけれども、社会的地位というものがチラついている陰でのくさばのかげ状態ですらある あまりにも、その価値判断に関するピンからキリまでの部位が、統一化とさせられ続けている 人間は自然の一部であるわけなのに 自然の前に社会の一部、社会の一員などと言ってしまっている こうした発言にしても、一切皆苦となってしまってきた 特にまだ何も染まっていない子どもたちの純真さを歪めているだけの教育者が、ただの一人でもいるのなら、それらはあってもなくても、最初っからどうだってよかったのである 単なる時間の暇つぶしだったのだ 河原に水浴びに行くと、川の中の石がツルツルっと滑って危ない 藻が付着していて、これらは‘ミズワタ’などと呼ばれている水生のカビの一種である このような‘ミズワタ’はビッシリと石を取り囲い、ドブさらいのBrで、鼻を憑くようでもある これらの生活者らは、菌類やバクテリアの増加にも繋がっているが、アオコもその近辺のため池風な箇所にもあった アオコが発生した池の水を飲んだ家畜が行き絶え絶えに死んだとするアメリカで起こった事件は、水道水の処理過程で、発ガン性物質までをも発生させてしまうということであった というよりも、こうした何かが混じってしまった水は、薄めていくしかないわけであって、どんな毒性も劇症なのも、忠誠を誓って製造したはいいが、それを取り除くことは極めて困難であり、それらを何とかしようとするには、水を大量に消費しなければならなくなったのだ そして、限られた資源のことを考えれば、水が干上がるというリスクが話題にならない方がどうかしているのでさえある そして、またこうした水問題を考慮してみての我々が、どういった行動様式を選択したらいいのか、脳死ではない人類ならば、それらの判断は極めてラクに成されるだろう 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 11:31Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月21日

予告無しに

国民健康保険税なるものの未納のために今後、財産調査や財産差押が予告無しに行なわれ、勤務先並びに金融機関に対する社会的信用が喪失するなどとする脅迫文書が、本日軍部統制局、国民年金担当より届くに至った 勤務先に関して云うならば、特に自営業で、ボツボツとやっているわけなので、特にどーというものでもなさそうだが、金融機関に関しても、金融機関なんてのは、単に通過媒体としての機能であって、今後は金融機関などといった無駄な組織は消滅するといったシナリオに従えば、特に社会的信用なんかは、それらの部位における無意味な脅しとしかとれなくなった しかも、軍部当局者らは、日付を指定して、相談窓口を開くから、来いという通達であった けしからぬ対応と、呆れたやり方に対し、契約の履行を武器にさせるという、窮めて横暴な軍事的な破壊的脅しを受け、それらの殺人鬼に対する防衛をしなければならない事態に陥ってしまった もう被保険者証なるものに関すれば、歯科及び外科以外は、特に不必要であるので、必要最低限での医療分野の確保のみを必要とするのであり、それらに至っても、恐るべき幼児期よりの虐待事件を加味すれば、それらおびただしい虐待の惨禍を潜り抜けた人類に対する償いをしてもらわねばならない軍隊当局自身の切腹でもある訳であり、財政健全の名の下において、メカニズムに組み入れられた人と人とのあいさを今後、どのように損害賠償して頂けるのかを見守りたくもある 人々の健康問題や、こころのケアや様々な機械には判定の有無を判断されない分野をも、それらの財政健全にインプットさせるといった迷信めいた拷問が罷り通る 在日だとか、外国籍呼ばわりされていたり、見かけがそれ風であるといっただけで、ケイサツが、身分証明になるものを出せ!●▼■登録証を出せ!被保険者証を見せろ! キサマ、持ってないのか?こっちへ来い! などと云って、通りの隅の方に連れて行かれて、‘5マンでどうだ、所持してないのを許してやろうじゃない’などと云った彼らに対するカツアゲが、正当化されているという このようなチホーにおける人権侵害は、おびただしい これらを先ず、率先して取り締まる筈の機関が全くのところ、何も考えてない 考えがない 人権尊重などと云った錆びた御題目が擦れた、消えかかったブザマナ垂れ幕と化してしまっている これらをすべて、公とすることを私一人の脳裏に焼き付けさせても、どうする事も出来ないが、悩む本人に至っては、発言力は全くない 声をあげる手段がないに等しい 字が辛うじて、自分の名を書けるのみといった知的障がい者にも、決まって、他の難しい漢字で書いてある数人の名前をこんな短期間で覚えられるわけもなく、しかもサイバンカンなんていうのは、辞めさせたいという名ばかりが連なっていても、一般的には何ら恩恵のないチホーでは、名前も顔も知らない、何の裁判を決定してきたヤツラなのかも何も情報もないのにその人間の名前を書け!と、拷問されているようなものでさえある ほとんどの底辺を担う人々の民意が何のことかも分かってもいない 況してや、養護学校などでは、セイジなんていう言葉すら、何のことなのかもわからなく、勉強も何も教えてももらえなかったわけでさえあって、こうした矛盾というものに 単に代理人が対応するなどといった事では、そこに偶々居合わせた代理人と称する人の判断に影響を受けてしまうのではないのだろうか…? 何も云えないからといって、強制的に進められていく判断という悪魔といつも隣合わせにいるのである 全くのところ、決めつけられてしまった判断下で丸めこまれる様相を呈してしまっているだけだ 子どもたち自身が今、本当は何を感じているのか 大人サイドが指揮命令するのではなく、大人の厭味な質問に答えているだけではなく、‘安心した場というものがない’ということ、そんな今、時間ばかりがかかる こうしたことが何も進められない殺人鬼の言うがままとなってしまう 下手な抵抗をすれば、どうなるかというものを考えると本当に恐ろしく、いまこの場に居続けなければならない事に慄いてもいる なぜ動けないのか…?それすらも分からない なぜかこうして、殺戮の場へと舞い戻ってきてしまうのである また、他に行っても同じことが何度も何度でも繰り返されてしまうのではないのかという思いも根強い こうして、再び私が行動を起こすことによって、殺人鬼らが、殴りかかってきて、何もしないくせに などと嗾けられ、お終いになるといった地獄画図が観え隠れしてしまう 新月の今日は本来ならば、願いの方向性を伝えなければならない所である 難病患者らの目線に立った地域となることは、どこでも可能なのか これでもまったく平等という名のもとに我慢を強いられるだけ、強いられて死んで逝くだけでもいいものなのかどうか こういった強制収容所に詰め込まれた期間が長期に及んでくるたびに そらオゾマシイ侵害事件の映像が、これは本当にここでの騒ぎなのか、それらがなかった事を証明するのは、まさしく酋長のセップクにもかかってくる一大事でもあり、慎重に扱うべき案件とされている 社会的信用の喪失という脅しは、もともと、ここではアウトカーストになっているので、そんなものは一切のところ、無関係でさえあって、なので、広報の具現化というものが重要とみなされてもいたわけである プレゼンの手法と云うか、メディアの見せ方も大事であるし、トレーニングをするためのソフトが必要でもある 全世界規模共通のコンセンサスを要し、精神的貧困の撲滅という目標も掲げてきたわけでもある 人材育成を叫んでいて、倫理や道徳といった観点では、本来の口が酸っぱくなるほどのトレーニングはあったのかもしれない ただゆりかごから墓場まで、その場でかたつむりのように過ごすチホーとすれば、動けない人類の身に積まされる不都合をや、注文をどうやってバランスをとってやっていくのかどうか、こういったモノが試されているし、こうしたことが、社会的実験とでもいうのかもしれない 毎度のことではあるが、土を観るということは、土の下の地下水に聴いてみるということを先達は、知っていたようでさえある むごたらしい人権侵害の放置は何れ、ひ孫や玄孫といった世代がそのままを忠実に継承するだけが続くのであれば、ただ単にみながその辺を右往左往として、その細胞が生きていたり死んでいたりをしてるだけにしか感じられない 何も感動もない 何も学びもない ただ干乾びたようにか細くなってか弱くなっていく女の子らが多い その正反対であるニクも多いのだが、それらに負けじとトリガラのような女の子、風で飛ばされて行きそうな感じで、ニコニコしているだけだ いつでも、ただニコニコとしている 恐らく何かを底辺の中に閉じ込めたまま… 蓮華合掌   


Posted by このは なさくや at 10:15Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月17日

戸別訪問

去年は、灼熱地獄のただそのさなかを自転車乗りならびに徒歩及び早足によって懸命な面会を続けていた 午前中から始まったこれらの訪問は、ちっともそれらローン天国化した家には人っ子一人いなかったといった展開で、ピンポーンを押しつつ、硬く閉められた開き戸の引っかかりに重力をかけてもいた 毎度ながら、この板についてしまった行動様式は、次々に戸を開けていくという中では、時に戸が、意表をついて、開いてしまう場面もあって、そんな時には、驚いてその家の玄関にツンのめるように滑ってしまう 家人の対応は、こちらのスマイルに由らざるモノでもなく、汗ばんで髪の毛が顔にへばりついたようなこちらの顔面と遭遇した顧客は、冷たい麦茶を氷入りで差し出してくれもした もう尋常ではなく暑いし、暑さに任せて汗がすごいことになっていたので、移動の際に手鏡で確認すると、描いた眉毛が“麻呂”になってしまっていて、自分でもその鏡の中の“麻呂”に驚きを隠せないでいた 太陽があまりにも真上にまで昇らぬうちに草むしりをするといった野良仕事の知恵は、今ではほとんどの人に知れ渡ってもいるところでもある また、眉の終わっている線画の続きを誰かの家の生垣の柵にでも身を潜めつつも描いているといった調子で、その場を凌ぎ、またある時は、リップ塗りに転じ、顔面から流れ落ちたミネラルの一部の土砂災害に対し、崩落現場のテカテカした輝きを一瞬にして蘇生させもした 今どきは、玄関がどこなのか、、、果たして、このお家は玄関いや、門というか、どこから入ったらよいのか?全くの所、理解に苦しむ佇まいも多く、漆黒の武家屋敷造りなどでは、玄関がカラクリのような小細工がなされていたりして、こんな御屋敷に住んでいたら、忘れ物でもして、また家の中に入ろうとするには、このカラクリを解き操りながら入らなければならないんで、非常に面倒チックなのである 股上の短そうな敵に対する仕掛けとでもいえそうなヤケに高い敷居だとかが、潜るたびに躓きそうで危ないことにもなっている その生垣を乗り越えてみたら、ブルドックと見間違えそうなお母さんが、ひょっこりと、シミーズ姿で露出してきた まぁ女同士、仲良く行こうやと云ったところだろうか 噴き出す汗が打ち水の様にポタポタしてもいた こうして、歩いて歩いて歩き、常態を前進させながら進んで行くと、家の中にひきこもり歴が、地層化された方々もおられる しかしながら、ひきこもりっきりだということや、あまりにも普段からのお付き合いで、同類の方々だけだとしか話し合ったことも何もないというと、それらには、心を閉ざされた歴史があまりにも長きに及んでいたので、その延長では、突如として現れた宇宙人では、コミュニケーションなどは、以ての外であって、すべてに於いてを閉ざされてしまっている どんな些細な事柄がきっかけだったにせよ、もう閉ざし続けるという頑な反比例が後押しをしているようにも思えた これらが、“アマテラス化”というものでもある 結局、ひきこもりきりの人がお住まいの地域っていうのは、必ず何らかの尊厳だとか品位だとかいったその人間らしさが、どこかで打ち消され続けてきたといった過去からのメッセージが観えてくるのでさえある 事態が急変することは決して容易にはいかないとすら映る しかしながら、特別視をするというのもどうだろうかと感じてもしまう こうした行動の選択をさせてしまったのは、あくまでも、今このような行動に陥ってしまっている人間サイドの一方的や、一時的な感情ではなさそうである アドボカシーとすればこうだというんであって、本心とやらは、どうにも掴めそうもない こうして何だか、過去をやり直す訳にはいかないのだけれども、それでも何か、悪事を働くのも人間なら、善いことをするのも人間であって、どうしてもこういう面においては、善いことをする人間が少数派に廻ってしまってはいる昨今でもあり、然もすればそういったモノでも、育てるといったトレーニングに関しては、このラボ:ヒューマンフォーミュラで云うならば、褒美の与え方なのかなとも、思われます とは言うものの金、銀、銅や宝石、骨董品等は勿論、大事な宝であって、こうした価値での評価はなされているのではありますけれども、こうした価値観というモノは、あくまでも多面的なモノのうちの評価の一つである筈なわけです そうして、いつものように結果というものを究めてはいるのですが、直ぐに結果的な判断を出さないのではあるのですが、何かにつけて、人が人の間で何かを成そうというのには、今与えられている場、時間、経済的な意味だとかから始めてみるというのが、慈悲心をもって独立起業するには、もってこいの状況であるともいえます 個人的な立場で云えば、もう4歳前頃からテレビアニメの動画を画いてみたり、美容師のおばさんの行動を忠実に見て、お昼には身体の弱った幼児に粉薬を飲ませるなどと云った行動をしてきてしまった訳ではありましたが、そんな中から何かしらの“天職”じみたモノが生まれてくるというのであって、そういった働きを続けつつも、様々な分野に精通していく その場に合った職を“天職”とさせるのであって、所変われば、また違った職にも触れ合うだとか、多面的な観方とすれば、こうした考え方も採用か不採用であって、場が変わっても一様に同じ動きが出来るというモノを目指すのも、このラボの考え方の一つでもあるのです つまるところ、人と人とが暮らすその間に役立つメカニックだとか、習慣化する過程での育成トレーニングが、こちらのラボでの存在感なのでもあるのです “ふるさと”なんていう童謡の歌詞が何だか変わってしまって、ウサギなんかは追いかけなくなってしまったし、鹿が増えてしまって狩人が足りないし、こう暑さ残暑が厳しいと、必然的に大型ショッピングモールで、ブラインドショッピングに明け暮れてる方が涼しさの確保のための叡智かもしれなくもない きっと、ビーチサンダルで川の流れを体感したことがないというのは、さびしいし、子どもも大人もですが、こうした体感が失われていくということでは、自然界の恵みや暴走の脅威に対応していくだけのリスクを最小限に抑える技術とでもいうのかもしれない 数年前、友人の鶏小屋は、餓えて凶暴化したイタチだかの仕業による鳥獣害に見舞われ、当ラボにSOSが入った これは酷過ぎるその場の大惨事を観せられてしまい、もう呪われていたような気配すらあった いつものようにここではその詳細は記述出来ないが、咄嗟に南米から、わざわざこんな観光地へと出稼ぎにいらしておられたご家族の息子で中学生のカ○ロスくんにもお手伝い頂き、無残なお姿で犠牲となった茶色い首なしやら恐怖のあまり血しぶきをまき散らされながらの亡骸が、運搬され解体&そのガラスープ製作にと向かわせた 南米系おばさんの手際の良さと、カ○ロスくんの慣れたとも熟練された毛剥ぎ裁きを目の当たりにし、私はこれまで、このトランジット期間を単にムダに経過してきてしまったような反省や、自責の念さえもが脳裏を霞めて行くばかりだった 非常にムリとムダと無茶苦茶な時間が経過していた暗黒時代が横たわり続くのを気にしながら、美味満点の獣鍋にベロベロ鼓を打つ、こういった観点が生きてて良かったといったQOLであって、その他の感覚と云ったのは感じらることも何もない  こういった不況風に煽られてしまっているといった時には、殊更ながらにして、理不尽さを究めつけられるエピソードが度々ながらにして、この世相を襲撃するのでもある こういった現象は、時空を飛び越えながらにして、怪しげにもやってくるといった調子でさえある オカルト神話を覆させるだけの器量を持ち合わせてしまったのが仇となってさえもいたりしたので、どうにもこうにもなのではあるが、キビシイ時代には、厳しさが募ることを今更ながらにしての追憶セレナーデなのかもしれない そこには、ふとしたことでの何かの時代錯誤とでも迷信がまかり通ってしまうようなフテブテしさも潜んだりしている どうも水木センセーの仰る幾許かの古典的解釈には、私の個人的に感情移入させられている箇所を痛切に抱かせてしまってたりもするのかな 実の所は、うちの娘が、鬼太郎の女の子ヴァージョンなんではないのかってな風にも感じてたりしないでもなさそうで、、、どうも風貌が似通い、何かを発せなくも分かるような、分かってしまっているような、そんな感じでもあり、主なモノも皆白くなってきた して、様々にして各地に纏わる曰くつきの怪しげなお話といった類いにつき物でもありそうな、凄まじい呪われた過去だとか、顔に至ってはバッサリと食べられちまっただとか、蕩けてきたなんていった、昔の‘黒さを強調させたゴミ袋’さながらだともいえるのではないか・・・ あの暗黒時代には、ゴミ袋っていうヤツは決まって、ドス黒かった ただドス黒いと言ったって、あまりにもお肉のタケが大きすぎたり重過ぎたりしたら、とんでもないくらいにその黒さは、透き通りもするので、そんなトコにも恐怖を感じさせたりしちゃうのだ 特に個人的にしても、我乍ら痘痕と線に統一化傾向著しい見栄えといった恐怖&それらの孔に至っては激しくも損傷が著しい有り様であるために とてもではないが、メディアに晒されるような風貌ではなく、寧ろこのようなオゾマシゲな顔面はもう、生まれ付いての悪辣なるお面と化してもいるのであるのだから、こういった顔面に対する不必要な、普通の人間ならば、全くのところ、何一つ悩まない所に悩む我が身であって、これらは、ちょっとやそっとでは、整形のし様もないのでさえある 何しろ、常に崩れてしまうので、秒単位でのメイクが必須でさえあるのだから、どうしようもなくなっている いっそのコト、顔面のことは忘れ去り、顔面抜きの仮面舞踏会を開こうともしたのではあるが、ところがどっこい、そんな小細工をしたところで、クビから下というヤツに至っても貧相極まりないのでもある 化けもんが、或る朝言った「ねぇ、おまいさん、さてはてこの胸のへっこみ具合はどうしたものかねぇ、謎解きされますの」そんな安土桃山だったその昔みたいな会話がしてきたりもするので、ここでは、前出でのそんなカラクリなんかは、何も在ったモノでもないんですけれども、肉があるので、説明するには、その今は昔、嫉妬に狂い死んだエリートが、その見える肉のすべてを自分の支配下にしたいといった欲望を満たす、唯一の願望達成であったために この顔面及び至る所の肉などの組織や細胞をメチャメチャに破壊させ、手元に置くという あまりにも欲望に苛まれた、半ば病的ともとれる私的なコレクション収集家の怪しげなる行動様式であって、これらのアウトカーストならぬシュードラに嫁せられてもいた使命だともいえそうである 一時のアヴァンチュールでもなさそうだ これらには様々な臆測も潜んでいるのであるが、どっちにしろ、銅鐸は楽器なんだろうかといった災いも転じてくる 昔のパソコンはみんな銅製だとかいうヤツを見れば、それらが頭脳集団の祟りとも記されてくるものでもある まったく片付かない難問奇問の続出だけが押し寄せ、後はナニモノでもなさそうであり、今年もまた、海には行かなかったじゃんとか、海には入れなかった不幸を思えば、いったい何年に1篇の海なの・・・だろうか、しかも、そこに辿り着くまでには、干上がってしまうのかもしれないにも係わらずにである 個人的には、一人の時間を大切にするといったスタンスが変わりなくあり続け、風呂の薪なんかを探し回るばっちゃんが自転車をこいでやってきてしまってから、じゃ~、リンゴの枝っぷりなんかがサイコーだよって云って、小豆よりも、そっちへのベクトルを傾けてたする 傾ける方向っていうヤツを誰がどう決定打させるに至るのだろうか、、、今もってもわからず終い、そうこうしているうちに遺言書の効力をあの公証役場に座っている方々に述べられてしまう 何もしないでいても、それら祖先の歩んできた道のりをちょっとづつでもいいからその四方八方を活かすのはどうやら、間違いなくヒューマンフォーミュラなのだろう 蓮華合掌
  
タグ :鳥獣害対策


Posted by このは なさくや at 09:29Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月10日

慧眼

22:39 2003.03.06  
ゲンバの切実な声と言うものをお聴きさせて頂くという使命だとかといった、色んなカテゴリーとしてのリサーチをしていく まさに駆け足で、それがてっとり早いやり方だと思う 名乗りを挙げてしまった以上、そうこうしながら改めていくよりないんだ 決して間違いではない ただ住みよい社会を構築することに徹する その部分に尽きる 何らかの枠などは取っ払っていく 防犯対策を教えてください でもいいし、こちらサイドの質問であるQが、多岐に渡ってしまって、果たしてどれだけ答えてもらえるのかどうか そこから始めていかなければならないのではないか こういうのは●▼■家の仕事だとか云う決まりきったパターン化ではなくこう感じる 様々な虫達が活動体勢を整えつつも模索を始めるこの日に、必要な部分は残していく、不必要な機能していない部分の絞込みをし、それらの生業を実態として可視化しておこう そんな感じの準備段階であり、まだまだ滑走路に進行方向も向けられないような状況ではあるが、最もこれらに相当する料金の見直しに焦点を当てても逝かねば成らない “すべて自分”とは、、、自分が出来ないことをお願いさせていただくということ 頭を下げさせて頂き、合掌させて頂く 仕組みはこれから創っていくということであって、それらの流れは、“ゆらぎ”で変えていこう 単に“変える”というよりも、“還す”という意味での還し方かもしれない これがキーワードにも成り得るのだろうか きっと、これらは鏡・玉・刀である 顔を合わせたら誰にでも笑顔ですぐに自分から この実践しかない 質問などのQはどこにでも用意されている 近所付き合いと言うものにこそ、重大なる落とし穴が潜んでいる そこで、ファシリテーターが、しかもよく訓練されている橋渡しの役が必要である 第三の人物として機能させるように情報技術をすぐさま抽出する分野を描けることが、第一要件ですらある 善い事をする人々を育んでいくということ 意志のあるイメージ画を持っている人をどれだけ育てられるかということ “すべて自分”とは、、、常にこうした面の面取りにも似た寛容な精神において、しかしながら、いくら歴史は繰り返させられてきたからといっても、実際には背負う人々が皆病んでいるような現状では、先ずはこの健康問題をどうするのかといった観点こそが重要である しかもこれらの精神的貧困課題に処する方策そのものである うまくいったとする事例をやはり真似ていかなければどうしようもない それらは、単にどこぞの怪しげなワークショップという呪いの除け方的なものではなく、きっぱりと宗教を学習し、その中から自分に合ったふさわしい宗教学を学んでから、選択するといった選択肢であって、何も生まれ落ちたところが無宗教だから、児らはそれらをその父母から継承するというのでは決してない そして、ある学齢期までは、親の信仰に縋り付くのも、致し方ないにしても、物心ついた場面では、世界の宗教学に触れる機会が多くならなければならないと感じる これまでにも、何らかのカリスマ的な怪しげな信仰といった迷信帯びるおまけつきで、私たちは臨床例の一例とさせられての巻き込まれた感も否めないのである ゾンビを思わせるこうした祟りは、スパッと切れたりしてきた 忽然としてなくなるとかいった帰依ならぬ、消えるというその他大勢に埋もれるといった能力である 全くの所は誰彼にも何も知られないのである そういった目立たない影の存在の重視をしなければならない いかに普通の中に溶け込んでいられるか・・・ こういう不思議な隠れ旋法みたいな忍術は、本来どうしたことか、怪しまれる しかし、自由自在になる人にとっては、何の不思議でもない そういったこれらに氣がつくに至った 自己解決力に導き、これらを育むには、問いかけ方の工夫だという 何か問題が起こってしまったときに「○○さんだったらどうすればいいと思う?」「どんな方法が思い当たりますか?」どのように解決しようと思っているのかという意志を大切にすること 「なぜお金を借りて○○○をしないのですか?」といった問いかけを繰り返す そこの部分での双方のバランスをとっていくのである いつもだったら、こんな少額なんかは、ちょこっとその辺でバイトすれば返せる額面でさえあるので、特に大騒ぎするようなことでもないのである だが、そうした構造にまた埋め合わせをさせられる期間というのを思えば、あれらの振替伝票と引き換えになってしまった自然の音階を乱された航空機の金属悲鳴音や、バイクの激しい爆発エンジン音や、最も恐ろしいモノでは、いつまでもトップに居座り続けて、命令ばかりをしている軍部の人事が何も変化しないことであり、その揺るぎのない悲劇は一元的な誰かが始めに訳した解釈に副った形骸化著しい ある何らかの事象とか、異常気象下での人類のリスクマネジメントやその中でも、どのような対応を行動によって示すのか、こういった過去にも起こった事態という現象は全てにおいて、その異常の名の示す感情様式さながらに多面的な検証があらゆる異業種によって論議すべきモノだといえそうである しかも、こうした大惨事と化した恐るべき事案が、八ッ墓村さながらでもある 異常感情時における行動のとり方であるのかもしれない こうした考えは、宗教なくしては語れないのであり、小さい頃の自然体験と同等に大事な教えであると言っても過言ではなさそうである ただ宗教を大声を蹴散らして騒ぎまくるというわけではない こういった疲れ過ぎた社会においては、こうした宗教的な拠り所となる精神性を最も求道するのも人間である お盆という時期がやってくる もうご先祖様は、8月に入った途端にその家々を懐かしんで戻ってきているのだという 私が特に訴えたいのは、幼子が例えば、「お母ちゃん、さっきね、カミサマを見たの」ということを云ってきた場合に 何としてもこの幼児の言葉を全面的に受容れて欲しいと願いたい 殆どのママは、バカにしてしまう 開口一番に何か、この児はちょっとアタマがいかれてしまったじゃなにのかって云わないで貰いたいと思っている人類の一人です 実に少数の人々しか、こんなこととかって思われてしまうのですが、、、ただそうも云っていられなくなってしまってもいるここでは、やたらと何かを用意してやるといったお情けにおいての精神的破錠も目立つ しかしながら、それらの解決策に当る糸口を掲示しても、ただ10万やるから、自由にお品書き通りにやれという、非協力体勢であって、話が通じる人々が身近では見つけられない いるにはいるのかもしれないが、そういう人々は集中的に忙しさを究めた人々でさえある 安全パイに住まう人々に対しては、不可抗力としかいいようもない、ただ人道という面からであれば、凄まじい暮らしぶりの改善の一助となるような考えであっては欲しい、、、それもこれもどれも、何もかもがダメだというものであって何も理解も何もしないし、今の連続を楽しむというだけであれば、それはこれまでの所と何もどうしようもないので、全滅化するのみだと感じてしまう いくらムリを承知で頑張りぬいていても、何も動かせないわけだし、何かもっともっと人数を集めてから出直して来いというので、それもそうで、みんながチグハグで喜んでいるのにネガティヴ路線の爆弾を持ち込もうとしているようなものかもしれない 穢されたといった感情が、ときたまにして襲撃した場合に いったいどんな行動をとるのか若しくはとれるのだろうか? それらがなんぴとも怪しむことすらない乳幼児の時期であったなら・・・ばだ 穢されたというのは感情であって、受けた側の行動ではない といったのは確認可能とされる 穢される側に穢してもまったくのところ、何ら無感覚というかマヒしてしまっている そんな土壌ではいったいどのような行動を皆が一様にとるのか 一時的や偶発的に突起させられた不快感情に関し、それらの行動のデータベースがどんな経過を辿るのかといった過去からの経験則は存在してはいるのだが、活用されることなく埋没させらているのみが現状なのかもしれない 突飛な課題とされた過去の演習が何の役にも立たないというのであったなら・・・こういった面倒な事態を考えあぐねているといった状況が続く 予習や復習をやらされた所で、何ら本質の課題解決そのものには何も機能しない 寧ろもっとそれらに関する異常な反芻エクササイズをしなければならない こうして、マヒ状態が必然的に起こってしまったのではなかろうか、、、そのような氣がしないでもなさそうでさえある ほぼ死んでいるといった状況といえども、その状況は人によって落差もあるのかもしれない ただほぼシンデイルといった思考そのものは、正しく何かの麻酔様な笛の音なんかは、何らの効用など成さないのは確かである そこで、穢された感といったモノは、例えば肉体とか、霊媒体といったヤツでは開きも出てくるのかな ただその両等遣いで行なわれた場合には、極めて悪質な状況のナニモノでもない 何が歴史的蓄積のその最中で災いしてしまったのか そういった危機であるリスクというものは何らかの警告等で避けられなかったのだろうか 然もすれば、こういった公といった課題は公僕に働きを任されている有能者が気付き、考え出していくといったシロモノなのであった ただいつものように結果を急ぐといったわけではないにしろ、あまりにも不自然が罷り通ってしまい、そもそも傾けねばならないベクトルが見失われてしまったとさえいえそうである 再びにして結果のツベコベとされた報告書の類をやっているのではないにしろ、娘さんは全戦よりいのちの重みを地下足袋に感じさせて頂かせて帰路に その間に一緒だったトモダチの一人に印象に残った男の子がいたという 正しくそのおばさんに当る人が亡くなったことを悼み、また噎び泣きつつ、軽カーのハンドルを握っていた 空も泣き出す始末だったし、前方の水滴が吹きつけた勢いで見通しも覚束なかった しかしながら、まだ幼かったころの何もなかったような幸せを思うにつけ、人間っていうのは、子どもで過ごすことが、何より勝る贅沢に思えてきてもいるので、行を変えてみます
 丹波の山奥の寂れた寺にあまりにも多くの破損仏が、京都と兵庫に跨るその存在が確認されているという その近辺にその昔、JR福知山線列車脱線事故があり、多くの犠牲者を出してしまった これらがもし仮にあの顔をなくし、供養もされずにただ放置された仏さま集団の祟りであったならと思わさせてしまうのはの土壌についてを考えさせられるにも至るのである 限りなく傷んだ仏像の夥しさと、それらが平気で放置されている現状とに何か、あまりにも無念な社会を導かせてしまうようにも思われてならない この観音堂の仏像群が、戦後専門家集団によって、調査・鑑定がなされ、1965(昭和40)年に京都府福知山市指定文化財となるまで、これ以前にそれがどういった謂れのモノかどうかさえ、この地元人にさえも、知られてもいなかったのだという(出典:太陽)何かこういったようなその県境だとかいうような限界集落を思わせるような中間山村地における置き忘れられた寂しさvs.古代と未来の混合した現世のような悼みを感じさせる それらが現時点ではどのようなコンディションになっておられるのかというヤツは確認できてはいないが、その場にこういった置き去りにさせられてしまったものを何らかの手段でせめて、手を合わせるとかいう子どもがあったり、そういった宗教めいた動作というのを批判されはしても、ただ礼の心得を感じて生きるよう、かかわれる地域での大人が成さなければならない、こども時代に何か経験させておいてあげたい、相手を敬うといった行動様式のように感じる所でもある 最期まで忍耐強くお読み下さいまして有難うございました 蓮華合掌  
タグ :


Posted by このは なさくや at 17:55Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月04日

a true heart

暫らくぶりで、綿の生育具合を観ていたら、発芽率0.167%といったモノで、これは種苗屋のおっさんに苦情を申し立てなければならないほどの発芽促進どころではなかったことにショックを隠しきれないでもいます 最初の二葉が開花するまでは、朝夕と水やりは欠かしませんでした そして発芽から二葉になるのは、あっという間の数日は、大小さまざまのアブラムシ軍団に占拠されるといった忌わしい惨事と科されており、そのまま放置し、様子見後は順調に茎も上に向かって真っすぐに伸びているし、葉は小ぶりではあるが光合成を楽しんでいる こう晴れ渡ると、またかっと思われるような光景が視界を覆い尽くす それらは、除草目的に大量噴霧といった人為的行為であり、そこら中への撒き散らかしであり、少なくとも、除草のみならずそれらのドク浸透は、正常か異常かを問わず脳への鮮烈な刺激といった信号を送信してもいる 私は個人的にではあるが、これらを‘知らない’というヘッタクレがあちらこちらで最優先させられてしまう事態にこそリスクが存在していると感じてしまう人類の中に一人かもしれない ところで、スイカが美味しい季節になりました しかしこの野菜原産地が一体どこかというものは、味及びミネラルなどの栄養素に影響を与えます しかも、どーもこれらの素性から、面構えも然ることながら、尚且つその重要な濃厚な味だとかに至っては、天国と地獄のくらい違います 何かブランド化といった所在地を通年とされていた商業化させられて画一化に分類された育ちといった野菜が、野菜面(づら)はしてはいるものの いくら食べても生体反応に必須なミネラルなんかは何もないような薄っぺらなモノの価値しかない 特に人類の口に入る食物に関しては、こういった事実は重大である こういうものは、あまりにも微少であるばかりに見過ごされていたり、特にどうということもないといった扱いになってしまうことさえある 上空をグオングォン、キぃーンと数分ばかりの音声公害をまき散らしていくといった飛行機ではあるが、常時こうした音に耳を劈かれてしまって鼓膜が、更に聴こえという機能を向上させるかのように研ぎ澄ます 搭乗機で出発前、自分のTSAロックが壊されたかのように航空機の会社のデモテープのような白いビニールテープでグルグル巻きにされたスーツケースが観えた 胸騒ぎとともにそんなことにはお構いなしに便は、滑走路に向かって助走をはじめていた 何食わぬ顔で、なんだけどそーじゃない 夕方うちの二階の外壁伝いに30羽ほどのチャ毒ガorウスバカゲロウのハーフと言ったやつらがそれぞれに旋回をしつつ、多忙を極めるようなダンスに励んでいた 前にはありったけ大量のイナゴ軍団が西山の方に飛んでいくのを目撃したが、あれらは何かの間違いではないかと思ったこともあった こんなに人間だけの出来高優先に傾くというか、特定のヨクバリバリ殺人鬼さんが、害虫もそれらと一緒に夥しくも儚い益虫とともに殺す 殺し続けてしまうという現実には、目を覆いたくなるものでさえある 今年は日照不足の感がしないでもなく、いくらか除草剤や殺虫剤を多めにしたところで気象変化までをも制御は出来ないといった、人間の僅かばかりな過信が見え隠れもする この頃は、ガマの穂が発生してきたのを嬉しくも感じ、来年の夏様にヨシズをこの冬に編んだりしていた古代人の思いを少しは理解したくもなった 古代人つまり、神代の言い伝えの様なものだとかの解釈がまったくのところ変化してきてしまった これらは、本当に有り難いといった現象でさえある バルサミコをコーヒーに入れて飲んでみた いつもはウォッカを入れてみたりするんだけど、酸っぱくて夏にはいいかもしれない 昨日私は、喜怒哀楽の感情がその前後若しくは左右、上下といった行動に必ずしも結びつけなくても善いのではないだろうかと記述した しかしながら、宗教界隈では、お叱りを受けるのかもしれない罪の部分があった しかし一過性との関連性なんかを自然摂理に当て嵌めて観れば、どうも行動とのゴッチャが疑われてしまう 感情即行動では、ケダモノなみであるのはそのスピードが物語るともいえる 蝉が勢いよく鳴き始めたと思ったら、もうその辺の樹木の幹あたりで、息絶えていた あまりにも短すぎた命を思えば、精一杯さっきまで鳴いていたのは、キミではなかったか、、、こんな溢れるような自然に居ながらも、耕運機やバイクのガチャcガチャした喧噪の中である もっと山奥の秘密基地へと遁れるだけ遁れようと必死に足掻き尽くしていた やっとこうして辿り着いてしまった ここはその昔故郷の湿地で、この底なし沼には珍虫さんや食虫植物や水鳥や…宝庫だったんだ それは昔のままに戻したいだけの“ゆめものがたり”にはしたくない 蓮華合掌      


Posted by このは なさくや at 14:53Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年08月03日

昔話のお相手

何かとてもではないが公には出来ない辱められる事態なんてのは秘密裏の内にそれら何らかの重大事項が解決させられてきた経緯が否めない それらが確かに昔からそんなふうなことは起きていた 少なくともちょっと小耳に挿んだとかいうのですらもでわあるが、こうした内容は、よく大学等での一コマでの設定で取り上げられたりして話題性を持たされたりしてもいた その後、また同じような問題が、別の場所で起きるのだが、また一からやり直しで、人間が単に入れ替わったか、それらの営みである筈の‘不都合や不安’といった精神的貧困が、その場では解決済みだとされてしまう 解決済みの結果を出されてしまう ということは、もう半永久的にはこの手の課題は、起きないというのを想定している筈でもありそうなのに、、でも…また違う場所で、同じようなことがあって大騒ぎに拍車がかかるようなものであって、結局はそんなので、可もなく不可もなく或いは、善悪の裁きもなく、感情論や組織論といった、一瞬の出来事とされる即行詩人的な裏技に時間を割いている これらの時間が占める割合を無駄と無理と無茶クチャとすると、人類は果てしなく、これらに時間を割いているかのようでもある 喜怒哀楽主義がそのナニモノでもなさそうではあるが、いつの時代にも、“笑うこと”は身体に良いとされた信仰をもたされてきた 笑うこと、泣くことで清々するような行動への準備の感情のようでもある 随って、それら笑うといった感情には、害がないし、寧ろ奨励するばかりである昨今だ 私はこれらに疑問を抱く者の中の一人になるかもしれない 激怒したり、楽をしたりという感情は有害性の迷信を強いられてもいる よく言われていることは、怒るとなんちゃらかんちゃらリンが体内から発せられて、身体を蝕むし、ラクしたいばっかりにや、楽しいことばかりしていたら身上を潰すといったモノまでもある 私も痛みという行動がどんなときに認知されて、すべての痛みをとろうということで、様々な痛みの苦悶を抱えておられる方々にお会いさせて頂ける機会があった 外傷や歯痛とか、、、とされた傍目から確認できるような観えている部分での痛みが、自身がそれらの肉が痛むといった感じはない、にも関わらず内面的な痛みとされている腰痛、頭痛、腹痛といった苦痛は分かったりする しかしながら、こうした苦痛というのは、個人差も然ることながら複雑化してもいる 決定打の原因因子というものがない あるとすれば、それら全体が責任であるにも関わらずに 全体の責任は何もないとされているのが、現実でさえある ここで叫んでみたのは、きっと様々なところでも叫ばれてしまっているんだとしか言いようもなくなってしまった 先月の月末に ダンナの給料が乏しくも出たということで、前抱っこ紐で吊り下げられた赤ちゃんのいる若くキレイナお母さんが、大きなカートにありったけの買い物をしていた 特に注意をして観ていたのではなかったが、このお母さんがキレイだったので、ちょっと見とれてしまったのですが、、、何か一週間分くらいの買い物をしていたのである そこにダンナさんの姿はなかったし、平日の真っ昼間ということもあって、もう食料のやまと化していたそのカートの中には、きちんとレジ袋は要りません表示をし、三つものトートバックをカートの上下に入れて、レジの方がそこへ会計済み食料を丁寧に入れていくといった様子だった 生後5~6ヶ月ばかりの赤ちゃんがムズがって、「ごめんごめん」とお母さんが赤ん坊の背中をさすりつつ、財布からお金を出していた こんな光景はいつも観る 観ている度に何かムダ・ムリ・ムチャな生活だなぁと感じていた 宅配便とかそういった繋がりの手が届かない人がいる 個配とかは高価で、一定の人々しか手にできないものとなっている情報網があるだけだ こんなことも感じ、やっぱり今日もスーパーの特売に出かけていく、ただこういうのが楽しみとする人々が大勢いるんだから、大型スーパーへと向かう 考えてみれば、この前の夕方、腰の曲がりが120度くらいになっている高齢者が一人で、お買い物カゴを腕に下げて、惣菜コーナーで品定めをしていた 継母が、私が家族と一緒のご飯をとらないといった悩みで悩んで悩んで、発作的に深夜、叫び声とともに嗚咽が始まった こうしたことはずっと以前から続いていて、そのたびに私は氣付いていたもののどうすることもできなかった がしかし、私がやさしい言葉をかけることでや、孫たちがやさしく接するということで、これらの継母の不眠対策には一定の効果がありそうだと感じ、今までの無視といった私の行動を懺悔させて頂くとともに翌日からは、行動は変えないが、感情はやさしくするということに徹し、孫らはもっとこれらの殺人鬼にやさしい言葉かけや、温かい態度といったものを 昨日まで以上にしましょうということで、行動も変えてみようといった努力をしようと試みてもいたりする 昨日は昨日で、友人とカフェ、…のつもりだったが、ハチャメチャな領主のもとで半ばレイバーになっている彼らは、ほとんど寝てもいないのにまた、そういった領主の気分次第なレイバーに就かされ続けた 私はいつも彼らに会う時には、コーヒーを飲む 彼らのその宗教性というか、“血の道”を感じることがある そのコーヒーは、どこの種類よりも私には飲みやすいし、なくてはならない水や空気のような存在なのかもしれない そしてまた、彼らも私と全くのところ同じ内容のことを言うのでもある 私には、祖国がない、しかしながら祖国なんかは、舞い落ちた種子みたいにではあるが、外来種という分類にさえも入らないのかも知れないのではあるが、それはそういうことでいいんだと思えるようになった 子どもの頃は、何も不思議ではなかった行事だとか、その他大勢の●▼■人と言い張っている友人には、私の訴えが空気のように透明だった 大なり小なり、ただ単に頼まれることは甚大に多かったし、頼まれはしたが私の注文は決して聴いてはくれなかった 心が通じないのかなって諦めてもいる とっくの昔からそうだった だけど、こういう内容はタブー視させられている ‘心が通い合わない’という昔話に付き合ってきただけだった そして今日は清々しい夏らしい夏、風もサラサラ吹いてくると、風鈴が幻想的な音色で耳を包む 蓮華合掌   
タグ :コーヒー


Posted by このは なさくや at 14:10Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月28日

Cardinal

経理上の伝票を起こし、いかなる災害をも人間としての取引の対象とするのは、以前に確認した 以下は体験的な経験知なる事例であるが、これらの不当賃金未払い事件発生に関する、‘ほんと、惨めでやりきれなさすぎる思いのタケ’っていうヤツは図らずも山のようにやってくるといった調子だ 何故こうも大惨事は後を絶たないのだろうかという災害検証をしなければならなくなった その昔、世相事態が暗かった、正しく暗闇だった もうみんなが考えている何もかもが暗かったし、必然的に私はピエロ風なバカっ騒ぎを頻繁に繰り返したりもしていたのかもしれない ‘地下経済’に潜り込んでいるという怪しげな経済倫理がその辺に転がりこんでしまっていた そういったところに出入りしなければならなかった 屈託なく明るい感じに惨めさといったモノは微塵もなかった たまにフ~ッと、そういった四方山的な惨めな空気が通り抜けていくといった感じだったのかもしれない 惨めというよりは一種の寂しさというかちっぽけさかな・・・ そういったのを感じないように騒ぐ席に行っては思いっきり、そのお通夜のような場を盛り上げては、喜ばれていたような調子でさえあった だから、相乗効果かもしれなかった できれば汚いことや、辛辣なことは、早急に頭から消し去りたいというので、特に忙しくする もうやたら滅多と全くのところ、別の考えに没頭するというので埋め合わせをやっているといった感じですらあった 頑なな拒否と、また何かそれらの方向へと向かってしまわないような対策を考えることでの盾ならぬ武装化をやってるようなものかもしれない それじゃなければ、だんだんと身体が低温になってしまうのである さっきまでは冷凍だったようだったが、今は切り出されて間もない氷の彫刻の上に鎮座させられてしまっているような地獄 急に寒くなってくるときもある 何もしていないが、急に冷たくなってしまう 特に下半身だが、それらは自然治癒力を診る方には、内臓がよろしくないというのを診断され、半身浴だとかや、蒟蒻シップをやるだとか、鍼灸の先生を紹介するだとかいったモノとなってきた しかし、続けられないでいた いつもだったら何とかして治療しようとかするものなのだが、そういった一切に関しての不安が付き纏う 不安が不安を呼び込むような風でさえある 「どんなことが不安ですか」という宗教者 子どものことが一番に不安が積もり積もっている 一生、障害児の親というのをやらされなければならないという不安 仕事のことでの不安はもっと大きい、何か社会的な不都合が、なくならない不安というものに関しての憤りというのは強く感じられてしまう その中でのこの人権無視の今のこの地域社会をどうしたら、子ども達が、自分の長所というものをきちんと表現できるのかどうか、それが出来なければ、いつまでたっても、自己像というものが育まれてはいかない 善い自己像を持って生きている 社会的責任を果たしている目標足るおとながいるのかどうかというものは、一つのステイタスであって指標なのかもしれなくもない 周囲を見渡したときにそういった何らかの指針を話したくなるような目標とした人間というのは、どこにいるのだろうか・・・? これらの疑問におとなサイドが最も否定的なのでさえあった 人権という唯一の尊厳といった品位であるとか、これらの学習がないからに他ならない そういうのはもういいという もういいというのはどういった意味なのか? 或るご婦人は、「人権はもうみんなしっかり出来ている」という どういう風なのがきちんと出来ているのかという問には答えられないのだが、兎に角もううんざりするとだけ云う 相変わらず、子ども達の自己評価というのがない こういう長所が好きで、こういうところを褒めたいだとか、そういった自己認識が出来ていないように感じてしまう いつも相変わらず飛ばし飛ばしで来てしまっていた なんで、こういったものは繋げていくといった面倒な手作業を介されてしまうので、やりきれなさで一杯でもある ところで、今からざっと1●年前のことだろうか、、、そもそもあの忌わしい斎場が職場になる以前、何をいったい職業としていたかというのを回想してみると、確かあれは、フル回転営業の居酒屋駅前店とか、当時深夜の女性勤務が問われていたとも思った(平成9年男女雇用均等法改正)がそんな時期だった ほんとにその居酒屋って言うのは辛かった 何が辛かったかと云えば、夕方5時から朝5時という勤務体制にその多くはあった 普通のサラリーマンが帰宅してくるような時間帯の電車に乗り込んでの出勤である 昼夜逆転の感もする あれは季節的には、夏だったかで、しかもあの店は、新装開店というおめでたさの最中でもあった 出勤していくと、すぐに制服に着替え、ティッシュ配りに通りへと出て行く、ティッシュ配りのティッシュの在庫がないときに限って、みなさんと一緒に朝礼に出る 売上高だとか、入店客数だとか、何らかの諸注意だかなんだかを店長が何か論うようにブツブツ言っている みんなは、下を向くか、休めの姿勢になってダランとしているか、ヘアスタイルを整えようと前髪に手を持っていくだとか、黙っていた 店内のイメージであった和装の曲がただ静かに流れていた なぜここでこーしているのだろうか・・・よく分からなくなるときがあったし、前に働いていた職場の誰々さんの顔が浮かんでもきた (なぜ、以前の派遣での単純労働工場であった職場は辞めたんだろうか)そーいったヤツを振り返ると、何だか常に理不尽さが、実ってやってくるといった調子だ 何がいったい理不尽極まりないような状況であったのか? 首切りとかではなかったというのは分かっている 自己都合退職というのをやっている 何か自分が気にいらないことが突出してくる=必然的に辞職といった感もあった 次なんか何も決めてないし、適当でさえあった 何もかも灰色に見えていたし、何処かに頼ることも何も考えもしなかった 就職のことや職業のことや、職安にさえ、そういった家庭との絡みでの相談やカウンセリングといったものは一切なかった ただ自己解決に任せるというモノであって、何か話をしたところで、こういった生活圏内の悩みともつかないようなモノは何もどうにもならないだろうと感じていた 今よりももっと、無法地帯だった携帯電話や電話の怪しげなサイトというものが 蔓延っていたし、もうあれらの世界というヤツは、女というのは、何か商材とした武器といった感覚すらあったと思われて久しい そういう武器を突きつけられて困っていたのは、いつの時代でも弱者であった 気軽に騙されてしまうし、騙されていても気がつかないといった状況ですらあったといえる さて、当時東京から店長が短期間飛ばされてきていたというのもあって、何だか都市銀行の口座でも作った方がいいのかなって、●u●iB/Kの口座を開設した その口座を店長に給与振込届けとして申請した 「給料、入ってるよね」 私より少し遅く入社したJ子くんに店長が聴いていたのを小耳に挟んだ 「はいっ、入ってました、店長」 そういっていたというか、そういう会話らしかった その後、店長が急に東京へ舞い戻るっていうんで、私は、「店長、口座をここ来る前に確認してきたんですが、ほらっ、あそこのATMですよ、まだ入金ないんです、ほらっ、残高100円のまま」 通帳を見せて店長の忙しくウロウロとする隙に話しかけてみた 店長:「あっ、ごめんっまた出張から帰ってきたら確認するね」 そのまま、特急に乗って行ってしまって、5日ぶりに店に顔を出した 相変わらず、毎日飽きもせず、あのATMに通っていた私は、残高が100円のままになっていることに俄かに苛立ちを隠せずにいた 既に以前居住していたところの家賃やガス、水道、光熱費、電話料金といったものは滞納がその前から続いていた それもそのはずだった その一ヶ月前の分から、ここでのバイト代で工面させようと思っていたからである まぁ、まだ一ヶ月遅れだし、といった軽い気持ちもなくもなかったけど、それでも、もうここでは、一ヶ月と二週間目じゃんか といったやりきれなさがあった それと、J子の通帳を見せてもらえるチャンスがあって、そこには、3◎万円というバイト代が入金されていた 私には、いったい何が起きているのか、全くのところわからなかった ただ未だに支払われていないのにもかかわらずに働き続けているといった状況だった そりゃ、J子にも愚痴ったし、何かの間違いだとしか思えなかった 店長なんかは、来てもすぐに店の売り上げ金だけを夜間金庫に即入れてから、消えてしまう 私は足がガタガタ震えてきていた ‘ダマサレテいるのかな’という怯えに似た感情と、自分に対する落ち度を振り返ってみたりしていた ただ私って、調理場に入り込んでるけど、J子はレジ打ったりして、働いてるっていう証明みたいのがあるのかなって、、、ただそれだけの違い、タイムカードの打刻は間違いなく打たれていたし、無断欠勤なし 何か悪いことをしたのだろうか? してないよなぁ、寧ろ、みんなとも仲良くやってると思うし、盛り付けがトロイっていうのでもない だんだんこの店に関しての‘不信’が募っていった そして、あの見掛け倒しの店長の素振りだとかにも、私はバイト二ヶ月目になったときには、自らバイバイした そしてもう二度とこの店に足を踏み入れなかった その後も残高が100円になったままの通帳を何年か保持していたが、管理料の方が高くつくのか、銀行からの連絡で、その口座を閉鎖するに至った それからだいぶ経過した或る日、Webで、賃金支払い請求だとか使用者責任を問われていたあの怪しげな組織が争われている裁判の記事を見つけた 私のような労働者で溢れかえっていた 驚愕した そして、これは私ではないのだとも思ってしまった こうまでしても、生き延びるのかといった残忍さが、私自身にさえも、自責の念を責め立てるようだった そんなのは世の中、ごまんとある みんなそれでも生き延びているし、それでもそういったごまかしの店はなくならない 地方にいる私のような人間は、恐らく未だに泣き寝入りだろうな 私が泣き寝入りしているくらいだから、だからって何をどうしたらいいのかさえもわからなくなったし、近場の弁護は何もない ただJ子は今でもあそこで働いているのかなって思うくらいで、もういないだろうなっていうのも感じている ただその後も、前の会社の手当てもなかったし、なんちゃらで、惨めな思いはしていた だからって、見合いをさせられて・・・そういうのが、ツライ上に更に追い討ちをかけられてしまっているといった心情だった本当に辛かったと感じる 年齢制限というのではなく就職もなかった、全くないといった調子だった 今と同じくらいなかったかもしれない、必然的に盛り場のような仕事でやっていくしかないといったのも仕方なかったのかもしれなかった ただこうして盛り場のバイトに不審感を募らせてしまったのでXXX そんなこんなであったが、そこは二十代後半の若さで乗り切れっていったとこだったのかもしれない 若さって凄いことだったって、何だか今更ながらに驚いてしまう もうどうやってきたかってのが、よくわかんなくなっていたのは確かだ そんな調子でありながらも、MLMの仕事だとか、御法活動だとか、落ち着きのない日々が単に続くといったことになっていた 子どもらはいったい何をしていたのか?上は養護学校の寄宿舎で、下は地元の小学校に通いだした 安定しているといえば安定していたのかもしれない 寄宿舎は月曜日の朝、時間までに送迎し、金曜日の夕方迎えに行くし、医療機関を受診の際は、それに合せることだけ、そんな風に遣り繰りしていたのかもしれない なぜ、今こんなことを思い出さなければならないんだかというのは、よくわかってないし、こんなのを公にしてもどうなるというモノでもないのかもしれないが、ただ生活リズムと云うか、乱れっぱなしで、養護の児のお薬づくりが大変だった 今みたいに分包を薬局がやってくれなかった時代だったんで、寄宿舎で飲む一週間分とかを藁半紙を細かくしてカッターでカットしつつ、ピット糊で貼りあわせ、4種類くらいの朝昼夕に分けたものを作っていたのだから、それは緻密な無償労働だった あのお薬の分包をもうやらなくて済むようになったときの何だか空しさと云うかなんというか、感極まるものがあったりなんかした もうあの作業はしなくてよくなったといった感慨深さと、あの作業はいったい何だったのかといった、講釈が頭の中に過った クスリの種類も然ることながら、学校に当時、看護士などの手が全く入らなかった 今はどうなってるんだろうと思いますが、未だにそんなに体勢が変化しているとは言い難いだろうけど、クスリを自分で飲むことが困難な場合は、医療行為ということになっているわけだから、それっていうのは、必然的に医療行為が出来る人がいくら強制収容所であったにしろ、手厚いナースのケアが入って当然だったとはいえないだろうか ちょっと長くなりすぎましたが、肝心要のところかもしれない 一番働けるといった時期には、大した仕事に就けなかったといった 結果とすればそうなってしまっていたのでもある
忍耐強く最後までお読みくださいまして、誠に有難うございました
 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 08:27Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月19日

poorness_mind

経済的貧困という課題の解決は容易に成され、もう既にうん十年とも経過しはしたが、相も変わらずにそれらの課題を会議にかけている人々が夥しくも存在しているのが確認できてしまう 価値観というか尺度というか無我の境地というか、精神的貧困といった課題は永久的な課題とされてきたようだ しかしながら、精神的貧困といったもので溢れかえってしまっているのが現状であれば、それらはいったいどーいった深みなのだろうか、、、哲学者などがよくこーした課題は半永久的な難題とし、未来永劫にさえも解決は困難であるというのに達せられていたが、果たしてそーなのだろうか? 精神的貧困課題というものが存在する土壌、まさしくこれらの蔓延る敵の土壌や水分を調べなければならないのかもしれない そういった専門家集団は、これら社会的集団のお悩みに対応する技術レヴェルを保持しているが、あまりにプロフェッショナル過ぎて、地域社会に対しての還元方法が結びつくノウハウを頓挫させてしまっているだけなのではないか 数年前に非常に枝っぷりの極度に曲がったブナの苗木をワザワザ植樹した これは自分かなって感じて、植木屋に行って、即この苗木に決めたのである 強烈に捻れたその枝が、今は全くどこも捻れてないのである 植樹してから今日まで、特に手間隙をかけて大事に育てて手をかけていたということはないし、たまに話しかけていただけだ そーいえば、おととしくらいにこのブナの樹は、枯葉を落さずにいただとか、どーも頑なに落葉しないので不思議に思ってもいたことさえあった いつの間にか、何をどーしたわけでもなかったが、捻れた幹がまっすぐになった ただ何故、ブナをワザワザ植樹したのかっていえば、その樹木の特性をこの地域社会へ還元できるのかなっていうのを思った どんぐりなんかも植えた もう巨大な実を山奥から拾ってきてどんぐり林になってしまうのじゃないかなって思うくらいにどんぐりがわぁーっとなって、ニョキニョキと伸びて来たしまったりもした その際に地元の新聞にどんぐり苗を無料提供というのを載せさせて戴いた その際に対応した記者なんかは、ちょっと躊躇っていたが、私はそーいったモノには動じなかった その際にかなりの地元の人から連絡があって、その乳児のようなどんぐりの苗を軽トラだのに積んで行って戴いたのであった 今頃あの苗木らは、葉を繁らせているのだろうか 例年のようにそのどんぐりの葉は、こがねなどに多少やられながらも、光合成をする まだ実が出来たことはないが、いずれ実もつくのかもしれない そんなことを思いながら、翻って“万民徳用”の章で、「売買をせん人は、先ず“得利”の増すべき心づかひを修行すべし」とある これらの意味するのは、商人として生きる場合は、正直の徳を尊び、それを身につけるという行動である 根性の捻くれたような態度が自然がただ癒されたかの如く、そうした影響が拡大されていく 封建社会もここまで急成長してくれたお蔭様で、倹約を美徳とする健全な精神性が国民に宿ったようだ それをいかに移民へのかかわり方とするのかといったアウトカーストへの“知足安分”といった普遍的な徳であるという 現在のような消費経済における徳は倹約することであって、それら分配過程では“布施”のナニモノでもなさそうだ 前々から考えていたモノの一つには、やはり律儀な商人の育成であり、それはスポーツ、特にであるが、バスケットボールチームをつくってトレーニングをすることなのだろう なぜこんなことを考えていたのかといえば、マックスウェーバーを読みすぎていたのかもしれないし、仏教における財と労働の価値といったことに関して、四六時中なにやら、頭を悩ますことに苛まれてしまっていたりもしたのであった そこでまた精神的貧困というものだけど、マザーテレサも何か、孤独というものを恐ろしい深みとさせていたようであるけども、そういうのは経済的貧困に晒されている人々の下における孤独とした表現なのであって、精神的貧困が孤独とは限らないといえる 人間なんか、まぁ双子とか生まれてくる場合もあるんだけど、結局自分一人で生まれてきて、一人で死んでいくという感じで、なんだか昔の‘一殺多生’さながらに正当化された、ある特定の個人を犠牲にさせておいて全体を生かす行動さながらが続くだけだ これらはどーも、誰とは言わないまでも、どこぞのじいさまが仏教は、国家の公益に有用なるものであらねばならぬとし、そのスローガン下で、日清日露戦争その他に積極的に協力を惜しまなかったのでさえあり、全体的にはどにもこーにも、本来の仏教精神の実践を支えているはずの無我や慈悲の教えが、資本主義の精神とは結ぶに及ばなかった歴史が存在したのだともいえる しかしながら、青銅期とは言わずとも、カタイといったおかたいものはいらないので、“近未来銅時代”とすれば、そういった文明は超越するのだろうといえる 公益の名の下に自己犠牲を強いての‘偽りの菩薩精神’といったヤツは第二次世界大戦が終わった途端に もはや死滅したはずだったわけである ところが、何かまたそーいったナショナリズムの雰囲気を感じさせてしまうのも否めない だから、何もしないでいるわけにはいかないと感じてしまう スリランカから大量に来訪してくる難民には、生産力の未発達、生産手段の未熟さの課題が根底にあり、もっと言えば、“法施”の重視所謂、分配の宗教的な意義づけなのではないか あまりにも難しく考えすぎるのは頭によくないので、ここらへんを持ちまして、またなんちゃらかんちゃらへとお出かけしてゆくのであった 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 11:25Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月18日

Capriccis+α

そー言えば、10年になりますかね、ファービーなんてのが当時爆発的に流行ってて、子供達が自分の手持ちのコマみたいなファービー同士を通信させあって会話なるコミュニケーションさせあっていた ファービーはよくお腹がすいたり、世の中が以上に暗闇に塗れていたせいか、「ヒカリ、もっとぉ」などと言ってあの目をパチクリとさせていました ファービーの入手方法がわかんなくって、トモダチに聴く所によると、「オマエが一番よくしってんじゃねーの」と交わされましたが、マジメな当方はわからないので、不法滞在をしている人にお聴きさせて戴きましたところ、大変親切にそのファービーなる物体を一機どころか、3機もパチンコ屋さんからとってきてくれました なんかよく、「この前、オマエ、あそこで打ってただロー」かなんかを言う他人がいて困ります 他人の空似もこーなると、人権侵害のナニモノでもなくなる ところで、そのファービーに癒され、あまりに深夜はうるさい寝言をゆーので、ファービーの電池を抜くといったことも繰り返していました あのファービー世代ももういい大人になる頃でしょーか・・・ 今そのファービーの同窓会なんかが出来ると嬉しいかなって、、ただファービーが行方不明になってまして、家中を捜索しましたが、どのダンボール箱の中に埋もれてしまってんだかなんだか、、、解っていません 哀しみの残酷物語みたいなものです ‘残酷’なコクで言えば、近日中に私立高校生への通学者奨学補助金を交付するなんていった大々的なマスメディアへの何かしら、良きイメージ戦略をしたつもりだったが、実際の所は、その広告宣伝料を差し引いたと思われても依存のない著しい減額をされた申請書がここに生徒を通じて届いた 教育委員会へ出向く際に真実を訊くのみではあるが、本来であるならば、JR東日本にこーいった電車賃などは、学生への免除を申し出たいところでさえあり、そもそもこーいった公共交通網が、学生からせびり取ろうといった事態が、‘線路は続くよどこまでも、、、’などといった悪しき‘続き’が因習化させられ、中央線の怨み節が鎮魂亡きがらを再生させるのではなかろうか 兎に角、財団法人鉄道弘済会はどーなっているのかだとか、考えさせられてもしまう JRは、相変わらず運賃が莫大に高額の上、更にダイビング率の異常な多さにも目を見張るものがある 電車の動きも川の流れと一緒で、何か電車に吸い込まれるようにダイビングさせられてしまうものなのだろうか、、、そーいったものはよく理解が不能ではあるにしろ、これはもう、有害金属の集合場所としかいいようもないし、脳事態と身体が害虫に変容させられてしまうのかもしれない そんなことも思わないではいられなくなってしまった 前述のファービーの流行とか、それこそこの目の前の現象だけを追いかけていたところで、実際の所の本質なんかは見えてこない いつも感じてしまうのは、何がいったい対等であるといえるのかというものである これは、常に何らかの場所に属してはいるのものの先ずは、“人間だ”ということがわからなくなっているように思われて仕方がない スーパーで買出しをαていても、レジに並ぶとその前のベビーカーに載せられた二歳児が、フクロ菓子に穴を自分で開けて食べてしまっている それを特に何とも思わない両親、寧ろそれは当然視している お菓子は床にポロッと落ちてそのままだとか、無表情に能面を付けられたようなママが足で踏んでいたりする 異常なほどに骨ばっかのように栄養失調をも思わせるような細さのママ その髪の毛は、金髪で毛先なんかは鳥の巣になっている おととしくらいに流行だった短か過ぎるTシャツは、後ろから下着が丸見えになってしまっていた だらしないというと、そーではないとは言えず、もっともないといえば誰も何もいえない ただこれは現実的であり、それらのママが実際的にはいるということである 少数かもしれない 弾かれたアウトカーストの姿といったものは、どこででも判断が可能である しかしながら、そーいったアウトカーストをただ無理解者が包囲しているだけの冷たく凍て付いた街である けど、みんながみんなそれをわかって欲しいとは思わないし、わかってくれたにしても、変な同情心が掛かってしまうのも嫌だと思う けれどもそーいう何か特異的な立場であっても、その前に“人間”として扱って欲しいのも事実である サポートが何もない それは一番不幸なことでも有る サポートというのは、手を出したり口を出したりといったことであるのかもしれないが、ただ現状では、もう無気力になってしまっている ほぼ死んでいるような電池を抜かれてしまっている時間も長くに及んでいるので、頭も回らない そんなような状況でさえある 気力があったときは、色々と探し果てて、聴きまわってといった行動も出来たが、もう今となっては、疲れ果ててしまっただけである 何かを起こそうという気力がなくなってしまってきた だんだんそーなってきてしまった どこへ行っても何をしても、無理解者との遭遇であったし、頭ごなしにすぐに説教が始まったりだけ・・・ なぜ、移民の国へとさすらおうとするのかだとか、そういった行動をしないではいられない 反抗するバカな体力があるくらいなら、全く違うことへ精神を傾けないではいられなくなってしまった ただそーいう風な雰囲気になってきた 流れモノの性質のような感じにも似た落ち着きのなさ・・・なのかもしれない まぁどこへ行こうが落ち着きのなさではピカイチかもしれない しかしながら、様々な人々との交流だとが、今の市民とはまるで違うのではないかっていうことだけはいえるのかな そんなこんなではありつつも、孤児の回想録に関する詳細は、残酷ならぬ‘残国’物語だといよう、何しろ夫婦のけんかなんてゆーのは、夫である継父なんかは午後10時を過ぎなければ帰宅はしないので、そんなに幼子の孤児はそれらDVの目撃は寧ろ、それほどでもなかったのであった がしかし、当時はその長兄の小姑が二人も同居していた その小姑は、継母の階段を上り下りする足音がうるさいだとか、すぐに赤子を泣かせてうるさいだとか、これまた継母に対する虐待さながらに突くのであった これらが経過を追うごとに激しくなり、今では「継母さんの子育てが間違っていたから、あの孤児ちゃんは、あんな風な境遇になった」といった事をそこら辺に吹聴させているといった始末であさえあった しかも継母本人の前で堂々と、それらの数多を述べてくれるのであった この無理解を思うと居た堪れなくなってしまう そして、幼児用強制収容所の方なんかでは、不気味な厚化粧とそれらの濃厚な硫黄のようなキツイ臭いをさせた保母こと、政府軍の養成させた幼児監視員は、孤児の方へばかり寄っていくまともな幼児に対する孤児への嫉妬心を募らせてもいた そんな中、孤児はその化粧臭をプンプンとさせた監視の目の尋問に遭う このような僅か4歳に達したばかりの子どもを監視員室に監禁させ、尚且つ「オマエが盗ったんだね、オマエしかヤルやつはいないんだよ」と、その孤児に対し、足首を掴み上げ、逆さまにさせ往復ビンタの嵐だ その化粧臭さを撒き散らすばばあが、その幼い孤児を放り投げたのだ その後、いのちが存在しているのかいないかの確認は急ぐではないに等しかったが、とりあえず画を描いて欲しいといった幼児には、もう、近寄らないでというより術はなかった そして、数日後化粧臭いゲリラばばぁ監視員は、その部下に「さがしてたモノが隣の引き出しで見つかった」といった事をほざかれてしまった 孤児の眼下は益々にして、緑内障の雰囲気に曇りつつあった あの逆さハリツケの計はいったい何だったのか・・・? 呪いの戦慄が過るのみでさえあった 震撼を通り越した経過報告の一端かのようでもあった 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:09Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月14日

今、末法に値ひ、


かの道元らや、久しく各々が記す所によれば、文体は異なりつつも、変わらない本質的な‘終末’を予言するような記録が実にこの世を憂いでいるように感ずるところでもある先の今、末法に値ひ、にて始まる道元の記述によれば、全くの所何ら狂いもなく同じというものでもあった というよりも、合ってしまうのでもある 最低階級の奴隷にさえ入ることが許可されないアウトカーストといった身分の烙印を押された人々が、そのアウトサイダーに触れてしまったら、二進も三進もいかないとんでもない被害である穢れた存在の末を覚悟しなければならなかった それというのが、やはりこのわれわれ、ヒューマンフォーミュラが、本来志したシステムでもある まぁ実に時代は経過するだけだったが、編集のやりように縁る所の意義解釈は、ここまで進化してしまった 何がいったい、他の俗悪な人間が触れたからといって、そっち側が汚れるのだろーか・・・?これこそ、意味不明のナニモノでもない まさに民族・階級を超越した平等な人間性に立脚するのみ仏教哲学的な窮みさながらである 昨日なんかは、非常に疲れた 徹底して運転の舵をとったので、しかも7時間もぶっ通しで運転し続けてしまった 身体は小刻みに震えだしていて、またもやシの予感が過ぎったが、笹団子を食べたら正気になった こーした自己解決力というか、誰かに何かを負ぶさろうということは考えないという生き方に徹するものなのかもしれない 即ち“拒絶、しかも盲目的な拒否や偏見を超えた強烈なる拒絶”である 悩みの類でもあるのであろうが、蟻が天から降ってきた蟻は、考え込んだようにその小さな身体の節々を自身の四肢で触れている 植物同士なんかも接触するように狭い単位に植えられていたりなんかすると、必然的に相互の何処かしらの部位が激しく損傷してしまっているのでもある だから、、、有る程度の適度な間隔という“間”があってこそ、本来の姿でもあるし、行く行くは実に誰とも接触なんかはしなくても構わないのではないのかなってことも感じられてしまう となると、不都合なレイバーに携わっている人は、何かに身の振り方を考えなきゃなんないし、転職を繰り返すことにもなってしまうよね、きっと・・・大体がそんな浪費関連で何かを為そうというのは、霊と肉の争いを招いてしまっているのだともいえないだろうか ともすれば、以前からも考えていたのが、‘人間免許制度導入’なんかをやる子孫が出てくるのではないのかなっていう感じ 冗談じゃないかも、、、寧ろそーいったことでプレミアをつけてじゃないと、これからの世代が何か生き残っていかれなくなってしまう 幼いころから培われるべく精神性というものはいったい何なのであろうか? よくよくそーいった事物を考えさせられてもいた こども心がなくなる瞬間とはいったいどのあたりなのかって、、、そして、それらはどーいった観点で製造されるのだろう・・・? 生き残りを賭けた何か獲物を追い回すといった事象さながらでもある 結局は、免状だとかなんだとかかんだとかっていう物質的な制度とか、許可させるだとかいうのは、崩壊していってしまうのみなのだろうとしか、考えられないし、普遍的な人間性に対する開眼でしかない 何でも筒抜けのような具合に解ってしまう場合がテレパシーなのである テレパシーでの会話を楽しんでいると、それでもう十分に充足し、精神的な安定を約束させられてもしまう それほどにテレパシーの絶大なる抱擁性のような受け入れられている感覚でさえある よく恥の文化圏日本を知らし召させるご意見番は誠にして多なり、、、でもある おとといまでの何日間かは、食の試験的な人体実験をした所謂、コンビニやジャンクと呼ばれる食を通して、我が身はどーいったことになるのだろう・・・というものであった 昨日までの>文献を見ればそーいったものは一目瞭然とさえいえるのである いかに食が大事であり、いかにして食を粗末にさせることが恥か その点、他宗教特に カトリックやプロテスタント等では、ひとに知られなくても、犯した罪を僧或いは、神の御前において懺悔し祈りを捧げるのは、当然とする 反して日本人といわれているひとの多くには、誰にもしられていないのにわざわざその罪を告白するバカはいないという、悪い行動と云うものは、誰も観ていない所では、躊躇なく思い煩うことすらないという 義理とか人情とか、どーあっても、引き継がれてしまったとしかいいようもありません 先のアウトカーストへの待遇は、排他的のナニモノでもなく、それはごくごく近親者のみだけに親切心をといった号令がかけられているだけなのであり、その他カンケイナイと思われる人々に対しては、憎しみしかないのでさえある  ここでわが国日本における自殺問題の特徴は、その当事者個人の大半が個人的な課題によるものとして扱われているように思われる これらの問題は、訴訟となり、当時の市当局並びに政府行政等の責任追求にまで発展し、恰も魔女狩り的様相を帯びてきたが、問題解決の本質を見失ってはならない これら難題解決の本質とは、この自殺発生の事実関係を 感情論や組織論に捕われずに明らかにさせることであって、何もスケープゴートを差し出すことではない 生存していると云うよりは、特に死にたくはないが殺されるのではないかといった生死への脅威の可能性があれば、それら被害者の迅速な救済、真相究明委員会の設置、政策決定プロセスのあり方、医事行政及びそれら組織のあり方、地域社会体制等について等の提起である とりわけ、情報の公開、政策決定のプロセスの改革及び第三者等の調査検討委員会による自殺問題の真相究明についての要望を傾聴することは重要である ただ単に嗤ってごまかす、今までのそれを何らかの酒の肴的に扱ってきたメディアは大いに反省すべき時期がやってきたともいえよう 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 05:50Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月11日

普遍的な水

専門の医療機関から見放され、難民化してしまった人々、精神障害者といった“心の病”に関しての加療では、表面的な表情だとか、いつもニコニコしているだとか、恃み易いだとかいう様に事例がありますが、今まで精神科外来の治療を受けていた人だとか、現に外来受診している人、そして、今病院に入院している人、時々は病院から抜け出して行動が出来る人、殆どそーいった人々が吸い寄せられてしまったかのように集まってきたしまったというのも否めません これは自身にとっても大変な問題でした というのは、様々な医療機関或いは専門を標榜する相談に対する不信感が積もり、更には最も頼りにしていた医師からも見放されたのですから、、、(ほんとうに自分はビョー氣なんだろうか・・・?もし、ビョー氣とすれば、抗うつ薬を大量に飲んでいるだけでいいものだろうか・・・?或いは、カウンセリングに通っていて、『あぁそーですか、そーですか』とただただ聴いて貰っているんだけれども、それだけで果たしていいものなのだろうか・・・?)と、、、心理分析を詳細にテストさせられて、『貴女はこれこれこーだ』と分析されて、それで非常にキズついてしまった 新聞などの記事でも、書いてあることに惑わされたり、多くの人々が支持しているといった内容に対する不信感を持ってしまった それと同時に全体主義が齎す専門性が出した結果への大きな不安感もぬぐえなくなってしまった 勿論、全部が全部そーいった意地悪な対応というものではありませんが、中には知能的な段階には何らの教養はない人々の中では、蹲ってはいられるだとか、単に知らないといった人々の中ではどーにかやっていかれるのではないだろうかとか、その場凌ぎの出逢いで取り繕っていたり、恰も‘サンドウィッチマン’にでもならされたようにその板ばさみに喘いで、バランスをとることに始終追われてしまう 詰まるころ、専門の有能と云われている医師の元での治療を受けていて、それが逆に状況を悪化させてしまっているというか不信感を持ってしまって、もう医師の処へも行かない、他の人の話も聞かないといったカタチでのひきこもりとなってしまって、一歩も外に出られなくなりそーです 今引きこもって、ずっとインターネットをやったりして、なんとなく過ごして、人生の大半がもう経過だけしていってしまう、、、そんな魂を煩った人が、ごまんといるような中で、自分の考えを聴いてほしい、親にもわかってもらえない、勿論精神科の先生にもわかってもらえないし、友達にはいい様に何か利用されてしまうのではないかとかいった、解ってもらうどころの騒ぎではないということで、自分の気持ちを聴いて貰えるところをさがしてさがしてさがして、、、探し回って、ようやくブログでこーして書けるようになってきた よーやくたどり着いたという感じ ただこれが、誰が観たかとか観なかったかとは別としても、、、こういう所謂、身体は大人かもしれないけれど、中身は子どものまま成長が止まってしまっているといっても疑いの余地はない、こーして色々と、つまらないことかもしれないけれども、こーして綴っていて、綴れていて、、、これがどーして、精神病なのかなって・・・?自分でもいったい、自分はどこが精神を病んでいるのかなって・・・?どこが、うつ病なのかっていう風に自分自身では、どこも悪いという風には思えない ただ果たされてない出来事がネックになってしまって、それが滞留の主な原因となっているというのは、もう正当性のある理由だと感じます 小学校のときの登校拒否であるとか、拒食症だとか、げーげー吐くとか、不眠症とか、極端な冷え性だとか、腰痛、腹痛、、、様々なカタチで表現が主立ってきてしまう しかしながら、ワタシがいま、急にこれを読んでいてくださっておられるような方々と、例えばお会いしたとしても、どーってことなく表面上は、なんということもなく、そこらへんにどこにでもいる人に見えて、どこか氣が滅入っているだとかは感じられないし、寧ろゲラゲラ笑ったりなんかして、氣が狂ってるという風には思われないと、、、じゃあ、何が一体おかしいのかといえば、やはりこれは、こういう私自身の主体性であったり、大事に思っている気持ちをまったく理解できない‘地域社会やおとなの社会’というか、地域社会やおとなの決まりきった考え方、こーしたことが、寧ろ子供達自身を究極的な孤独に追いやっているということをただ知らないし、おとな側は学ばないということだけを痛切に考えさせられて悩んでしまっている ‘吃音’といったことに関しても、‘吃音’が出るときは、大概は、聴いてくれるおとなが誰も存在しないし、ただそーですかそーですかって、聴いてだけいて、釈迦に説法的なものだというのとは違う ‘吃音’の根っこというのは深いです ‘吃音’とかになるなって思うのに話をしろっていうのは、屈辱のナニモノでもないし、‘吃音’でも喋り通して、相手の態度がそのうち、ニヤニヤしてくると、やっぱりなという風に察知してしまう 細かい取り越し苦労のただその中で、繊細なところをどーにかしてうまく乗り切ろうとしてしまう 危険な人々が近寄ってきて、でも周りは、もっと危険な人々しかいない、そんな冷たい地域で、どーしたら生命力を取り戻せられるのか・・・? 全くの所、わかりません そーいった世代に埋もれながらやっていくという意味です ただ誰にも理解も支援も何のツテさえも微塵も与えられもせず、ただ与えるのみです いくら説明に回ったところで、何も通じません 通訳どころではありませんでした その人がいったいどーいった教育を受け、どーいった人と接してきたのか、、、ただそれだけでした 狭い地域内で、かたつむりのような行動をしているだけのおばあさん達に その行動様式をやめなさいと云っていてもムダだというものでしかない もしかしたら、ちょっとは違うことを考えるかもしれません ですが、昔教員だったとか、昔は●▼■だったといった方々だとか言う身分的補償がある方と云うのは、まったくのところ、頭っから押さえつけようとするキョウイクを相変わらずやろうとしている 虫けらのように他人を従わせていた過去の勲章が存在しているので、シぬ間際まで、そーいった虫けら同然にワタシのような存在をコキ使い、特に何らの意味も感じないし、感じていないし、私が今どーいった状態なのかの詳細を云うと、お気の毒にといった調子で、自分らの達成させたい意見を更に追加までさせるのである 意味不明である 法治国家と云う言葉が、放置国家さながらに思えてきたりもする 何しろロクな●▼■士が近くでは探せない そーいったことを云うと危険かもしれないが、敢ていえば、法▼ラ▼なんかは、何度も相談に出かけていったが、あるセンセイは、『人格なんか弁護に関係ない』とか云っていた あるセンセイは、『リコンの問題かかえてる他の女いたら、紹介しろよ』だとか、、、馬鹿にしるのもいい加減にしろっていう感じだった だから、、、いつまでたってもどーにもならないのかなって、センセイが算術ばかりを主張できる地域、これが言いたくはないが、現実でもある センセイのご自宅を拝見させてもらうテレビでもやれば、よくわかる どこかのコーチョーだったとか、キョートーだとかっていう方々のお住まい=ゴーテーに ワタシは幾度お邪魔をし、そのたびに身に余るような接待をその子女や奥方方にお受けしたが、一向に何らの悩みの解決に繋がらなかった 繋がらなかったし、こんなセンセー方の暮らしをトモダチのホームレスや難民が観たら、いったいどーなるんだろ?とか、果てしなく田舎の高い山々へ逃れるのが正解なのだろうか、その快適なクラシを維持させる今だけのためには・・・そんな氣もしないではない 何か専門性というものが、地域とは掛け離れてしまって、隣とは掛け離れてしまって、周りがどーなっているのかも、まったく氣がつかなくなってしまっているのではないのだろうか?そんな氣さえしてきてしまう 今何をしなければならないのかだとか、やはりもう、自分だけのいまの守りにハイってしまうのみなのかもしれなかった 未だに何の不都合も何も解消もされない現実を観ると、尚一層、それどころではなく、悩みが降り積もるというよりも、川下の方で、流れが拡大されてしまうように 人々の不都合さが、怒り心頭となって表面化してくるだけとなってしまった 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 10:01Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月09日

((w(´▽`)w))

人と人との間がどーだとかあーだとかっていう事について言えば、ただ自己都合に特化した不満ばかりが噴出してくるのでさえあって、それらがどーにも越えられない溝でもあるかのようだ どーしてこーやって描いているのだろうかっていうのも、今がどーにもやりきれないから描いているんじゃないのかなってことだけしかない ただそれがどーにもなるものでもなさそーだし、今すぐにチェンジ出来るかどーかっていうのだって怪しいし、それに始終し続けてたら、寿命がきそーだったりもする 虫というのはビョーキにかかるのだろうか?、、、とか 虫自身が重大なごビョーキで動けずになっているだとか、虫が奇形化されたやつなんかは、とんと観たことがない 節足動物のようなものだとか、今だったらショーリョーバッタだとかイナゴだとか、カマキリだとか、、、相変わらず‘あのカタチ’で変形したような形の昆虫などは観ることはないというよりも、きっと昆虫らは、もう奇形だとかいった障害を背負わされたその時点で、オダブツの何物でもないのである ムシが生きられる時間的な短さを知れば、それもその通りでもあるし、そもそも誰がいったい、こんな気の遠くなるような時間を決めたんだろう…? 時間という概念が分からなくなってくる 日時の概念もわからなくなる ‘嫌なことだとか、自分の身には永久的になかったこと’という粗悪なエピソードは、延々と先延ばしになっていってしまう呪いに鍵までもかけられているかのようでもある だから、嫌なことほど忘れやすいのかもしれない‘かも’ではなく、忘却した方が唯一のところ、身の安全を確保できるのかもしれない ただ不意に意表を突かれたようにその場面が鮮明に急に何の前触れもなく、こんな時にまで…上映させられてしまう クヌギの樹の葉っぱが、そのほぼ全部を‘こがね虫’に食潰されていた ‘こがね虫’は葉っぱを全滅にさせた挙句にその枝にそれぞれ番いになって乗っかりあっていた 凄まじい生き地獄を観させられた その脇を若いカップルが通り過ぎていった その集団化とした‘こがねの番いら’が自然に忍び寄る行動がただソラ恐ろしく感じられるのであって、それらの‘こがね’が群をなしていたのを観せられたためにその異変のようなものが感じられただけでもあり… 先ほどの時間というあってないようなもので、呪われているように思い、、、何をし、何をしないかだとか、何を選択し、何を行動するのか…?これまでのところ、意欲的にならなくなってしまった 意欲と言うものはどーやったら湧いてくるのかというのを考えてみた 安心した場が確保されてないだけの問題でもなさそーだけど、それって安心できる場なんていうのは、初めから存在なんかしてない だけど、それを掻い潜ってあまりにも、無視して生きていればいいのかもしれない 私のように深刻に考えてしまうのは、大体ヨロシクないということなのであり、、、でもだからといって、軽いノリで、これまで通りといった暮らしというものは、実のところ、何も変えられないだけでもある 変革っていうのは、凄まじいエネルギーが必要なのかもしれない ただそのエネルギーは、存在感がしないエネルギーによってかよらぬか それだけなのかもしれない 酸素不足を喘いでいたら、Feを酵素と一緒に そして、食物での栄養がうまくできない場合には、やはりFe入浴剤の登場を待ち望むところなのかも…ネ~~┗━━┛ヽ(゚Д゚ヽ) 秘湯温泉なんかにゃ、旅費交通費がバカにならないし、そー滅多に行けないもんねぇオッケー☆⌒c(*゚ー゚*) 自宅でFeとCuを含めた“微量ミネラル入浴剤”なんかを研究開発出来れば、きっとみんな欲しいと思いますが…┏| ̄^ ̄* |┛ 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 11:53Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月08日

feud

2,000年以上にも及ぶ、現行の文明に関して云えば、ウィスキーを飲んでんだか、アルコールを飲んでるんだか、口内は、炎が立ち昇りそーでもある 炎を噴く芸でもできそーだ 2,000年が長いか長くないかは別としても、ただこーいった最中に縁を頂くといった今なのであって、これっていうのを変革しようとかどーとかこーとかっていうのは、かなりムリが祟ってしまいそーですね 実際のところは、気付こうが気付きなんかなかろうが、時間は進んでいくだけであって、どーすることも出来ません かといって、何もしないでいるというわけにもいかない 始めたからには、考えられるだけの多くの不都合とか怒りだとかいった憾み節にピリオドを討たせる 犯罪の根っこは、その犯罪を犯す本人が、どーいった人と人との間を通過してきたかどーかに縁るようにも思えるし、未だに受益者負担といった障がい者等の窓口現金負担という、現ナマ思考のナニモノでもなさそーである こんなにも、キャッシュレス思想が定着してきたにもかかわらずに この医療界隈における現ナマ上位の異端視は、遍くそれらをデータベースに組み込まないといった怠慢すら感じられてしまうに至るのでも有る しかしながら、患者本位のQOLに徹し研究熱心な窓口では、いかに患者さんには、現ナマその他諸々の悪魔的な加重債務を背負わせずに済ませるのかといったサーヴィス中心主義であって、寧ろ労働者側の原則優位に動く現行の医療界の‘医は算術’とされた呪縛を逃れ、信頼の宝庫へと人と人との間を結ぶのではなかろうか・・・ 2,000年問題は、Y2Kとした難題とされ、マスメディア等でも騒がれたものの特にどーという事態にもならずに経過していっただけではあった しかしながら、こーした課題のウラに秘められた過密な個人的な・・・とおぼしき、開高さん風に言えば、“オーパ’のような暴君の死なのではなかろーか そして、どれを優先させるかどーかで、血眼になって悩み抜いてから、決定打にはならないにしても、この国に籍を有してしまっている以上、使えない資本をどーしたら使える資源的なリソースに変えるかといったものでしか、封建的なものの観えかたのチェンジにはならないだろう 前方を眺めると、アルミ缶だとかペットボトルだととか、発泡ースチロール、サランラップ様のビニール袋やなんかが引っかかって滞留しっぱなしでもある 一部では流れてはいるものの留まる残留ブツもままならない ここで、“山オトコには惚れるな” といった唄がある これっていうのは、オトコならぬ、女にもあてはまりそーである 険しすぎるのかもしれないし、“孤独”というものを生涯に渉って求める質である場合には、本来は群れるのがスキかもしれないが、実の所は、悲愴感あふるる“孤独”を求めて止まないからでもある 兎に角、シツコク付き纏われることが多かったために一人の時間が全く持てなかったといった本末転倒といった事態がやってきていた この部分は、憶測があるのかもしれないが、自分的には、なぜ“孤独”になれないのか?といった難点が遇った ただ“孤独”を求めて数千里を歩いた後にその“孤独”は、実は悪魔の調べなのではなかろーかといった疑念すら涌いて来るのでもある 強制収容所から抜け出し、つかの間の“孤独”を味わうのも乙なものかもしれない “孤独”を好むただワタシなのである ただ単なる“孤独”とかいったカッコつけたものでもなく、異端視をさせないさせない繋がる“孤独”といってもいい そんな何か人らしさが問われてもいるのではないだろうか 西暦2,000年にして蘇ってしまった人と人の間をどーしていけばいいのか・・・?この確実なる問いを求め続けて“ヒューマンフォーミュラ”は、日々のゆっくりしたペースを楽しみにしてもいるのである たかが2,000年、されど2,000年かっ\(^o^)/といった調子なのかもしれません 偶数の区切りに対する和のなのかもしれないし、異端といった不平等な開眼からは、もうこれまでにして、終止符にするのでもある そして、今在り得るシステムの検証と、動いてない役立たずのシステムに研究開発の叡智を注ぎたいものでもある それがいかにして、行動しないのか、はたまた感情ならぬ勘定さえ存在しえなかったのか、、、 疑問は果てしなく続くであろうとも、真実に躊躇いなく振替伝票に記すのでもある そんな今さながらでもある なるべくにして、持ち物を少なくしたいといった概念が動き出している ‘持ち物’というのは、自己所有に起因されたモノではあるが、出来る限り“シェア”の精神に徹するのであるのかもしれない ただあまりにも極端すぎて、誰にも理解不能たらしめても困りモノでさえある 先の“山オトコには惚れるな”ではないにしても、気象が変化しやすく、どっち付かずになりやすいのかもしれない ただ個人的には、一途な肉体といった性魏感は存在し、ただ誰のモノともつかない肉体もあるのかもしれない そんな一部とされた観える部位を奪い合っててもどーしよーもない ここでこーしているだけなら、、、何一つ達成しないし、達成なんかそんな言葉自体が存在していなかったことになりうる マジメという呪いが占拠するこの場所に いつしか慣れてしまった飼い犬のサガでもある しかも忠実にといった‘ふろく’までもがただで付いてくるのでもあった 通常‘ふろく’でもおまけでも、特に決まりきった原理はないにしろ、出来る限り“シェア”の精神に徹する事ほど有益なことは見当たらない 個人的なある一部での‘政’といったまつりごとでは、稀少な選択肢のみでは全くの所、用を成さないという本質がわかったというよりも、解っていたのである ただ単に誰もが、“聖域”の名の下に嫁しづくしかないのも現状である 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 19:04Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月03日

で、誰もいない平日に…

そーいった調子でですね、、、感じさせて頂くと、これはもうとてもではないけれども、ここではないどこかへの課題が鮮明になってきているのでもあり、兎に角逃げ出す勇気を持たなければならないのと、“発つ鳥跡を濁さず”でやってきたつもりではあります これで十分でしょ…と思いながらも、不十分だとは感じてますが、私に背負わせないでくれるかなって思います はっきりいって、重くて仕方ないです 家康の言葉が、しみじみと伝わってきますね こうなってきますと、、、不十分なところは、何とかして、ここにずっと在住し続けたいひとが人との間でどーにかこーにかして逝ってもらいたい所でもあります\(^o^)/ ヒントは色々と用意できるかもしれないけど…いかにして、全くのところ、何の用意も知識も金も土地も何もない人と人とが、その間をつなぐためには、どーすればいいのだろうかというものでしかないし、それが、原始的だろうが、未開種族だろうが、結局は先進国とかなんとかって、そんなこと言っていたって、ただ貪ってる修飾がごまんと何だとかかんだとかで蔓延ってるだけなのかもしれない またそんなことを口走ってたりすることで、あまりぼったくって気がつかないでいる人々には、それこそ好ましく思わない人だらけに塗れてる ただこれって、思わない人間はそれに手を染めなきゃいいわけだし、なんか勘付いた人間なら、一抜けたっで、早々にそんな場所から足を洗えば済むことだって感じです\(^o^)/ 叫んでるわけじゃないけど…、ヒマつぶしって言われても困るし、そーこうしてるだけで、ただあまりにも、忙しさのただその中に放り込まれてる人は、なんだか、同じ年齢にも関わらず老けこんでる印象が否めない 奪い合いって、こんなちっぽけな土地をどーこーとして奪い合ってたって、どーしよーもないと感じています それが、なぜかセンソーの原因になる 国捕り合戦とかいったものを永遠と、なんか血眼になってやっちゃってる 必要な範囲っていったいどーなってるのかな…?身分不相応なマネをしてるだけのようにも思えて仕方ない どこまで行っても果てしなく貪り続けていって、身の破滅を招いていないか…?ただこれって、自分に対して問いかけているだけであって、別に強要を迫るものでもない どこのどいつだかわかんないようなやつらに轢逃げされるっていうのが、どんな痛みになるかだとか、そいつらが、ただそこらへんにうようよとね、それこそ害虫駆除されてないんだ ただそれだけ\(^o^)/ あってはならないようなことが起きてしまっている みんなが知らないとこで毎日起きているセンソーみたいに ただそれを特に感じないで済ませるという大量サイボーグをこの世に大量生産させてしまった 少なくとも、ここから湧き水は絶え、井戸は汚染され、干上がっている 湿地がどーのこーのと叫んではみたが、あんな用もないようなとこのことなんかは考えなくていいとさえ、大人には言われたままだった 生涯こどもの私にとっては、ほんとうに身を劈かれるような出来事だった そして、いつも、、、  


Posted by このは なさくや at 12:25Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年07月01日

査某嫺

なってこった!これじゃ、シンクロみたいじゃん じゃなくって、シンクロだったとしか考えらんない ついにやっちまった 昨日のいつだったか覚えてないけど、劇物毒物に塗れた安い御買い得な商品を殺人鬼の目の前で、投げつけてやったんだ 殺人鬼は、ご多分に洩れずといった調子で、あたいに動きの鈍くなった左手を肩から使い、必死になって殴ってきた しかも、孫の観ている前での無抵抗者への惨撃、殴られ打たれを繰り返され、樹木のように立ち尽くす人間に向かい続け、罵声とともにあのドクドクしい商品を大事そうに拾い上げ、『私が使うで私が買ってきたっていうのに…こんなことして』思わず、その毒々しいハミガキ粉に頬づりしている老婆の殺人鬼 凄まじい光景 そこへ、老人殺人鬼が来て、『風呂に入れるのも、どっかへやりやがって』と言って、勢い余って、その処刑場に飛び込んできた 「そこのゴミ箱に入れた」と、あたいが言うと、ゾンビの顔つきをした殺人鬼が、ごみ箱からその大容量のシロモノを これまた大事そうに拾い上げた 拾い上げるもんが違うんじゃねぇのかなって思ってても、ムダなテイコーに処されるだけである そして、観えない風が吹き続ける そのたびに撓る動きがとれない樹木の堪え性のような砦に佇まされている やっちまった、そーいうつもりはなかったにしても、まだ一歳児だろーが、、、どー考えたって‘ギャクタイ’のナニモノでもないじゃん!私は、その良心に従って、若いギャルママ風の女に向かって行った 赤んぼーは懇親の力を漲らせてなき続けていた にも拘らず、ギョーセーの職員らや、居合わせたママ友なんかは、誰一人として、この新米ママに何を言うでもなく、何をするでもなく、一体どーいうことなんだって! もう怒りのナニモノでもなくなっていた私は、その場から、立体駐車場へと出て行ったお母ちゃんの後を尾行した 立体駐車場の渡り廊下の所で、しばらく、「なんで、お前は噛み付くんだっ!」と怒鳴り、クラシ上げて、駐車場の方につかつかと歩いていってしまった 私はその姿が見えなくなってしまったので、更に足を速めた 虚ろな目つきのその男の赤ちゃんは、ママに抱っこされていた 私は、怒鳴りたかったが、冷静沈着に対応せざるを得なかった 「あなたね、これって立派な‘乳児ギャクタイ’でしょっ」 ママ:「あたしのこどもなんだから、カンケイナイし、別に迷惑かけてませんし、あっ、さっきまでずっと泣いててうるさかったのは、すいません、誤ります」 「なんなの?その態度はっ!」 ママ:「そりゃ、泣きっ放しにしてて、そーいうのは・・・」 「あなたが、いっぱいいっぱいなんでしょ・・・?」 ママ:「もう、こんなとこで缶詰にさせられて、、、でも来週から、実家帰れることになったから、ごめんねぇ、かわいいかわいいしたり、怒ったりの繰り返しで、だけど精一杯やってるんですよ!誰にも迷惑かけないよーにって、それで、こーゆーとこ連れて来てんじゃないですかっ 一人で育ててるじゃないですか、あんたこそ、子ども生んだことあんですか?ないでしょ、ただうるさかったからって、こんなとこまで来て、赤の他人の私に注意なんかして、、、」 「なんなの?そのふてぶてしい態度はっ!」もうぶち切れそーだった たまらない怒りでわき腹から激痛が走っていた 疝痛だった ママ「こんな田舎で、注意とかしてないで、もっと都会とか行ってそーいうことすればいいじゃないですかっ、わたしなんかのことは、ほっといてくんないかなっ」 乳児に語りかけるようにして、背中をトントンさせながら、「ごめんね、恐怖だよね」なんて、私の方に目を向けさせる 乳児は、抱っこされてはいるものの泣き止んではいるものの震撼とした瞳は、灰色の戦時中そのものだ そして、こうも続く、「あぁ、私がみんな悪いんですよねぇ、この児だってすぐに叱り飛ばしちゃう 」 「赤ちゃんて、親なんか選んで、あなたのお腹の中にいたわけじゃないよね、、、あなた、男になんか痛い事されたんじゃないの?」 ママ:「はっ?男?男に困ったことないし、困ったことなんかされたこともないし、男に怨みなんかなんもないっすよ」 じゃ、どーしてそんなに自分の所有物みたいにワンワン泣き喚く乳児を抱っこするでもなく」、扇子で上から扇いでるわけ? イジョーでしょ!? 意味わかんない ママ:「私のことばっか、訴えるとか、Youtubeで世間に訴えるとかって云っちゃって、、、やればいいじゃないっすか?やっていいですよ、ほーらほーら・・・」赤ちゃんをだしにして、こちらへ赤ちゃんを差し向ける 「あなたみたいな母親がごまんといるから、大量無差別殺人鬼が育つんでしょ、わからないの?」 ママは腕にはブレスレットと高級時計をし、黒は長くストレートのお嬢様風のどこにでもいるような極々、幸せそーなママという雰囲気、しかも、着衣などからしても裕福そうなというおまけがついていた ママ:「さっきっから、私のことばっか根掘り葉掘り訊いてきて、あなたはいったいナニモノなんですか?ここの出身なんですか?そーゆーのが趣味なんですか?こーゆーことしてたら、警察に言うとかっていうのをしてるんですか?」 最後の一撃だと思って、「私は、風邪で熱が出たら張っ倒されて、背中なんか観てごらんっ、キズだらけで、こーゆー風にね、あなたの今抱っこされてる男の子みたいに泣かされ放しで、継母に殺意しか抱いてないだけ!ただそれだけ!」 クルッと振り返り、もう何も云わずに小走りで走って、その場から立ち去った その際にママは、「えぇ、怖い思いさせちゃって、ゴメンねゴメンね、ゆるしてゆるしてゆるして、、、ママのボクちゃん・・・」なんて云ってか云わずか、、、両親が揃っていることの悲劇と、、、この半年間もの長きに渡って、母は母の役割を忠実にさせられる 一瞬の猶予もなくさせられている 黙っているだけ、黙らされているだけ、、、発言権を行使させる場は何もない 存在すら認められもしない こんなんじゃ、大量破壊殺人鬼が生育する土壌を生み出してしまっているだけだ! 現実的に少子化というものは、国家がどーこー言う問題ではなく、もはや個人レベルで取り組みほど、猶予などない 然もすれば、根絶やしを推奨している本邦でさえある そして、今日も何の役にも立てずに殺人者と純真無垢な乳児を見放してしまったといった自責の念に襲撃させられた 全部、私の責任なのだと、、、そーいった呪縛に晒され続け、乳児の所有物化は促進させられていくのみである 気がつけば、本邦と呼べる人間は誰一人いなかったということになるのは、もう数年すればやってきてしまうにすぎない 早かれ遅かれ、そーいった国家になるべくしてなった そういった全体主義での全滅を意図的にさせてしまった この怨念の根は非常に深く全くのところ、たやすくそのキズは癒せはしないだろう ただ単に放置させていたのみならず、人為的な大量破壊殺人鬼をこうも大量生産させ、大量浪費させているだけであり、あとは何一つないのである 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:39Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月28日

経理がゴミ屋のチホーは潰れる

 こんなことは最初っから解ってることなんですけど、、、結局は、有能な人財を島流しにするといったものや不本意な亡命を余儀なくさせているといったチホー自治におけるコントローラーの破壊であり、これらチホーが、自分らの小っぽけな所の安全さえもたびたびチェックもせずに 突進してきて、殺人鬼を大量生産させた悪夢は、ただ単に他人のカネを当てにし依存する現状の借金体質のまま、ただ成長を諮ってだけいても、ちょっとした環境の変化によって、コロッと破綻するのが目に見えています 経営の自立性を護るというのはどーいったことであるのか 経理をどんぶり勘定で賄い、拡大均等路線ばかりで、自分達だけが貪っていたのでは、人・モノ・カネが停滞し、これらを最も必要とするチホーが、不眠症を強いられているといってもよく、それらが未だ、何らの解決にもなっていません 何もチホーの病巣を突こうとしているわけではないのですが、チホーというものは、病気にかかってしまった患者のごとく、何ら機能してないので、自分が病気なのかどうなのかも自分自身では判断がつかなくなっているといっても過言ではなさそうです 本来であれば、日常でも、様々なビジネスを行なう者同士は、お互いに相手の立場を考慮しながら連携して仕事を進めていくのが本来の姿です ここでは、営業が製造のことを理解したり、製造が購買の立場をわかるために、経理の数字が在る訳でもあり、家庭でいえば、家計簿ですが、単に家計簿といっても、一週間だとかいった、お金の流れを記帳しているだとか、そのお金がどこにどー流れていくのかだとかいったものを把握して、生計をたてている人間と、全くのーてんきで、何らそのようなことは考えもせず、ただあったらあるだけ使いきってしまえ!といった浪費の家計簿が繰り返されているだけです 特に家計を与るといった台所に立って考える場合に 非常にシビアかもしれませんが、毎日の食卓について、どういった考え方なのか?果たしてそれらは、充分であるのか?モノが棄てるほど有り余っている上にまだ、製造の労賃が欲しいから、食べてくれっていうやつが、ただそーした流れの中に引き釣りこまれてしまっているのかなと インフレに打ち勝つための財産の目減り対策や、副業の損得や、今回のボーナスで何を購入したかだとかっていうのは、そもそもこのような経理知識の脳がある人と、まったくそんなもんは、気にしないやつらとでは、チホーにとっても、あらゆる成果物に極端な差が出てしまうのは、必然といっても言い過ぎではなさそうです 私もこれまでは、夥しい‘伝票’といった類を扱って参りました 通常‘伝票’には、三種類の伝票が存在します この三種類の伝票がこれまでのカネの流れにして可視化させてみたら、なんと、吃驚を通り越しそーな按配でした 中でも“現金の受払いを伴わない伝票”が、突出して多いということです つまり、“振替伝票”のことかっていうわけですが、、、入金や出金伝票は、目で見てわかるけど現金以外のすべての動きは、この“振替伝票”でキャッチし、カネの流れを意識的に気付くというものかもしれません そこで、“仕分け”といった入り口に行き当たります 私もこういった“仕分”といった、七面倒臭いような仕事は、混乱を窮めていて、あまり得手な方ではないんですけども、一応こういった事務の部分では、勤務経験があるといった状況だけです ただ私は、細かいことに気を執られる質だったこともあって、全体にこれがどー影響しているのかっていうのは、あまり考えたことなんかありませんでした と過去形にして、先ほど営業が製造と繋がるとか、そういった他部課ともお互いの立場を理解しあうための経理であるといった内容に注目するならば、身近な地域やチホーでも、そこで暮らしている人と人の間が、生き生きとした活力のある場へと変化していくのは、当然ともいえます 具体的に何が言いたいのかといえばですが、内部管理に重きを置く決算書作りではなく、積極的に外部報告をしつつ、しかもそれらが、説明責任を果たせる決算書でなければ、何の意味もないということだと思われてなりません 経理の入り口での正しい“仕分”が、経理上の取引である経営活動の一環であり、それらに莫大な出口である、貸借対照表や損益計算書の数字に影響が面に出てしまうのですね 私も個人的には、こういった何か自分の資産をたな卸しして、生計を立てていたのだけだと、自分はいいが、近所だとか、それこそチホーだとかと連携させて頂くと、‘一般には取引’などとは、とてもいえないような甚大な損害が、もう生まれた時から発生し、それらの伝票を起こし、仕分作業を怠っていました ですから、資産は目減りし続け、尚且つそれらに伴う費用は、上昇するばかりです 考えてみれば、このようなトレーニングは、誰からも教えてはもらえませんし、たまたま経理がわかる本という本との縁によって、こうした具体策が解りました だから、自分で体験しつつ、自分でどこがどーわかってないのかというものが、明確に解るようになります 以前にも、マインドマップというものを描いているといったのは、出来るだけ、人災とかそーいった理不尽なめに遇った場合に どーしたらそんな状況を変えられるのかっていう場合のために何らかのお役に立つのではないのかなっていう良心だけです つまるところは、自分の今ある現状を振り返ってみて、例えば甚大な処刑に遇っただとか、これは自分にしかわからない何かシビアな案件とかを具体的に“振替伝票”を起こして、仕分けするといった可視化というものが重要だなって思われます これは、みんなに言えることだろうなって思います どんな人もそういった何らかの過去からの積み重ねがあるはず だったら、それを数字に置き換えてみたらどうっていうことだけです そして、私の家には、また甥っ子が遊びに来て、河原でハチに刺されて、おんぶしてといってせがまれ、おんぶしてたら、「ママに刺されてこと云わなきゃ」と気にしてた 「パパなんか、頭とか、毎日のようにハチに刺されて大声で泣いてたよ」って話したら、絶句してた甥だけど、ハチの毒も、有り余り過ぎるこの甥っ子のエネルギーを多少静めるための鎮痛剤のような感じもあったのかな けど、見事に腫れてしまって痛々しかった 刺したハチは、死んだのかな あまりにも、草ボーボーでその姿はわからなかった 甥っ子は、ジジが採ってきたかぶとむしに目をキラキラと輝かせて、「こんなの初めて観たっ」といって、はしゃいでいた かぶとむしをお家へ持っていくといって、ママに懇願していたけど、ママは、飼う場所がないから死んじゃうよといって、おじいちゃんのお家に置いてあった方がいいよと宥めていた 後ろ髪を引かれる様に甥っ子は車に乗せられてチャイルドシートに座らされ帰っていった 来週は、甥っ子の無認可保育園に遊びに行くからねと約束をしてしまった どーだかわかんないけど、遊びに行こうかな・・・ 小さなときっていうのは、その体験が一つ一つ、貴重なことかもしれないから・・・ね 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 15:05Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月24日

オゴポゴ

どこまで相手の身になれるかどうか・・・そーいった酉でのようでもあり、自然界の掟とでも云うべき仕組みなのか 日中は、ラベンダーが一面に咲き乱れる山肌の公園で自分自身を取り戻した 私なりの個人的な表現で言えば“チャーヂ”かな ラベンダー株の一つ一つは品種が異質なものが混ざり合っていた そして、例によって、そのただぴろい公園内は人っ子一人いないような状況でもあった オニヤンマかシオカラトンボの抜け殻が確認されて、グロテスクな感じに襲われた ジャンボだったからだっ! ミツバチやくまんばちなんかも、せわしくワークに励んでいた 所かまわず、ラベンダーの蜜を漁りまくっていた 凄まじい光景だった 相変わらずモンシロチョウたちは、空中ダンスに明け暮れているようでもあった 楽しそうだった あの蝶らの行動と云うエネルギーと云うものは、華麗でさえあった そして、巨大なトンボというトンボもすばっしっこく、ビデオカメラに収まったのは、ほんの一瞬に過ぎないので有る 時間的感覚というものが、のろく感じられて仕方がない 時間が一行に過ぎていかないと感じてしまう 何故なのだろう・・・?その辺がよくわからない 随分と以前は、時間が足りなくて困っていたように感じられた時期も通過してきたように思う いまは。ありあまる時間という概念というところなのかもしれない 自然に返るという表現は、ちと大胆不敵なのかもしれませんが、大地の懐である土壌への思いを馳せるというか、やはり大地に抱かれし我が身みたいなのを必然的に感じさせてしまう 感じないではいられないっていうか・・・ ところが、森林へ入ってみると、その笹だとか雑草だとかの葉っぱが、レースの様になって穴が開いてしまってる 人間さまの顔色で言えばね、毛穴が開いっちゃってる んなダメージというか、何か変哲さながらの中にも、異変を感じずにはいられないようなそんな状況である今だったりして・・・ 穴開いてるだけかってんなら、まだましなんですけど、ところがどっこい、それってどう観ても益虫が貪ってあけた穴には観えないんです ってことは、駆除しなきゃなんないっていう対策委員会を開くかですが、、、やっぱ空気が濁ってきてるのかも・・・そんなので、空気感染するバイオハザードさながら・・・ 生き残りを賭けた七転八倒が繰り広げられてしまってる 一人で生き残ってっても、、、虚しいなてな感じがします けど、現実はね、そーとー厳しいしキツイですね こりゃ 安心が時間ではたやすく確保できないし、安定供給なんかはもっての他で、安全っていうことになってくると、私を個人的なデータベースで例えると、ほっといてくれないかな、、、だとか、コロコロと気まぐれにしてないと、常時不安だからでもある こうして打ってる最中でさえも、だけど途中で、急に行動を換える というか、全く意に反した行動を促す 思いつき病のようなもんかもしれない ただここが、目下のところ、拉致された強制収容所で、『具合わりいだか』といった拷問を日常的に浴びせられてもいる風なんで、そこのところが、もっと不安に輪を何重にもかけさせられているといった点においては、あまりにも極限環境であることに間違いはなく、然もそれが精神的、肉体的、経済的の三点セットに及ぶ そして、それは続いていく 不自然なまでに続いてしまう ただそれが、治癒を目的化していたりだとか、努力目標値を設定させたりだとか、他のケースと比較の対象化されたり、出来具合についてを更に評価させあうような、、、こんなんでは益々にして、体内時計は狂わさせられ、人は必要としないさせない主体性だとか、前出の三点の武器をもって自立ならぬ自律なさしめるといった、何か本来の自分自身を取り戻すとか、自分の内側からにじみ出てくるような精神性の深さといったものは、やはり安全な場が確保されない日本という国家体制では生命力のあるものというのは生まれにくくさせてしまっているのではないのでしょうか 外部圧力が強い、特に家庭にあっては親の権力、しかもほとんどの場合は、女親の権力、そして学校であれば校長の権力というように権力の方向性が決定的瞬間を左右させているしさせてしまっている ‘絶対君主’を遵守するという全体主義 行きたいときに来ていいとか、自由にはならないしなる余裕のある受容れ場所は極僅かな人に知られているのみであって、本当に知らなければならない知らせなければならない誰かには、運命の名の下での制限が敷かれている 常時、大丈夫って思えないし思わなくさせられているのが今であったりしている 全体主義の中での号令に従えないモノらは、強制収容所に閉じ込められてまま、灼熱の太陽を浴び、幌をかけられ、水も食料も与えられずにのたれジネ!と云う顛末が待っているだけでもある どこまで相手の身の上になれるかとは、どれだけその厳しい状況を共有できるかどうかにもよる 有り余る貪りの地獄絵図を上映させられ続け、後は共感者はなし 上映が繰り返させられているにも拘らず、誰も観ないし、知らないし、ヘンテコすぎるから、みっともないから、治せ!という命令が下されてしまう それっていうのは、お前らの感覚そのものなんじゃないのですか? ただこーいったタブーは沈黙を通すのみである あなたの弟は、生きたかったのに夭折、それをなぜ、あなたはその弟の死に恥じないように生きようとしないのだろうか? こういった事を感じないではいられない もっともっとこの暮らしを何とかしようっていう精神活動が出来たかもしれない それは、なかったことになる それまで生きた証しは、ただ単にやっぱ、在ったねというだけだ あまりに夭折された人間が軽々しく扱われていないだろうか 誰も弔わず、誰も悼みの志を知らない そして、そんな人間だらけ、命令を忠実に聴かされたサイボーグが蔓延っている 再び人間にしか出来ないとは・・・? いったいどういう感覚なのだろう? 冷血な肉の塊が転がっているだけか、フリーザーにガチガチになった臓器か、脳はスカスカだが、外見上はどーってことないやつか、、、オゴポゴを観た瞬間なのかもしれない 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:51Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月21日

厥 陰

子どもが親の自分よか先に亡くなるとした震撼とさせた恐怖は、親になったことの有る方にとっては、脅威のナニモノでもなさそうである おたまじゃくしが空を超えて舞ってきたかの異常現象を報道されるが、とある田んぼに大量のサギがいた そのサギらの一見は、まったく制限なく無尽蔵の極みである個人的な判断下での御墨付き農薬や化学肥料等で汚染窮まったおたまじゃくしを喉の奥に垂れ流しにさせ、どこへともなく飛び立った されど、おたまじゃくしらは、そのサギ集団らの胃で、無事消化させられることなく、嗚咽と共に嘔吐物となって空中を散歩さながらの現象が巻き起こした行動様に推測されてもいう ペリカンだったら、その口腔内に存在する巨大な伸縮袋の機能化なのかもしれないが、、、サギ集団らの行動を観るにつけ、不可解な餌付けを余儀なくさせられてもいた あのサギらのカモメ様の飛び方だとか、今は至って、ツバメが低空飛行をしているだとかが確認されてもいた 大きな蓑虫の巣を見つけてしまったかのようなものでもあった そのみのさんは、モゾモゾと枝葉の隙間にぶら下がり健康法のような風袋で、ぶら下がっている 掻き分けて見ないと、通常だと確認されないでいる 唾きのような泡化された昆虫の巣も在った ただ在った それを無謀にも、その辺に落っこちてた棒っきれとかで、つついたりしてみると、尾を黒光りさせた幼虫が海の岩陰にいた昆虫のような動作をただしているのだ 寧ろ其処ここにそーいった世界がただ在る 有り余るほどに存在してもいた 昆虫にとって鳥の存在は脅威のナニモノでもない 昆虫が逃げ惑うその短さは、鳥の瞬間の動作に敵うはずもない 烏にしろサギにしろツバメにしろ、鳥が拘る糞害には困り果ててもいるのが実情でもある 鳥の糞には鳥がいったいどんな昆虫を戴いたのか、、、すべては解明できてしまう 鳥が嘔吐してしまう程の毒キラーとはいったいどのような人為的なシロモノなのだろうか・・・ そして、たまねぎやにんにくの殺傷能力の凄まじさを堪能させられるに至った あれほどの殺傷能力を極めたものを地産地消させようとするのだから、毒々しいのも当然でもあった 噴霧器に入れるのは、そのたまねぎの卸汁で十分に通用したし、有機栽培元のにんにくを土壌に埋めて置くだけでもあった 何はともあれ、子どもが先に亡くなるなんていうのは、心臓にも脳にだって悪い出来事そのものである それをいつも感じながら、この一瞬をただ在るといった身上のために 何かを存分に楽しむだとか、、、何かに夢中になれるだとか、、、何かの虜になるといった領域は、単なる想像上や、出会った人々の行動とかからしか、実のところは分かっていないのである それが相当に恐怖心を倍増させてもしまうに至った 然るべく、毒性の極みを殺人鬼が運んできて、無尽蔵に噴霧させて喜んでいる地獄絵図は、今日の天候に助けられて、観ることはなかったが、また晴れて乾燥ピークがやってきた際に またかっといった調子が再演されるかと思えば、やりきれない この分では、死ぬまで続くだろう 蓮華合掌   


Posted by このは なさくや at 19:56Comments(0)ヒューマンフォーミュラ