2009年06月06日

マニアック的な許容性

 この前の水曜日の夕方、河原に下りていったら、いつの間にやら、ネトネトした幾重にもなった長いやつが、白い長袖Tシャツにくっついて来た けしからぬ奴等だ! 何しろ、この不気味なベトベトとさせたものには、細かい黒い虫らが、罠にでも引っかかってしまったかのように大群を成していた このような絡まってくる大群の包囲網をわれわれは、未然に防ぐなんてことは可能なのだろうか こーいった凶器は、幾ら目が見えていたとしても、ただそこに在る ただただ在ったので、それが絡み付いてネトネトと、ベトベトとした不快な感情が発生し続けた 頭にも髪の毛にも、それをぬぐい払う手や腕などにも、不快指数はボルテージを加速させていく そして、そーっとその罠を長袖Tシャツから取り払おうと、少しずつ糸を手繰ってみるのではあるのだけれど、虫が潰れて汚れが目立ってくる 日常的にもこーいった事件に遭遇しないさせないために何らかの対策が必要だといった観点からの‘農薬’という事案も少なからずはあるのかもしれなかった しかしながら、ヒューマンフォーミュラ的には、これらを受身の力で何とかするかといった、それらの昆虫群を避けたり、退けたり、昆虫の生か死かには影響を与えずに それらの群隊におかされた組織を早く回復させ、より健康を保つことで、結果的には人間に収穫を与えることになるとあった つまるところ、害虫に食害されたとしても、収穫時までは耐え忍ぶことができるという自然の摂理なのだろうか そして、これらのマニアックとも云われる許容性の場合、昆虫群の個数が減るわけではないとも云われている・・・、一般的に健全な人間ならぬ植物ほど病害虫に耐えうる 許容性の機構を発見したペインター博士は、「植物の一般的な活力は、害虫の攻撃に対する許容性に非常な影響を与える」といっている 植物の品種も害虫防除にとって大切では在るが、植物の健康状態と土壌の栄養バランスも大切なことは明らかでもある ・・・、また化学肥料の害である一つには、化学肥料では主栄養素は大量に供給させるが、与えられた植物そのものは、微量元素などは少しも吸収せず、その結果遊離アミノ酸の含量が急上昇し、害虫を誘うといった結果となるのだ 化学肥料を与えた人工生産物としての製作品の人間ならぬ植物vs.経験値からの伝承的な農法などをバランスよく組み合わせた害虫駆除では、遊離アミノ酸の含量は乏しく、従って害虫諸君らには、興味のないシロモノなのである こういった内容で思い当たるのは、前述の蜘蛛が吐き出していった害虫駆除網のような残骸である あれらは、空中に舞っていたのであって、そこをたまたま、私は素通りしてしまったのである そして、いつになくまた、有機農法百科なるものを開いて喜んでいたのでもある そして、以前からもいつも感じていたのは、《葉は天然のマルチだ》といったことでもあった 何かこーいったマニアックな農法のようなものと、人間を交錯させて観つつ、振り返らせて頂くのが、積み重なってきていないでもなさそうである 昨日の痛みは、今日の快適とでもいうべきかもしれない そんなに毎日毎日、酒を浴びていられるわけでもないし、酒が有り余るほどあったからといって、もったいないから飲んじゃいなって、そんなのは、出来ないし、わからない 体調が感情からくるなんていうのは、勿論誰が遭遇したって、そーだとしかいえない だから、異常感情注意報というのは、お役に立つものだと考える ある種、この季節柄、異常な感情を翻させるような除草剤の類を極めて大量に使用させて、それらがやりたい放題になっているということがいえそうでもある そんなことが推測されるのである でなければ、だが、あのような異常感情を行動に移すなんていうのは、到底成しえないのである しかも、解毒ができてはいない人工的なサイボーグ化してしまった機械の一部となった人間が、暴れだすのもムリもないだろう そーいった事柄には、スポットを当てないのではないのか ただそーいったものが単に当たり前と化した 何もしない ただ通年とした行事のような感覚での農薬散布なのかもしれない そーいったものには、やはり耐性がつくのも事実である 感情と行動の関係の研究を独自に勝手にやっているようにも見受けられるが、このようなものは、しかるべき自然界であるものとしての食人とするものかもしれないし、根絶やしに関しても、そーですが、人間を犬扱いさせるだとか、そーいったことで、傍受した内容をテーマとして、オンエアするだとかいうやつは、むしろもう、そーいった生き残り作戦の挑みをかけた戦争が繰り広げられてしまっている 述べ句幕無しに与えられる情報といった質の課題は、われわれを奈落の底に突き落とし、果ては地獄の裏庭のようでもある 何かしら曇りの空が、どんよりしたのが観えるので、行をかえます
 個人的な課題をかき集めるっていっても、まとまることは先ずないし、まとめる必要はないし、ただ連続するようなものでもないので、公式にはあてはまらない場合がある だらこそ、それが・・・、公式がないということが公式であるかのような導きなのかもしれない 或いは気分的な或いは気まぐれで、はたまた或いは他人の時間を奴隷にさせてしまっている可能性があるのではないかだとか、ついつい氣を遣ってしまう どーしたって氣がきでもない こんなことやあんなことが欲しいだとか、やりたいだとかって云ってたら、わがままであるし、もはや人間扱いはしてはくれない 神業を使えない テレパシーは寸断させられた 以前に某総合病院に足を運んでいた どーしても幼き頃からの背中の 義父母が言うには、烏に抓まれただわなどと、ケタタマしい笑い声とともに帰したその嘲りの声を確かめようと、形成外科を尋ねてみたところ、なんと、ここでは、そのキズを治すことはできないから、紹介状を書いてあげますから、そこでそのキズをキレイにしてくれますからといったことを診断されたのだ 私は治療のために 勇気を出して受診したわけではなく、どーしてこのキズができたかとか、このキズは単なるキズなのかとか、そーいった法医学的手段に関する話をしていたはずであった ところがだ、最もこの病院を訪問する前には、入念に問診のようなものを幾度かの機関で受けたのである その最終的な判断が、ここでは治せないので、専門家へ行ってくれ、そこで整形手術が受けられるといったことだったのである 別に整形なんかをいつ誰が望んだのだろうか? 全く訳がわからなかったし、意味が不明でもあった なぜ?そーいったことになるのか? このキズ跡は、痛くも痒くもないし、別に放置させてあってもどーってことはないし、何の負担でもない にも係わらずに医者は、治療をして、美しくしましょうかなんかを説明するのである みかけをなんとかしましょうという みかけなんかどーだっていい なぜこんなことになったのか?そーいった分類は、非公式にさせてしまうのである いつもそうだ どこもそーだった 検査や問診をありったけの時間と手間をかけた挙句の末に待っていたのは、とてつもなく自己責任とさせる治療を勧められるだけだ その他の回避事項は何もないか、わからないといっているか、面倒なひとがやってきたといった概念である これらが、この自治を悪くさせている所以であることは、いうまでもない ただこー云っても、誰もわからないという 何を云っているのか意味がわからんといって、撥ね付けれて続けてしまう これがいま そして、一生に近いものかも 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 13:46Comments(0)ヒューマンフォーミュラ