2009年06月01日
〝暴走する文明〟
(o_ _)oドテッとコケついでに(o_ _)o よくコケまくってることが多いのですが、〝暴走する文明〟を読まさせて頂きまして、これら地上の球のようなところにカロウジテ引っかかりを観付けつつ乗っかっているとですね、さまざまなことに遭遇するし、俄かそこらじゅうで起こっているのも、まっ必然的な受験対策みたいな氣もしないでもなさそーだ とりあえず、私的には一応、認識はされているようでありますが、まったくのところ弾かれていくといったところでしょうか そんなこんなで、知識人との対談をさせていただきますと、どーも私には、ネガティヴであるというようなものをチラつかされてしまうのです そして、全身が凍りついてしまっています 製氷器のようなガラスケースに入れられてしまっているような感じ、ただそーすることで生き延びられている或る意味での延命措置と言うのかそんなものまで感じています 文明とか文化とかって、説明つけてみろっていうのも、すべては繋がりなのかもしれないのかな ただ在るだけというので、どれだけ生き延びられるのかを人体実験しているかのようでもある 何かを奪うために、自分らの
行動が成り立つものだったら、それっていうのは、いったいナニ?という氣もします 前述の本を開いたページが、こういったものでした 私はいつも開いたページから読み始めるという質でもあるわけですので行を変えてみます(o_ _)o
〝肥えて柔かい大地がすっかり流れ去り、かつて存在したものに比べて、いま残るものは病人の骸骨に似ている ・・・・・いまや蜜蜂の食べ物しかなくなった山々には・・・・・そー遠くないむかし。樹木が生えていた 毎年の雨で滋養を与えられ、現在のように裸地から海へ流れて失われることがなかった 土壌は深く、それが水分を受け取ってローム質の大地に留め・・・・いたるところに泉や沢を生じさせた 今日では見捨てられた社が、かつて泉の流れた場所をしめすばかりである〟(出典:プラトン〝クリティアス〟) 要するに外国も日本もどこもかしこもそんな風だというように感じている ただ世界中を観て旅行をして汗を流したのではないにしても、あまりにも身近なところを見捨てるだとか見限る人間が多いのも尋常ではない しかしながら、やはり千年単位だとか、非常に長期戦な時間的な流れを観るにつけ、その期間をのんびりと、もっと他の学習や研究時間として与えられているようにも思える 石だとか樹木だとか葉っぱだとかに精霊が宿っているとか妖精が現れるおとぎ話を信じるのもいい がその半面、そんな石っころは何も考えてはいないし、樹木から小人は現れないのが常かもしれない ただ前にも何らかに記したけど、石は冷たいばかりではないし、樹木の樹皮からの恩恵が様々なことにも謳われているし、葉っぱは葉っぱで、光合成をし、酸素を供給してくれるといったありふれたことの連続を成している おとぎ話が嫌いでもなければ民話を支持するというものでもないのですが、やはり人間とすれば、雨が激しかろうが靄がかかっていようがその経験を積むのと、それはしないと決め込むのとでは、人生の生き方に対する耐性のようなものに歪みが出てきてしまうのかなとも感じています 何はともあれ、自然の流れに触れてみようとすることも、いろいろと詮索とかされて説教がましいことに囚われて、それらの(親とか教師とか上司だとかも)呪縛(ゴメンナサイ)から抜け出すことが或る意味での“教育の質”でもあるように感じてしまいます ですが、いったいからして“質”というものは何かといった会議は終わることなく続いてしまっているだけなのでしょうか 即ち、一日二十四時間の配分としたら、いったいあなただったら何に時間の帯を傾けてしまっているのかと、これから傾けたいのか?といった単純明解過ぎるのですが、時間の使い方の検証を知り、それを自分で納得する必要を迫られているのが、今、進行形で病んでいるからこそ出来ることの一つなのかもしれないですね 蓮華合掌
行動が成り立つものだったら、それっていうのは、いったいナニ?という氣もします 前述の本を開いたページが、こういったものでした 私はいつも開いたページから読み始めるという質でもあるわけですので行を変えてみます(o_ _)o
〝肥えて柔かい大地がすっかり流れ去り、かつて存在したものに比べて、いま残るものは病人の骸骨に似ている ・・・・・いまや蜜蜂の食べ物しかなくなった山々には・・・・・そー遠くないむかし。樹木が生えていた 毎年の雨で滋養を与えられ、現在のように裸地から海へ流れて失われることがなかった 土壌は深く、それが水分を受け取ってローム質の大地に留め・・・・いたるところに泉や沢を生じさせた 今日では見捨てられた社が、かつて泉の流れた場所をしめすばかりである〟(出典:プラトン〝クリティアス〟) 要するに外国も日本もどこもかしこもそんな風だというように感じている ただ世界中を観て旅行をして汗を流したのではないにしても、あまりにも身近なところを見捨てるだとか見限る人間が多いのも尋常ではない しかしながら、やはり千年単位だとか、非常に長期戦な時間的な流れを観るにつけ、その期間をのんびりと、もっと他の学習や研究時間として与えられているようにも思える 石だとか樹木だとか葉っぱだとかに精霊が宿っているとか妖精が現れるおとぎ話を信じるのもいい がその半面、そんな石っころは何も考えてはいないし、樹木から小人は現れないのが常かもしれない ただ前にも何らかに記したけど、石は冷たいばかりではないし、樹木の樹皮からの恩恵が様々なことにも謳われているし、葉っぱは葉っぱで、光合成をし、酸素を供給してくれるといったありふれたことの連続を成している おとぎ話が嫌いでもなければ民話を支持するというものでもないのですが、やはり人間とすれば、雨が激しかろうが靄がかかっていようがその経験を積むのと、それはしないと決め込むのとでは、人生の生き方に対する耐性のようなものに歪みが出てきてしまうのかなとも感じています 何はともあれ、自然の流れに触れてみようとすることも、いろいろと詮索とかされて説教がましいことに囚われて、それらの(親とか教師とか上司だとかも)呪縛(ゴメンナサイ)から抜け出すことが或る意味での“教育の質”でもあるように感じてしまいます ですが、いったいからして“質”というものは何かといった会議は終わることなく続いてしまっているだけなのでしょうか 即ち、一日二十四時間の配分としたら、いったいあなただったら何に時間の帯を傾けてしまっているのかと、これから傾けたいのか?といった単純明解過ぎるのですが、時間の使い方の検証を知り、それを自分で納得する必要を迫られているのが、今、進行形で病んでいるからこそ出来ることの一つなのかもしれないですね 蓮華合掌
2009年06月01日
人間の苦悩
われわれの日々の〝ヒューマンフォーミュラ〟とした活動といったものは、要請が発生すればやるといった受け身的なものが主だったものではなく、社会の中の位置づけに関していうならば、社会的な秩序を正しい方向に導く道標的な活動といっても言い過ぎではなく自己評価をさせて頂いております 所謂民間の主体的な環境福祉的なニュアンスの民間人の活動といったものでしょうか ところが、本邦の福祉、とりわけご承知のように古典的には、仏教を主流とした戦後は、特に‘官主導型環境や福祉’であって、そこへわれわれの活動は、従属させられてしまうようになって身動きがとれなくなりました 私は個人的には、633制の制度の範囲内での教育レヴェルしか学習環境は用意されてきませんでしたが、ただ一つ違った野外活動的なことといえば、募金活動やバザーなどや、身体や心(気持ち)が思うように動かなかったり働かなかったりする人々に対する様子を幼いころから観てきてしまいました 判例六法などを読み漁っていると、随分昔からの生活を起点とする福祉課題が山積しておりました それがこーして、連綿と繋がり続けてきたように思えます いったい全体、時代背景がこんなにも進化してきているにも関わらず教育の質そのものが、こんなにも変わってなくていいものなのか?というのを驚嘆するしかない PTA活動で先生とお話すると、先生方は一律に‘時間がとれない’というのを口を揃えて仰られます そんなに時間がないというのは、教育を抱え込んでいるという風な、或る意味での“教育の質”を考慮されてないのではないだろうかと… つまるところ、私から云わせて頂ければ、時間の使い方がオゾイのではなかろうかということである 教育の質を考えるときにそれらの教育に携わっている方々の連携プレーがなされずにある一人の先生のみがワークをレイバー的に抱え込むことで、その先生は英雄と見做されてしまっているような雰囲気でもある 制度の枠組みの中のみで、右往左往とする援助サーヴィスは、あって当たり前にしても、制度には入らないサーヴィスと言ったものにも、〝等価値〟として、様々な人々が雑多に入り乱れて学んでいかなければならないテーマであると感じています 今後、裁判員制度といったモノでも、調停の中での態度が、然もすれば民間人でありながら、裁判所の中では非常勤の公務員といった任命された役柄が付いてしまうことでの危惧として、何か偉そうな立場になって裁くということになりはしないかというものが、非常に試される 特にこういった地方の何でもないような場所での出来事は、特にそーいった態度を表明するのは、もう目に観えている 普段の暮らしぶりがその裁判で人間が人間を裁く行動のような場面では、あからさまに現れてきてしまう 国家の思想を担っている裁判官や専門職としての調査官がいますが、国家権力や権限を何も持っていない、むしろ持っていないからこそ、そーいった利害だとかには無縁の人々の自由な立場からの観た、謂わばそーいった眼力を備えた人間が入り込んで初めて、複雑な地域問題や、人間が人間を裁くといった行動に付する裁判所事態が開かれた機能を期待されるようになるのではないでしょうか ですから本来ならば、純粋に民間人として参加すべきなのですけど、何か国家が承認を降した一種の資格めいたものを持たされてしまうと、人格も何もかも優れたものに成りあがったという氣になってしまう こーいった感情が心の中にあり、それがそのまま、行動になってしまう このような感情と行動をよく弁え見つめる必要が迫られているように思われてなりません 〝良心的〟なことを感じさせて頂いてしまえば、例えば区長に給料をやれといったものは、ギョーセーから御墨付きを与えられた資格に頼った福祉だとか環境だとかの活動が中心になり過ぎると、純粋に活動を積み重ねてきたわれわれのような主体性を重視した活動なんかは、育たなくなってしまうのが目に観えてしまいます われわれにしろ、さまざまな主体性を持つ活動をされている方々というのは、各地に散らばっていても活動らしい活動ができていない 外野が観ると個人的に援助しているふうに観られたり、余裕があり余っているからやっているにすぎないだとか、外野の評価というものは非常に厳しいことを平気で何の躊躇いもなく言う 経済的な基盤が脆弱である そーいったものは仕方がない 寄付がほしいからやっているわけでもなく、名誉や社会的地位を得ようとしているから活動を拡散させろなんていうのもない こういった地味で目立たなくひっそりとやっているところへの金銭的な評価は、ない なので、人材も育たないし、然もすると権力をもった多数派の外野には、手厳しく扱われてしまう そしてそれが唯一の金銭価値での評価になってしまう 臨床の場を踏むことができないつかめないという悩みのようなことをいう組織もあるかと思います 実際の現場で学ぶということは、辛辣極まりない忍耐の連続なのです 知識ばっかりを理論攻めで長時間やってこられた専門家さんは、その理論でわかったような氣でいて、この現場の中での一つ一つの事実から学び、こうして忍耐強く地域の中で鍛えられない限り、この複雑懐疑的な生きとし生けるものとしての人間には到底近づけません (出典:聴こえない声をきく)蓮華合掌