2009年06月28日
経理がゴミ屋のチホーは潰れる
こんなことは最初っから解ってることなんですけど、、、結局は、有能な人財を島流しにするといったものや不本意な亡命を余儀なくさせているといったチホー自治におけるコントローラーの破壊であり、これらチホーが、自分らの小っぽけな所の安全さえもたびたびチェックもせずに 突進してきて、殺人鬼を大量生産させた悪夢は、ただ単に他人のカネを当てにし依存する現状の借金体質のまま、ただ成長を諮ってだけいても、ちょっとした環境の変化によって、コロッと破綻するのが目に見えています 経営の自立性を護るというのはどーいったことであるのか 経理をどんぶり勘定で賄い、拡大均等路線ばかりで、自分達だけが貪っていたのでは、人・モノ・カネが停滞し、これらを最も必要とするチホーが、不眠症を強いられているといってもよく、それらが未だ、何らの解決にもなっていません 何もチホーの病巣を突こうとしているわけではないのですが、チホーというものは、病気にかかってしまった患者のごとく、何ら機能してないので、自分が病気なのかどうなのかも自分自身では判断がつかなくなっているといっても過言ではなさそうです 本来であれば、日常でも、様々なビジネスを行なう者同士は、お互いに相手の立場を考慮しながら連携して仕事を進めていくのが本来の姿です ここでは、営業が製造のことを理解したり、製造が購買の立場をわかるために、経理の数字が在る訳でもあり、家庭でいえば、家計簿ですが、単に家計簿といっても、一週間だとかいった、お金の流れを記帳しているだとか、そのお金がどこにどー流れていくのかだとかいったものを把握して、生計をたてている人間と、全くのーてんきで、何らそのようなことは考えもせず、ただあったらあるだけ使いきってしまえ!といった浪費の家計簿が繰り返されているだけです 特に家計を与るといった台所に立って考える場合に 非常にシビアかもしれませんが、毎日の食卓について、どういった考え方なのか?果たしてそれらは、充分であるのか?モノが棄てるほど有り余っている上にまだ、製造の労賃が欲しいから、食べてくれっていうやつが、ただそーした流れの中に引き釣りこまれてしまっているのかなと インフレに打ち勝つための財産の目減り対策や、副業の損得や、今回のボーナスで何を購入したかだとかっていうのは、そもそもこのような経理知識の脳がある人と、まったくそんなもんは、気にしないやつらとでは、チホーにとっても、あらゆる成果物に極端な差が出てしまうのは、必然といっても言い過ぎではなさそうです 私もこれまでは、夥しい‘伝票’といった類を扱って参りました 通常‘伝票’には、三種類の伝票が存在します この三種類の伝票がこれまでのカネの流れにして可視化させてみたら、なんと、吃驚を通り越しそーな按配でした 中でも“現金の受払いを伴わない伝票”が、突出して多いということです つまり、“振替伝票”のことかっていうわけですが、、、入金や出金伝票は、目で見てわかるけど現金以外のすべての動きは、この“振替伝票”でキャッチし、カネの流れを意識的に気付くというものかもしれません そこで、“仕分け”といった入り口に行き当たります 私もこういった“仕分”といった、七面倒臭いような仕事は、混乱を窮めていて、あまり得手な方ではないんですけども、一応こういった事務の部分では、勤務経験があるといった状況だけです ただ私は、細かいことに気を執られる質だったこともあって、全体にこれがどー影響しているのかっていうのは、あまり考えたことなんかありませんでした と過去形にして、先ほど営業が製造と繋がるとか、そういった他部課ともお互いの立場を理解しあうための経理であるといった内容に注目するならば、身近な地域やチホーでも、そこで暮らしている人と人の間が、生き生きとした活力のある場へと変化していくのは、当然ともいえます 具体的に何が言いたいのかといえばですが、内部管理に重きを置く決算書作りではなく、積極的に外部報告をしつつ、しかもそれらが、説明責任を果たせる決算書でなければ、何の意味もないということだと思われてなりません 経理の入り口での正しい“仕分”が、経理上の取引である経営活動の一環であり、それらに莫大な出口である、貸借対照表や損益計算書の数字に影響が面に出てしまうのですね 私も個人的には、こういった何か自分の資産をたな卸しして、生計を立てていたのだけだと、自分はいいが、近所だとか、それこそチホーだとかと連携させて頂くと、‘一般には取引’などとは、とてもいえないような甚大な損害が、もう生まれた時から発生し、それらの伝票を起こし、仕分作業を怠っていました ですから、資産は目減りし続け、尚且つそれらに伴う費用は、上昇するばかりです 考えてみれば、このようなトレーニングは、誰からも教えてはもらえませんし、たまたま経理がわかる本という本との縁によって、こうした具体策が解りました だから、自分で体験しつつ、自分でどこがどーわかってないのかというものが、明確に解るようになります 以前にも、マインドマップというものを描いているといったのは、出来るだけ、人災とかそーいった理不尽なめに遇った場合に どーしたらそんな状況を変えられるのかっていう場合のために何らかのお役に立つのではないのかなっていう良心だけです つまるところは、自分の今ある現状を振り返ってみて、例えば甚大な処刑に遇っただとか、これは自分にしかわからない何かシビアな案件とかを具体的に“振替伝票”を起こして、仕分けするといった可視化というものが重要だなって思われます これは、みんなに言えることだろうなって思います どんな人もそういった何らかの過去からの積み重ねがあるはず だったら、それを数字に置き換えてみたらどうっていうことだけです そして、私の家には、また甥っ子が遊びに来て、河原でハチに刺されて、おんぶしてといってせがまれ、おんぶしてたら、「ママに刺されてこと云わなきゃ」と気にしてた 「パパなんか、頭とか、毎日のようにハチに刺されて大声で泣いてたよ」って話したら、絶句してた甥だけど、ハチの毒も、有り余り過ぎるこの甥っ子のエネルギーを多少静めるための鎮痛剤のような感じもあったのかな けど、見事に腫れてしまって痛々しかった 刺したハチは、死んだのかな あまりにも、草ボーボーでその姿はわからなかった 甥っ子は、ジジが採ってきたかぶとむしに目をキラキラと輝かせて、「こんなの初めて観たっ」といって、はしゃいでいた かぶとむしをお家へ持っていくといって、ママに懇願していたけど、ママは、飼う場所がないから死んじゃうよといって、おじいちゃんのお家に置いてあった方がいいよと宥めていた 後ろ髪を引かれる様に甥っ子は車に乗せられてチャイルドシートに座らされ帰っていった 来週は、甥っ子の無認可保育園に遊びに行くからねと約束をしてしまった どーだかわかんないけど、遊びに行こうかな・・・ 小さなときっていうのは、その体験が一つ一つ、貴重なことかもしれないから・・・ね 蓮華合掌