2009年06月28日

経理がゴミ屋のチホーは潰れる

 こんなことは最初っから解ってることなんですけど、、、結局は、有能な人財を島流しにするといったものや不本意な亡命を余儀なくさせているといったチホー自治におけるコントローラーの破壊であり、これらチホーが、自分らの小っぽけな所の安全さえもたびたびチェックもせずに 突進してきて、殺人鬼を大量生産させた悪夢は、ただ単に他人のカネを当てにし依存する現状の借金体質のまま、ただ成長を諮ってだけいても、ちょっとした環境の変化によって、コロッと破綻するのが目に見えています 経営の自立性を護るというのはどーいったことであるのか 経理をどんぶり勘定で賄い、拡大均等路線ばかりで、自分達だけが貪っていたのでは、人・モノ・カネが停滞し、これらを最も必要とするチホーが、不眠症を強いられているといってもよく、それらが未だ、何らの解決にもなっていません 何もチホーの病巣を突こうとしているわけではないのですが、チホーというものは、病気にかかってしまった患者のごとく、何ら機能してないので、自分が病気なのかどうなのかも自分自身では判断がつかなくなっているといっても過言ではなさそうです 本来であれば、日常でも、様々なビジネスを行なう者同士は、お互いに相手の立場を考慮しながら連携して仕事を進めていくのが本来の姿です ここでは、営業が製造のことを理解したり、製造が購買の立場をわかるために、経理の数字が在る訳でもあり、家庭でいえば、家計簿ですが、単に家計簿といっても、一週間だとかいった、お金の流れを記帳しているだとか、そのお金がどこにどー流れていくのかだとかいったものを把握して、生計をたてている人間と、全くのーてんきで、何らそのようなことは考えもせず、ただあったらあるだけ使いきってしまえ!といった浪費の家計簿が繰り返されているだけです 特に家計を与るといった台所に立って考える場合に 非常にシビアかもしれませんが、毎日の食卓について、どういった考え方なのか?果たしてそれらは、充分であるのか?モノが棄てるほど有り余っている上にまだ、製造の労賃が欲しいから、食べてくれっていうやつが、ただそーした流れの中に引き釣りこまれてしまっているのかなと インフレに打ち勝つための財産の目減り対策や、副業の損得や、今回のボーナスで何を購入したかだとかっていうのは、そもそもこのような経理知識の脳がある人と、まったくそんなもんは、気にしないやつらとでは、チホーにとっても、あらゆる成果物に極端な差が出てしまうのは、必然といっても言い過ぎではなさそうです 私もこれまでは、夥しい‘伝票’といった類を扱って参りました 通常‘伝票’には、三種類の伝票が存在します この三種類の伝票がこれまでのカネの流れにして可視化させてみたら、なんと、吃驚を通り越しそーな按配でした 中でも“現金の受払いを伴わない伝票”が、突出して多いということです つまり、“振替伝票”のことかっていうわけですが、、、入金や出金伝票は、目で見てわかるけど現金以外のすべての動きは、この“振替伝票”でキャッチし、カネの流れを意識的に気付くというものかもしれません そこで、“仕分け”といった入り口に行き当たります 私もこういった“仕分”といった、七面倒臭いような仕事は、混乱を窮めていて、あまり得手な方ではないんですけども、一応こういった事務の部分では、勤務経験があるといった状況だけです ただ私は、細かいことに気を執られる質だったこともあって、全体にこれがどー影響しているのかっていうのは、あまり考えたことなんかありませんでした と過去形にして、先ほど営業が製造と繋がるとか、そういった他部課ともお互いの立場を理解しあうための経理であるといった内容に注目するならば、身近な地域やチホーでも、そこで暮らしている人と人の間が、生き生きとした活力のある場へと変化していくのは、当然ともいえます 具体的に何が言いたいのかといえばですが、内部管理に重きを置く決算書作りではなく、積極的に外部報告をしつつ、しかもそれらが、説明責任を果たせる決算書でなければ、何の意味もないということだと思われてなりません 経理の入り口での正しい“仕分”が、経理上の取引である経営活動の一環であり、それらに莫大な出口である、貸借対照表や損益計算書の数字に影響が面に出てしまうのですね 私も個人的には、こういった何か自分の資産をたな卸しして、生計を立てていたのだけだと、自分はいいが、近所だとか、それこそチホーだとかと連携させて頂くと、‘一般には取引’などとは、とてもいえないような甚大な損害が、もう生まれた時から発生し、それらの伝票を起こし、仕分作業を怠っていました ですから、資産は目減りし続け、尚且つそれらに伴う費用は、上昇するばかりです 考えてみれば、このようなトレーニングは、誰からも教えてはもらえませんし、たまたま経理がわかる本という本との縁によって、こうした具体策が解りました だから、自分で体験しつつ、自分でどこがどーわかってないのかというものが、明確に解るようになります 以前にも、マインドマップというものを描いているといったのは、出来るだけ、人災とかそーいった理不尽なめに遇った場合に どーしたらそんな状況を変えられるのかっていう場合のために何らかのお役に立つのではないのかなっていう良心だけです つまるところは、自分の今ある現状を振り返ってみて、例えば甚大な処刑に遇っただとか、これは自分にしかわからない何かシビアな案件とかを具体的に“振替伝票”を起こして、仕分けするといった可視化というものが重要だなって思われます これは、みんなに言えることだろうなって思います どんな人もそういった何らかの過去からの積み重ねがあるはず だったら、それを数字に置き換えてみたらどうっていうことだけです そして、私の家には、また甥っ子が遊びに来て、河原でハチに刺されて、おんぶしてといってせがまれ、おんぶしてたら、「ママに刺されてこと云わなきゃ」と気にしてた 「パパなんか、頭とか、毎日のようにハチに刺されて大声で泣いてたよ」って話したら、絶句してた甥だけど、ハチの毒も、有り余り過ぎるこの甥っ子のエネルギーを多少静めるための鎮痛剤のような感じもあったのかな けど、見事に腫れてしまって痛々しかった 刺したハチは、死んだのかな あまりにも、草ボーボーでその姿はわからなかった 甥っ子は、ジジが採ってきたかぶとむしに目をキラキラと輝かせて、「こんなの初めて観たっ」といって、はしゃいでいた かぶとむしをお家へ持っていくといって、ママに懇願していたけど、ママは、飼う場所がないから死んじゃうよといって、おじいちゃんのお家に置いてあった方がいいよと宥めていた 後ろ髪を引かれる様に甥っ子は車に乗せられてチャイルドシートに座らされ帰っていった 来週は、甥っ子の無認可保育園に遊びに行くからねと約束をしてしまった どーだかわかんないけど、遊びに行こうかな・・・ 小さなときっていうのは、その体験が一つ一つ、貴重なことかもしれないから・・・ね 蓮華合掌  


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2009年06月27日

長者窮児の譬え

 とある立派な巨万な富を得た財閥が数奇な異国のバカな妾に産ませたこどもが、所謂自分なのではないかといったエピソードがどこにでも転がってるほどある しかしながら、こういったお話っていうのは、何かを際立たさせるために故意に仕組まれた何かだとかかんだとかにすぎない そんなことって稀にだってあんまりあるわけないし、あったとしたら、そんなことは闇に葬られて永久に隠されるに決まっている けど、どこでどーやって生まれたのかっていうのは、それっていうのは記憶の中でしかないのでさえあり、特に証明なんかは何もないし、育ての継母なんかは、私が拾われてきた時は。寄りつけなかったそーだ でなければ突然変異の何物でもないのなのかもしれない 子どもらの妊娠があいまいだったことがあって恐らく、果たして誰だったのかなっていう氣はずっとあって、ただそういったことは黙秘しつつ…ずっといた そんな何か、世間一般的には、遇ってはならないフシダラなことって云うのは黙ってないとといった氣がしてしまっていた こーいったやりきれない制度の中で動いていなければならない こーいったただその特殊事情のただその最中の範疇で、ずっと舞わせられてなければならい舞妓さんみたい あまりにも理不尽であり、マリオネットそのものであり、死んでも死にきれそーになく、、、ただそーいって怒ってバカいると、ロクなことは起きた試しがないので、出来ればそんなこんなに感謝をする そーだった、その他大勢の軍団が居てくれてるから、何か目立つことが可能になるわけでもある ただ私は目立ってはいけないのであるし、タブーの存在だ ただそーじゃなくて、恐らくそーいった訳ではなかったのであるが、あまりにも多忙を極めておられたあまり、そのような公の場だとか何だとかカンだとかには出席が困難だったのではなかろうか・・・?って氣もしている そんなこんななんで今を迎えさせて頂きはしたのだが、あたりを見渡して観ると常に何かハプニングが起こっていてそんなものに遭遇してしまう質でもあった 学習机の周辺には、必ず一升瓶が何本か転がってるし、ワインクーラーさながらになっちゃったりもしている ただこれらは極当たり前のことでもある よく二升酒をあびているなどとあまりにもお下品な投稿をなさってくださるのである この前にはゴルフの打ちっぱなしにいったい何をしに行ったのかといえば、一種の金網を洗浄する網洗いおばちゃんに徹しさせて頂けた こんなにも見晴らしの善いスチュエーションで宴席の残り香のする場所は何かを徐に創造させられてもいた 久保田の紅寿だかの一升瓶は転がり、当方の自室を彷彿とさせるのであった いくらどんなにか反対に遭っても自分にだけは負けるな!信じろ! イケニエになんかならされて、すごく苦しんでる こんなにもなぜ?視覚障がい者の身の上になれって云われてんのか?眼の組織が一番弱いし脆いし、生まれたばっかの時からずっとのイジメ=処刑みたいだ だけど、そもそもは自分が撒いたタネだったんだし・・・といった自責の念の拷問までもが過る 川原を観に行こうか なんだか今日の午前中にそーいえば、白鳥が鳴いていたっけな 白鳥なんかはもうとっくにシベリアへと帰化していったとばかり思っていたんだけど あんなにも土砂降りだったのに白鳥ファミリィはずっと飛んでった ほんとすっごいことかも、私はもう全部を思った通りのイメージ通りにしていいんだってことだ いいんだっ!そー感じてる 雨が降るたびにあの萌黄色になるのかもしれないのかな 自然界で起こっていることしか人間の界隈でも起こらないんだってことだっ 思うってんじゃなくって、もうまさにそのとおりなんだけど by the way ほんとーに春は来るのだろうか・・・虫たちは動き始めるのだろうか?早いんだろうな、まだまだきっと、一般的な人々になんかは、知ることは出来ても分かることって云う段階は難しいのかもしれない 欲望と浪費の産物だからかもしれない どこまでも貪りの境地にいて、それってのを知らずに無自覚で、無意識で、他人を巻き添えにしてしまっている 難しいんだろうってことだよね、きっとね、だからサーなんかこの辺で際どいんだけど、やっぱ土地が狭かったとか、そーいったモノも関連するんじゃないのかなって 40年以上とは・・・凄すぎだよね 仏道の洗脳力パワーを感じる 朝夕の継母や祖母の調子っぱづれの御経の声が、毛穴やいろんな全身を含包してたのかって思うと、よかったのか悪かったのか…ただそーいった状況ってのは、選べない子どもってことであって、大抵の人間は、何も知らないまま、特に何もないまま非凡さの中の平穏で生まれ変わり、死に変わりを繰り返してるだけでしょうか…それにしては、自然界そのものかなって感じては、流れに石を投げ込んで、昨日は三連飛ばしたとか、今日は二連出来たってのをやって喜んでいたりする 蓮華合掌
  


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2009年06月26日

1999

 これ以前とも何ともいい難い、もっともっと以前からの課題であった筈だった 私が個人的にも表現する際にわれわれを主張するのは、実に被害に晒され続ける子供達が纏わり付いているからに他ならない ただ以下は、私個人的な内容に付するのかもしれないので、ここでは、われわれといった多勢に無勢を辞める事にしますが、、、

1999(平成11)年 3月末時点での虐殺に対する警告
 3月31日時点で、この女性に何が起きていたか、事件の全体像が判明するまでにその後数年の歳月が費やされてしまうに過ぎなかった しかし、3月31日時点でも、この時、既に発生していた、或いはこの後、発生しうる深刻極まりない人権侵害に対して警鐘を鳴らす文書が複数存在したのも事実であった 
 ウェットランドを呈したグランドのように整備された敷地は、白鳥飛来地として、その観光目的による観光大型バスの駐車場にも利用されていた ところが、1998年秋の長雨によって、地盤の脆弱になった土地は、大型観光バスを底なし沼の恐怖が襲った 大型バスの後部はみるみるうちに 地下へと吸い込まれていくように蟻地獄のように沈没していった まさに災害であった しかも、これは人為的なといった安全地帯と証された敷地内における神話をそのものをものをものの見事に覆される事件になってしまうに至った 県職員は、その様子を確認しようとした町や、消防団によるゲンバの立ち入りを許可しなかった これらの報告書は、下水道事業団の指揮系統に従い、県庁下水道課に到着した 地元下水道対策委員会は、処理場に勤務する職員らの安全確保のためにこれらの報告書の公表中止を要請させた
 上記とは別に この3月31日付の給料明細が存在する どこの明細か、、、翌月の4月から勤務のはずの美容院での給料明細が存在する 明らかに この給与明細が物語るのは、3月31日以前にはもう既に二重に働いていたか、若しくは、この職域を去っていたのである これらの横暴な矛盾と、なぜ3月31日まで、この臨時職員の女性の雇用を留めるといった暴虐とさせるに至ったのだろうか 未確認とされたこの女性他への虐待が発生した或いは発生しつつあるといった強い警告が発せられていた にも拘らず、いずれの報告にも、これらが事実であるとは確認されていなかった また、この時点で、専門幹Kの目撃談が、県の上層部に上げられることもなかったのである
 3月31日、国際社会の誰もが、上記に反し、一連の情報を提供なさしめるとともに 地元の下水道対策委員会勢力と、必要であれば市当局と、いかに交渉を進めるかについて、指示も出せたはずであった 国際社会特史の交渉内容は、安全地帯の回復であり、それが現段階では不可能な場合には、陵辱被害に遭った女性の解放とその自由の回復、避難民に対する国際人道法に則った人道的な対応と人道援助のメディアへのアクセスの確保である 尤も組織的な大量虐殺の開始は、もっと以前からの幼児への処刑行為、精神メンタルへの処刑が行われていた事実の解明を国際社会に訴える 奇跡的に精神のバランスを保つこの女性生存者を除き、他の全員が地域全滅の破滅の道を歩んでいることは周知のごとくである 主な処刑場の確認作業は急務でもあり、これらによっては、日常的な処刑が故意に実行されたと推定される日付の確認にもなりうる 蓮華合掌  


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2009年06月24日

オゴポゴ

どこまで相手の身になれるかどうか・・・そーいった酉でのようでもあり、自然界の掟とでも云うべき仕組みなのか 日中は、ラベンダーが一面に咲き乱れる山肌の公園で自分自身を取り戻した 私なりの個人的な表現で言えば“チャーヂ”かな ラベンダー株の一つ一つは品種が異質なものが混ざり合っていた そして、例によって、そのただぴろい公園内は人っ子一人いないような状況でもあった オニヤンマかシオカラトンボの抜け殻が確認されて、グロテスクな感じに襲われた ジャンボだったからだっ! ミツバチやくまんばちなんかも、せわしくワークに励んでいた 所かまわず、ラベンダーの蜜を漁りまくっていた 凄まじい光景だった 相変わらずモンシロチョウたちは、空中ダンスに明け暮れているようでもあった 楽しそうだった あの蝶らの行動と云うエネルギーと云うものは、華麗でさえあった そして、巨大なトンボというトンボもすばっしっこく、ビデオカメラに収まったのは、ほんの一瞬に過ぎないので有る 時間的感覚というものが、のろく感じられて仕方がない 時間が一行に過ぎていかないと感じてしまう 何故なのだろう・・・?その辺がよくわからない 随分と以前は、時間が足りなくて困っていたように感じられた時期も通過してきたように思う いまは。ありあまる時間という概念というところなのかもしれない 自然に返るという表現は、ちと大胆不敵なのかもしれませんが、大地の懐である土壌への思いを馳せるというか、やはり大地に抱かれし我が身みたいなのを必然的に感じさせてしまう 感じないではいられないっていうか・・・ ところが、森林へ入ってみると、その笹だとか雑草だとかの葉っぱが、レースの様になって穴が開いてしまってる 人間さまの顔色で言えばね、毛穴が開いっちゃってる んなダメージというか、何か変哲さながらの中にも、異変を感じずにはいられないようなそんな状況である今だったりして・・・ 穴開いてるだけかってんなら、まだましなんですけど、ところがどっこい、それってどう観ても益虫が貪ってあけた穴には観えないんです ってことは、駆除しなきゃなんないっていう対策委員会を開くかですが、、、やっぱ空気が濁ってきてるのかも・・・そんなので、空気感染するバイオハザードさながら・・・ 生き残りを賭けた七転八倒が繰り広げられてしまってる 一人で生き残ってっても、、、虚しいなてな感じがします けど、現実はね、そーとー厳しいしキツイですね こりゃ 安心が時間ではたやすく確保できないし、安定供給なんかはもっての他で、安全っていうことになってくると、私を個人的なデータベースで例えると、ほっといてくれないかな、、、だとか、コロコロと気まぐれにしてないと、常時不安だからでもある こうして打ってる最中でさえも、だけど途中で、急に行動を換える というか、全く意に反した行動を促す 思いつき病のようなもんかもしれない ただここが、目下のところ、拉致された強制収容所で、『具合わりいだか』といった拷問を日常的に浴びせられてもいる風なんで、そこのところが、もっと不安に輪を何重にもかけさせられているといった点においては、あまりにも極限環境であることに間違いはなく、然もそれが精神的、肉体的、経済的の三点セットに及ぶ そして、それは続いていく 不自然なまでに続いてしまう ただそれが、治癒を目的化していたりだとか、努力目標値を設定させたりだとか、他のケースと比較の対象化されたり、出来具合についてを更に評価させあうような、、、こんなんでは益々にして、体内時計は狂わさせられ、人は必要としないさせない主体性だとか、前出の三点の武器をもって自立ならぬ自律なさしめるといった、何か本来の自分自身を取り戻すとか、自分の内側からにじみ出てくるような精神性の深さといったものは、やはり安全な場が確保されない日本という国家体制では生命力のあるものというのは生まれにくくさせてしまっているのではないのでしょうか 外部圧力が強い、特に家庭にあっては親の権力、しかもほとんどの場合は、女親の権力、そして学校であれば校長の権力というように権力の方向性が決定的瞬間を左右させているしさせてしまっている ‘絶対君主’を遵守するという全体主義 行きたいときに来ていいとか、自由にはならないしなる余裕のある受容れ場所は極僅かな人に知られているのみであって、本当に知らなければならない知らせなければならない誰かには、運命の名の下での制限が敷かれている 常時、大丈夫って思えないし思わなくさせられているのが今であったりしている 全体主義の中での号令に従えないモノらは、強制収容所に閉じ込められてまま、灼熱の太陽を浴び、幌をかけられ、水も食料も与えられずにのたれジネ!と云う顛末が待っているだけでもある どこまで相手の身の上になれるかとは、どれだけその厳しい状況を共有できるかどうかにもよる 有り余る貪りの地獄絵図を上映させられ続け、後は共感者はなし 上映が繰り返させられているにも拘らず、誰も観ないし、知らないし、ヘンテコすぎるから、みっともないから、治せ!という命令が下されてしまう それっていうのは、お前らの感覚そのものなんじゃないのですか? ただこーいったタブーは沈黙を通すのみである あなたの弟は、生きたかったのに夭折、それをなぜ、あなたはその弟の死に恥じないように生きようとしないのだろうか? こういった事を感じないではいられない もっともっとこの暮らしを何とかしようっていう精神活動が出来たかもしれない それは、なかったことになる それまで生きた証しは、ただ単にやっぱ、在ったねというだけだ あまりに夭折された人間が軽々しく扱われていないだろうか 誰も弔わず、誰も悼みの志を知らない そして、そんな人間だらけ、命令を忠実に聴かされたサイボーグが蔓延っている 再び人間にしか出来ないとは・・・? いったいどういう感覚なのだろう? 冷血な肉の塊が転がっているだけか、フリーザーにガチガチになった臓器か、脳はスカスカだが、外見上はどーってことないやつか、、、オゴポゴを観た瞬間なのかもしれない 蓮華合掌  


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2009年06月22日

ひまわり号ボランティアのお願い

6/28ボランティア参加のお願い、7/5チケット発送作業、7/12パンフレット作業 pm17:00~松本市神田 自性院にて 蓮華合掌
問い合わせは:松永さん09018689519  


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2009年06月21日

厥 陰

子どもが親の自分よか先に亡くなるとした震撼とさせた恐怖は、親になったことの有る方にとっては、脅威のナニモノでもなさそうである おたまじゃくしが空を超えて舞ってきたかの異常現象を報道されるが、とある田んぼに大量のサギがいた そのサギらの一見は、まったく制限なく無尽蔵の極みである個人的な判断下での御墨付き農薬や化学肥料等で汚染窮まったおたまじゃくしを喉の奥に垂れ流しにさせ、どこへともなく飛び立った されど、おたまじゃくしらは、そのサギ集団らの胃で、無事消化させられることなく、嗚咽と共に嘔吐物となって空中を散歩さながらの現象が巻き起こした行動様に推測されてもいう ペリカンだったら、その口腔内に存在する巨大な伸縮袋の機能化なのかもしれないが、、、サギ集団らの行動を観るにつけ、不可解な餌付けを余儀なくさせられてもいた あのサギらのカモメ様の飛び方だとか、今は至って、ツバメが低空飛行をしているだとかが確認されてもいた 大きな蓑虫の巣を見つけてしまったかのようなものでもあった そのみのさんは、モゾモゾと枝葉の隙間にぶら下がり健康法のような風袋で、ぶら下がっている 掻き分けて見ないと、通常だと確認されないでいる 唾きのような泡化された昆虫の巣も在った ただ在った それを無謀にも、その辺に落っこちてた棒っきれとかで、つついたりしてみると、尾を黒光りさせた幼虫が海の岩陰にいた昆虫のような動作をただしているのだ 寧ろ其処ここにそーいった世界がただ在る 有り余るほどに存在してもいた 昆虫にとって鳥の存在は脅威のナニモノでもない 昆虫が逃げ惑うその短さは、鳥の瞬間の動作に敵うはずもない 烏にしろサギにしろツバメにしろ、鳥が拘る糞害には困り果ててもいるのが実情でもある 鳥の糞には鳥がいったいどんな昆虫を戴いたのか、、、すべては解明できてしまう 鳥が嘔吐してしまう程の毒キラーとはいったいどのような人為的なシロモノなのだろうか・・・ そして、たまねぎやにんにくの殺傷能力の凄まじさを堪能させられるに至った あれほどの殺傷能力を極めたものを地産地消させようとするのだから、毒々しいのも当然でもあった 噴霧器に入れるのは、そのたまねぎの卸汁で十分に通用したし、有機栽培元のにんにくを土壌に埋めて置くだけでもあった 何はともあれ、子どもが先に亡くなるなんていうのは、心臓にも脳にだって悪い出来事そのものである それをいつも感じながら、この一瞬をただ在るといった身上のために 何かを存分に楽しむだとか、、、何かに夢中になれるだとか、、、何かの虜になるといった領域は、単なる想像上や、出会った人々の行動とかからしか、実のところは分かっていないのである それが相当に恐怖心を倍増させてもしまうに至った 然るべく、毒性の極みを殺人鬼が運んできて、無尽蔵に噴霧させて喜んでいる地獄絵図は、今日の天候に助けられて、観ることはなかったが、また晴れて乾燥ピークがやってきた際に またかっといった調子が再演されるかと思えば、やりきれない この分では、死ぬまで続くだろう 蓮華合掌   


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2009年06月20日

Valuetales

The tale goes back tothe time when I was still a mere child.2002/10/01付にて、ブレストのルールに付する考察が在りましたので、少しでもお役に立たせて頂ければ幸いでございます
 *誰でもがどんなに的外れなアイディアを提案したとしてもそれらを批判対象としないしさせない
 *何の制限もない
 *それらのアイディアが極端に的外れで、非現実的でさえあってもOK 全ての考えが書き出されたら、一つか二つの最終的解決策が得られるよう、ゆっくりでは有るが、急いで考えていく 最終的に導くアンサーは、自治の全員が賛成し納得できるものでなくてはならない これらは、次世代の子ども達と真摯に向き合い、行き違いを正そうとする両親の良心に訴えかけるかのようでもある そのお互いの歩み寄りによりベストな解決策を導き出し、探り出すものでも有る 毎日のありきたりの問題について、絶大なる効果効用を発揮するものでもあるという 幼い俗世間の柵に染まっていない子どもたちに対して横暴な権力や権威を振り回し続けている両親も、子どもの言いなりになって従属させられてしまう両親にとっても、これらの技法を使えば、どんなに多くの意見発言の不一致、食い違いであっても解決可能であるという
 ハンガリーの哲学者ツァ・ツァ・ゲイヴァーによると、『試していないなら、けなすな』という 
 1.誰かが勝ち、誰かが負けたりしませんから、両者の関係性を一層強めます
 2.両者が問題解決に加わっているため、この最終的な解決策を護ろうとします 解決策は、一方的に両親(どちらかの)側から押し付けられたのでは、決して在りません
 3.子ども達に独創的な思考力をつけるのに一躍かいます 更に子供達には、最も困難と思われていた対人関係をもこなし、妥協する術を学び、尚且つ社会性を養います
 4.こどもサイドの反抗心を和らげます
 5.これらは過程であり通過点であるので、提起されている問題のウラに隠されているかもしれない問題までをも、屡掘り起こすことにもなり兼ねないのには、準備が必要でもある 両者が自分自身の観点から討論するので、本当にこども心を悩まし続けているのがどんな面であるのか透明化されます 異なったものの見方を他の誰かと和解する練習の機会でもあることは非常に重要な要素でもある 些細な何でもない問題や、ちょっとした行き違いから、解決困難なことに至るまでの不平・不都合・不具合・積極的な活動指針だとか・・・は、議長は除く、誰でも討議したいテーマを討議できる『地域自治全体の共通の関心ごと』とする 所謂Valuetalesとは、忍耐・決断・親切・自己信頼といったスペンサー・ジョンソン氏の言葉を借ります ただこーいった内容は、特に指示をするだとかいった推薦させられるといった強制感を連想させるものでは決してないので、其処の場面には配慮が必須でもあるのだといえよう そこで、風に関するポエムをお読み下さい(出典:ダドソン博士のしつけ百科)

  Fun
風を吹いて
風を送る
ハイパーテキストを開くと
なんだかただ手を合わせてるみたい

ロケーションなんかはどーでもいい
風を吹いて
風を送る
ハイパーテキストをクリックすると
ただそれだけで、キミと繋がり遇うみたい

声だけで繋がる

他の何もないしなんでもない
だけど・・・声が聴こえないし聴こえてこないよ

風が吹いているのは観えるけど
風の正体がなんなのかを説明できないし

真実はいつだって可視化できない
信用は観えないだけなのかもしれない

何も観えないし何も聴こえてはいないし何も・・・

だから・・・ね、
風なのだろうね
意志なんだろううな

風の意味って、つまるとこ何?
旋風の脅威が、夕日に白い龍が真っ赤に染められて
一筋に伸びて逝くものの怪である

風は何をどこへどこまで運ぼうとするのだろうか・・・
風は相変わらず吹くだけで、黙ったまんまを気取っていた

そもそも、風に聴くなんてこと事態が
容赦ない嘘だったのかもしれない

ただ聴こえているのは、乾燥した風の吹く音だけ
ただ聴こえてくるのは、虚しすぎたひからびた音性だけ

そんな世界が広がった
そんな世界だらけになってしまった
そんな虚しさを浴びさせられている

 蓮華合掌  


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2009年06月20日

轢逃げされた動物たち

 先週の今日、早朝黒姫に向かうために国道を走っていたら、巨大な鹿をはじめとした動物が四匹も道路に血まみれになって、肉は飛び散らかされ、頭蓋骨は砕かれ、無残な様相を呈していた その忌わし足る生々しい事故破壊現場を通り抜けるたびに“合掌”する あぁまたか…と思う おぞまし過ぎる交通戦争に巻き込まれてしまった憐れな動物として、そにお肉も骨も、どうとでもなれといった調子で、その辺に片づけられてしまう 先日河原に埋葬した烏の遺骸がどうなっているのかと気になってみてみたら、カラスの遺骸が、意外にも羽根ごと、何もなかったかのように消滅していたのだ やっぱなとも感じたが、そーなっていた顛末を観させられていた そして、ここ何日間かに亘る腰の砕かれそうな痛みに至っては、この痛みを説明するときは、鉄でできた金属製の十字架に掌をど太い釘で打たれたキリストをそのまま背負ってしまわさせられている状態と言ってもいい アルミ製だったらまだしも、ずしりと、その従事にも似た十字架は異常なまでにも重かった そして、それを説明していても、一行には観えてないので、その重荷がどんなものなのかを創造させることもできない 人によっても、重荷の感じ方が全くのところ、異なるからでもある ただ基準はないにしろ、背負っている人の体力的な面だとか、いっくらスタミナがありそーだっていっても、それを背負い続ける時間的な長さがハンパじゃないわけだから、恐怖も感じる なぜ…、このような状況は駆け足で、いや忍び足でやってきたのだろうか…? 殺人鬼と一緒に暮らしてもう、相当な時間的な配分が経過した どこへ行っても、やはり殺人鬼は、私の周囲にいる まさに在るといった具合なのかもしれない その殺人鬼の年中行事は、噴霧器でアブラムシ駆除用の毒薬を噴霧するのである それに輪をかけて、アブラムシが大発生した箇所を日中、何度でも、濃いい原液さながらの稀釈率を無視したのをやたらと撒きまくるのである 殺人鬼というのは、一切周囲の人間に注意を払うだとか、横に赤ん坊がいるだとか、特に何ら考えないのが常でもあり続けるので、野蛮過ぎる まぁだから、殺人鬼なのだが… どーも日本人のみんながこの時期になると、殺人鬼に観えて仕方がない 動物を轢逃げするのも、よけ損なって、自分がどっかにぶち当たるよりは、撥ねてしまえといった調子で、スピードを緩めなかったのだろうし、殺人鬼達の考えている野蛮な思考といったものが、劇物や毒物漬けになっているために配慮を欠いてしまうからに他ならないと思われる 殺人鬼は、肉体的なジョークも大好きであったりする 兎に角、肉ばっか観て喜んでいる‘うじ’と同等な殺人鬼達 しかも、殺人鬼は、猫なで声とかで、すり寄ってくる時さえある そのたびに騙されちゃいけないぞっ!と頑なに思いが溜まるのみである 殺人鬼が噴霧させた劇物の臭さで、家の中にも居られなかったし、逃げ場がなかった 病人をもっと、これ以上、具合を悪化させようという魂胆がみえみえである そして、また隣の殺人鬼さんは、廃プラを燃すといった空気汚染をする また洗濯物が焼け焦げた臭いで汚染させられた 空中の殺人鬼は、相変わらず公権力の行使を駆使し、耳への妨害を成させようと、一切の通知や前触れもなくゴーゴーと飛んでいくだけである ここにいるのは苦痛がただ膨大に蓄積し続けていくのみである 学校から戻ってくる娘も、なんだか学校に行ってくるだけで、陰険な言葉になったり、思いやりの欠片もないような風になってしまうような氣がしてならない 殺人鬼は、アブラムシの耐性に関してを論じても、こちらを睨み返し、怒るといった有様だ 強制収容所の中に放り込まれている 監視の目が恐ろしい 何か変わった動きをするだけで、咎められる それは、御サンドを一緒に食べないでいるだとか、朝ちょうきちっに起きてこないだとか、会話がまるっきり、理解されないので、いまなんかは、殺人鬼は、顔はテレビを向き、耳だけは、私の方に向けているといった調子だ 何たる態度だろうか… 殺人鬼さんたちは、テレビが大好きである 兎に角、テレビにくぎ付けになっているときは、機嫌がいいときている そして、必ずパソコンに向かって打ったりしている様子を少しでも、観られると、決まって不穏な空気が流れ、殺人鬼たちが、悪魔の囁きをしあう ‘狂ってしまった’だとかなんとか、非難する 殺人鬼さんたちは、自分の未知なる領域に関しては、狂人の暇つぶしという感覚のナニモノでもなく、また、‘あんな箱に向かってりゃあ~ろくなモンにはならないしなれない’と言った悪辣で下劣極まりない言葉を吐いてしまうに至る まったくもって、評価が下の下の下の下の下よりも下のような判断を下されているといっても過言ではない 恐らく、殺人鬼が考えている世界と、私が個人的に照らしている世界が、極めて対極にあり過ぎるためであるとしか思えない モノがあり過ぎるのも、地獄を観るが、モノが何もなさすぎた文化的背景をくぐり抜けてくるしかなかったというギャップこそが、地獄だったし、殺人鬼を大量生産し、それによって、絶滅を迎える日も、早まってしまった 絶滅というよりは、全滅といった表現の方がマッチしてしまうのかもしれなかった ただその日が早まるか、遠のくかであったが、この地域でいえば、はぼ全滅に巻き込まれるのみだ 救いようがないし、これまでの歩みを一切、否定させる手立てはないし、それが自然界の掟であったとしても、どーしようもできないからである もし仮にでも、何かを手伝えそうなことがあるとすれば、それはただ一つ、殺人鬼には都合の悪い人間を本当の意味でいなくなればいいのだ 私が、ここで一斉に殺人鬼の実名を報道機関なりなんなりに売り込んだりすれば、大変な負債を抱え、それこそ溢れだすように刑務所でごったかえすのみだろう そんなことにでもなれば、殺人鬼たちは、自分がなぜ逮捕されなければならなかったのかの経緯は、一切わからないというに決まっている 大抵の殺人鬼らは、自分が犯したといった感覚はないし、他人がどう痛みを感じているのかといった良心が皆無であるためだ 自分が良ければ正当であって、全く耳を貸さないからだ 全く耳は傾けないでしまっている 相変わらず、ドッヂボールが支持されていて、バスケやアメフトなんかはやらないか、知らないか 一番恐ろしく感じるのは、このまま子孫も、全滅に至る過程で、殺人鬼がそのまんまの状態で継承されてしまっているといった地獄だ だから、根絶やしなのだろうが… 以前、友達がフリッピンの奥さんを連れていた その後、腕に包帯をグルグル巻いたカレにたまたま会って、聴くところによれば、なんかちょっと、別の女と立ち話をしていただけで、嫉妬されて刺されたと言っていた ただそのカレだけではなかった 私は、別の人にも幾度もそういう話を聞かされた 聴こうと思って聴いたわけではない ただそーいっていた そして、別れる話にはならないといっていた まるで、殺人鬼と話をしているような気がした、口々にそーいっていた なぜなのだろう? 私にはよくわからなかったが、ほとんど人が入れ代わったきりで、同じ内容を話していたにすぎない 寒気がした そして、嫉妬というものは本当に恐ろしいドグマなのかもしれないとさえ感じられた 自然界が破壊させられた様子を忠実に観て生育させられたのかもしれない そして、独自の宗教観によるものなのだろうか…、いつものように早急な答えを出すわけではないにしても、不可思議である 蓮華合掌  
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2009年06月15日

とっととずらかるのみ

何はともあれ、とっととずらかるのみを考えて生きているようなものかもしれないだけになった もう末期症状が見え隠れしているのだけれど、誰からも気付かれずに普段と変わりなく過ごせてしまっているのだ ただ、もう腰が痛くてたまらん 激痛というか刺すような言い知れぬ痛みに苛まれてしまっている 頭がグルグルと回ってしまっているようだ 特に左目が翳んでしまっていてどーにもならんばい そりゃ、辛いというのはみんな平等に辛いのかもしれないけど、そういった辛さをどーやったら凌げるかだとか、どーやったらお金をかけずに何とかできるのだろうかっていうのが、まるっきり逆転の法則をしているに過ぎないのではないのだろうか・・・? ここで、イスラエルの民話に“人に悪いことをしなければ自分にも悪いことはされない”といった民話がある その話は、スザの都の底抜けな正直者がただ道を歩いていくという設定でもある 私もこーいった稀有な場面に遭遇してしまうことが屡であった この底抜けの正直モノは、ただこの先に何が起こるのかという実験というか、社会的な立証を明らかにさせていくものらしく感じられた この雇い主のように まるで他人事のように ただ保釈金集めに歩かされるという身の上は、本当に今の今までの私とどこが違うのかという気持ちにもなったりした いったい何のための見世物なのだろうか 自分のいのちと、引き換えに国家権力への金銭収集の協力を要請させられているような現状なのである そして、そのときが刻一刻と迫ってきた ここまでストーリーが展開されると、もう憤懣やるかたないといった状況でもある 先日、一人の老婆が歩いていた ただ道を歩いていたのではあるが、その格好といったら、まるで野麦峠を越えてきたかのような重装備の上に絣のモンペ姿風であった 驚嘆した 以前にも新宿を歩いていたら、学生帽を被った袴姿の背が2メートルくらいもありそうな男性が黒いマントのようなのを着てウロツイテイタ 新種の被り物くんの類なのかなと目を疑った その他大勢の群集には、このような人物すら観えてないようであった 私が錯覚を観、幻想の世界に放り込まれてしまっているのだろうか・・・? それとも、近代と古代が同時に観えてしまっているのだろうか・・・?いやはや、どーにも説明がつかないし、説明のつけようがない場面に遭遇してしまっている ミステリアスである がしかし、現実的にはそーなっている 今度こそは、直に何をアポーツさせようと、ここに存在するのかといった内容をお聴きさせて頂かなければならない使命感に苛まれてもいる 不思議な国である 以前にも、そうとう前であるが、確かにこの空間を一艘の船に乗った直立不動の女性が、私の元に現れた 狐のような顔色だったが、色白の髪が不気味なほど長い邪馬台国以前からの使者のように思えた その後、私はミヒャエルエンデ氏のアトリエに訪問することになった そのときにも、神秘的な光景が広がっていた 樹木の葉の上には ピョコンと妖精が顔を出していた ただこんな事はあるはずがないだとか、目が何かに反応してるだけかなっていう感じで、忘却していた そして、驚くべきことに 殺人事件を犯した犯人が突如として現れるといったスチュエーションである 最後のセリフであるおかげさまで、諺はほんとうのことであったという立証をした正直者は、自分で能面のような演技で集めた金銭も、更に真犯人からの大金までをも手にしたといった展開である 奇蹟のようなストーリーでもある ある意味、こんなことは滅多にない だから、奇蹟なのであって、人々にも周知されるのかもしれない ただ、念頭にあるのは、底抜けにも正直を通すといった良心の持ち主の人格だとか、精神的な奥の深さだとか、特に殺されるかどうかも、神のみぞ知るといった、ほとんどを天に任せ委ねた結果なのかもしれない こーして考察に咽び泣くのではないにしても、何処かではそーいった、正義と悪辣だとか、善悪の中の心のあり方だとか、その場合は、ともかくその人間が問われているのである 最後にはワル智慧やサル智慧は、何の報酬にも因果にも成り得ない そんなものが公式なのだから仕方ないと感じさせて頂く 自分さえ助かればいいとか、自分だけに都合がいい手法を編み出すに過ぎない合理化の行き過ぎに警鐘を鳴らせるのは、唯一のところ、昨今までの経験値であるのかもしれない 再びにして、人々は大罪を犯してしまう それは、自分だけの今だけの快楽を貪るといった思考の賜物だとはいえないだろうか そして、忘れた頃にやってくる、その悪霊の調べなのかもしれない しかしながら、そこに先程のイスラエルの民話から学ぶというのであるならば、‘人殺しをもう一つ背負い込むのはこりごりです’といった良心に他ならない そういう哲学にでも才覚された暁には、正しい精神が報われる社会が拡散されていくのである そんなこんなを思わせて頂いた 今ここに存在してしまう過去からの意味はいったい何なのだろうかと・・・それらは、束になってやってくる 未来はないか、遇っても自分ではどーすることもできないのか そんなもんだろうか・・・、そして、この今は続き続けてしまうに過ぎない 今の連続性と、今の精神性の連帯とした悲劇的な声にならない声のようなものなのかもしれない 勇気を出そう! ただこれらは、一部の人間の驕りかもかもしれない 実は最も声に出来ないし、ならない人間の救いを根絶やしにさせてしまうに至った 肉体がジャマをするさせるといった観点も見逃せないのかもしれない 観えるところで抑圧的に働いてしまってるだけで、観えない観えてこない部分には蓋をさせられているのみである 腰はなぜこーも激痛に苛まれているのか・・・を考えさせて頂くと、社会の歪みを感じずにはいられなくなってしまうに過ぎない ボロボロにならされた人と人の間である感情と行動のバランスの崩壊さながらとさえいえる そのタメの倫理観だとか宗教だとかではないのだろうか、これを主張だけしていたって始まらないのでは有るが・・・だ 実のところは、何が善であり、悪であるかの判断すら何も出来ない、お任せの状態に陥ってしまっている お任せの医療がその好例でもある事案だ お医者サマサマといった宗教感覚での神化させられた医師群 自分の生活習慣にその矛先が有ったのに 何の反省の色さえも感じない人々 自分自身の中に存在している秘めたるパワーを見縊る人々の増大は、本邦の選りすぐりの原理原則といっても過言ではなさそうだ 他人に任せるといったご都合主義が旋風を撒き散らかしてしまうだけでもある 悲劇的、精神性の欠如、良心を問わない、これらを放置し続ける地方自治なのではないか 温度差があり過ぎて、人間が入れ替わったとしてさえも、全くの所、同じ感情支配下の行動をしてしまうのみだけで、知る人ぞ知るといった瞑想的世界に放り込まれても居る そんな今でも有り、事態は急変するだとかは、有り得なくもなってしまっている 蓮華合掌  


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2009年06月11日

ウェットランド①

やはり、何をするにしてもしないでいるにしても、それらに拘わらず“フェアプレーの精神”が重要に思われます そこで、多種多様な芯の通ったビジネス思考の社会人のためのスポーツクラブに入る、なければ作るというのはどうなのか・・・というものです 出来れば、スポーツクラブを在日外国人のパパにこそ、重要な氣がしてならない あまりにも“フェアプレーの精神”が抜け落ちてしまっているか、欠けている在日外国人らが横行し、犯罪に走ってしまうように手を染められてしまい兼ねない現状が、ただそこに存在してしまってもいる なんとかしなければ未来が開けないのも事実ですと云うよりも、同じような境遇に在る中でのアミーゴと言った仲間意識とか、チームワークだとかを学ぶというのは、その人生にとっても非常に意味のあることだと思われます そして、また私は、カナダにワープしているといった状況です 雲隠れをするには、非常に簡素な言い逃れかもしれません カナダに行って何をしているのかといえば、滝に打たれているだとか、森林のただその中にいて、アーミッシュの世界のような幻想的な暮らしをファームステイする 今の季節柄、様々な生きていくモノ達の何か素晴らしい響きに出会えるのでもある ヴァカンスのある暮らしといったものが、日本人の勤勉すぎる体質によって、築かれてきた 忍耐強く弱音を吐くなどといったことは、そのプライドが許さない程の価値に置かれてしまっている 社会勉強といったものは、一体何だったのだろうかと、時々考えさせられてしまうに至ることもある コレほどまでにもグローバル化が進んでいるにも係わらず、自他をも見ないといった 観えてないともとられる そんな異常さを感じさせられてしまっている 商用のためのチャイルドシートとしての浪費財という異常さが感じられてならない 先ずは、商品価値ありきに比重が置かれてしまっていてどーにもならなくなっている こども時代なんか、そんなのあっという間に過ぎていく 『じき、過ぎる』といった言葉の箍のようなもので括られる 誰も反論しないしさせない 死とは常に隣り合わせに在るといった現状 喉の奥がとても乾いているように 常に枯渇状態である それらはほんの一部なのかもしれないが、その一部としたものが、全部に豹変させてしまうに過ぎない 危険地帯とさせた証拠には、あのような神々しい観音像を銅で建立し、それらの周辺には、生まれてきても虐待で死に絶えたかもしれない水子像をきちんと置くということでもある しかしながらああいった湿地としたウェットランドを復元させることは事のほか、重要なシグナルでもある これらが達成させられなければ、われわれの果たす使命であった筈のミッションは、何もなかったことになり兼ねないので当事者サイドとしてはいたたまれない こーいったなかったこと体質が強制連行を帯びさせているから、猟奇的殺人の小説やら映画をもっと作れとか、書けだとかって云うのに憑依させられてもいるわけだ そして今は、少なからず何だか、もう描けない日が近づいてきそうなので、そうした意味を踏まえつつ、またまた一円にも一縁にもならないような事態が続いていく限りで、生命が朽ち果てそうでもある また背中が痛いのだが、どーすることもできない ただ痛みが遠のくのを待ちわびるだけである 何もない 罪深い地元の内地人が正気させてきた数々の忌まわしい蛮行と、野蛮さを極めた行動の元凶といったものは一体何だったのだろうか・・・?人々を思いやるといったヒマは微塵もなく、単なる売りさばくといった感覚での時間が流れてしまっている 高学歴でしかも、相応の身分が補償されたものほど、このような在る意味でのワル智慧に長けてもおられるのだろうか・・・などとも感じさせてもしまう 墓石が飛ぶように売れるような時代にあっては、これらが文化を煽動しているといっても過言ではなさそうである ただ大部分がそーいった呪縛に動いてしまっているのに それがどーだあーだというのは、手も足も出ない 今までもそうであった 何かの発言権といったものは、遮られるか、そうではなく、発言権の大きな人々の影に隠れてしまって何も観えないし聴こえなくなってしまった 税金を払っているのかいないのかといったものを重視される 本来税金で運営できなかったことをしていたのに税金の範疇を超えた活動に勤しんでいた過去からの行動が、全くもって水の泡に化されてしまった 自己負担と自己責任と自己都合といったようなもので全てを任されているだけである 公共は公共であっても、何らの機能も果たせない単なる使えないサーヴィスを相変わらずやってるだけの進歩もない最悪な事業といっても過言ではない しかも冷淡なという態度までもおまけで付いてしまうような公共事業である これらはやはり至って、日本人やこの周辺のアジアの人々の個人的な問題ではないような気がしてならない 居場所を与えられていない与えられてこなかった まるで焼き討ちに野賜っているような仕組みでもある 起こるべくして起きてしまった合理化といった中での罠のようなものかもしれない なぜ人は貪ってしまうに至るのだろうか? 何も仏教を強制する訳ではないにしても、こうした展開に関して考察をしてみたいので行を変えてみます
 釈尊と当時の思想化との対比なるものによれば、五見の否定の項には、‘見’即ち誤った見解としての独断論の意味だという その中でも、‘邪見’について、邪見とは広い意味での誤った見解のことであって、五見のすべてを指し示している 五見の一つとしての邪見は狭義のものである それは十事の邪見と見做されるものであって、十事とは次を云う
 ・布施なし
 ・献供なし
 ・祭祀なし
 ・善悪の諸業の報果なし
 ・此世なし
 ・他世なし
 ・母なし
 ・父なし
 ・化身有情なし
 ・世間には正しく生活し、正しく修行し、此世他世を自ら通達証悟して、これを世人に宣説するシャモン・バラモンあることなし
 以上である これらは、善も悪もなく、善悪の報果もなく、三世因果もなく、修道も証果もないとさせるのであって、やがて、仏・法・僧の三宝をも否定たらしめ、四諦や十二縁起の教えまでをも否定たらしめるのであるという これら邪見とは、現象の動きや実践修道に対する最も誤った見解をとるものであって、邪見がある限りは、他ならぬ“仏教の教え”事態に入ることは決して出来ないのであるともいう 上記の五見も然ることながら、やはりこういった見解における人定めのようなものが発生してもしまうかのようでもある 今月はコームインの皆様方のBonusの時期でもあり、ラテン語ではその昔から“ヨイ”ならぬ酔いらしい・・・? そして、カイシャやホケンカイシャの特別配当金の類でもある 現場不在証明は明確に発行できるか否かが最大のポイントでもありリスクにもなりそうである それにしても今日の日中は、暑かった 家の中がムシムシと噎せ返っていた 今朝方の雨音が嘘のように晴れ晴れとした季節になった 蓮華合掌  


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2009年06月11日

自動車優先社会は続く…

実に痛ましい交通事故だ あの道路は当方もよく利用させて頂いていますが、危険極まりのない追い越しが頻繁なのには、閉口しておりました それにしましても、お亡くなりになられてしまったいのちにご冥福をお祈りさせていただきます 兎に角、ちょとした隙を狙って追い越しをかけるといった調子です しかも、その多くが現地のナンバーの車であるのも見逃せません 私は、わざとらしく、追い越していけと云わんばかりに路肩側に幅寄せして、減速し、追い越して逝ってもらうことがしばしばでした 少しでも早くといった考え方の行き過ぎもあったのかもしれません がしかし、赤ちゃんが乗車していたということ、その母親がドライバーだったということに着眼させていただけば、こういった子育ての時期と、高齢の両親との行き来ですとか、他人事には思えません たまたま遭ったという事故であるかもしれませんが、そうではなく、いつこうした事故に巻き込まれるのか想定できないという現状なのだと実感します どーいった理由にせよ、生後間もないような赤ちゃんがおられる家庭の御母さんが、運転の舵を取らなければならないといった厳し過ぎる現実を突き付けられてはいないでしょうか 私にはよくわかります こーいったさめざめとした現実が横たわり続けているのです 生後間もなくなくても、生後一年以内とかの母体が未だ回復の兆しが癒えないような所謂産後の肥立ちのような時期に ドライバーをかって出なければならない しかも、本人は若いとか、別に何ともないとか、無自覚であるがために 尚更のこと、周囲もそれに甘んじてしまう 内心では大丈夫ではないのではないかとか、そーいった頭は持ちながら、若さに任せてしまう ‘なんとかなるさ’ そーいった迷信めいた自治が出来上がってしまっている 対向車線の仕事帰りのトラックも、過信が多い、今なら追い越したって大丈夫だ、一刻も早く帰りたいとか、人為的なその顛末を感じてもしまう ほんの少しだけでも注意を払っていたら、だとか、普段の心がけがどーであったかだとか… 考え出せばきりがないのかもしれない 現実的には、もう刻一刻と時は、刻まれて逝ってしまうだけである 普段から、あそこは危なそうだなっというのは、みんながみんな感じてはいたけど、何もないからまぁっいいっかといったことで済まされていた 何もなくてうまくいっている時だからこそ、そこでの状況をよく観察し、それらをある一定の基準等によって、評価させなければならないと、強く感じさせていただいた 昨日は、そういった面でもあったが、“ファームステイ”の企画をする上での送迎などに使用する件で、◎◎◎社の営業担当の方と、話をさせていただいた それが、色々と話していくうちに パパのバスケットチームを作ろうだとか、パパ同士のサークル的なかかわりが、この辺には欠けてるよねっていうのがあって、ママさんたちばっか、ママさんバレーやってて、パパは、仲間もいなくて孤独で子育てについて悩んでるっていうやつに 何かフェアではない氣がしていた もっと、パパが仕事上でも大事なフェアなビジネスをしていく上でも、こーいった社会人バスケチームで、本当のチームワークを学ぶ機会とするのは有効だ メタボ気味の身体にも過激ではない多少のウォーミングアップは必要でもある 時間なんかは作ろうと思えば作れるだろうし、こういった仕組みになっていくことで、少しずつ少しずつ地域が動いていくのかもしれない そんな中で、例えば、赤ちゃんのある家族だとか、身体が思うようにならない方々だとか、目が観えないだとか言った そーいった様々な自己の不都合を極めた方々にも何らかの懸け橋になれればといったモノも大きい 今までは、自分に都合の悪いことというのが、達成するということが、ある種のわがままであり、自己中心的だといった慣習的な因習がまかり通ってきてしまったともいえる 個人的な不都合を みんなの不都合として考えてみてもいいのではなかろうかというものである 個人的な都合も、不都合も、ブレストしていくことであって、それらの充足できてないところで、われわれの何らかの温かさを差し伸べるということかもしれない 本来ならばできるだけ、近所であれば、距離的な時差があまりないので、構築は比較的、スムーズかもしれない しかしながら、地球の裏側から表側へとか、太陽系から銀河系の外へといった破天荒なこともあるのかもしれない それほどまでに願いの類というものは、幅広く奥深くあってないようなものかもしれない 先日、キウイの花が満開だったのをよくよく観ていたら、蜘蛛が花虻を捕えていて、その成分を吸い尽くしていたのを観て震撼とした アブの腹がペシャンコになってしまっていた キウイの大きな花のめしべやおしべのその中で起きたジェノサイドであった 凄まじい光景だった 花の蜜に肖ろうとやってきた来訪者に突如として、餌食と化されてしまった そのすぐ横の花では、こがねむしがおしべから噴出された粉様の花粉をかき集めながら、ほおばっていたりもしていた 今朝は今朝で、図鑑には掲載されてない木の実が、庭に大量に実をつけ、熟したのを採取し、紫蘇ジュースのような作り方で、酢で発酵させるといったような“木の実酒”を作ってみた この木の実はブルーベリーより赤く甘くて種子がなく、扱いやすい 学名がわからないが、5年ほど前に烏川渓谷緑地のイベントがあった時に頂いてきた樹である あれから、うちのジジの軽トラに追突されるなどの紆余曲折を経ながらも、即時の応急処置によって、みるみる枝ぶりは蘇生し、大きく成長した 毎年のようにこの時期、たわわに実をならせる いつも何気なくしていたが、近年アブラムシや、カイガラムシっぽいような虫が実についているのが確認されている 毎年のことではるが、まだ幼そうな緑色のカメムシもタカっている 漢方ではこのカメムシを生で飲み込むと何らかの強壮剤としての効能も謳ってあった(  ̄O ̄) 実の先端に隠れていたりもしていた ただなぜか、鳥がこの実の恩恵に与っているのを目にしたことはない 不思議である 蓮華合掌    
  
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2009年06月07日

ファウルとバイオレーション

 しかしながら、人道面での反則や罰則といったルールなんかにペナルティは存在するんだろうか・・・この辺りは、スポーツに学ばせて頂きたい 退場させられた後、何らかのOJTとしたフォークダンスのハーモニーの様な繰り返しの反復エクササイズでなければ一向に学び様もないからだ やはり、ファウルが何故、存在するのかっていえば、そーです 身体の触れ合いによる違反であり、スポーツマンらしくない行為ということです ファウルはファウルでも、身体のふれあいは伴わないものもあり、そーいった種別にバスケットボールでは決められています ただ私は、個人的には、バスケを部活などでプレイしてはいませんでしたが、授業のコマとして多少はしてました その中でも大事なルール事項ですが、反則というものは“記録”に留められるということです しかも、その反則回数が、3回だとか5回だとかいった行き過ぎの場合は、その場から退場させられるプレーヤーが出てしまうわけですね ただファウル以外の記録されない反則に関しては、その反則をやらかしたプレーヤーとは別のチームへとボールがフリースローとして与えられるとしたものです 確かにこーした最もらしさは、ゲームを構築する際には必然とされてもいます まぁ、ヒューマンフォーミュラとしては、これらのスポーツ=行動といったところでしょうか プレーヤーといえば、以前にも3人からといったものもありました さて、どんな場になるか・・・? 場の作り方から構築することにします
 ・学力なし 
 ・地位なし 
 ・コネなし 
 ・明声なし 
 ・国籍なし 
 ・権力なし 
 ・利害関係なし
 訪問してくる人々にとっての“対等”というものを考えた場合に これらはある意味でも“ちから”を持たないからこそできることがあるといった 「ほんとうにさがしていた場所はここだったんだ」と、訪問者をそのままで受け入れていくということです また周囲の雑音に惑わされることなく、Only youとした、画面やボード上の側の相手や、いま起きてしまっている事象が頭で知っているというばかりではなく、自分のこととして解っていることが大事です 「あっ、コレって自分のことかも・・・」というものです 今何に悩み、何を大切に思い、どう歩もうと努力を続けているのか 訪問なさった方のサポートが出来るととても有り難いのだといえるでしょう そこで、無財の七施というものは、ご存知の方々も多くいらっしゃられるかと思われますので、次のものもご参照されると、今後の人生や、ご自身の生き方に何らかのソースとなるのではなにでしょうか・・・
 ・無畏施 (精神的な不安、恐怖を取り除く布施)
 ・随至施 (近づいてきたものに施すこと)
 ・怖畏施 (施さなかった場合の後難を畏れて施すこと)
 ・報恩施 (恩に報いるために施すこと)
 ・求報施 (のちの報いを期待して施すこと)
 ・習先施 (ご先祖様の家風に倣って施すこと)
 ・希天施 (生天を願って施すこと)
 ・要名施 (名声を拾って施すこと)
 ・為荘厳心等施 (心を清浄にし悟りに向かう為に施すこと)
 以上、布施をするとは、即ち“貪らないこと”ことの何物でもないのですが、これらも参考にさせて頂き、実践 生き方に迷いがあったら、先ず何でもいいので、布施をしてみましょう そんな事柄を法施にて教えていただいております ただ、仏教も無数のうちの教えの一つとしたものでもありますし、星の数と同じように存在する中のある意味での選択肢となさって頂ければ幸いでございます 本題のファウルを考えさせて頂きますと、反則にも場の雰囲気を著しく破壊させるような反則は困り果てます 特に失礼な態度や、相手の視界を遮るような細かい虫的妨害、無作法といった困惑を極めてしまう態度は違反の窮みといえます しかしながら、退場させられたからといって、学習を家居に任せるのではなく、まだバツゲームが続くのです それは、テクニカルファウルとされた内容には、相手に得点が大量に加算されるばかりでなく、そのテクニカルファウルによって失格のような事態も起こってきたり、実に様々なファウルとした詳細が列挙されもします よって、こういった内容は、Allデータベース化ならぬSQLになるといえるでしょう スポーツのフェア精神というものの素晴らしさが改めて浮き彫りにもなってくるようです しかしながら、こーいった原理原則的でのゲーム感覚によって、少なからず様々な係わり合いのなかった 若しくは、本来ならば係わるはずではなかった人々とのコミュニケーションが広がるのは面白いことだと期待してもいます 昔から積み重ねられてきてはいたもののそれが、どんなカタチで連携すれば、より良いソーシャルスキルを習得できるのか こういった未知なる ではあるけれども、実社会から、それほど掛け離れない人と人の間を切磋琢磨とさせるものなのかもしれませんね (出典:中学生のスポーツルール/東方出版社)  


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2009年06月06日

マニアック的な許容性

 この前の水曜日の夕方、河原に下りていったら、いつの間にやら、ネトネトした幾重にもなった長いやつが、白い長袖Tシャツにくっついて来た けしからぬ奴等だ! 何しろ、この不気味なベトベトとさせたものには、細かい黒い虫らが、罠にでも引っかかってしまったかのように大群を成していた このような絡まってくる大群の包囲網をわれわれは、未然に防ぐなんてことは可能なのだろうか こーいった凶器は、幾ら目が見えていたとしても、ただそこに在る ただただ在ったので、それが絡み付いてネトネトと、ベトベトとした不快な感情が発生し続けた 頭にも髪の毛にも、それをぬぐい払う手や腕などにも、不快指数はボルテージを加速させていく そして、そーっとその罠を長袖Tシャツから取り払おうと、少しずつ糸を手繰ってみるのではあるのだけれど、虫が潰れて汚れが目立ってくる 日常的にもこーいった事件に遭遇しないさせないために何らかの対策が必要だといった観点からの‘農薬’という事案も少なからずはあるのかもしれなかった しかしながら、ヒューマンフォーミュラ的には、これらを受身の力で何とかするかといった、それらの昆虫群を避けたり、退けたり、昆虫の生か死かには影響を与えずに それらの群隊におかされた組織を早く回復させ、より健康を保つことで、結果的には人間に収穫を与えることになるとあった つまるところ、害虫に食害されたとしても、収穫時までは耐え忍ぶことができるという自然の摂理なのだろうか そして、これらのマニアックとも云われる許容性の場合、昆虫群の個数が減るわけではないとも云われている・・・、一般的に健全な人間ならぬ植物ほど病害虫に耐えうる 許容性の機構を発見したペインター博士は、「植物の一般的な活力は、害虫の攻撃に対する許容性に非常な影響を与える」といっている 植物の品種も害虫防除にとって大切では在るが、植物の健康状態と土壌の栄養バランスも大切なことは明らかでもある ・・・、また化学肥料の害である一つには、化学肥料では主栄養素は大量に供給させるが、与えられた植物そのものは、微量元素などは少しも吸収せず、その結果遊離アミノ酸の含量が急上昇し、害虫を誘うといった結果となるのだ 化学肥料を与えた人工生産物としての製作品の人間ならぬ植物vs.経験値からの伝承的な農法などをバランスよく組み合わせた害虫駆除では、遊離アミノ酸の含量は乏しく、従って害虫諸君らには、興味のないシロモノなのである こういった内容で思い当たるのは、前述の蜘蛛が吐き出していった害虫駆除網のような残骸である あれらは、空中に舞っていたのであって、そこをたまたま、私は素通りしてしまったのである そして、いつになくまた、有機農法百科なるものを開いて喜んでいたのでもある そして、以前からもいつも感じていたのは、《葉は天然のマルチだ》といったことでもあった 何かこーいったマニアックな農法のようなものと、人間を交錯させて観つつ、振り返らせて頂くのが、積み重なってきていないでもなさそうである 昨日の痛みは、今日の快適とでもいうべきかもしれない そんなに毎日毎日、酒を浴びていられるわけでもないし、酒が有り余るほどあったからといって、もったいないから飲んじゃいなって、そんなのは、出来ないし、わからない 体調が感情からくるなんていうのは、勿論誰が遭遇したって、そーだとしかいえない だから、異常感情注意報というのは、お役に立つものだと考える ある種、この季節柄、異常な感情を翻させるような除草剤の類を極めて大量に使用させて、それらがやりたい放題になっているということがいえそうでもある そんなことが推測されるのである でなければ、だが、あのような異常感情を行動に移すなんていうのは、到底成しえないのである しかも、解毒ができてはいない人工的なサイボーグ化してしまった機械の一部となった人間が、暴れだすのもムリもないだろう そーいった事柄には、スポットを当てないのではないのか ただそーいったものが単に当たり前と化した 何もしない ただ通年とした行事のような感覚での農薬散布なのかもしれない そーいったものには、やはり耐性がつくのも事実である 感情と行動の関係の研究を独自に勝手にやっているようにも見受けられるが、このようなものは、しかるべき自然界であるものとしての食人とするものかもしれないし、根絶やしに関しても、そーですが、人間を犬扱いさせるだとか、そーいったことで、傍受した内容をテーマとして、オンエアするだとかいうやつは、むしろもう、そーいった生き残り作戦の挑みをかけた戦争が繰り広げられてしまっている 述べ句幕無しに与えられる情報といった質の課題は、われわれを奈落の底に突き落とし、果ては地獄の裏庭のようでもある 何かしら曇りの空が、どんよりしたのが観えるので、行をかえます
 個人的な課題をかき集めるっていっても、まとまることは先ずないし、まとめる必要はないし、ただ連続するようなものでもないので、公式にはあてはまらない場合がある だらこそ、それが・・・、公式がないということが公式であるかのような導きなのかもしれない 或いは気分的な或いは気まぐれで、はたまた或いは他人の時間を奴隷にさせてしまっている可能性があるのではないかだとか、ついつい氣を遣ってしまう どーしたって氣がきでもない こんなことやあんなことが欲しいだとか、やりたいだとかって云ってたら、わがままであるし、もはや人間扱いはしてはくれない 神業を使えない テレパシーは寸断させられた 以前に某総合病院に足を運んでいた どーしても幼き頃からの背中の 義父母が言うには、烏に抓まれただわなどと、ケタタマしい笑い声とともに帰したその嘲りの声を確かめようと、形成外科を尋ねてみたところ、なんと、ここでは、そのキズを治すことはできないから、紹介状を書いてあげますから、そこでそのキズをキレイにしてくれますからといったことを診断されたのだ 私は治療のために 勇気を出して受診したわけではなく、どーしてこのキズができたかとか、このキズは単なるキズなのかとか、そーいった法医学的手段に関する話をしていたはずであった ところがだ、最もこの病院を訪問する前には、入念に問診のようなものを幾度かの機関で受けたのである その最終的な判断が、ここでは治せないので、専門家へ行ってくれ、そこで整形手術が受けられるといったことだったのである 別に整形なんかをいつ誰が望んだのだろうか? 全く訳がわからなかったし、意味が不明でもあった なぜ?そーいったことになるのか? このキズ跡は、痛くも痒くもないし、別に放置させてあってもどーってことはないし、何の負担でもない にも係わらずに医者は、治療をして、美しくしましょうかなんかを説明するのである みかけをなんとかしましょうという みかけなんかどーだっていい なぜこんなことになったのか?そーいった分類は、非公式にさせてしまうのである いつもそうだ どこもそーだった 検査や問診をありったけの時間と手間をかけた挙句の末に待っていたのは、とてつもなく自己責任とさせる治療を勧められるだけだ その他の回避事項は何もないか、わからないといっているか、面倒なひとがやってきたといった概念である これらが、この自治を悪くさせている所以であることは、いうまでもない ただこー云っても、誰もわからないという 何を云っているのか意味がわからんといって、撥ね付けれて続けてしまう これがいま そして、一生に近いものかも 蓮華合掌  


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2009年06月04日

Marchant,Adventurer

 私の個人的な意見とすれば、例えばいま、昔はそーですね、20年以上昔ですが、私のとこの祖母もそーでしたが、昔なんかは、「アホウ症」といった名称でも有名な鬼気怪界とした病でしたが、こういった介護では並々ならぬ、事情が遭ったわけですねψ(*`ー´)ψ 私なんかは、こういった課題というかそーいう事態に関して云えば・・・、もうヘルパーなんていう制度 これって、ギョーセーとかが慌てふためいて最近出来たような急場を凌ぐような制度だったんじゃないかなっていう認識でしかありませんけどね これらの重度重複で重篤な方々に係わって、大変な辛い目にあっておられる方々が軒並みいます 最近はそんなコトで、あの◎◎◎◎さんだって、あーいった最後の選択をなさってしまったわけです それで、何が言いたいのかというと、例えば、長門さんです~\(_ _;)/~  今注目されている芸能人だからこそ、こういった介護に係わっておられる方々に対する ほんの少しの気休めというか、箸休めになるようなストーリーにしていくのはいかがでしょうか? 私はあまり最初からコネを当てにして、何とかっていうよりも、いま表面化している生々しい介護ゲンバで、もうそんな私生活なんかを堂々と芸人の誇りのように人前に晒されてますよね ああいった、長門夫妻のような胆の据わった近辺の方々への◇◇◇◇◇を提供させていただくという企画を提案したいのです(_ _,)/~~  ほんとうに凄まじい状況での中、そーいった異常な行動をあからさまに行動に出てしまうものを感じないではいられないのです もし、そーいった、例えば、以前からも話題にしてはいるのですが、‘だるまさんがころんだ’といった昔ながらの遊びがあるんですけど、「だるまさんがころんだっ」なんて掛け声をかけた瞬間、ふらついたとか、揺れてしまった、ビビってしまったひとっていうのは、もうその時点で、何らかの概念の囚われの身に転じてしまうようなことをずっと続けてしまっていたような氣がしてならない( ̄个 ̄)  だるまさんなんか、転ぶに決まってますよね 起き上がりこぼしみたいになって、立ったり起きたりして、自由自在になってればそれは別なんですけども・・・、だから、だるまさんを転がすのが目的化されてしまっている公権力の行使事態が、結局はだるまさんがすっ転んだなんていうゲームを子どものころから、繰り返しエンドレスにそればっかやらされてるわけですよね そーいうのはもういいから、いい加減やめよう!というのが出てきたっていいと感じさせていただいちゃうんですよね そーじゃなくって、ある意味、この企画立案の中で、ソーシャルスキル的なことを提案していくO(≧∇≦)O つまり、介護なんかをひっそりと、やっている人々がごまんと溢れていて、そういう介護を担っているとか、担ってきた方々への労いとさせていただくサービスとしての◇◇◇◇◇を提供させていただくっていう観点なんです\(^o^)/ そこで、会計的には、こういった古典的な手法をとります これはあくまでも提案なんですけどね、開港150周年の横浜だったら、青葉区だとか、そういった地域は、高齢化率がものすごい 兎に角、道を歩けば、おじいさんやおばあさんにぶち当たったかの如く遭遇してしまう(  ̄O ̄) どこに行ってもいるという感じなんだと思いますが、そんな中でね、老老介護や、孫やひ孫にまでも介護されているだとか、もう兎に角そういう今なんだって思います そーいうので、社会全体が回ってしまっている どーにかこーにかやってきてしまっている 苦悶の淵で頭部などを小突かれながら、こー必死でやっている それを訴えない 沈黙に徹するしかない ありのままありのままといって済まされている 兎に角、あれは個人的な問題で、知ったかという社会が完成品みたいに出来上がってしまっている(  ̄- ̄) 近い将来のあなた自身に起こってしまう問題だなんてことは思わない(c ̄- ̄) ただいま稼ぐだけ、健康で目も観えて耳も聴こえていられるうちはね、それでいいのかもしれない あそこが痛いここも痛くなって辛くなってきたし、目も観えない耳も聴こえなくなってきた それだけど、個人的な病みたいなもんだし、そーいった公式なんだから自己責任でやんないといけない そういった呪縛めいた迷信がこの世襲を覆い尽くしてしまっている(~ー~) そこで、ヒューマンフォーミュラが提起するのはこういうところで、それから、話を経理の話に戻しますが、私なんかは、中世のイタリア商人のような一航海が一企業といった経理を採用したいと考えています(\'ε\')  それは、特にここでブログを画いてる私が携わっているビジネスには、大企業のような不動産のようなものは何も要らないわけですし、それこそ本邦のような狭い島国においては、そもそもこういった冒険商人の複式簿記でアクセスを使用した、それだと後で、別に何らかの経理がわからないだとか、そーいったものはなく、経理を明確にさせることで、お金の流れがフェアであるという社会的還元が出来るのではないかと感じもします(・_・Dフムフム 先ずは、出資者から資金を集めることからなんですが、自己資金も含めてです 私なんかは、今回の定額給付金を充当します こういうノリで始めていくということですかね(  ̄O ̄)ホー そーして、今日はじいさんの命日にあたります じいさんは、孫の私なんかの顔を観る前に切り出されて樹の下敷きになって若くして死にました 残念でした それと、自動車の免許を全国的にもかなり早く取得したというのを聴いていました 自動車に子どもたちを乗せてどこかへ連れて行くのが、楽しみなじいさまだったようです 初孫の拾われ児は、そのじいさんの自動車には乗ることはできませんでした がしかし、ドライブをしているときには、じいさまが、何か見守っていて守護霊のようにされているんじゃないかなっていうのを感じさせて頂くのです 有り難いことです 蓮華合掌  


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2009年06月04日

Rover

あちこちの様子をお聴きさせて頂くと、ふと感じてしまうことが屡だ あまりにも短期的なスパンの目標が目の前に人参をぶら下げたようになっている そこまでに全力疾走してしまえば、墓場に片足ならぬ両足を突っ込んでるのと一緒なのでもある 支払いに余裕をくれてもいいのではないかという請願みたいなものがありはしないのか? あまりに早すぎて、完済させたはいいが、その数日後には、この世に存在してないといえそうである そんな仕組みが回り続けてしまう 現実的過ぎる箍の渦中に埋もれてしまいそうでもある いったいこの時間といった遇ってナイようなものとの付き合い方をいかにさせるのか こーいった事態に哲学が通用するように 哲学的思想を遇わせるのでもある このヒューマンフォーミュラには、日々様々な難題を持ってこられる悩み多き方々で埋め尽くされてもいます そこで、このマインドリーダーを任され志願される方には、心理的用語ですとか、依存しているだとか、甘えているだとか、自律していないだとか、生きる意欲に欠けているだとかいった言葉は、特に口に出してはいけませんというのを徹底させて頂いています つまり一切のところこういった言葉を罵らない もし何らかの状況によって、訪問者に依存体質が観えたら、あなた自身のことばでその苦悶の状況そのものを説明してくださいとお願いしております 依存であるだとか自立していないだとか、そーいったルーチンワーク的なことばによって、恰ももう分かってしまったかの様に思い込むコチラ側が危険水域に達していると氣付きが必要です ですから、タドタドしくも、あなた自身の自分のことばと社会が承認を与えていることばという概念を どう絡み併せつつ、コミュニケーションし相手に伝えていくのか、或いは自分自身を確かめていくのか それは大事件さながらです 自分を信じること そしてこのヒューマンフォーミュラとしては、徹底して少数者の側に率先して立つのです といのも、この少数者といった人間一人ひとりの声といったものは何も聴こえてはこないんです 子供達の声も然り、社会的地位や経済力が勝っている大人たちのマジョリティとさせた覚醒音に掻き消される事で日常が成り立ってしまっているようなものです 老人の声も段々と聴き取れなくなってきてしまった 信仰ををお持ちの方々は、必ずしも立派な生き方をしていなくても仏様によって生かされているのだということは、御承知の通りですね であるならば、社会的には全くのところ、認められていない人々、これらは単なる社会的存在として挙がってこないといったモノのみでなく、自然界の一部とした人間のいのちのリレーに危機感を募らせてしまっておられる人々に対して、本来仏教がいのちの教えとして存在しているのであったなら、その方々の生き方を最も尊重し、大事にして頂けるという唯一の場であると信じたいものです いのちを蔑ろにしないさせないといったことばを口にするだけで、われわれは何か解ってしまったように思い込んでいるのだけれども、いまここでの子供達が訴えているいのちの危機を本当のところどう掴んでおられるのか 一見何もないように観えていても、自殺願望が強いこどもでごった返しています 或いは自動車で暴走を繰り返している若年層の中にもシニタイと思って生活する子供達で溢れてもいるのです どー生きていったらいいのか? こーいった疑念を自問自答として繰り返しているだけによってもいいものなのかどうなのか、、、既に仕事としてのモノ書きなのか?生活としてのモノ書きなのか?区分は困難だ というわけで、先日感じさせて頂いた雑記を次にアップしときます 
 年がら年中雪だらけというわけではないのだけど、今年は雪を被ってる期間があるのかなという氣がする 今日2009年5月31日、18:28:05は天候が不順だった というよりは、不安定な状況でした 全部が真っ白くて、輪郭も観えない事になっていたなんていう期間はショーがないにしても、やはり、暗闇の期間が長きに及んでくると、白光りしているようなものが目立って仕方ないものであります 離陸するときのあの耳の感覚、バコッとなるような、ズコッというよな耳に戦慄が突き刺さってしまうような感覚めいたものを感じる どーも、幼児の頃から辺りが暗闇に包まれていたような気配もあったために “白”がお気に入りだった ただの“白”というよりは、靄のようで霧のような乳白色のようなビミョーな“白”とでもいうか・・・ でそんなわけで、どぶろくのような濁り酒を浴びるようにする日課が常にもなってしまっていた また、そんなこんなで、そーいった貴重な酒を当方に浴びせようとする人間が多かったのも事実である 酒を勧めなければならないような立ち位置に至っているにも係わらず、酒を浴びせられてのその後の行動を映像化させられてしまうのである 若い頃は、麦の発酵させたものが冷たいとかぬるいだとかいってイチャモンつけてもいたのだけれど、それが、吟醸酒だの久保田の紅寿などの類になってくると、さすがにただ頷いているだけではなく、社交辞令のような未知なる会話を要求されるのでもある 誰も聴いてないとかって、ヌケヌケと色んな痘痕もえくぼ的な内容をシャーシャーとほざき、それらの商談を遂行させるのである なんとも闇ルートの中にネジ込められてしまったかもような按配でもあった いわゆる大人の怪しげな会話である 勿論紙幣が絡んでもくる そんなものを聴たいとも思わなかったが、ナケナシに聴かされてしまったことも屡であった つまるところ、特に居ても居なくても、どーでもよい存在だったのである 特に居たからといって、何らかの不利益が生じるでもなければ、居なかったからといって利益に成り得るというものでもなさそうだった あぁまたしつこい‘浪費’の部門なのかなって・・・ 暗闇を突っ走る傾向に傾きがちなので、そんなものが犇いた場所に置き去りにされてもいた それにしても、自分から水蒸気が立ち昇ってるのを確認してしまうっていうのも面白いのかなって氣がしている 頭のてっぺんから上がるのは最多でもある 今は季節がら唯一、白く観えているのは、河原の石かもしれない 夕方になっても白光りしてたりする 石に聴いてみると、石は相変わらず黙ったままで ただそこに在るのみである 石が何を考えているかいないかとか、それは空想上のことだけであって、石に妖精が宿るだとか、死ぬとみんな石になるから、身の潔白を晴らそうと、石が白きに観えているようだとか・・・ まるで白い峰々のようだとか、いつまでも雪を頂いているというのは、温暖化傾向が減速したのか否か、そのように感じられてもいたりして、、、蓮華合掌
  


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2009年06月03日

なめくじ

 今朝も庭でイチゴ狩りをしていたら、小さな生まれたばかりのようななめくじが一匹、イチゴの肉厚な果肉にタカって腹いっぱいに与っていた 直径0.5mmほどの幼子のナメクジの辺りには親らしきその母さんの御姿はなかった 指と指の指紋間でこすってしまえば、あっという瞬間にあちらへ移動しそうなほどに弱々しくもあったが、なかなかその動きは俊足を極めていたので、じっと見物に興じていたりした ナメクジの触角であったりあの突き出した角のような四つの微笑ましい伸縮自在棒は、葉っぱなどにほんのちょっぴりだけでも接触しただけでも、瞬時に縮んでしまう なぜか、これがどーしたって、‘ちほう’なんかとのやりとりに麻薬の様に観えてくる ‘ちほう’の最も恐れるそのオゾマシイ障がい物が良心を備え持つわれわれ如き存在でもある 何しろ‘ちほう’がどでかい報酬である‘ゲル’を得たがっているから、ワイロでも非合法でもなんでもやれっていうので、ずっと難無くクリアしてきた今だからでもある こんなことが赦されてきた というより、できちゃった婚みたいでもある つべこべといった形式や慣習やらの思想を取っ払い、ただ残骸として残った普遍性とした妊娠のようなものだ ‘ちほう’はナメクジになってはいまいか?なめくじだけに舐められてはたまらんといった無理な抵抗を繰り返してはいないのか?果ては、公権力の行使をそのヌルリとした不気味な粘膜で、われわれのような良心を持った人間と対等にさせる氣なのか われわれは、ゲルで御悩みの方々への幾許かの教育は無数のうちの手段を提示してみるが、ゲルそのものをやるということはない 汚いゲルで血塗られたリンチ集団を横目で観つつ、もしこのままならば、何もできないままで、ナメクジの駆除を遂行しなければならなくなった ナメクジをビールや日本酒で誘って、その夥しい酒で表面張力を興すほどいっぱいになった樽で溺れるといったシナリオなのでもある 昔からこういった‘酒で溺れさせ作戦’みたいなものは、非常に有効でもあった それらのシキタリじみた呪いにも似た洗礼を捧ぐ 神聖で芸術的すぎる 溺れる者は藁を掴んでくるだろう きっと藁しべ長者を目指すためにも…そして、それらの多くの公権力を司る人々はあれらの石の中に刻まれて逝く 永久にこの公権力が行使されたといった無意味な行為や行動を子々孫までにも伝えるために… ときどき、訳が分からなくなるときも大いにありすぎる 悠久なんたらとかこーしたとかといった巨大な碑がポツンとある あまり眼下には入ってはこないが、なぜかあるしかも道路といった主要な現場には必ずある こういった巨額なベネフィットとも成りかねない財産をわれわれは、どう検証すればいいのであろうか それをずっと繰り返して、感情的な行為にはならずに行動を変えられるのだろうか それが極めて問答の過でもある氣がしてならない 〝ヒューマンフォーミュラ〟がそこら辺をのんきそうに歩いているのであるが、まったくもって別の内容のことで、歩いていたわけであったが、余計なものを拾ってきてしまう羽目になる それを話題に乗せない方が得策ではあるものの こびり付いた青さびのような不気味すぎた異界からのメッセージが夥しく流れてくるのである やけに掃除が大変だなって感じたら、やっぱそーだったというものかもしれない ナメクジ連中の動いた形跡は、唾を吐いたかのような絹の道のあの輝きをも帯びている あの歩んだ形跡をキミも観たまえ! どこでどーしていたのかは一目で分かってしまう どんな感情でどんな行動をし、何を学習していたのかといったナメクジの生きたアカシとでもいう、その読んでいた本の数々 われわれはそーいったナメクジの行動に何を学び、どういった反射神経で交わすのか、今後そーいった‘角出せ槍出せ頭出せ’に試されるものかもしれない こーしたちほう的なアフォー的な自治が続いてしまう限り、、、脳の中身は空っぽでしかない スカスカだった 御釜の様な検査機の中でじっとしなくても、もう ただあのような精巧な御釜に入る必要を自ら招致させたのであるから、碑を建立し、塔をいっぱい建立させたのだから、、、在り難いほんとうに在り難く思われてなりません ナメクジなんかは、何も聴いてないし何も聴こえてはいないし、もう初めっから聴く気もない そーいった構造だからとしか言えない 何らかの製造物の一種としてのわれら 蓮華合掌  


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2009年06月02日

fad

 人間だけにしかわからないことをしようとして、世の中に挑戦状をたたきつけているようなもんかもわからんけど・・いたって、流れに忠実にしているだけでもあり・・・そんなこんなだって、SQLを考えてみても、つながりは単に脳の中程度なのかもしれないといった不思議な空間に満たされてもいた そー云えば、過去問に出題されてたみたいな分母と分子のただならぬ関係にぞっとした感じもしたのである それはね、起き上がりコボシのようなバス停にたった一人で公共のバス待ちをしていたあの老婆の御姿なのであり、あのときに私なんかが通過しなかった暁には、もっと時間的なロス&老婆の肉体的な激寒との戦いのどっちらけだったのは間違いない アイスバーンになった道路上をアクセスし、老婆に“乗っていきませんか?”と問うてみた 老婆は、一瞬はタジロイで、バスを待つといったnoサインを示した 私は現状の説明を試みた‘恐らく公共のバスは、あと一時間程度を要します’と・・・その見解に老婆は、一旦は、‘そーですか’といって悲観的態度を表明したが、その後、私が助手席のドアを開け放つと、“善いんですか、悪いねぇ”というセルに変化したのである その老婆は、私なんかの車に乗り込むと、開口一番に“今まで80数年も生きてきましたが、こんなことをなさって下さるのなんてのは生まれて初めてです”といったことを仰られたのでした お聴きさせて頂くと、お子様や兄弟も沢山おありのご身上のようでございましたのに・・・ただこういった一種“行動”には触れたことが一切ないとのことなのでした つまり、移動の際には、公共以外には、誰のお世話にもなったことが皆無であるという実態でした こういったおばあさんの身の上に対して、あまりにも悲劇的な現代の公式ならぬフォーミュラにただ事ならない今ここを感じるにもいたりました それが放置され続けてしまっているのでさえもあり、私などがお声をかけさせていただかなければ、この老婆タルは、もしかしたら生涯に渉って、このような体験を積めなかった不遇のひととして崇められねばならなかったに違いないでしょう この一件にショックを隠しきれずにいたわけでもあるのでした  何をどのようにどれから始めれば善いのかとか、優先順位を考えているのは、寧ろギョーセー国家権力のような後出に回すだけのものでもある 先駆者としては、能書きをタレこんでるだけではなく、現実を周囲を忠実に観察するに限られてしまう 即ち“いまここで起こってしまった何らかの蒼面金剛といった三神の主タルものでもある”所謂、既に沸き起こってしまった現象をありのままの実相というのに高付加価値を見出すことなのでもある それらは、無論普遍性といったありふれがちでありながら、無視の対象とみなされてきたものでもあり、自分はバカですだとか、リコウですだとかを吹聴している単なる実相のようでもあります これらを保つように工夫されてきたシロモノが、コレまででは十分ではなく、寧ろ機能不全を起こしつつあるだとか何だとか、より強力な耐性を持つ‘悪性細菌’に犯されつつあるようでもある 我々はこういったモメンタム期をどういった心構えで迎えるか否かを十分に考えないようで感じずにはいられないのでもある 現実的な話題にもっていけば、数年後には、キミらにも同じような悪夢が再来してしまうというものでもある これは恐怖映画さながらなのでもあり、待ったなしの現実を突きつけられてもいるのである 私の通過してきた過程に関しての経験知からすれば、さほどの苦しみでも侘しさでもなかろうにとさえ感じてしまう なぜならば、叡智を還元しようというジェネレーションが存在するのである この悦ばしい僭越さながらなアクシデントをわれわれは、火星人来襲の如きに祝福せずにはいられないのでさえある 蓮華合掌  


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2009年06月01日

〝暴走する文明〟

(o_ _)oドテッとコケついでに(o_ _)o よくコケまくってることが多いのですが、〝暴走する文明〟を読まさせて頂きまして、これら地上の球のようなところにカロウジテ引っかかりを観付けつつ乗っかっているとですね、さまざまなことに遭遇するし、俄かそこらじゅうで起こっているのも、まっ必然的な受験対策みたいな氣もしないでもなさそーだ とりあえず、私的には一応、認識はされているようでありますが、まったくのところ弾かれていくといったところでしょうか そんなこんなで、知識人との対談をさせていただきますと、どーも私には、ネガティヴであるというようなものをチラつかされてしまうのです そして、全身が凍りついてしまっています 製氷器のようなガラスケースに入れられてしまっているような感じ、ただそーすることで生き延びられている或る意味での延命措置と言うのかそんなものまで感じています 文明とか文化とかって、説明つけてみろっていうのも、すべては繋がりなのかもしれないのかな ただ在るだけというので、どれだけ生き延びられるのかを人体実験しているかのようでもある 何かを奪うために、自分らの
行動が成り立つものだったら、それっていうのは、いったいナニ?という氣もします 前述の本を開いたページが、こういったものでした 私はいつも開いたページから読み始めるという質でもあるわけですので行を変えてみます(o_ _)o
 〝肥えて柔かい大地がすっかり流れ去り、かつて存在したものに比べて、いま残るものは病人の骸骨に似ている ・・・・・いまや蜜蜂の食べ物しかなくなった山々には・・・・・そー遠くないむかし。樹木が生えていた 毎年の雨で滋養を与えられ、現在のように裸地から海へ流れて失われることがなかった 土壌は深く、それが水分を受け取ってローム質の大地に留め・・・・いたるところに泉や沢を生じさせた 今日では見捨てられた社が、かつて泉の流れた場所をしめすばかりである〟(出典:プラトン〝クリティアス〟) 要するに外国も日本もどこもかしこもそんな風だというように感じている ただ世界中を観て旅行をして汗を流したのではないにしても、あまりにも身近なところを見捨てるだとか見限る人間が多いのも尋常ではない しかしながら、やはり千年単位だとか、非常に長期戦な時間的な流れを観るにつけ、その期間をのんびりと、もっと他の学習や研究時間として与えられているようにも思える 石だとか樹木だとか葉っぱだとかに精霊が宿っているとか妖精が現れるおとぎ話を信じるのもいい がその半面、そんな石っころは何も考えてはいないし、樹木から小人は現れないのが常かもしれない ただ前にも何らかに記したけど、石は冷たいばかりではないし、樹木の樹皮からの恩恵が様々なことにも謳われているし、葉っぱは葉っぱで、光合成をし、酸素を供給してくれるといったありふれたことの連続を成している おとぎ話が嫌いでもなければ民話を支持するというものでもないのですが、やはり人間とすれば、雨が激しかろうが靄がかかっていようがその経験を積むのと、それはしないと決め込むのとでは、人生の生き方に対する耐性のようなものに歪みが出てきてしまうのかなとも感じています 何はともあれ、自然の流れに触れてみようとすることも、いろいろと詮索とかされて説教がましいことに囚われて、それらの(親とか教師とか上司だとかも)呪縛(ゴメンナサイ)から抜け出すことが或る意味での“教育の質”でもあるように感じてしまいます ですが、いったいからして“質”というものは何かといった会議は終わることなく続いてしまっているだけなのでしょうか 即ち、一日二十四時間の配分としたら、いったいあなただったら何に時間の帯を傾けてしまっているのかと、これから傾けたいのか?といった単純明解過ぎるのですが、時間の使い方の検証を知り、それを自分で納得する必要を迫られているのが、今、進行形で病んでいるからこそ出来ることの一つなのかもしれないですね 蓮華合掌   


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2009年06月01日

人間の苦悩

 われわれの日々の〝ヒューマンフォーミュラ〟とした活動といったものは、要請が発生すればやるといった受け身的なものが主だったものではなく、社会の中の位置づけに関していうならば、社会的な秩序を正しい方向に導く道標的な活動といっても言い過ぎではなく自己評価をさせて頂いております 所謂民間の主体的な環境福祉的なニュアンスの民間人の活動といったものでしょうか ところが、本邦の福祉、とりわけご承知のように古典的には、仏教を主流とした戦後は、特に‘官主導型環境や福祉’であって、そこへわれわれの活動は、従属させられてしまうようになって身動きがとれなくなりました 私は個人的には、633制の制度の範囲内での教育レヴェルしか学習環境は用意されてきませんでしたが、ただ一つ違った野外活動的なことといえば、募金活動やバザーなどや、身体や心(気持ち)が思うように動かなかったり働かなかったりする人々に対する様子を幼いころから観てきてしまいました 判例六法などを読み漁っていると、随分昔からの生活を起点とする福祉課題が山積しておりました それがこーして、連綿と繋がり続けてきたように思えます いったい全体、時代背景がこんなにも進化してきているにも関わらず教育の質そのものが、こんなにも変わってなくていいものなのか?というのを驚嘆するしかない PTA活動で先生とお話すると、先生方は一律に‘時間がとれない’というのを口を揃えて仰られます そんなに時間がないというのは、教育を抱え込んでいるという風な、或る意味での“教育の質”を考慮されてないのではないだろうかと… つまるところ、私から云わせて頂ければ、時間の使い方がオゾイのではなかろうかということである 教育の質を考えるときにそれらの教育に携わっている方々の連携プレーがなされずにある一人の先生のみがワークをレイバー的に抱え込むことで、その先生は英雄と見做されてしまっているような雰囲気でもある 制度の枠組みの中のみで、右往左往とする援助サーヴィスは、あって当たり前にしても、制度には入らないサーヴィスと言ったものにも、〝等価値〟として、様々な人々が雑多に入り乱れて学んでいかなければならないテーマであると感じています 今後、裁判員制度といったモノでも、調停の中での態度が、然もすれば民間人でありながら、裁判所の中では非常勤の公務員といった任命された役柄が付いてしまうことでの危惧として、何か偉そうな立場になって裁くということになりはしないかというものが、非常に試される 特にこういった地方の何でもないような場所での出来事は、特にそーいった態度を表明するのは、もう目に観えている 普段の暮らしぶりがその裁判で人間が人間を裁く行動のような場面では、あからさまに現れてきてしまう 国家の思想を担っている裁判官や専門職としての調査官がいますが、国家権力や権限を何も持っていない、むしろ持っていないからこそ、そーいった利害だとかには無縁の人々の自由な立場からの観た、謂わばそーいった眼力を備えた人間が入り込んで初めて、複雑な地域問題や、人間が人間を裁くといった行動に付する裁判所事態が開かれた機能を期待されるようになるのではないでしょうか ですから本来ならば、純粋に民間人として参加すべきなのですけど、何か国家が承認を降した一種の資格めいたものを持たされてしまうと、人格も何もかも優れたものに成りあがったという氣になってしまう こーいった感情が心の中にあり、それがそのまま、行動になってしまう このような感情と行動をよく弁え見つめる必要が迫られているように思われてなりません 〝良心的〟なことを感じさせて頂いてしまえば、例えば区長に給料をやれといったものは、ギョーセーから御墨付きを与えられた資格に頼った福祉だとか環境だとかの活動が中心になり過ぎると、純粋に活動を積み重ねてきたわれわれのような主体性を重視した活動なんかは、育たなくなってしまうのが目に観えてしまいます われわれにしろ、さまざまな主体性を持つ活動をされている方々というのは、各地に散らばっていても活動らしい活動ができていない 外野が観ると個人的に援助しているふうに観られたり、余裕があり余っているからやっているにすぎないだとか、外野の評価というものは非常に厳しいことを平気で何の躊躇いもなく言う 経済的な基盤が脆弱である そーいったものは仕方がない 寄付がほしいからやっているわけでもなく、名誉や社会的地位を得ようとしているから活動を拡散させろなんていうのもない こういった地味で目立たなくひっそりとやっているところへの金銭的な評価は、ない なので、人材も育たないし、然もすると権力をもった多数派の外野には、手厳しく扱われてしまう そしてそれが唯一の金銭価値での評価になってしまう 臨床の場を踏むことができないつかめないという悩みのようなことをいう組織もあるかと思います 実際の現場で学ぶということは、辛辣極まりない忍耐の連続なのです 知識ばっかりを理論攻めで長時間やってこられた専門家さんは、その理論でわかったような氣でいて、この現場の中での一つ一つの事実から学び、こうして忍耐強く地域の中で鍛えられない限り、この複雑懐疑的な生きとし生けるものとしての人間には到底近づけません (出典:聴こえない声をきく)蓮華合掌  
  


Posted by このは なさくや at 10:42Comments(0)ヒューマンフォーミュラ