2009年08月10日
慧眼
22:39 2003.03.06
ゲンバの切実な声と言うものをお聴きさせて頂くという使命だとかといった、色んなカテゴリーとしてのリサーチをしていく まさに駆け足で、それがてっとり早いやり方だと思う 名乗りを挙げてしまった以上、そうこうしながら改めていくよりないんだ 決して間違いではない ただ住みよい社会を構築することに徹する その部分に尽きる 何らかの枠などは取っ払っていく 防犯対策を教えてください でもいいし、こちらサイドの質問であるQが、多岐に渡ってしまって、果たしてどれだけ答えてもらえるのかどうか そこから始めていかなければならないのではないか こういうのは●▼■家の仕事だとか云う決まりきったパターン化ではなくこう感じる 様々な虫達が活動体勢を整えつつも模索を始めるこの日に、必要な部分は残していく、不必要な機能していない部分の絞込みをし、それらの生業を実態として可視化しておこう そんな感じの準備段階であり、まだまだ滑走路に進行方向も向けられないような状況ではあるが、最もこれらに相当する料金の見直しに焦点を当てても逝かねば成らない “すべて自分”とは、、、自分が出来ないことをお願いさせていただくということ 頭を下げさせて頂き、合掌させて頂く 仕組みはこれから創っていくということであって、それらの流れは、“ゆらぎ”で変えていこう 単に“変える”というよりも、“還す”という意味での還し方かもしれない これがキーワードにも成り得るのだろうか きっと、これらは鏡・玉・刀である 顔を合わせたら誰にでも笑顔ですぐに自分から この実践しかない 質問などのQはどこにでも用意されている 近所付き合いと言うものにこそ、重大なる落とし穴が潜んでいる そこで、ファシリテーターが、しかもよく訓練されている橋渡しの役が必要である 第三の人物として機能させるように情報技術をすぐさま抽出する分野を描けることが、第一要件ですらある 善い事をする人々を育んでいくということ 意志のあるイメージ画を持っている人をどれだけ育てられるかということ “すべて自分”とは、、、常にこうした面の面取りにも似た寛容な精神において、しかしながら、いくら歴史は繰り返させられてきたからといっても、実際には背負う人々が皆病んでいるような現状では、先ずはこの健康問題をどうするのかといった観点こそが重要である しかもこれらの精神的貧困課題に処する方策そのものである うまくいったとする事例をやはり真似ていかなければどうしようもない それらは、単にどこぞの怪しげなワークショップという呪いの除け方的なものではなく、きっぱりと宗教を学習し、その中から自分に合ったふさわしい宗教学を学んでから、選択するといった選択肢であって、何も生まれ落ちたところが無宗教だから、児らはそれらをその父母から継承するというのでは決してない そして、ある学齢期までは、親の信仰に縋り付くのも、致し方ないにしても、物心ついた場面では、世界の宗教学に触れる機会が多くならなければならないと感じる これまでにも、何らかのカリスマ的な怪しげな信仰といった迷信帯びるおまけつきで、私たちは臨床例の一例とさせられての巻き込まれた感も否めないのである ゾンビを思わせるこうした祟りは、スパッと切れたりしてきた 忽然としてなくなるとかいった帰依ならぬ、消えるというその他大勢に埋もれるといった能力である 全くの所は誰彼にも何も知られないのである そういった目立たない影の存在の重視をしなければならない いかに普通の中に溶け込んでいられるか・・・ こういう不思議な隠れ旋法みたいな忍術は、本来どうしたことか、怪しまれる しかし、自由自在になる人にとっては、何の不思議でもない そういったこれらに氣がつくに至った 自己解決力に導き、これらを育むには、問いかけ方の工夫だという 何か問題が起こってしまったときに「○○さんだったらどうすればいいと思う?」「どんな方法が思い当たりますか?」どのように解決しようと思っているのかという意志を大切にすること 「なぜお金を借りて○○○をしないのですか?」といった問いかけを繰り返す そこの部分での双方のバランスをとっていくのである いつもだったら、こんな少額なんかは、ちょこっとその辺でバイトすれば返せる額面でさえあるので、特に大騒ぎするようなことでもないのである だが、そうした構造にまた埋め合わせをさせられる期間というのを思えば、あれらの振替伝票と引き換えになってしまった自然の音階を乱された航空機の金属悲鳴音や、バイクの激しい爆発エンジン音や、最も恐ろしいモノでは、いつまでもトップに居座り続けて、命令ばかりをしている軍部の人事が何も変化しないことであり、その揺るぎのない悲劇は一元的な誰かが始めに訳した解釈に副った形骸化著しい ある何らかの事象とか、異常気象下での人類のリスクマネジメントやその中でも、どのような対応を行動によって示すのか、こういった過去にも起こった事態という現象は全てにおいて、その異常の名の示す感情様式さながらに多面的な検証があらゆる異業種によって論議すべきモノだといえそうである しかも、こうした大惨事と化した恐るべき事案が、八ッ墓村さながらでもある 異常感情時における行動のとり方であるのかもしれない こうした考えは、宗教なくしては語れないのであり、小さい頃の自然体験と同等に大事な教えであると言っても過言ではなさそうである ただ宗教を大声を蹴散らして騒ぎまくるというわけではない こういった疲れ過ぎた社会においては、こうした宗教的な拠り所となる精神性を最も求道するのも人間である お盆という時期がやってくる もうご先祖様は、8月に入った途端にその家々を懐かしんで戻ってきているのだという 私が特に訴えたいのは、幼子が例えば、「お母ちゃん、さっきね、カミサマを見たの」ということを云ってきた場合に 何としてもこの幼児の言葉を全面的に受容れて欲しいと願いたい 殆どのママは、バカにしてしまう 開口一番に何か、この児はちょっとアタマがいかれてしまったじゃなにのかって云わないで貰いたいと思っている人類の一人です 実に少数の人々しか、こんなこととかって思われてしまうのですが、、、ただそうも云っていられなくなってしまってもいるここでは、やたらと何かを用意してやるといったお情けにおいての精神的破錠も目立つ しかしながら、それらの解決策に当る糸口を掲示しても、ただ10万やるから、自由にお品書き通りにやれという、非協力体勢であって、話が通じる人々が身近では見つけられない いるにはいるのかもしれないが、そういう人々は集中的に忙しさを究めた人々でさえある 安全パイに住まう人々に対しては、不可抗力としかいいようもない、ただ人道という面からであれば、凄まじい暮らしぶりの改善の一助となるような考えであっては欲しい、、、それもこれもどれも、何もかもがダメだというものであって何も理解も何もしないし、今の連続を楽しむというだけであれば、それはこれまでの所と何もどうしようもないので、全滅化するのみだと感じてしまう いくらムリを承知で頑張りぬいていても、何も動かせないわけだし、何かもっともっと人数を集めてから出直して来いというので、それもそうで、みんながチグハグで喜んでいるのにネガティヴ路線の爆弾を持ち込もうとしているようなものかもしれない 穢されたといった感情が、ときたまにして襲撃した場合に いったいどんな行動をとるのか若しくはとれるのだろうか? それらがなんぴとも怪しむことすらない乳幼児の時期であったなら・・・ばだ 穢されたというのは感情であって、受けた側の行動ではない といったのは確認可能とされる 穢される側に穢してもまったくのところ、何ら無感覚というかマヒしてしまっている そんな土壌ではいったいどのような行動を皆が一様にとるのか 一時的や偶発的に突起させられた不快感情に関し、それらの行動のデータベースがどんな経過を辿るのかといった過去からの経験則は存在してはいるのだが、活用されることなく埋没させらているのみが現状なのかもしれない 突飛な課題とされた過去の演習が何の役にも立たないというのであったなら・・・こういった面倒な事態を考えあぐねているといった状況が続く 予習や復習をやらされた所で、何ら本質の課題解決そのものには何も機能しない 寧ろもっとそれらに関する異常な反芻エクササイズをしなければならない こうして、マヒ状態が必然的に起こってしまったのではなかろうか、、、そのような氣がしないでもなさそうでさえある ほぼ死んでいるといった状況といえども、その状況は人によって落差もあるのかもしれない ただほぼシンデイルといった思考そのものは、正しく何かの麻酔様な笛の音なんかは、何らの効用など成さないのは確かである そこで、穢された感といったモノは、例えば肉体とか、霊媒体といったヤツでは開きも出てくるのかな ただその両等遣いで行なわれた場合には、極めて悪質な状況のナニモノでもない 何が歴史的蓄積のその最中で災いしてしまったのか そういった危機であるリスクというものは何らかの警告等で避けられなかったのだろうか 然もすれば、こういった公といった課題は公僕に働きを任されている有能者が気付き、考え出していくといったシロモノなのであった ただいつものように結果を急ぐといったわけではないにしろ、あまりにも不自然が罷り通ってしまい、そもそも傾けねばならないベクトルが見失われてしまったとさえいえそうである 再びにして結果のツベコベとされた報告書の類をやっているのではないにしろ、娘さんは全戦よりいのちの重みを地下足袋に感じさせて頂かせて帰路に その間に一緒だったトモダチの一人に印象に残った男の子がいたという 正しくそのおばさんに当る人が亡くなったことを悼み、また噎び泣きつつ、軽カーのハンドルを握っていた 空も泣き出す始末だったし、前方の水滴が吹きつけた勢いで見通しも覚束なかった しかしながら、まだ幼かったころの何もなかったような幸せを思うにつけ、人間っていうのは、子どもで過ごすことが、何より勝る贅沢に思えてきてもいるので、行を変えてみます
丹波の山奥の寂れた寺にあまりにも多くの破損仏が、京都と兵庫に跨るその存在が確認されているという その近辺にその昔、JR福知山線列車脱線事故があり、多くの犠牲者を出してしまった これらがもし仮にあの顔をなくし、供養もされずにただ放置された仏さま集団の祟りであったならと思わさせてしまうのはの土壌についてを考えさせられるにも至るのである 限りなく傷んだ仏像の夥しさと、それらが平気で放置されている現状とに何か、あまりにも無念な社会を導かせてしまうようにも思われてならない この観音堂の仏像群が、戦後専門家集団によって、調査・鑑定がなされ、1965(昭和40)年に京都府福知山市指定文化財となるまで、これ以前にそれがどういった謂れのモノかどうかさえ、この地元人にさえも、知られてもいなかったのだという(出典:太陽)何かこういったようなその県境だとかいうような限界集落を思わせるような中間山村地における置き忘れられた寂しさvs.古代と未来の混合した現世のような悼みを感じさせる それらが現時点ではどのようなコンディションになっておられるのかというヤツは確認できてはいないが、その場にこういった置き去りにさせられてしまったものを何らかの手段でせめて、手を合わせるとかいう子どもがあったり、そういった宗教めいた動作というのを批判されはしても、ただ礼の心得を感じて生きるよう、かかわれる地域での大人が成さなければならない、こども時代に何か経験させておいてあげたい、相手を敬うといった行動様式のように感じる所でもある 最期まで忍耐強くお読み下さいまして有難うございました 蓮華合掌
ゲンバの切実な声と言うものをお聴きさせて頂くという使命だとかといった、色んなカテゴリーとしてのリサーチをしていく まさに駆け足で、それがてっとり早いやり方だと思う 名乗りを挙げてしまった以上、そうこうしながら改めていくよりないんだ 決して間違いではない ただ住みよい社会を構築することに徹する その部分に尽きる 何らかの枠などは取っ払っていく 防犯対策を教えてください でもいいし、こちらサイドの質問であるQが、多岐に渡ってしまって、果たしてどれだけ答えてもらえるのかどうか そこから始めていかなければならないのではないか こういうのは●▼■家の仕事だとか云う決まりきったパターン化ではなくこう感じる 様々な虫達が活動体勢を整えつつも模索を始めるこの日に、必要な部分は残していく、不必要な機能していない部分の絞込みをし、それらの生業を実態として可視化しておこう そんな感じの準備段階であり、まだまだ滑走路に進行方向も向けられないような状況ではあるが、最もこれらに相当する料金の見直しに焦点を当てても逝かねば成らない “すべて自分”とは、、、自分が出来ないことをお願いさせていただくということ 頭を下げさせて頂き、合掌させて頂く 仕組みはこれから創っていくということであって、それらの流れは、“ゆらぎ”で変えていこう 単に“変える”というよりも、“還す”という意味での還し方かもしれない これがキーワードにも成り得るのだろうか きっと、これらは鏡・玉・刀である 顔を合わせたら誰にでも笑顔ですぐに自分から この実践しかない 質問などのQはどこにでも用意されている 近所付き合いと言うものにこそ、重大なる落とし穴が潜んでいる そこで、ファシリテーターが、しかもよく訓練されている橋渡しの役が必要である 第三の人物として機能させるように情報技術をすぐさま抽出する分野を描けることが、第一要件ですらある 善い事をする人々を育んでいくということ 意志のあるイメージ画を持っている人をどれだけ育てられるかということ “すべて自分”とは、、、常にこうした面の面取りにも似た寛容な精神において、しかしながら、いくら歴史は繰り返させられてきたからといっても、実際には背負う人々が皆病んでいるような現状では、先ずはこの健康問題をどうするのかといった観点こそが重要である しかもこれらの精神的貧困課題に処する方策そのものである うまくいったとする事例をやはり真似ていかなければどうしようもない それらは、単にどこぞの怪しげなワークショップという呪いの除け方的なものではなく、きっぱりと宗教を学習し、その中から自分に合ったふさわしい宗教学を学んでから、選択するといった選択肢であって、何も生まれ落ちたところが無宗教だから、児らはそれらをその父母から継承するというのでは決してない そして、ある学齢期までは、親の信仰に縋り付くのも、致し方ないにしても、物心ついた場面では、世界の宗教学に触れる機会が多くならなければならないと感じる これまでにも、何らかのカリスマ的な怪しげな信仰といった迷信帯びるおまけつきで、私たちは臨床例の一例とさせられての巻き込まれた感も否めないのである ゾンビを思わせるこうした祟りは、スパッと切れたりしてきた 忽然としてなくなるとかいった帰依ならぬ、消えるというその他大勢に埋もれるといった能力である 全くの所は誰彼にも何も知られないのである そういった目立たない影の存在の重視をしなければならない いかに普通の中に溶け込んでいられるか・・・ こういう不思議な隠れ旋法みたいな忍術は、本来どうしたことか、怪しまれる しかし、自由自在になる人にとっては、何の不思議でもない そういったこれらに氣がつくに至った 自己解決力に導き、これらを育むには、問いかけ方の工夫だという 何か問題が起こってしまったときに「○○さんだったらどうすればいいと思う?」「どんな方法が思い当たりますか?」どのように解決しようと思っているのかという意志を大切にすること 「なぜお金を借りて○○○をしないのですか?」といった問いかけを繰り返す そこの部分での双方のバランスをとっていくのである いつもだったら、こんな少額なんかは、ちょこっとその辺でバイトすれば返せる額面でさえあるので、特に大騒ぎするようなことでもないのである だが、そうした構造にまた埋め合わせをさせられる期間というのを思えば、あれらの振替伝票と引き換えになってしまった自然の音階を乱された航空機の金属悲鳴音や、バイクの激しい爆発エンジン音や、最も恐ろしいモノでは、いつまでもトップに居座り続けて、命令ばかりをしている軍部の人事が何も変化しないことであり、その揺るぎのない悲劇は一元的な誰かが始めに訳した解釈に副った形骸化著しい ある何らかの事象とか、異常気象下での人類のリスクマネジメントやその中でも、どのような対応を行動によって示すのか、こういった過去にも起こった事態という現象は全てにおいて、その異常の名の示す感情様式さながらに多面的な検証があらゆる異業種によって論議すべきモノだといえそうである しかも、こうした大惨事と化した恐るべき事案が、八ッ墓村さながらでもある 異常感情時における行動のとり方であるのかもしれない こうした考えは、宗教なくしては語れないのであり、小さい頃の自然体験と同等に大事な教えであると言っても過言ではなさそうである ただ宗教を大声を蹴散らして騒ぎまくるというわけではない こういった疲れ過ぎた社会においては、こうした宗教的な拠り所となる精神性を最も求道するのも人間である お盆という時期がやってくる もうご先祖様は、8月に入った途端にその家々を懐かしんで戻ってきているのだという 私が特に訴えたいのは、幼子が例えば、「お母ちゃん、さっきね、カミサマを見たの」ということを云ってきた場合に 何としてもこの幼児の言葉を全面的に受容れて欲しいと願いたい 殆どのママは、バカにしてしまう 開口一番に何か、この児はちょっとアタマがいかれてしまったじゃなにのかって云わないで貰いたいと思っている人類の一人です 実に少数の人々しか、こんなこととかって思われてしまうのですが、、、ただそうも云っていられなくなってしまってもいるここでは、やたらと何かを用意してやるといったお情けにおいての精神的破錠も目立つ しかしながら、それらの解決策に当る糸口を掲示しても、ただ10万やるから、自由にお品書き通りにやれという、非協力体勢であって、話が通じる人々が身近では見つけられない いるにはいるのかもしれないが、そういう人々は集中的に忙しさを究めた人々でさえある 安全パイに住まう人々に対しては、不可抗力としかいいようもない、ただ人道という面からであれば、凄まじい暮らしぶりの改善の一助となるような考えであっては欲しい、、、それもこれもどれも、何もかもがダメだというものであって何も理解も何もしないし、今の連続を楽しむというだけであれば、それはこれまでの所と何もどうしようもないので、全滅化するのみだと感じてしまう いくらムリを承知で頑張りぬいていても、何も動かせないわけだし、何かもっともっと人数を集めてから出直して来いというので、それもそうで、みんながチグハグで喜んでいるのにネガティヴ路線の爆弾を持ち込もうとしているようなものかもしれない 穢されたといった感情が、ときたまにして襲撃した場合に いったいどんな行動をとるのか若しくはとれるのだろうか? それらがなんぴとも怪しむことすらない乳幼児の時期であったなら・・・ばだ 穢されたというのは感情であって、受けた側の行動ではない といったのは確認可能とされる 穢される側に穢してもまったくのところ、何ら無感覚というかマヒしてしまっている そんな土壌ではいったいどのような行動を皆が一様にとるのか 一時的や偶発的に突起させられた不快感情に関し、それらの行動のデータベースがどんな経過を辿るのかといった過去からの経験則は存在してはいるのだが、活用されることなく埋没させらているのみが現状なのかもしれない 突飛な課題とされた過去の演習が何の役にも立たないというのであったなら・・・こういった面倒な事態を考えあぐねているといった状況が続く 予習や復習をやらされた所で、何ら本質の課題解決そのものには何も機能しない 寧ろもっとそれらに関する異常な反芻エクササイズをしなければならない こうして、マヒ状態が必然的に起こってしまったのではなかろうか、、、そのような氣がしないでもなさそうでさえある ほぼ死んでいるといった状況といえども、その状況は人によって落差もあるのかもしれない ただほぼシンデイルといった思考そのものは、正しく何かの麻酔様な笛の音なんかは、何らの効用など成さないのは確かである そこで、穢された感といったモノは、例えば肉体とか、霊媒体といったヤツでは開きも出てくるのかな ただその両等遣いで行なわれた場合には、極めて悪質な状況のナニモノでもない 何が歴史的蓄積のその最中で災いしてしまったのか そういった危機であるリスクというものは何らかの警告等で避けられなかったのだろうか 然もすれば、こういった公といった課題は公僕に働きを任されている有能者が気付き、考え出していくといったシロモノなのであった ただいつものように結果を急ぐといったわけではないにしろ、あまりにも不自然が罷り通ってしまい、そもそも傾けねばならないベクトルが見失われてしまったとさえいえそうである 再びにして結果のツベコベとされた報告書の類をやっているのではないにしろ、娘さんは全戦よりいのちの重みを地下足袋に感じさせて頂かせて帰路に その間に一緒だったトモダチの一人に印象に残った男の子がいたという 正しくそのおばさんに当る人が亡くなったことを悼み、また噎び泣きつつ、軽カーのハンドルを握っていた 空も泣き出す始末だったし、前方の水滴が吹きつけた勢いで見通しも覚束なかった しかしながら、まだ幼かったころの何もなかったような幸せを思うにつけ、人間っていうのは、子どもで過ごすことが、何より勝る贅沢に思えてきてもいるので、行を変えてみます
丹波の山奥の寂れた寺にあまりにも多くの破損仏が、京都と兵庫に跨るその存在が確認されているという その近辺にその昔、JR福知山線列車脱線事故があり、多くの犠牲者を出してしまった これらがもし仮にあの顔をなくし、供養もされずにただ放置された仏さま集団の祟りであったならと思わさせてしまうのはの土壌についてを考えさせられるにも至るのである 限りなく傷んだ仏像の夥しさと、それらが平気で放置されている現状とに何か、あまりにも無念な社会を導かせてしまうようにも思われてならない この観音堂の仏像群が、戦後専門家集団によって、調査・鑑定がなされ、1965(昭和40)年に京都府福知山市指定文化財となるまで、これ以前にそれがどういった謂れのモノかどうかさえ、この地元人にさえも、知られてもいなかったのだという(出典:太陽)何かこういったようなその県境だとかいうような限界集落を思わせるような中間山村地における置き忘れられた寂しさvs.古代と未来の混合した現世のような悼みを感じさせる それらが現時点ではどのようなコンディションになっておられるのかというヤツは確認できてはいないが、その場にこういった置き去りにさせられてしまったものを何らかの手段でせめて、手を合わせるとかいう子どもがあったり、そういった宗教めいた動作というのを批判されはしても、ただ礼の心得を感じて生きるよう、かかわれる地域での大人が成さなければならない、こども時代に何か経験させておいてあげたい、相手を敬うといった行動様式のように感じる所でもある 最期まで忍耐強くお読み下さいまして有難うございました 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at 17:55│Comments(0)
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