2009年08月27日

Odd and Even

半ば、卒業式のよびかけにも似た傾向で始まったばかりではあるが、暑さ寒さも彼岸までというように 朝夕はグッと冷え込んできた 住民がボランティアで出来てしまうような土手の草刈りや、何か‘やってます’的に音や人手が公にもわかるブルーカラーを 「住民が望んでいる、頼んできた」と、言い逃れ的にビーバーで刈る こんなムダな所に 人手と金を投入させ、本来やらなければならない事業、しかも最優先的に促す必要がある事業というモノの判断が全くできなくなってしまっている 何がボランティアで出来るのか、何が企業としてできるのか、何が公権力としてどこまで出来るのかといった視点が、すべてにおいて、利害関係、云わば管理者サイドの頂点からの指令であるのは間違いない にしても、ばくち討ちに高じているような今でもある それら因果関係を証明する事が出来なくなっている無責任なトップが事態を一層深刻さの折り重なった呪われた淵へと、あばら屋で賭博に明け暮れる その場限りのお楽しみにアブク銭を突っ込んでのお楽しみ最中だ そのご様子は、みんなが観ている あばら屋の中に一緒にいてお零れを与る側近も観える 多くの取り巻きの人々は、あぁすれば、利益といった儲けに与れるといったことで学ぶ ただ忠実に真似ている もっと多くの取り巻きだけの人々は、あぁしたら儲かるけど自分はあぁまでして儲かりたくないな、ふつうでいられることが一番だと思っっている 取り巻きの中でもその様子が、取り巻きの何重もの輪でよくわからなかったり、ここにどうして取り巻きが出来ているのかすら理解できないというもっともっと多くの人々は、何をしているのかなと気になりながらも、自分には関係ないのかなというので、通り過ぎてしまい、その取り巻きの輪からは最も遠ざかった場所や、そもそもそのような場所に出かけていくことすら困難な状況に措かれたおびただしい人々も多い ただ今は、一人で二台も携帯を保持する人や、生きていくのに食べモノよりも、JOB情報といった情報受取人らの感情は、行動へと盛り上がりつつもある みんながみんな呪われたように 誰も何も頼みもしないのに同じ方向を目指して向かってしまうのは、それこそが不思議な地籍そのものだというシャバ世界でもある 人が人の間で何が起こっているのかとも読み取れるのだが、シンパシーが得られるというその間においては、釈迦の仰られた通り、その御霊が、生まれ変わり死に変わりを繰り返さなければならないという命題なのかもしれない ただ、今よりももっと前の方が、ずっとずっと考える人類も少数だったに違いなく、それらを忘れてはならないとも感じる 例え僅かな善いことなら何でもやってみるという意識での商人を目指す 10年前にも同じようなことをやっていて、気がついたら10年前とまったく同じメンバーだった 支えるサイドの不足が顕著でもあった しかしながら、単に教育をしたからだとか、何らかの弟子になったからだとか、何だとかかんだとかといったヤツで、本当にその中で、“このままじゃダメだ!変えよう!”と自発的に主体性を持って、自らの言葉と態度で話で、“変わりたい!変るんだ!”という“変体願望”が維持できるのかどうかでもある グロテスクな幼虫だった蛹世代が長引いているといった共有財産である筈の人財として、何にもつながっていないチホー難民ならば、情報発信者サイドがあらゆる手法を総ナメにさせても紡いでいくことが、これら病み社会の精神的貧困の解決に向けたスクラムが可能に成り得るのではないか われわれは、金銭が愛しいのでもなければ、誰かに頼まれたというわけでもなく、ましてや今の今までも、セイジや企業や、そういったところが手を出せなかった分野の開拓期でさえある もはや未知との遭遇ですらあるわけで、殺人鬼や投機オタクや無差別殺傷能力を撒き散らかす隣近所や、それらの冬扶持稼ぎに一緒になって付き合っているというんじゃなく、あれらの冬扶持稼ぎは、一面的なモノであって、本来は人は多面的人格の宿主であるのを認めていくしかない というこちらサイドが“このままじゃダメだ!変えよう!”を試されてもいる ここは慎重にことを進めていくのみなのだ 誰をお得意様と呼ぶのか?ただ買ってくれるだけのひとなのか、それらは “施者・受者・施物”が、“三輪清浄”か\(^○^)/ 蓮華合掌


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Posted by このは なさくや at 15:58│Comments(0)法施
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