2009年05月14日

light and shade

世の中の動きに時々ついて行きそびれる ついては行けないと言った方が正解だった 周りを見渡してみても誰もいなかったことの方が多かった 視界では確認が困難だったが、そこには移りゆく自然界がただあった  私と同じ病名の人々が早々といのちを誰からも拾ってはもらえずにバタバタと逝ってしまうことに本当に感極まり難い空間を観てしまうのは私だけであろうか もし日本の教育界が、出来なければ宗教界が、出来なければ個々の家庭が、男の子、殊に長男に背負わせるレッテルみたいなナンバリングを外せたら、どんなに空気がうまくなるかと感じてしまう そーいえば、昨日だって大型スーパーでの食料品売り場で、まだ5歳児ほどの男の子がママにきつく、大きな張り裂けんばかりの声で叱られて叩きのめされていた所に遭遇してしまった 男の子は「きゅうりを買わなきゃ」と言ってきゅうりの置いてあるところから離れずにいた ところが、ママは「きゅうりなんか誰が食うんだ」とかって、魚売り場から大声でイカってしまっていた 怒り狂いながら、きゅうりの場所まで駆け足で向かって行き、その男の子を頭を小突いて首を引きずりまわすようにして、私の眼前から遠のいて行った 震撼とした その後も、この親子が現れるのは、私のすぐ斜め横にぴったりといるので、会話が聞こえる 小さな声での会話ではなく、もう5m先でも聴こえるような声なのに隣にいる どうも、この男の子は上に姉のいるような長男らしかった 私は別に聴くつもりではなかったのだが隣にいたし、聴こえてきてしまった 所有物の何物でもなかった 肉や加工食品やジャンクフードに入り浸って、その中でさえも厳選しているようだった 厳選してもしなくても同じような氣がするのだが、そーしていた この時には、もう眼前からがかなり遠ざかっていた 考察をするわけではないが、どうもりんご★家のようだった しかしそーいった詮索はしない なぜそんなにも長男を叱り飛ばし、路線価に乗せたがるのか? ただそこら辺を感じる まだ幼児だとか児童だとか、そーいった時分には特段の意識はなにのかもしれない しかしながら、このような悪しきマザコンの醜態は社会人となってからその人格形成の歪みが噴出してしまうに過ぎない このようなことは蔑ろにされている 一部の人々しかわかっていない 全体の中に小さくなって埋もれているだけだ 中国の人が劣悪な住居に住まわされ、低賃金の御犬さまや御豚さまよりもヒドイ扱いをされているのと同じようでもある 私はこの眼で観てきてしまった 観ようとしたのではなかったが、そこにはそーいった映像が広がってしまっていたのである 本末転倒とはまさしくこのような映像でもあった 日本人のやりたがらない仕事であったりレイバーさながらのワークをとても喜んで、誰にも知られないように楽しくやっている どうしてこのような崇高な人間になり得るのか… 驚嘆せざるを得ないのである それも、在る日には、自分の方がどー考えても給料も、なにもかもが低い貧困と呼ばれている環境でありながら、もっと多くの賃金労働者の日本人に施すのである 何を施すのか ありとあらゆることを施すのである もうこういった進化の世界には、慈しみしか生まれてはこないだろう 蓮華合掌
  


Posted by このは なさくや at 19:56Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年05月14日

L D

幼いカラスが事故に巻き込まれ、その被写体が平らになってしまった あまりにもギャーギャーと泣きわめく親からす達の深刻な叫びに動揺を隠せずにいた それらは、あのLethal doseが関連しているとしか思われない ペシャンコにお陀仏化された幼いカラスは、毒性に脳が身体がマヒしていたのだろうと…思われてならない でなければなぜ、あんな軽トラの下でウロウロとしているなんていうすばしっこいトリの芸当ではなかろうに 親ガラスは、その最後を信じたくなくて、ギャーギャーと鳴き喚き散し、正気の沙汰ではなかった 凄まじい勢いで、ひき殺したジジめがけて、飛びかかってきそうな感触すらあった もうあの幼いカラスは、この世にはいない カラスが死んだら四次元の世界に逝くらしいから、カラスの遺体は観たことがないんだよって、何かのセミナーで言ってたけど、河原に叩きつけられてフワフワとした幼い毛で覆われ、仰向けで口から、首から流血を観た 目玉に至っては潰されてその外枠が確認できるのみになってしまった 誰もいなくなってから弔いの準備と悼みの線香に火を燈した “幼くして逝ったカラスよ、どうか恨まないでおくれ この全体主義が齎したこの画一化された収益重視の日本での教育の劣悪なる質だった 幼いカラスには何ら関係のなかったことであり、ほんとうに切なく、かけがえのない子供を失った親がらすよ、どうか仕返しをするとは考えないでください、ほんとうにお悔やみ申し上げます” 悔やんでも悔やんでも悔やみきれぬ現実を受け入れ、‘赦し’とはいったい何であるのか? 何がいったい‘赦し’なのであるのか…見極めたく感じさせて頂く 私自身の御身で恐縮ではあるのだが、やはり歯を折られたなどというのは間違っても氣がつかなかった記憶でさえあり、あの終★処★場でのジェノサイドとの因果関係を問われることは先ずなかったし、誰一人としてこの真相究明には加担したくなかったのである ですから、国際法にての然るべき対応を加味しつつ、準備をしなければならないのでもある 真実はどこにあったのだろうか…? いつまでも野晒のままにしておくことは、今後のかけがえのない見ず知らずの生贄を遍く増加させてしまうに過ぎず、誰かが強い意志を持ちたい これだけを今は語ろう そして、真相が明らかにされつつある時に どんなにか不屈のその中におられる友なき友の声なき声がゾロゾロと噴出してくるか あまりにも残酷過ぎた そして、あまりにも長きに亘ってしまった これからだってもっと長い時間を弔いに費やすことにもなる だから、精神の深みのみで活動をしていくよりほかには何もない あるがままといった意味は、現行の体制に付き従うだけといったことになりがちである というよりも、そうであった これが自然の流れというような本邦のさびしい捉え方の顛末だ 中国的思考では、老子ならびに荘子が聖人として、経世の変革を促した 陸続きではないがゆえに集団やまとまりやその中での‘竹槍で一突きだっ’といったあまりにも直ぐに結果を出させようとする野蛮な国民性が教育の賜物として浮き彫りになっていないか まだどこかの国家と陸続きであった方がまだ学ぶことが多かったのかもしれないが、そーいったことはタブー視され、また現行の体制に順応させるのみを推し進めていたのみにすぎない 結果的には、あるがままの状況に単に身を任せただけの日本人特有の自然観がそもそもそういったものであったのだ 出典:人生と仏教 伝統の再発見より 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 10:22Comments(0)ヒューマンフォーミュラ