2009年06月24日
オゴポゴ
どこまで相手の身になれるかどうか・・・そーいった酉でのようでもあり、自然界の掟とでも云うべき仕組みなのか 日中は、ラベンダーが一面に咲き乱れる山肌の公園で自分自身を取り戻した 私なりの個人的な表現で言えば“チャーヂ”かな ラベンダー株の一つ一つは品種が異質なものが混ざり合っていた そして、例によって、そのただぴろい公園内は人っ子一人いないような状況でもあった オニヤンマかシオカラトンボの抜け殻が確認されて、グロテスクな感じに襲われた ジャンボだったからだっ! ミツバチやくまんばちなんかも、せわしくワークに励んでいた 所かまわず、ラベンダーの蜜を漁りまくっていた 凄まじい光景だった 相変わらずモンシロチョウたちは、空中ダンスに明け暮れているようでもあった 楽しそうだった あの蝶らの行動と云うエネルギーと云うものは、華麗でさえあった そして、巨大なトンボというトンボもすばっしっこく、ビデオカメラに収まったのは、ほんの一瞬に過ぎないので有る 時間的感覚というものが、のろく感じられて仕方がない 時間が一行に過ぎていかないと感じてしまう 何故なのだろう・・・?その辺がよくわからない 随分と以前は、時間が足りなくて困っていたように感じられた時期も通過してきたように思う いまは。ありあまる時間という概念というところなのかもしれない 自然に返るという表現は、ちと大胆不敵なのかもしれませんが、大地の懐である土壌への思いを馳せるというか、やはり大地に抱かれし我が身みたいなのを必然的に感じさせてしまう 感じないではいられないっていうか・・・ ところが、森林へ入ってみると、その笹だとか雑草だとかの葉っぱが、レースの様になって穴が開いてしまってる 人間さまの顔色で言えばね、毛穴が開いっちゃってる んなダメージというか、何か変哲さながらの中にも、異変を感じずにはいられないようなそんな状況である今だったりして・・・ 穴開いてるだけかってんなら、まだましなんですけど、ところがどっこい、それってどう観ても益虫が貪ってあけた穴には観えないんです ってことは、駆除しなきゃなんないっていう対策委員会を開くかですが、、、やっぱ空気が濁ってきてるのかも・・・そんなので、空気感染するバイオハザードさながら・・・ 生き残りを賭けた七転八倒が繰り広げられてしまってる 一人で生き残ってっても、、、虚しいなてな感じがします けど、現実はね、そーとー厳しいしキツイですね こりゃ 安心が時間ではたやすく確保できないし、安定供給なんかはもっての他で、安全っていうことになってくると、私を個人的なデータベースで例えると、ほっといてくれないかな、、、だとか、コロコロと気まぐれにしてないと、常時不安だからでもある こうして打ってる最中でさえも、だけど途中で、急に行動を換える というか、全く意に反した行動を促す 思いつき病のようなもんかもしれない ただここが、目下のところ、拉致された強制収容所で、『具合わりいだか』といった拷問を日常的に浴びせられてもいる風なんで、そこのところが、もっと不安に輪を何重にもかけさせられているといった点においては、あまりにも極限環境であることに間違いはなく、然もそれが精神的、肉体的、経済的の三点セットに及ぶ そして、それは続いていく 不自然なまでに続いてしまう ただそれが、治癒を目的化していたりだとか、努力目標値を設定させたりだとか、他のケースと比較の対象化されたり、出来具合についてを更に評価させあうような、、、こんなんでは益々にして、体内時計は狂わさせられ、人は必要としないさせない主体性だとか、前出の三点の武器をもって自立ならぬ自律なさしめるといった、何か本来の自分自身を取り戻すとか、自分の内側からにじみ出てくるような精神性の深さといったものは、やはり安全な場が確保されない日本という国家体制では生命力のあるものというのは生まれにくくさせてしまっているのではないのでしょうか 外部圧力が強い、特に家庭にあっては親の権力、しかもほとんどの場合は、女親の権力、そして学校であれば校長の権力というように権力の方向性が決定的瞬間を左右させているしさせてしまっている ‘絶対君主’を遵守するという全体主義 行きたいときに来ていいとか、自由にはならないしなる余裕のある受容れ場所は極僅かな人に知られているのみであって、本当に知らなければならない知らせなければならない誰かには、運命の名の下での制限が敷かれている 常時、大丈夫って思えないし思わなくさせられているのが今であったりしている 全体主義の中での号令に従えないモノらは、強制収容所に閉じ込められてまま、灼熱の太陽を浴び、幌をかけられ、水も食料も与えられずにのたれジネ!と云う顛末が待っているだけでもある どこまで相手の身の上になれるかとは、どれだけその厳しい状況を共有できるかどうかにもよる 有り余る貪りの地獄絵図を上映させられ続け、後は共感者はなし 上映が繰り返させられているにも拘らず、誰も観ないし、知らないし、ヘンテコすぎるから、みっともないから、治せ!という命令が下されてしまう それっていうのは、お前らの感覚そのものなんじゃないのですか? ただこーいったタブーは沈黙を通すのみである あなたの弟は、生きたかったのに夭折、それをなぜ、あなたはその弟の死に恥じないように生きようとしないのだろうか? こういった事を感じないではいられない もっともっとこの暮らしを何とかしようっていう精神活動が出来たかもしれない それは、なかったことになる それまで生きた証しは、ただ単にやっぱ、在ったねというだけだ あまりに夭折された人間が軽々しく扱われていないだろうか 誰も弔わず、誰も悼みの志を知らない そして、そんな人間だらけ、命令を忠実に聴かされたサイボーグが蔓延っている 再び人間にしか出来ないとは・・・? いったいどういう感覚なのだろう? 冷血な肉の塊が転がっているだけか、フリーザーにガチガチになった臓器か、脳はスカスカだが、外見上はどーってことないやつか、、、オゴポゴを観た瞬間なのかもしれない 蓮華合掌