2009年05月25日

解法

 公式を何かとか、考える以前の取り組みに様々な“定義”に関する軸にも触れていかなければならないあらゆる公式といったものはよく覚えてあって、おりこうさんの誰でもが公式には詳しいのであるが、肝心なこの“定義”が忘れられてしまっていたd_(>o< ) ヨクデキマシタァー!のでは何にもならないからでもある これらの定義が◇◇◇であるならば、だとか、ゆえに◇◇◇だとかそーいったモノである 私はこれらを敢て、数字化はしませんが、数字の得意な方々は時系列で現してみてください そもそも、なぜ人間性の公式が必要に迫られたかといった事態が発生していた 人道を何か説いてきたことそのものに何らかの疑問が噴出してきたのではなかろうか・・実際、事件や事故は何故起こるべきして起きてしまうのか?しかも、それらのほとんどが、人為性を帯びているように解説を付記される あくまでも人間が何らかに、もう少しだけでも注意を払っていたり、その行動を起こす以前に何らかの学びがあったなら、そんなとんでもない行動をとらなかったであろうということにも匹敵するのである つまり、快楽に感けただとか、普段からの怠けた態度や他人を自分の支配下に独占させるだとかいったゴーマンな揺るぎのない態度であっただとか、子ども時代を振りかえると、‘わがままを押し通す’というキライがあっただとか、今の義務教育そのものの集団生活による軍隊化とした流れ、一種のあまりにも抑圧的で画一化された時系列の中に閉じ込められている家畜化された時間を過ごすことが、6・3制に及んでいる 保育園だとか幼稚園だとかいったのまで含めると、10年以上の期間をそーいった時間軸にねじ伏せられているのが、現状のスタンスでもある 統制化されたといった方が正しい表現なのかもしれない 誰もがみな疑いの余地もなく突き進んできた時間の流れの中に強制的に入れられてきた 一部の不登校になったといった時間を過ごす人間については、特異性をもったものといった観点を強いられた しかしながら、よくよく考えてみれば、統制化の軍隊的な教育体制にねじ込められていた期間といった異様な時間で過ごせるということの方が、よっぽど異常事態だとはいえないだろうか 少なくとも私自身は、これら人道的な公式を考える視点からはそのように汲み取られてならない むしろ、不登校で学校に行かない選択をしただとかいう方が正常な感覚なのだ しかしながら、道具を使えなくなってしまったり、自然界での動きがまったくわからなくなってしまったり、如いては今日の天気がなんだったのかさえも知らなかったりといった感覚でその一日づつを繰り返し積み重ねているだけで、こんな風に人工的に慣らされてきた子ども時代彡(-L-彡)を同じように経過させられてきた人々が、他人の痛みを分かるだとか、気付くだとか、そーいった感度は、そもそも養われてはいないし、自然界から遠のくようなことばかりを強いられてきたのであもある この不幸は、取り返しのつかないことなのではないかといった戦慄を感じてもいる なぜ、極悪ともとれるような行動をするのか?喜怒哀楽がそのまま、そーいった行動に出てしまうのか?感情と行動の一致とは、そもそもなんなのか? 感情と行動の区別を司る唯一の機能とか、習慣だとか、倫理感だとか、それはいったいどーいったものなのだろうか?というモノでもある 他の一般的な方、特に団塊の世代と呼ばれて久しい方にお会いさせていただくと、二極化しているのが、この教育といった捉えかたなのかもしれない 一方では、大変に感じているが、その他方では、教育だとか学びはまったく不要であると云ってしまっている 特に女性の奥方の方には顕著にこういった傾向が見られてしまうのである このような中年の方々の教育に対する危機的な感覚の差といったものが、われわれ子孫のギャップとして報いられてもいそうである 自分には学習は必要ではないが、子や孫には、馬車馬のごとく学校へ行け!勉強しろ!と威圧的にさせてしまう 悪しき‘棚上げ症候群’とでも云うべきであろうか・・・ なので、実際にところは、こーいった奥方が、どーしたら学習に意欲的になれるかどーかといった視点も重要極まりないのではないか?たまたま、介護を任されているからそれどころではないだとか、遊びに忙しくて学習には価値を感じないだとか、益々そーいった哀れなジャンクフード世代が激増していく ほんの一握りの人々が分かっていたりするだけで、あとの夥しい民衆は、どーってことなく貪りの境地に腰を落ち着かせて喜んでいるというか、一喜一憂してしまっているに過ぎない その中での底上げをいかに工夫できるかどうかに掛かっている そんな風に感じている 先日また聴きであったが、24時間営業のファミレスに深夜、どー見ても60台の夫婦と、その娘、その赤ちゃんが、隣でなにやら食事をしていたという ただどー考えても食事の時間ではなさそーだったが、その娘はジャンクフードを食べ、赤ちゃんは冷房に曝されながらにも係わらずおくるみにくるまれているでもなく、薄着でくしゃみをしながら、その長いすに置かれたまま、落っこちそーだった((;゜Д゜))という 何かこの赤ん坊は、単なる飾りであったりそれらの一部のような感覚でしかないに等しかったそうでもある 少なくともこーいった祖父母や母親らの周辺の態度を観つつ、次の世代はそれらの情報を偽りかそーでないかに拘わらず忠実に伝えていく(  ̄ー ̄)ノ◇ ザブトン1マイブンダネ のみであるのは間違いない 特異性といった一種の言葉の彪のようにくくってしまってもよいのだろうか? ただたまたまそこにそーいった人々が存在していたといった事柄で片付けてきたに過ぎない こーいった脆い人間性に陥っている教育のなさない世帯の多さ いったい、教育がないというのは、どういう意味なのか? ただ単に掛け算ができないとか微分積分がわからないだとか、漢字をしらないとか読めないとか書けないとか、そういった単純な事柄ではなさそーである 表題に戻すのならば、この“解法”なのである こういった定義の中には膨大な項目が存在してくるかもしれないし、分けることは出来そーで出来ないのかもしれない 意識して変化を起こすというよりも、ガラッと転換するのは、楽だけど、戸惑いも多くなる ただ自然にしておくというのは、やはり時間はかかるだろう しかしながら、現状維持が困難な状況になるのは、もう目に見えてしまっている そういった疲労は予想していたのだ 予想といった頭の中で考えていただけで、その予想に対する準備を怠ってきたに過ぎない 準備がいったいどーいったものか?だとか、全くのところ予想とは食い違った展開が起こってきただとか・・・ 自然界には起きてしまっている ただこれだけは◎◎◎をつけよう 蓮華合掌



Posted by このは なさくや at 09:00│Comments(0)
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