2009年09月12日
Worship
あくまでも自己の主体性における社会的責任をとっていくという意味においては、“自利利他覚行円満”といった教えがある 上求菩提=真実のさとりの智慧を求めて生かされる自己 個人個人の特質や能力が地域社会ひいては、自然界を構成する人と人の間において、その生きとし生かされるものとなる その間には、与え与えられる施与の関係が成り立ってくる こうした中で、下化衆生で満たされていく 組織だとか社会だとかとされた中で、散々なめにあって、自らを見失ってしまっているあなたの主体性を取り戻す、自己修復といったメカニック的ではあるけれども、リカバリー期間を作ろう こうしたリカバリーの時間は、あなたのとって、個人が社会の主体であるように 相互で努力しトレーニングしあう 双方向で相手の存在をどこまでも認め合うチームが構成されていくことで、こうした流通革命期における、ムダな人間や、梵天だとかや自在天だとされるような崇められた人間などは、存在はしなく、すべての人間が、ヒューマンフォーミュラにとって、必要な存在です 俗に言う、チームの中に所属するあなた ではなく、あなたのチームとして、社会的責任を共に分配していこう 以前には、シェアといった表現を使っては見ましたが、シェアというのは、生産物質であれば、それはよろしいかもしれません ここでは、財貨の独占があったとみられる古典的な過去ではなく、チームの中に埋没しているだけの感情も行動もない能面な個人ではなく、ここまでくるとくど過ぎるのかもしれないが、高度な流通革命期の今、何よりも先ず、人間としての個人の尊厳が自律的に確立されなければならないのは確かであり、自己の尊厳といった人間的な目ざめとは、仏教でいう仏性の自覚とされている であるから、まず人間だということの品位、その人間性が、なんぴとによっても、他のいかなる権威とされるモノらにさえも、傷つけられたり、侵されるということはあってはならない 「それはなぜか」 究極的には、各人が自律的に精神的貧困の根源まで遡ってみたとき、いわゆる人間疎外や人間性の喪失が続かないような根底からのそれこそ地の底から、問い質す、基本的人権の尊重のその意味でもある 個人が何にも属さず、どこにも行き場を見失ってしまって漂流している今だからこそ、いま暮らしている地域である場での個人が、何らかの業務に従事できれば、それは、この地域の社会的な連帯責任を負っている自覚に目ざめるとこにもなっていく 地域社会は個人が、これらの責任認識を持ってビジネスに精励していれば、自然と思い通りの地域に整っていくのが理想でもある 今与えられた環境、与えられた仲間、与えられた資源、こうした天与の存在に敬意を払う 感謝ともいうが、ここではもっと献身的な意味にも用いられる 画して資本主義がそのまま、エコノミー的視点のみで、交換されるのではない いつもが同じ内容の繰り返しになってしまっているならば、そうこうしていたときに まさかの非日常で、特別なサプライズ劇場が上演されてしまったとしよう こうした場面との未知との遭遇は、私をはじめ、何らかの振り返りタイムが与えられたということになる 即ち、反省だとか、自己を見つめてみるという時間だ 非日常や非現実的やまったくのところ想定外の博打的なサプライズを空想できるかどーかにもかかってくるのだが、それらは“いかに成すべきか”であって、多くの賃金を手にしたい、ちょっとでも多くの利潤を得ての物質的快楽の経済行為が、先ずは前提にあり、この方がわかり易いし、可視化なんかもしやすい しかしながら、人間は貪欲なのか、こういった経済的行為を通じ、あなたをはじめとする精神のそれら根底において、常時自らが心の奥深くで問い続けている“いかに生きるべきか”という命題を背負わされているのも周知の如くである “いかに生きるべきか”とはいえ、特にこうした深刻な哲学的に意識して考える人は、少ないとはいえ、こうした深淵のいたるところで、考える人と何も考えないひととのバランスをいかに均一にとっていくかなども考えていかなければならないともされている これらはすべてにおいて、安定した中での秩序のようにも危惧されていた と過去形にしてみた 大樹に蟻軍団の天の川が出来ていた その天の川を見ていると、またまたエンドレスで同一方向に進む流れがある 何を運んでいるというのでもなく、大量移民を促しているような それとも、以前の住処を食いつぶしてしまったので、住処の機能が壊滅しただとか、色々と考えられるのだが、とにかくこれ以後、このおびただしい蟻ら烏合の衆は、ここではない何処かへと移ってしまった あっけにとられてもいたが、これも自然であるからショーがなく、自然界でもあるんだから、人間界にもこんなことが起こってしまうのかなっていう気もしないでもない 前出の非日常でのサプライズをどう乗り切るか、乗り越えるとかいった峠越えみたいな激しいものという捉え方の個人もあれば、とくにどーということもなく経過していくのみの人もあり、ただそんなラディカルには、必然的にはこうだ たとえいかなる主義主張が異なったとしても、万国共通なのは、人を人として大事にするということであり、慈悲心、思いやりである これこそは、あそこのチホーに行ったら、人扱いされなかっただとか、あっちに引っ越したら、人間として勘定に入れてくれたなどということは、遇ってはならないし、もしそんなことがあったとしたら、とんでもなく恥である 日本人が恥の文化を象徴としているので、いくら日本語が通用しないからといっても、こうした万国共通のコンセンサスにおいては、日本人でも●▲■人でも、誰もがおたがいに世間知らずであってはならない理(コトワリ)でさえあるといえないだろうか (出典:仏教と人生)
2009年08月27日
Odd and Even
半ば、卒業式のよびかけにも似た傾向で始まったばかりではあるが、暑さ寒さも彼岸までというように 朝夕はグッと冷え込んできた 住民がボランティアで出来てしまうような土手の草刈りや、何か‘やってます’的に音や人手が公にもわかるブルーカラーを 「住民が望んでいる、頼んできた」と、言い逃れ的にビーバーで刈る こんなムダな所に 人手と金を投入させ、本来やらなければならない事業、しかも最優先的に促す必要がある事業というモノの判断が全くできなくなってしまっている 何がボランティアで出来るのか、何が企業としてできるのか、何が公権力としてどこまで出来るのかといった視点が、すべてにおいて、利害関係、云わば管理者サイドの頂点からの指令であるのは間違いない にしても、ばくち討ちに高じているような今でもある それら因果関係を証明する事が出来なくなっている無責任なトップが事態を一層深刻さの折り重なった呪われた淵へと、あばら屋で賭博に明け暮れる その場限りのお楽しみにアブク銭を突っ込んでのお楽しみ最中だ そのご様子は、みんなが観ている あばら屋の中に一緒にいてお零れを与る側近も観える 多くの取り巻きの人々は、あぁすれば、利益といった儲けに与れるといったことで学ぶ ただ忠実に真似ている もっと多くの取り巻きだけの人々は、あぁしたら儲かるけど自分はあぁまでして儲かりたくないな、ふつうでいられることが一番だと思っっている 取り巻きの中でもその様子が、取り巻きの何重もの輪でよくわからなかったり、ここにどうして取り巻きが出来ているのかすら理解できないというもっともっと多くの人々は、何をしているのかなと気になりながらも、自分には関係ないのかなというので、通り過ぎてしまい、その取り巻きの輪からは最も遠ざかった場所や、そもそもそのような場所に出かけていくことすら困難な状況に措かれたおびただしい人々も多い ただ今は、一人で二台も携帯を保持する人や、生きていくのに食べモノよりも、JOB情報といった情報受取人らの感情は、行動へと盛り上がりつつもある みんながみんな呪われたように 誰も何も頼みもしないのに同じ方向を目指して向かってしまうのは、それこそが不思議な地籍そのものだというシャバ世界でもある 人が人の間で何が起こっているのかとも読み取れるのだが、シンパシーが得られるというその間においては、釈迦の仰られた通り、その御霊が、生まれ変わり死に変わりを繰り返さなければならないという命題なのかもしれない ただ、今よりももっと前の方が、ずっとずっと考える人類も少数だったに違いなく、それらを忘れてはならないとも感じる 例え僅かな善いことなら何でもやってみるという意識での商人を目指す 10年前にも同じようなことをやっていて、気がついたら10年前とまったく同じメンバーだった 支えるサイドの不足が顕著でもあった しかしながら、単に教育をしたからだとか、何らかの弟子になったからだとか、何だとかかんだとかといったヤツで、本当にその中で、“このままじゃダメだ!変えよう!”と自発的に主体性を持って、自らの言葉と態度で話で、“変わりたい!変るんだ!”という“変体願望”が維持できるのかどうかでもある グロテスクな幼虫だった蛹世代が長引いているといった共有財産である筈の人財として、何にもつながっていないチホー難民ならば、情報発信者サイドがあらゆる手法を総ナメにさせても紡いでいくことが、これら病み社会の精神的貧困の解決に向けたスクラムが可能に成り得るのではないか われわれは、金銭が愛しいのでもなければ、誰かに頼まれたというわけでもなく、ましてや今の今までも、セイジや企業や、そういったところが手を出せなかった分野の開拓期でさえある もはや未知との遭遇ですらあるわけで、殺人鬼や投機オタクや無差別殺傷能力を撒き散らかす隣近所や、それらの冬扶持稼ぎに一緒になって付き合っているというんじゃなく、あれらの冬扶持稼ぎは、一面的なモノであって、本来は人は多面的人格の宿主であるのを認めていくしかない というこちらサイドが“このままじゃダメだ!変えよう!”を試されてもいる ここは慎重にことを進めていくのみなのだ 誰をお得意様と呼ぶのか?ただ買ってくれるだけのひとなのか、それらは “施者・受者・施物”が、“三輪清浄”か\(^○^)/ 蓮華合掌
2009年07月30日
故松原 泰道僧侶を悼む
直接はお会いさせて頂いたというのはございませんでしたが、生前の宗教者の情報網では御馴染の常に真贋とした“慈悲の精神”ということを骨身に与えておられた方というのを感じさせて頂きます 世相がひっくり返ってしまっていく中で、それに物怖じせずに仏教精神である みんなと仲良くやっていくということ 何かこういうことが一番に問われている しかしながら、殺人鬼は激増していくばかりだったし、これら殺人鬼がその正体を現すのは、第三者がまったく観ていないような隙でさえあるので、そういった立証が困難にさせてしまうのである 人の営みという生活圏内に支障が出始めたのはいつのことからだったのか、そういった人々がそこここに必ず存在していたわけで、何も今世紀始まって以来に出現したとかいうものでもあるまいに、、、などとも思わずにはいられない こうして、あの“南無の会”といった響きからのやさしい雰囲気の灯がとぼるというモノに感慨深いものがある そして、これらを引き継ぐようにその霊媒体が、何らかの肉体即ち、目で確認できるような所に宿るのだろうか 私たちは何も何らかの生まれ変わりを繰り返しているといって、人間だけに生まれ変わったわけではなく改めてそういった事象が不思議な感じに思われる 昨日なんかも汗がひどかったし、何度も飲み過ぎで気分がムカムカとしていて、寝てもいられにような状況で、何か今朝などは目が腫れぼったくなっていて、その瞼は熱をも発しているような身体的な苦痛うを強いられてもいた あれはサッシが開いていて、高速道路のざーぁっという音声に耳が汚染させられていたに他ならない あの高速道路の走行音という公害は、夜中は特に酷さを増すのである それぞれが寝静まっているというのも手伝っているというのもあるが、このような田舎の一部でのあの聴こえ過ぎる耳への公害汚染が、不眠を強いられ続ける サブプライムローンで建てた我が家では、こうした公害は、難聴を思い起こさせるように‘何もそんな音、聴こえない’というので、そういった方々には、大変苦痛にとられてしまう 反響してくる雑音がほぼ24時間365日、休みなく絶え間なく続く 高速道路が閉鎖になるような大雪に見舞われれば別としても、未だそういったシビアコンディションはほんの数回しかないように感じられてもいる 今は悪夢を観させられているように思う ‘聴こえない、聴こえない’の大合唱は物語る 自分たちさえよければいい 常にそういう調子で地域社会が構築されてきた 特に何も問題のない人と人だけが会議で、問題は何かを話し合っているようなヒマつぶしに 単に時間を割き、それらの堆積した会議資料のみが、最重要書類とされて、保存されてさえいた 何も問題なく、問題は問題外とされるといった または、‘何か問題を見つけましょう’などということになってしまってさえいる 問題が何もない夥しい人々の生き延びる行動様式を観ているという、傍観者は、それらの観客のまばらな演劇ならぬギカイを観させられ、挙句の果てには、観ていたんだから、その感想をどうぞということにまでなってしまっている そうこうしているうちに観客がほとんど姿さえ見せなくなったりした 関心もなくなった そんな人ばかりだった そういう人が包囲しているという地域社会にあって、どううまくやっていくかが、その行事といったものや、権力で押さえつけられているような人と人の間に外科手術を施すようなモノかもしれない そして、そういったことは時間もかかるのかもしれなかった ただ私には、何か別の手法がある 人間が化学反応をしているという限り、必然的なともいえる手法でもある みんながなぜ、ある部位が脳死状態になっていったかとか、それらはもう歴然とした事実だったからだ 誰にでも出来なければならないし、誰がやっても同じような効果がなければならないのだというモノでもある 蓮華合掌