2009年05月05日
シベリヤの民話
シベリアの民話に‘サビシイ小屋のモスの女’なんていうのがある 私はこの民話をおススメする なぜならば、私も同様の経験があるのだ こういったことは、時空だとか国家だとかそういったあらゆるジェネラルを超越しただとか、ざっと観た感だとかの風な氣がしてならない 平気でそうする 何か歴史的背景だとか、文化的なソレは一切無視を決め込む ‘サビシイ小屋のモスの女’は、ひたすら庚申の夜の出来事のような迷信に盗りつかれてしまっているだけなのではなかろうか・・・、兎にも角にも、ひねもす、盗まれるのである 何故こういった事態が起こるのか? これはやはり、布施に関連性を帯びているのは間違いない ‘サビシイ小屋のモスの女’は、いったいからして、裕福なのであり、それらを無自覚のまま、現時勢に押し込まれているように感じられて仕方がない 即ち、だるまさんが転んでいるとかいたような迷信は拭い去ろうといった観点なのかもしれない じゃんけんを推奨するのだけれども、勝敗のないじゃんけんをすることに最大の意味が隠されているのである ただ、結果ばかりを要求されている人々なんかには、到底理解は不可能に達するのかもしれない だから、繰り返す必要があるのではないか・・・? 反芻するという意味である ウシだって、草を何も繊維のカタマリを飲み込んでいるわけではなく、胃からまた口まで戻し・・・を幾度となく繰り返しているのである ウシに引かれて〇〇〇という類は、そういった解釈が、大儀的には在るのだ ここでまた‘サビシイ小屋のモスの女’に戻すが、一旦は諦めに転じる どうしたって、諦めようがないけれども、潔く諦めの境地に赴くというか赴いて観る 冷静にだ だから、一呼吸置くとかいうものなんだけどネ この間を置くことを出来ないし、出来るのにしない奴らが多くを占めている氣もする 自分は孤独でどーしたら善いかわからんとか、泣き言をホザいている前に ‘孤独なりに出来るウィークポイントが在るんだ’というヤツを自覚すればいいだけだ そんなヤツばかりあんんだから、同じような立場にはなれるじゃないかっ! それはね、例えば、10年生きてきたとか、30年生きてきたとか、そういう証しだとかは、精神科でものの3分で凝縮して聴き取る、ある意味事情聴取ではないわけで、10年なら10年、いやそれ以上なのかもしれないほどの息の詰まるような濃いい詳細が噴出してくるといった有り様でもある 然も、ホロコーストなんかを辛うじて生き延びてきた人々なんかは、もう化石に転じるしかないわけでもあるよね つまり、地層化される他は手立てが何もない 普通地層というのは、圧縮されつつあるんだよね どこもかしこも同じなんですね、コレが・・・、再び‘サビシイ小屋のモスの女’から伺い知れる情報とは何ぞやとかネ チンケなことをいたって考えアグネて多死社会に入門させられていくシロモノだとはいえないか 営業をしてると、人間の遍く本性が悉く分るんだよね そういった嘆きに近いものなのかなっていう経緯はあるんだよね もう何かしら、結論めいたものが出てもいるにスギないのだけれど、この一瞬の今を護っていたくて、維持させたくて、どーにもこーにも、それを貪っているだけじゃねーの? といった氣がしてくる 聞き耳頭巾を皆が一斉に被ったらどうなっちゃうんだろうね? 私なんぞは、そーいった危機感だとかリスクに塗れているわけでもある そーいった詳細ばかりを紐解いていたりもしている 然もそれが生涯学習になっちゃたりもしている いいよね そんなこんなで生き延びられてる世襲は・・・ね ‘サビシイ小屋のモスの女’なんかは、相変わらずなんだよね、結局 マザーテレサが平和賞だとかを与えられた日、私の身の上には何が正気していたと思いますか・・・? その映画の公開のその日に 私の眼は見えなくなったんですよ マザーテレサが、その賞といった権力行使みたいなのを欲したが故に 幼い私の視界が寸断された訳です 凄まじい威力を感じさせても頂ました こどもの頃に・・・・・こどもの時代は、ゼロミッションだったとしか伝えようもない 唯一、こどもだったのは、この私のみだったかもしれない みんな成熟していくのがあまりにも早かった それゆえに驚愕やセンセーショナルを感じずにはいられなくなった それが過去からケルンさながらに積みあげられてるだけだった ウラメシヤの世だよね、きっと・・・ 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at 17:47│Comments(0)