2009年06月20日

Valuetales

The tale goes back tothe time when I was still a mere child.2002/10/01付にて、ブレストのルールに付する考察が在りましたので、少しでもお役に立たせて頂ければ幸いでございます
 *誰でもがどんなに的外れなアイディアを提案したとしてもそれらを批判対象としないしさせない
 *何の制限もない
 *それらのアイディアが極端に的外れで、非現実的でさえあってもOK 全ての考えが書き出されたら、一つか二つの最終的解決策が得られるよう、ゆっくりでは有るが、急いで考えていく 最終的に導くアンサーは、自治の全員が賛成し納得できるものでなくてはならない これらは、次世代の子ども達と真摯に向き合い、行き違いを正そうとする両親の良心に訴えかけるかのようでもある そのお互いの歩み寄りによりベストな解決策を導き出し、探り出すものでも有る 毎日のありきたりの問題について、絶大なる効果効用を発揮するものでもあるという 幼い俗世間の柵に染まっていない子どもたちに対して横暴な権力や権威を振り回し続けている両親も、子どもの言いなりになって従属させられてしまう両親にとっても、これらの技法を使えば、どんなに多くの意見発言の不一致、食い違いであっても解決可能であるという
 ハンガリーの哲学者ツァ・ツァ・ゲイヴァーによると、『試していないなら、けなすな』という 
 1.誰かが勝ち、誰かが負けたりしませんから、両者の関係性を一層強めます
 2.両者が問題解決に加わっているため、この最終的な解決策を護ろうとします 解決策は、一方的に両親(どちらかの)側から押し付けられたのでは、決して在りません
 3.子ども達に独創的な思考力をつけるのに一躍かいます 更に子供達には、最も困難と思われていた対人関係をもこなし、妥協する術を学び、尚且つ社会性を養います
 4.こどもサイドの反抗心を和らげます
 5.これらは過程であり通過点であるので、提起されている問題のウラに隠されているかもしれない問題までをも、屡掘り起こすことにもなり兼ねないのには、準備が必要でもある 両者が自分自身の観点から討論するので、本当にこども心を悩まし続けているのがどんな面であるのか透明化されます 異なったものの見方を他の誰かと和解する練習の機会でもあることは非常に重要な要素でもある 些細な何でもない問題や、ちょっとした行き違いから、解決困難なことに至るまでの不平・不都合・不具合・積極的な活動指針だとか・・・は、議長は除く、誰でも討議したいテーマを討議できる『地域自治全体の共通の関心ごと』とする 所謂Valuetalesとは、忍耐・決断・親切・自己信頼といったスペンサー・ジョンソン氏の言葉を借ります ただこーいった内容は、特に指示をするだとかいった推薦させられるといった強制感を連想させるものでは決してないので、其処の場面には配慮が必須でもあるのだといえよう そこで、風に関するポエムをお読み下さい(出典:ダドソン博士のしつけ百科)

  Fun
風を吹いて
風を送る
ハイパーテキストを開くと
なんだかただ手を合わせてるみたい

ロケーションなんかはどーでもいい
風を吹いて
風を送る
ハイパーテキストをクリックすると
ただそれだけで、キミと繋がり遇うみたい

声だけで繋がる

他の何もないしなんでもない
だけど・・・声が聴こえないし聴こえてこないよ

風が吹いているのは観えるけど
風の正体がなんなのかを説明できないし

真実はいつだって可視化できない
信用は観えないだけなのかもしれない

何も観えないし何も聴こえてはいないし何も・・・

だから・・・ね、
風なのだろうね
意志なんだろううな

風の意味って、つまるとこ何?
旋風の脅威が、夕日に白い龍が真っ赤に染められて
一筋に伸びて逝くものの怪である

風は何をどこへどこまで運ぼうとするのだろうか・・・
風は相変わらず吹くだけで、黙ったまんまを気取っていた

そもそも、風に聴くなんてこと事態が
容赦ない嘘だったのかもしれない

ただ聴こえているのは、乾燥した風の吹く音だけ
ただ聴こえてくるのは、虚しすぎたひからびた音性だけ

そんな世界が広がった
そんな世界だらけになってしまった
そんな虚しさを浴びさせられている

 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:52Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月20日

轢逃げされた動物たち

 先週の今日、早朝黒姫に向かうために国道を走っていたら、巨大な鹿をはじめとした動物が四匹も道路に血まみれになって、肉は飛び散らかされ、頭蓋骨は砕かれ、無残な様相を呈していた その忌わし足る生々しい事故破壊現場を通り抜けるたびに“合掌”する あぁまたか…と思う おぞまし過ぎる交通戦争に巻き込まれてしまった憐れな動物として、そにお肉も骨も、どうとでもなれといった調子で、その辺に片づけられてしまう 先日河原に埋葬した烏の遺骸がどうなっているのかと気になってみてみたら、カラスの遺骸が、意外にも羽根ごと、何もなかったかのように消滅していたのだ やっぱなとも感じたが、そーなっていた顛末を観させられていた そして、ここ何日間かに亘る腰の砕かれそうな痛みに至っては、この痛みを説明するときは、鉄でできた金属製の十字架に掌をど太い釘で打たれたキリストをそのまま背負ってしまわさせられている状態と言ってもいい アルミ製だったらまだしも、ずしりと、その従事にも似た十字架は異常なまでにも重かった そして、それを説明していても、一行には観えてないので、その重荷がどんなものなのかを創造させることもできない 人によっても、重荷の感じ方が全くのところ、異なるからでもある ただ基準はないにしろ、背負っている人の体力的な面だとか、いっくらスタミナがありそーだっていっても、それを背負い続ける時間的な長さがハンパじゃないわけだから、恐怖も感じる なぜ…、このような状況は駆け足で、いや忍び足でやってきたのだろうか…? 殺人鬼と一緒に暮らしてもう、相当な時間的な配分が経過した どこへ行っても、やはり殺人鬼は、私の周囲にいる まさに在るといった具合なのかもしれない その殺人鬼の年中行事は、噴霧器でアブラムシ駆除用の毒薬を噴霧するのである それに輪をかけて、アブラムシが大発生した箇所を日中、何度でも、濃いい原液さながらの稀釈率を無視したのをやたらと撒きまくるのである 殺人鬼というのは、一切周囲の人間に注意を払うだとか、横に赤ん坊がいるだとか、特に何ら考えないのが常でもあり続けるので、野蛮過ぎる まぁだから、殺人鬼なのだが… どーも日本人のみんながこの時期になると、殺人鬼に観えて仕方がない 動物を轢逃げするのも、よけ損なって、自分がどっかにぶち当たるよりは、撥ねてしまえといった調子で、スピードを緩めなかったのだろうし、殺人鬼達の考えている野蛮な思考といったものが、劇物や毒物漬けになっているために配慮を欠いてしまうからに他ならないと思われる 殺人鬼は、肉体的なジョークも大好きであったりする 兎に角、肉ばっか観て喜んでいる‘うじ’と同等な殺人鬼達 しかも、殺人鬼は、猫なで声とかで、すり寄ってくる時さえある そのたびに騙されちゃいけないぞっ!と頑なに思いが溜まるのみである 殺人鬼が噴霧させた劇物の臭さで、家の中にも居られなかったし、逃げ場がなかった 病人をもっと、これ以上、具合を悪化させようという魂胆がみえみえである そして、また隣の殺人鬼さんは、廃プラを燃すといった空気汚染をする また洗濯物が焼け焦げた臭いで汚染させられた 空中の殺人鬼は、相変わらず公権力の行使を駆使し、耳への妨害を成させようと、一切の通知や前触れもなくゴーゴーと飛んでいくだけである ここにいるのは苦痛がただ膨大に蓄積し続けていくのみである 学校から戻ってくる娘も、なんだか学校に行ってくるだけで、陰険な言葉になったり、思いやりの欠片もないような風になってしまうような氣がしてならない 殺人鬼は、アブラムシの耐性に関してを論じても、こちらを睨み返し、怒るといった有様だ 強制収容所の中に放り込まれている 監視の目が恐ろしい 何か変わった動きをするだけで、咎められる それは、御サンドを一緒に食べないでいるだとか、朝ちょうきちっに起きてこないだとか、会話がまるっきり、理解されないので、いまなんかは、殺人鬼は、顔はテレビを向き、耳だけは、私の方に向けているといった調子だ 何たる態度だろうか… 殺人鬼さんたちは、テレビが大好きである 兎に角、テレビにくぎ付けになっているときは、機嫌がいいときている そして、必ずパソコンに向かって打ったりしている様子を少しでも、観られると、決まって不穏な空気が流れ、殺人鬼たちが、悪魔の囁きをしあう ‘狂ってしまった’だとかなんとか、非難する 殺人鬼さんたちは、自分の未知なる領域に関しては、狂人の暇つぶしという感覚のナニモノでもなく、また、‘あんな箱に向かってりゃあ~ろくなモンにはならないしなれない’と言った悪辣で下劣極まりない言葉を吐いてしまうに至る まったくもって、評価が下の下の下の下の下よりも下のような判断を下されているといっても過言ではない 恐らく、殺人鬼が考えている世界と、私が個人的に照らしている世界が、極めて対極にあり過ぎるためであるとしか思えない モノがあり過ぎるのも、地獄を観るが、モノが何もなさすぎた文化的背景をくぐり抜けてくるしかなかったというギャップこそが、地獄だったし、殺人鬼を大量生産し、それによって、絶滅を迎える日も、早まってしまった 絶滅というよりは、全滅といった表現の方がマッチしてしまうのかもしれなかった ただその日が早まるか、遠のくかであったが、この地域でいえば、はぼ全滅に巻き込まれるのみだ 救いようがないし、これまでの歩みを一切、否定させる手立てはないし、それが自然界の掟であったとしても、どーしようもできないからである もし仮にでも、何かを手伝えそうなことがあるとすれば、それはただ一つ、殺人鬼には都合の悪い人間を本当の意味でいなくなればいいのだ 私が、ここで一斉に殺人鬼の実名を報道機関なりなんなりに売り込んだりすれば、大変な負債を抱え、それこそ溢れだすように刑務所でごったかえすのみだろう そんなことにでもなれば、殺人鬼たちは、自分がなぜ逮捕されなければならなかったのかの経緯は、一切わからないというに決まっている 大抵の殺人鬼らは、自分が犯したといった感覚はないし、他人がどう痛みを感じているのかといった良心が皆無であるためだ 自分が良ければ正当であって、全く耳を貸さないからだ 全く耳は傾けないでしまっている 相変わらず、ドッヂボールが支持されていて、バスケやアメフトなんかはやらないか、知らないか 一番恐ろしく感じるのは、このまま子孫も、全滅に至る過程で、殺人鬼がそのまんまの状態で継承されてしまっているといった地獄だ だから、根絶やしなのだろうが… 以前、友達がフリッピンの奥さんを連れていた その後、腕に包帯をグルグル巻いたカレにたまたま会って、聴くところによれば、なんかちょっと、別の女と立ち話をしていただけで、嫉妬されて刺されたと言っていた ただそのカレだけではなかった 私は、別の人にも幾度もそういう話を聞かされた 聴こうと思って聴いたわけではない ただそーいっていた そして、別れる話にはならないといっていた まるで、殺人鬼と話をしているような気がした、口々にそーいっていた なぜなのだろう? 私にはよくわからなかったが、ほとんど人が入れ代わったきりで、同じ内容を話していたにすぎない 寒気がした そして、嫉妬というものは本当に恐ろしいドグマなのかもしれないとさえ感じられた 自然界が破壊させられた様子を忠実に観て生育させられたのかもしれない そして、独自の宗教観によるものなのだろうか…、いつものように早急な答えを出すわけではないにしても、不可思議である 蓮華合掌  
タグ :交通事故


Posted by このは なさくや at 14:54Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月15日

とっととずらかるのみ

何はともあれ、とっととずらかるのみを考えて生きているようなものかもしれないだけになった もう末期症状が見え隠れしているのだけれど、誰からも気付かれずに普段と変わりなく過ごせてしまっているのだ ただ、もう腰が痛くてたまらん 激痛というか刺すような言い知れぬ痛みに苛まれてしまっている 頭がグルグルと回ってしまっているようだ 特に左目が翳んでしまっていてどーにもならんばい そりゃ、辛いというのはみんな平等に辛いのかもしれないけど、そういった辛さをどーやったら凌げるかだとか、どーやったらお金をかけずに何とかできるのだろうかっていうのが、まるっきり逆転の法則をしているに過ぎないのではないのだろうか・・・? ここで、イスラエルの民話に“人に悪いことをしなければ自分にも悪いことはされない”といった民話がある その話は、スザの都の底抜けな正直者がただ道を歩いていくという設定でもある 私もこーいった稀有な場面に遭遇してしまうことが屡であった この底抜けの正直モノは、ただこの先に何が起こるのかという実験というか、社会的な立証を明らかにさせていくものらしく感じられた この雇い主のように まるで他人事のように ただ保釈金集めに歩かされるという身の上は、本当に今の今までの私とどこが違うのかという気持ちにもなったりした いったい何のための見世物なのだろうか 自分のいのちと、引き換えに国家権力への金銭収集の協力を要請させられているような現状なのである そして、そのときが刻一刻と迫ってきた ここまでストーリーが展開されると、もう憤懣やるかたないといった状況でもある 先日、一人の老婆が歩いていた ただ道を歩いていたのではあるが、その格好といったら、まるで野麦峠を越えてきたかのような重装備の上に絣のモンペ姿風であった 驚嘆した 以前にも新宿を歩いていたら、学生帽を被った袴姿の背が2メートルくらいもありそうな男性が黒いマントのようなのを着てウロツイテイタ 新種の被り物くんの類なのかなと目を疑った その他大勢の群集には、このような人物すら観えてないようであった 私が錯覚を観、幻想の世界に放り込まれてしまっているのだろうか・・・? それとも、近代と古代が同時に観えてしまっているのだろうか・・・?いやはや、どーにも説明がつかないし、説明のつけようがない場面に遭遇してしまっている ミステリアスである がしかし、現実的にはそーなっている 今度こそは、直に何をアポーツさせようと、ここに存在するのかといった内容をお聴きさせて頂かなければならない使命感に苛まれてもいる 不思議な国である 以前にも、そうとう前であるが、確かにこの空間を一艘の船に乗った直立不動の女性が、私の元に現れた 狐のような顔色だったが、色白の髪が不気味なほど長い邪馬台国以前からの使者のように思えた その後、私はミヒャエルエンデ氏のアトリエに訪問することになった そのときにも、神秘的な光景が広がっていた 樹木の葉の上には ピョコンと妖精が顔を出していた ただこんな事はあるはずがないだとか、目が何かに反応してるだけかなっていう感じで、忘却していた そして、驚くべきことに 殺人事件を犯した犯人が突如として現れるといったスチュエーションである 最後のセリフであるおかげさまで、諺はほんとうのことであったという立証をした正直者は、自分で能面のような演技で集めた金銭も、更に真犯人からの大金までをも手にしたといった展開である 奇蹟のようなストーリーでもある ある意味、こんなことは滅多にない だから、奇蹟なのであって、人々にも周知されるのかもしれない ただ、念頭にあるのは、底抜けにも正直を通すといった良心の持ち主の人格だとか、精神的な奥の深さだとか、特に殺されるかどうかも、神のみぞ知るといった、ほとんどを天に任せ委ねた結果なのかもしれない こーして考察に咽び泣くのではないにしても、何処かではそーいった、正義と悪辣だとか、善悪の中の心のあり方だとか、その場合は、ともかくその人間が問われているのである 最後にはワル智慧やサル智慧は、何の報酬にも因果にも成り得ない そんなものが公式なのだから仕方ないと感じさせて頂く 自分さえ助かればいいとか、自分だけに都合がいい手法を編み出すに過ぎない合理化の行き過ぎに警鐘を鳴らせるのは、唯一のところ、昨今までの経験値であるのかもしれない 再びにして、人々は大罪を犯してしまう それは、自分だけの今だけの快楽を貪るといった思考の賜物だとはいえないだろうか そして、忘れた頃にやってくる、その悪霊の調べなのかもしれない しかしながら、そこに先程のイスラエルの民話から学ぶというのであるならば、‘人殺しをもう一つ背負い込むのはこりごりです’といった良心に他ならない そういう哲学にでも才覚された暁には、正しい精神が報われる社会が拡散されていくのである そんなこんなを思わせて頂いた 今ここに存在してしまう過去からの意味はいったい何なのだろうかと・・・それらは、束になってやってくる 未来はないか、遇っても自分ではどーすることもできないのか そんなもんだろうか・・・、そして、この今は続き続けてしまうに過ぎない 今の連続性と、今の精神性の連帯とした悲劇的な声にならない声のようなものなのかもしれない 勇気を出そう! ただこれらは、一部の人間の驕りかもかもしれない 実は最も声に出来ないし、ならない人間の救いを根絶やしにさせてしまうに至った 肉体がジャマをするさせるといった観点も見逃せないのかもしれない 観えるところで抑圧的に働いてしまってるだけで、観えない観えてこない部分には蓋をさせられているのみである 腰はなぜこーも激痛に苛まれているのか・・・を考えさせて頂くと、社会の歪みを感じずにはいられなくなってしまうに過ぎない ボロボロにならされた人と人の間である感情と行動のバランスの崩壊さながらとさえいえる そのタメの倫理観だとか宗教だとかではないのだろうか、これを主張だけしていたって始まらないのでは有るが・・・だ 実のところは、何が善であり、悪であるかの判断すら何も出来ない、お任せの状態に陥ってしまっている お任せの医療がその好例でもある事案だ お医者サマサマといった宗教感覚での神化させられた医師群 自分の生活習慣にその矛先が有ったのに 何の反省の色さえも感じない人々 自分自身の中に存在している秘めたるパワーを見縊る人々の増大は、本邦の選りすぐりの原理原則といっても過言ではなさそうだ 他人に任せるといったご都合主義が旋風を撒き散らかしてしまうだけでもある 悲劇的、精神性の欠如、良心を問わない、これらを放置し続ける地方自治なのではないか 温度差があり過ぎて、人間が入れ替わったとしてさえも、全くの所、同じ感情支配下の行動をしてしまうのみだけで、知る人ぞ知るといった瞑想的世界に放り込まれても居る そんな今でも有り、事態は急変するだとかは、有り得なくもなってしまっている 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 21:52Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月11日

ウェットランド①

やはり、何をするにしてもしないでいるにしても、それらに拘わらず“フェアプレーの精神”が重要に思われます そこで、多種多様な芯の通ったビジネス思考の社会人のためのスポーツクラブに入る、なければ作るというのはどうなのか・・・というものです 出来れば、スポーツクラブを在日外国人のパパにこそ、重要な氣がしてならない あまりにも“フェアプレーの精神”が抜け落ちてしまっているか、欠けている在日外国人らが横行し、犯罪に走ってしまうように手を染められてしまい兼ねない現状が、ただそこに存在してしまってもいる なんとかしなければ未来が開けないのも事実ですと云うよりも、同じような境遇に在る中でのアミーゴと言った仲間意識とか、チームワークだとかを学ぶというのは、その人生にとっても非常に意味のあることだと思われます そして、また私は、カナダにワープしているといった状況です 雲隠れをするには、非常に簡素な言い逃れかもしれません カナダに行って何をしているのかといえば、滝に打たれているだとか、森林のただその中にいて、アーミッシュの世界のような幻想的な暮らしをファームステイする 今の季節柄、様々な生きていくモノ達の何か素晴らしい響きに出会えるのでもある ヴァカンスのある暮らしといったものが、日本人の勤勉すぎる体質によって、築かれてきた 忍耐強く弱音を吐くなどといったことは、そのプライドが許さない程の価値に置かれてしまっている 社会勉強といったものは、一体何だったのだろうかと、時々考えさせられてしまうに至ることもある コレほどまでにもグローバル化が進んでいるにも係わらず、自他をも見ないといった 観えてないともとられる そんな異常さを感じさせられてしまっている 商用のためのチャイルドシートとしての浪費財という異常さが感じられてならない 先ずは、商品価値ありきに比重が置かれてしまっていてどーにもならなくなっている こども時代なんか、そんなのあっという間に過ぎていく 『じき、過ぎる』といった言葉の箍のようなもので括られる 誰も反論しないしさせない 死とは常に隣り合わせに在るといった現状 喉の奥がとても乾いているように 常に枯渇状態である それらはほんの一部なのかもしれないが、その一部としたものが、全部に豹変させてしまうに過ぎない 危険地帯とさせた証拠には、あのような神々しい観音像を銅で建立し、それらの周辺には、生まれてきても虐待で死に絶えたかもしれない水子像をきちんと置くということでもある しかしながらああいった湿地としたウェットランドを復元させることは事のほか、重要なシグナルでもある これらが達成させられなければ、われわれの果たす使命であった筈のミッションは、何もなかったことになり兼ねないので当事者サイドとしてはいたたまれない こーいったなかったこと体質が強制連行を帯びさせているから、猟奇的殺人の小説やら映画をもっと作れとか、書けだとかって云うのに憑依させられてもいるわけだ そして今は、少なからず何だか、もう描けない日が近づいてきそうなので、そうした意味を踏まえつつ、またまた一円にも一縁にもならないような事態が続いていく限りで、生命が朽ち果てそうでもある また背中が痛いのだが、どーすることもできない ただ痛みが遠のくのを待ちわびるだけである 何もない 罪深い地元の内地人が正気させてきた数々の忌まわしい蛮行と、野蛮さを極めた行動の元凶といったものは一体何だったのだろうか・・・?人々を思いやるといったヒマは微塵もなく、単なる売りさばくといった感覚での時間が流れてしまっている 高学歴でしかも、相応の身分が補償されたものほど、このような在る意味でのワル智慧に長けてもおられるのだろうか・・・などとも感じさせてもしまう 墓石が飛ぶように売れるような時代にあっては、これらが文化を煽動しているといっても過言ではなさそうである ただ大部分がそーいった呪縛に動いてしまっているのに それがどーだあーだというのは、手も足も出ない 今までもそうであった 何かの発言権といったものは、遮られるか、そうではなく、発言権の大きな人々の影に隠れてしまって何も観えないし聴こえなくなってしまった 税金を払っているのかいないのかといったものを重視される 本来税金で運営できなかったことをしていたのに税金の範疇を超えた活動に勤しんでいた過去からの行動が、全くもって水の泡に化されてしまった 自己負担と自己責任と自己都合といったようなもので全てを任されているだけである 公共は公共であっても、何らの機能も果たせない単なる使えないサーヴィスを相変わらずやってるだけの進歩もない最悪な事業といっても過言ではない しかも冷淡なという態度までもおまけで付いてしまうような公共事業である これらはやはり至って、日本人やこの周辺のアジアの人々の個人的な問題ではないような気がしてならない 居場所を与えられていない与えられてこなかった まるで焼き討ちに野賜っているような仕組みでもある 起こるべくして起きてしまった合理化といった中での罠のようなものかもしれない なぜ人は貪ってしまうに至るのだろうか? 何も仏教を強制する訳ではないにしても、こうした展開に関して考察をしてみたいので行を変えてみます
 釈尊と当時の思想化との対比なるものによれば、五見の否定の項には、‘見’即ち誤った見解としての独断論の意味だという その中でも、‘邪見’について、邪見とは広い意味での誤った見解のことであって、五見のすべてを指し示している 五見の一つとしての邪見は狭義のものである それは十事の邪見と見做されるものであって、十事とは次を云う
 ・布施なし
 ・献供なし
 ・祭祀なし
 ・善悪の諸業の報果なし
 ・此世なし
 ・他世なし
 ・母なし
 ・父なし
 ・化身有情なし
 ・世間には正しく生活し、正しく修行し、此世他世を自ら通達証悟して、これを世人に宣説するシャモン・バラモンあることなし
 以上である これらは、善も悪もなく、善悪の報果もなく、三世因果もなく、修道も証果もないとさせるのであって、やがて、仏・法・僧の三宝をも否定たらしめ、四諦や十二縁起の教えまでをも否定たらしめるのであるという これら邪見とは、現象の動きや実践修道に対する最も誤った見解をとるものであって、邪見がある限りは、他ならぬ“仏教の教え”事態に入ることは決して出来ないのであるともいう 上記の五見も然ることながら、やはりこういった見解における人定めのようなものが発生してもしまうかのようでもある 今月はコームインの皆様方のBonusの時期でもあり、ラテン語ではその昔から“ヨイ”ならぬ酔いらしい・・・? そして、カイシャやホケンカイシャの特別配当金の類でもある 現場不在証明は明確に発行できるか否かが最大のポイントでもありリスクにもなりそうである それにしても今日の日中は、暑かった 家の中がムシムシと噎せ返っていた 今朝方の雨音が嘘のように晴れ晴れとした季節になった 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 18:14Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月11日

自動車優先社会は続く…

実に痛ましい交通事故だ あの道路は当方もよく利用させて頂いていますが、危険極まりのない追い越しが頻繁なのには、閉口しておりました それにしましても、お亡くなりになられてしまったいのちにご冥福をお祈りさせていただきます 兎に角、ちょとした隙を狙って追い越しをかけるといった調子です しかも、その多くが現地のナンバーの車であるのも見逃せません 私は、わざとらしく、追い越していけと云わんばかりに路肩側に幅寄せして、減速し、追い越して逝ってもらうことがしばしばでした 少しでも早くといった考え方の行き過ぎもあったのかもしれません がしかし、赤ちゃんが乗車していたということ、その母親がドライバーだったということに着眼させていただけば、こういった子育ての時期と、高齢の両親との行き来ですとか、他人事には思えません たまたま遭ったという事故であるかもしれませんが、そうではなく、いつこうした事故に巻き込まれるのか想定できないという現状なのだと実感します どーいった理由にせよ、生後間もないような赤ちゃんがおられる家庭の御母さんが、運転の舵を取らなければならないといった厳し過ぎる現実を突き付けられてはいないでしょうか 私にはよくわかります こーいったさめざめとした現実が横たわり続けているのです 生後間もなくなくても、生後一年以内とかの母体が未だ回復の兆しが癒えないような所謂産後の肥立ちのような時期に ドライバーをかって出なければならない しかも、本人は若いとか、別に何ともないとか、無自覚であるがために 尚更のこと、周囲もそれに甘んじてしまう 内心では大丈夫ではないのではないかとか、そーいった頭は持ちながら、若さに任せてしまう ‘なんとかなるさ’ そーいった迷信めいた自治が出来上がってしまっている 対向車線の仕事帰りのトラックも、過信が多い、今なら追い越したって大丈夫だ、一刻も早く帰りたいとか、人為的なその顛末を感じてもしまう ほんの少しだけでも注意を払っていたら、だとか、普段の心がけがどーであったかだとか… 考え出せばきりがないのかもしれない 現実的には、もう刻一刻と時は、刻まれて逝ってしまうだけである 普段から、あそこは危なそうだなっというのは、みんながみんな感じてはいたけど、何もないからまぁっいいっかといったことで済まされていた 何もなくてうまくいっている時だからこそ、そこでの状況をよく観察し、それらをある一定の基準等によって、評価させなければならないと、強く感じさせていただいた 昨日は、そういった面でもあったが、“ファームステイ”の企画をする上での送迎などに使用する件で、◎◎◎社の営業担当の方と、話をさせていただいた それが、色々と話していくうちに パパのバスケットチームを作ろうだとか、パパ同士のサークル的なかかわりが、この辺には欠けてるよねっていうのがあって、ママさんたちばっか、ママさんバレーやってて、パパは、仲間もいなくて孤独で子育てについて悩んでるっていうやつに 何かフェアではない氣がしていた もっと、パパが仕事上でも大事なフェアなビジネスをしていく上でも、こーいった社会人バスケチームで、本当のチームワークを学ぶ機会とするのは有効だ メタボ気味の身体にも過激ではない多少のウォーミングアップは必要でもある 時間なんかは作ろうと思えば作れるだろうし、こういった仕組みになっていくことで、少しずつ少しずつ地域が動いていくのかもしれない そんな中で、例えば、赤ちゃんのある家族だとか、身体が思うようにならない方々だとか、目が観えないだとか言った そーいった様々な自己の不都合を極めた方々にも何らかの懸け橋になれればといったモノも大きい 今までは、自分に都合の悪いことというのが、達成するということが、ある種のわがままであり、自己中心的だといった慣習的な因習がまかり通ってきてしまったともいえる 個人的な不都合を みんなの不都合として考えてみてもいいのではなかろうかというものである 個人的な都合も、不都合も、ブレストしていくことであって、それらの充足できてないところで、われわれの何らかの温かさを差し伸べるということかもしれない 本来ならばできるだけ、近所であれば、距離的な時差があまりないので、構築は比較的、スムーズかもしれない しかしながら、地球の裏側から表側へとか、太陽系から銀河系の外へといった破天荒なこともあるのかもしれない それほどまでに願いの類というものは、幅広く奥深くあってないようなものかもしれない 先日、キウイの花が満開だったのをよくよく観ていたら、蜘蛛が花虻を捕えていて、その成分を吸い尽くしていたのを観て震撼とした アブの腹がペシャンコになってしまっていた キウイの大きな花のめしべやおしべのその中で起きたジェノサイドであった 凄まじい光景だった 花の蜜に肖ろうとやってきた来訪者に突如として、餌食と化されてしまった そのすぐ横の花では、こがねむしがおしべから噴出された粉様の花粉をかき集めながら、ほおばっていたりもしていた 今朝は今朝で、図鑑には掲載されてない木の実が、庭に大量に実をつけ、熟したのを採取し、紫蘇ジュースのような作り方で、酢で発酵させるといったような“木の実酒”を作ってみた この木の実はブルーベリーより赤く甘くて種子がなく、扱いやすい 学名がわからないが、5年ほど前に烏川渓谷緑地のイベントがあった時に頂いてきた樹である あれから、うちのジジの軽トラに追突されるなどの紆余曲折を経ながらも、即時の応急処置によって、みるみる枝ぶりは蘇生し、大きく成長した 毎年のようにこの時期、たわわに実をならせる いつも何気なくしていたが、近年アブラムシや、カイガラムシっぽいような虫が実についているのが確認されている 毎年のことではるが、まだ幼そうな緑色のカメムシもタカっている 漢方ではこのカメムシを生で飲み込むと何らかの強壮剤としての効能も謳ってあった(  ̄O ̄) 実の先端に隠れていたりもしていた ただなぜか、鳥がこの実の恩恵に与っているのを目にしたことはない 不思議である 蓮華合掌    
  
タグ :交通事故


Posted by このは なさくや at 10:40Comments(0)ヒューマンフォーミュラ

2009年06月07日

ファウルとバイオレーション

 しかしながら、人道面での反則や罰則といったルールなんかにペナルティは存在するんだろうか・・・この辺りは、スポーツに学ばせて頂きたい 退場させられた後、何らかのOJTとしたフォークダンスのハーモニーの様な繰り返しの反復エクササイズでなければ一向に学び様もないからだ やはり、ファウルが何故、存在するのかっていえば、そーです 身体の触れ合いによる違反であり、スポーツマンらしくない行為ということです ファウルはファウルでも、身体のふれあいは伴わないものもあり、そーいった種別にバスケットボールでは決められています ただ私は、個人的には、バスケを部活などでプレイしてはいませんでしたが、授業のコマとして多少はしてました その中でも大事なルール事項ですが、反則というものは“記録”に留められるということです しかも、その反則回数が、3回だとか5回だとかいった行き過ぎの場合は、その場から退場させられるプレーヤーが出てしまうわけですね ただファウル以外の記録されない反則に関しては、その反則をやらかしたプレーヤーとは別のチームへとボールがフリースローとして与えられるとしたものです 確かにこーした最もらしさは、ゲームを構築する際には必然とされてもいます まぁ、ヒューマンフォーミュラとしては、これらのスポーツ=行動といったところでしょうか プレーヤーといえば、以前にも3人からといったものもありました さて、どんな場になるか・・・? 場の作り方から構築することにします
 ・学力なし 
 ・地位なし 
 ・コネなし 
 ・明声なし 
 ・国籍なし 
 ・権力なし 
 ・利害関係なし
 訪問してくる人々にとっての“対等”というものを考えた場合に これらはある意味でも“ちから”を持たないからこそできることがあるといった 「ほんとうにさがしていた場所はここだったんだ」と、訪問者をそのままで受け入れていくということです また周囲の雑音に惑わされることなく、Only youとした、画面やボード上の側の相手や、いま起きてしまっている事象が頭で知っているというばかりではなく、自分のこととして解っていることが大事です 「あっ、コレって自分のことかも・・・」というものです 今何に悩み、何を大切に思い、どう歩もうと努力を続けているのか 訪問なさった方のサポートが出来るととても有り難いのだといえるでしょう そこで、無財の七施というものは、ご存知の方々も多くいらっしゃられるかと思われますので、次のものもご参照されると、今後の人生や、ご自身の生き方に何らかのソースとなるのではなにでしょうか・・・
 ・無畏施 (精神的な不安、恐怖を取り除く布施)
 ・随至施 (近づいてきたものに施すこと)
 ・怖畏施 (施さなかった場合の後難を畏れて施すこと)
 ・報恩施 (恩に報いるために施すこと)
 ・求報施 (のちの報いを期待して施すこと)
 ・習先施 (ご先祖様の家風に倣って施すこと)
 ・希天施 (生天を願って施すこと)
 ・要名施 (名声を拾って施すこと)
 ・為荘厳心等施 (心を清浄にし悟りに向かう為に施すこと)
 以上、布施をするとは、即ち“貪らないこと”ことの何物でもないのですが、これらも参考にさせて頂き、実践 生き方に迷いがあったら、先ず何でもいいので、布施をしてみましょう そんな事柄を法施にて教えていただいております ただ、仏教も無数のうちの教えの一つとしたものでもありますし、星の数と同じように存在する中のある意味での選択肢となさって頂ければ幸いでございます 本題のファウルを考えさせて頂きますと、反則にも場の雰囲気を著しく破壊させるような反則は困り果てます 特に失礼な態度や、相手の視界を遮るような細かい虫的妨害、無作法といった困惑を極めてしまう態度は違反の窮みといえます しかしながら、退場させられたからといって、学習を家居に任せるのではなく、まだバツゲームが続くのです それは、テクニカルファウルとされた内容には、相手に得点が大量に加算されるばかりでなく、そのテクニカルファウルによって失格のような事態も起こってきたり、実に様々なファウルとした詳細が列挙されもします よって、こういった内容は、Allデータベース化ならぬSQLになるといえるでしょう スポーツのフェア精神というものの素晴らしさが改めて浮き彫りにもなってくるようです しかしながら、こーいった原理原則的でのゲーム感覚によって、少なからず様々な係わり合いのなかった 若しくは、本来ならば係わるはずではなかった人々とのコミュニケーションが広がるのは面白いことだと期待してもいます 昔から積み重ねられてきてはいたもののそれが、どんなカタチで連携すれば、より良いソーシャルスキルを習得できるのか こういった未知なる ではあるけれども、実社会から、それほど掛け離れない人と人の間を切磋琢磨とさせるものなのかもしれませんね (出典:中学生のスポーツルール/東方出版社)  


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2009年06月06日

マニアック的な許容性

 この前の水曜日の夕方、河原に下りていったら、いつの間にやら、ネトネトした幾重にもなった長いやつが、白い長袖Tシャツにくっついて来た けしからぬ奴等だ! 何しろ、この不気味なベトベトとさせたものには、細かい黒い虫らが、罠にでも引っかかってしまったかのように大群を成していた このような絡まってくる大群の包囲網をわれわれは、未然に防ぐなんてことは可能なのだろうか こーいった凶器は、幾ら目が見えていたとしても、ただそこに在る ただただ在ったので、それが絡み付いてネトネトと、ベトベトとした不快な感情が発生し続けた 頭にも髪の毛にも、それをぬぐい払う手や腕などにも、不快指数はボルテージを加速させていく そして、そーっとその罠を長袖Tシャツから取り払おうと、少しずつ糸を手繰ってみるのではあるのだけれど、虫が潰れて汚れが目立ってくる 日常的にもこーいった事件に遭遇しないさせないために何らかの対策が必要だといった観点からの‘農薬’という事案も少なからずはあるのかもしれなかった しかしながら、ヒューマンフォーミュラ的には、これらを受身の力で何とかするかといった、それらの昆虫群を避けたり、退けたり、昆虫の生か死かには影響を与えずに それらの群隊におかされた組織を早く回復させ、より健康を保つことで、結果的には人間に収穫を与えることになるとあった つまるところ、害虫に食害されたとしても、収穫時までは耐え忍ぶことができるという自然の摂理なのだろうか そして、これらのマニアックとも云われる許容性の場合、昆虫群の個数が減るわけではないとも云われている・・・、一般的に健全な人間ならぬ植物ほど病害虫に耐えうる 許容性の機構を発見したペインター博士は、「植物の一般的な活力は、害虫の攻撃に対する許容性に非常な影響を与える」といっている 植物の品種も害虫防除にとって大切では在るが、植物の健康状態と土壌の栄養バランスも大切なことは明らかでもある ・・・、また化学肥料の害である一つには、化学肥料では主栄養素は大量に供給させるが、与えられた植物そのものは、微量元素などは少しも吸収せず、その結果遊離アミノ酸の含量が急上昇し、害虫を誘うといった結果となるのだ 化学肥料を与えた人工生産物としての製作品の人間ならぬ植物vs.経験値からの伝承的な農法などをバランスよく組み合わせた害虫駆除では、遊離アミノ酸の含量は乏しく、従って害虫諸君らには、興味のないシロモノなのである こういった内容で思い当たるのは、前述の蜘蛛が吐き出していった害虫駆除網のような残骸である あれらは、空中に舞っていたのであって、そこをたまたま、私は素通りしてしまったのである そして、いつになくまた、有機農法百科なるものを開いて喜んでいたのでもある そして、以前からもいつも感じていたのは、《葉は天然のマルチだ》といったことでもあった 何かこーいったマニアックな農法のようなものと、人間を交錯させて観つつ、振り返らせて頂くのが、積み重なってきていないでもなさそうである 昨日の痛みは、今日の快適とでもいうべきかもしれない そんなに毎日毎日、酒を浴びていられるわけでもないし、酒が有り余るほどあったからといって、もったいないから飲んじゃいなって、そんなのは、出来ないし、わからない 体調が感情からくるなんていうのは、勿論誰が遭遇したって、そーだとしかいえない だから、異常感情注意報というのは、お役に立つものだと考える ある種、この季節柄、異常な感情を翻させるような除草剤の類を極めて大量に使用させて、それらがやりたい放題になっているということがいえそうでもある そんなことが推測されるのである でなければ、だが、あのような異常感情を行動に移すなんていうのは、到底成しえないのである しかも、解毒ができてはいない人工的なサイボーグ化してしまった機械の一部となった人間が、暴れだすのもムリもないだろう そーいった事柄には、スポットを当てないのではないのか ただそーいったものが単に当たり前と化した 何もしない ただ通年とした行事のような感覚での農薬散布なのかもしれない そーいったものには、やはり耐性がつくのも事実である 感情と行動の関係の研究を独自に勝手にやっているようにも見受けられるが、このようなものは、しかるべき自然界であるものとしての食人とするものかもしれないし、根絶やしに関しても、そーですが、人間を犬扱いさせるだとか、そーいったことで、傍受した内容をテーマとして、オンエアするだとかいうやつは、むしろもう、そーいった生き残り作戦の挑みをかけた戦争が繰り広げられてしまっている 述べ句幕無しに与えられる情報といった質の課題は、われわれを奈落の底に突き落とし、果ては地獄の裏庭のようでもある 何かしら曇りの空が、どんよりしたのが観えるので、行をかえます
 個人的な課題をかき集めるっていっても、まとまることは先ずないし、まとめる必要はないし、ただ連続するようなものでもないので、公式にはあてはまらない場合がある だらこそ、それが・・・、公式がないということが公式であるかのような導きなのかもしれない 或いは気分的な或いは気まぐれで、はたまた或いは他人の時間を奴隷にさせてしまっている可能性があるのではないかだとか、ついつい氣を遣ってしまう どーしたって氣がきでもない こんなことやあんなことが欲しいだとか、やりたいだとかって云ってたら、わがままであるし、もはや人間扱いはしてはくれない 神業を使えない テレパシーは寸断させられた 以前に某総合病院に足を運んでいた どーしても幼き頃からの背中の 義父母が言うには、烏に抓まれただわなどと、ケタタマしい笑い声とともに帰したその嘲りの声を確かめようと、形成外科を尋ねてみたところ、なんと、ここでは、そのキズを治すことはできないから、紹介状を書いてあげますから、そこでそのキズをキレイにしてくれますからといったことを診断されたのだ 私は治療のために 勇気を出して受診したわけではなく、どーしてこのキズができたかとか、このキズは単なるキズなのかとか、そーいった法医学的手段に関する話をしていたはずであった ところがだ、最もこの病院を訪問する前には、入念に問診のようなものを幾度かの機関で受けたのである その最終的な判断が、ここでは治せないので、専門家へ行ってくれ、そこで整形手術が受けられるといったことだったのである 別に整形なんかをいつ誰が望んだのだろうか? 全く訳がわからなかったし、意味が不明でもあった なぜ?そーいったことになるのか? このキズ跡は、痛くも痒くもないし、別に放置させてあってもどーってことはないし、何の負担でもない にも係わらずに医者は、治療をして、美しくしましょうかなんかを説明するのである みかけをなんとかしましょうという みかけなんかどーだっていい なぜこんなことになったのか?そーいった分類は、非公式にさせてしまうのである いつもそうだ どこもそーだった 検査や問診をありったけの時間と手間をかけた挙句の末に待っていたのは、とてつもなく自己責任とさせる治療を勧められるだけだ その他の回避事項は何もないか、わからないといっているか、面倒なひとがやってきたといった概念である これらが、この自治を悪くさせている所以であることは、いうまでもない ただこー云っても、誰もわからないという 何を云っているのか意味がわからんといって、撥ね付けれて続けてしまう これがいま そして、一生に近いものかも 蓮華合掌  


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2009年06月04日

Marchant,Adventurer

 私の個人的な意見とすれば、例えばいま、昔はそーですね、20年以上昔ですが、私のとこの祖母もそーでしたが、昔なんかは、「アホウ症」といった名称でも有名な鬼気怪界とした病でしたが、こういった介護では並々ならぬ、事情が遭ったわけですねψ(*`ー´)ψ 私なんかは、こういった課題というかそーいう事態に関して云えば・・・、もうヘルパーなんていう制度 これって、ギョーセーとかが慌てふためいて最近出来たような急場を凌ぐような制度だったんじゃないかなっていう認識でしかありませんけどね これらの重度重複で重篤な方々に係わって、大変な辛い目にあっておられる方々が軒並みいます 最近はそんなコトで、あの◎◎◎◎さんだって、あーいった最後の選択をなさってしまったわけです それで、何が言いたいのかというと、例えば、長門さんです~\(_ _;)/~  今注目されている芸能人だからこそ、こういった介護に係わっておられる方々に対する ほんの少しの気休めというか、箸休めになるようなストーリーにしていくのはいかがでしょうか? 私はあまり最初からコネを当てにして、何とかっていうよりも、いま表面化している生々しい介護ゲンバで、もうそんな私生活なんかを堂々と芸人の誇りのように人前に晒されてますよね ああいった、長門夫妻のような胆の据わった近辺の方々への◇◇◇◇◇を提供させていただくという企画を提案したいのです(_ _,)/~~  ほんとうに凄まじい状況での中、そーいった異常な行動をあからさまに行動に出てしまうものを感じないではいられないのです もし、そーいった、例えば、以前からも話題にしてはいるのですが、‘だるまさんがころんだ’といった昔ながらの遊びがあるんですけど、「だるまさんがころんだっ」なんて掛け声をかけた瞬間、ふらついたとか、揺れてしまった、ビビってしまったひとっていうのは、もうその時点で、何らかの概念の囚われの身に転じてしまうようなことをずっと続けてしまっていたような氣がしてならない( ̄个 ̄)  だるまさんなんか、転ぶに決まってますよね 起き上がりこぼしみたいになって、立ったり起きたりして、自由自在になってればそれは別なんですけども・・・、だから、だるまさんを転がすのが目的化されてしまっている公権力の行使事態が、結局はだるまさんがすっ転んだなんていうゲームを子どものころから、繰り返しエンドレスにそればっかやらされてるわけですよね そーいうのはもういいから、いい加減やめよう!というのが出てきたっていいと感じさせていただいちゃうんですよね そーじゃなくって、ある意味、この企画立案の中で、ソーシャルスキル的なことを提案していくO(≧∇≦)O つまり、介護なんかをひっそりと、やっている人々がごまんと溢れていて、そういう介護を担っているとか、担ってきた方々への労いとさせていただくサービスとしての◇◇◇◇◇を提供させていただくっていう観点なんです\(^o^)/ そこで、会計的には、こういった古典的な手法をとります これはあくまでも提案なんですけどね、開港150周年の横浜だったら、青葉区だとか、そういった地域は、高齢化率がものすごい 兎に角、道を歩けば、おじいさんやおばあさんにぶち当たったかの如く遭遇してしまう(  ̄O ̄) どこに行ってもいるという感じなんだと思いますが、そんな中でね、老老介護や、孫やひ孫にまでも介護されているだとか、もう兎に角そういう今なんだって思います そーいうので、社会全体が回ってしまっている どーにかこーにかやってきてしまっている 苦悶の淵で頭部などを小突かれながら、こー必死でやっている それを訴えない 沈黙に徹するしかない ありのままありのままといって済まされている 兎に角、あれは個人的な問題で、知ったかという社会が完成品みたいに出来上がってしまっている(  ̄- ̄) 近い将来のあなた自身に起こってしまう問題だなんてことは思わない(c ̄- ̄) ただいま稼ぐだけ、健康で目も観えて耳も聴こえていられるうちはね、それでいいのかもしれない あそこが痛いここも痛くなって辛くなってきたし、目も観えない耳も聴こえなくなってきた それだけど、個人的な病みたいなもんだし、そーいった公式なんだから自己責任でやんないといけない そういった呪縛めいた迷信がこの世襲を覆い尽くしてしまっている(~ー~) そこで、ヒューマンフォーミュラが提起するのはこういうところで、それから、話を経理の話に戻しますが、私なんかは、中世のイタリア商人のような一航海が一企業といった経理を採用したいと考えています(\'ε\')  それは、特にここでブログを画いてる私が携わっているビジネスには、大企業のような不動産のようなものは何も要らないわけですし、それこそ本邦のような狭い島国においては、そもそもこういった冒険商人の複式簿記でアクセスを使用した、それだと後で、別に何らかの経理がわからないだとか、そーいったものはなく、経理を明確にさせることで、お金の流れがフェアであるという社会的還元が出来るのではないかと感じもします(・_・Dフムフム 先ずは、出資者から資金を集めることからなんですが、自己資金も含めてです 私なんかは、今回の定額給付金を充当します こういうノリで始めていくということですかね(  ̄O ̄)ホー そーして、今日はじいさんの命日にあたります じいさんは、孫の私なんかの顔を観る前に切り出されて樹の下敷きになって若くして死にました 残念でした それと、自動車の免許を全国的にもかなり早く取得したというのを聴いていました 自動車に子どもたちを乗せてどこかへ連れて行くのが、楽しみなじいさまだったようです 初孫の拾われ児は、そのじいさんの自動車には乗ることはできませんでした がしかし、ドライブをしているときには、じいさまが、何か見守っていて守護霊のようにされているんじゃないかなっていうのを感じさせて頂くのです 有り難いことです 蓮華合掌  


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2009年06月04日

Rover

あちこちの様子をお聴きさせて頂くと、ふと感じてしまうことが屡だ あまりにも短期的なスパンの目標が目の前に人参をぶら下げたようになっている そこまでに全力疾走してしまえば、墓場に片足ならぬ両足を突っ込んでるのと一緒なのでもある 支払いに余裕をくれてもいいのではないかという請願みたいなものがありはしないのか? あまりに早すぎて、完済させたはいいが、その数日後には、この世に存在してないといえそうである そんな仕組みが回り続けてしまう 現実的過ぎる箍の渦中に埋もれてしまいそうでもある いったいこの時間といった遇ってナイようなものとの付き合い方をいかにさせるのか こーいった事態に哲学が通用するように 哲学的思想を遇わせるのでもある このヒューマンフォーミュラには、日々様々な難題を持ってこられる悩み多き方々で埋め尽くされてもいます そこで、このマインドリーダーを任され志願される方には、心理的用語ですとか、依存しているだとか、甘えているだとか、自律していないだとか、生きる意欲に欠けているだとかいった言葉は、特に口に出してはいけませんというのを徹底させて頂いています つまり一切のところこういった言葉を罵らない もし何らかの状況によって、訪問者に依存体質が観えたら、あなた自身のことばでその苦悶の状況そのものを説明してくださいとお願いしております 依存であるだとか自立していないだとか、そーいったルーチンワーク的なことばによって、恰ももう分かってしまったかの様に思い込むコチラ側が危険水域に達していると氣付きが必要です ですから、タドタドしくも、あなた自身の自分のことばと社会が承認を与えていることばという概念を どう絡み併せつつ、コミュニケーションし相手に伝えていくのか、或いは自分自身を確かめていくのか それは大事件さながらです 自分を信じること そしてこのヒューマンフォーミュラとしては、徹底して少数者の側に率先して立つのです といのも、この少数者といった人間一人ひとりの声といったものは何も聴こえてはこないんです 子供達の声も然り、社会的地位や経済力が勝っている大人たちのマジョリティとさせた覚醒音に掻き消される事で日常が成り立ってしまっているようなものです 老人の声も段々と聴き取れなくなってきてしまった 信仰ををお持ちの方々は、必ずしも立派な生き方をしていなくても仏様によって生かされているのだということは、御承知の通りですね であるならば、社会的には全くのところ、認められていない人々、これらは単なる社会的存在として挙がってこないといったモノのみでなく、自然界の一部とした人間のいのちのリレーに危機感を募らせてしまっておられる人々に対して、本来仏教がいのちの教えとして存在しているのであったなら、その方々の生き方を最も尊重し、大事にして頂けるという唯一の場であると信じたいものです いのちを蔑ろにしないさせないといったことばを口にするだけで、われわれは何か解ってしまったように思い込んでいるのだけれども、いまここでの子供達が訴えているいのちの危機を本当のところどう掴んでおられるのか 一見何もないように観えていても、自殺願望が強いこどもでごった返しています 或いは自動車で暴走を繰り返している若年層の中にもシニタイと思って生活する子供達で溢れてもいるのです どー生きていったらいいのか? こーいった疑念を自問自答として繰り返しているだけによってもいいものなのかどうなのか、、、既に仕事としてのモノ書きなのか?生活としてのモノ書きなのか?区分は困難だ というわけで、先日感じさせて頂いた雑記を次にアップしときます 
 年がら年中雪だらけというわけではないのだけど、今年は雪を被ってる期間があるのかなという氣がする 今日2009年5月31日、18:28:05は天候が不順だった というよりは、不安定な状況でした 全部が真っ白くて、輪郭も観えない事になっていたなんていう期間はショーがないにしても、やはり、暗闇の期間が長きに及んでくると、白光りしているようなものが目立って仕方ないものであります 離陸するときのあの耳の感覚、バコッとなるような、ズコッというよな耳に戦慄が突き刺さってしまうような感覚めいたものを感じる どーも、幼児の頃から辺りが暗闇に包まれていたような気配もあったために “白”がお気に入りだった ただの“白”というよりは、靄のようで霧のような乳白色のようなビミョーな“白”とでもいうか・・・ でそんなわけで、どぶろくのような濁り酒を浴びるようにする日課が常にもなってしまっていた また、そんなこんなで、そーいった貴重な酒を当方に浴びせようとする人間が多かったのも事実である 酒を勧めなければならないような立ち位置に至っているにも係わらず、酒を浴びせられてのその後の行動を映像化させられてしまうのである 若い頃は、麦の発酵させたものが冷たいとかぬるいだとかいってイチャモンつけてもいたのだけれど、それが、吟醸酒だの久保田の紅寿などの類になってくると、さすがにただ頷いているだけではなく、社交辞令のような未知なる会話を要求されるのでもある 誰も聴いてないとかって、ヌケヌケと色んな痘痕もえくぼ的な内容をシャーシャーとほざき、それらの商談を遂行させるのである なんとも闇ルートの中にネジ込められてしまったかもような按配でもあった いわゆる大人の怪しげな会話である 勿論紙幣が絡んでもくる そんなものを聴たいとも思わなかったが、ナケナシに聴かされてしまったことも屡であった つまるところ、特に居ても居なくても、どーでもよい存在だったのである 特に居たからといって、何らかの不利益が生じるでもなければ、居なかったからといって利益に成り得るというものでもなさそうだった あぁまたしつこい‘浪費’の部門なのかなって・・・ 暗闇を突っ走る傾向に傾きがちなので、そんなものが犇いた場所に置き去りにされてもいた それにしても、自分から水蒸気が立ち昇ってるのを確認してしまうっていうのも面白いのかなって氣がしている 頭のてっぺんから上がるのは最多でもある 今は季節がら唯一、白く観えているのは、河原の石かもしれない 夕方になっても白光りしてたりする 石に聴いてみると、石は相変わらず黙ったままで ただそこに在るのみである 石が何を考えているかいないかとか、それは空想上のことだけであって、石に妖精が宿るだとか、死ぬとみんな石になるから、身の潔白を晴らそうと、石が白きに観えているようだとか・・・ まるで白い峰々のようだとか、いつまでも雪を頂いているというのは、温暖化傾向が減速したのか否か、そのように感じられてもいたりして、、、蓮華合掌
  


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2009年06月03日

なめくじ

 今朝も庭でイチゴ狩りをしていたら、小さな生まれたばかりのようななめくじが一匹、イチゴの肉厚な果肉にタカって腹いっぱいに与っていた 直径0.5mmほどの幼子のナメクジの辺りには親らしきその母さんの御姿はなかった 指と指の指紋間でこすってしまえば、あっという瞬間にあちらへ移動しそうなほどに弱々しくもあったが、なかなかその動きは俊足を極めていたので、じっと見物に興じていたりした ナメクジの触角であったりあの突き出した角のような四つの微笑ましい伸縮自在棒は、葉っぱなどにほんのちょっぴりだけでも接触しただけでも、瞬時に縮んでしまう なぜか、これがどーしたって、‘ちほう’なんかとのやりとりに麻薬の様に観えてくる ‘ちほう’の最も恐れるそのオゾマシイ障がい物が良心を備え持つわれわれ如き存在でもある 何しろ‘ちほう’がどでかい報酬である‘ゲル’を得たがっているから、ワイロでも非合法でもなんでもやれっていうので、ずっと難無くクリアしてきた今だからでもある こんなことが赦されてきた というより、できちゃった婚みたいでもある つべこべといった形式や慣習やらの思想を取っ払い、ただ残骸として残った普遍性とした妊娠のようなものだ ‘ちほう’はナメクジになってはいまいか?なめくじだけに舐められてはたまらんといった無理な抵抗を繰り返してはいないのか?果ては、公権力の行使をそのヌルリとした不気味な粘膜で、われわれのような良心を持った人間と対等にさせる氣なのか われわれは、ゲルで御悩みの方々への幾許かの教育は無数のうちの手段を提示してみるが、ゲルそのものをやるということはない 汚いゲルで血塗られたリンチ集団を横目で観つつ、もしこのままならば、何もできないままで、ナメクジの駆除を遂行しなければならなくなった ナメクジをビールや日本酒で誘って、その夥しい酒で表面張力を興すほどいっぱいになった樽で溺れるといったシナリオなのでもある 昔からこういった‘酒で溺れさせ作戦’みたいなものは、非常に有効でもあった それらのシキタリじみた呪いにも似た洗礼を捧ぐ 神聖で芸術的すぎる 溺れる者は藁を掴んでくるだろう きっと藁しべ長者を目指すためにも…そして、それらの多くの公権力を司る人々はあれらの石の中に刻まれて逝く 永久にこの公権力が行使されたといった無意味な行為や行動を子々孫までにも伝えるために… ときどき、訳が分からなくなるときも大いにありすぎる 悠久なんたらとかこーしたとかといった巨大な碑がポツンとある あまり眼下には入ってはこないが、なぜかあるしかも道路といった主要な現場には必ずある こういった巨額なベネフィットとも成りかねない財産をわれわれは、どう検証すればいいのであろうか それをずっと繰り返して、感情的な行為にはならずに行動を変えられるのだろうか それが極めて問答の過でもある氣がしてならない 〝ヒューマンフォーミュラ〟がそこら辺をのんきそうに歩いているのであるが、まったくもって別の内容のことで、歩いていたわけであったが、余計なものを拾ってきてしまう羽目になる それを話題に乗せない方が得策ではあるものの こびり付いた青さびのような不気味すぎた異界からのメッセージが夥しく流れてくるのである やけに掃除が大変だなって感じたら、やっぱそーだったというものかもしれない ナメクジ連中の動いた形跡は、唾を吐いたかのような絹の道のあの輝きをも帯びている あの歩んだ形跡をキミも観たまえ! どこでどーしていたのかは一目で分かってしまう どんな感情でどんな行動をし、何を学習していたのかといったナメクジの生きたアカシとでもいう、その読んでいた本の数々 われわれはそーいったナメクジの行動に何を学び、どういった反射神経で交わすのか、今後そーいった‘角出せ槍出せ頭出せ’に試されるものかもしれない こーしたちほう的なアフォー的な自治が続いてしまう限り、、、脳の中身は空っぽでしかない スカスカだった 御釜の様な検査機の中でじっとしなくても、もう ただあのような精巧な御釜に入る必要を自ら招致させたのであるから、碑を建立し、塔をいっぱい建立させたのだから、、、在り難いほんとうに在り難く思われてなりません ナメクジなんかは、何も聴いてないし何も聴こえてはいないし、もう初めっから聴く気もない そーいった構造だからとしか言えない 何らかの製造物の一種としてのわれら 蓮華合掌  


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2009年06月02日

fad

 人間だけにしかわからないことをしようとして、世の中に挑戦状をたたきつけているようなもんかもわからんけど・・いたって、流れに忠実にしているだけでもあり・・・そんなこんなだって、SQLを考えてみても、つながりは単に脳の中程度なのかもしれないといった不思議な空間に満たされてもいた そー云えば、過去問に出題されてたみたいな分母と分子のただならぬ関係にぞっとした感じもしたのである それはね、起き上がりコボシのようなバス停にたった一人で公共のバス待ちをしていたあの老婆の御姿なのであり、あのときに私なんかが通過しなかった暁には、もっと時間的なロス&老婆の肉体的な激寒との戦いのどっちらけだったのは間違いない アイスバーンになった道路上をアクセスし、老婆に“乗っていきませんか?”と問うてみた 老婆は、一瞬はタジロイで、バスを待つといったnoサインを示した 私は現状の説明を試みた‘恐らく公共のバスは、あと一時間程度を要します’と・・・その見解に老婆は、一旦は、‘そーですか’といって悲観的態度を表明したが、その後、私が助手席のドアを開け放つと、“善いんですか、悪いねぇ”というセルに変化したのである その老婆は、私なんかの車に乗り込むと、開口一番に“今まで80数年も生きてきましたが、こんなことをなさって下さるのなんてのは生まれて初めてです”といったことを仰られたのでした お聴きさせて頂くと、お子様や兄弟も沢山おありのご身上のようでございましたのに・・・ただこういった一種“行動”には触れたことが一切ないとのことなのでした つまり、移動の際には、公共以外には、誰のお世話にもなったことが皆無であるという実態でした こういったおばあさんの身の上に対して、あまりにも悲劇的な現代の公式ならぬフォーミュラにただ事ならない今ここを感じるにもいたりました それが放置され続けてしまっているのでさえもあり、私などがお声をかけさせていただかなければ、この老婆タルは、もしかしたら生涯に渉って、このような体験を積めなかった不遇のひととして崇められねばならなかったに違いないでしょう この一件にショックを隠しきれずにいたわけでもあるのでした  何をどのようにどれから始めれば善いのかとか、優先順位を考えているのは、寧ろギョーセー国家権力のような後出に回すだけのものでもある 先駆者としては、能書きをタレこんでるだけではなく、現実を周囲を忠実に観察するに限られてしまう 即ち“いまここで起こってしまった何らかの蒼面金剛といった三神の主タルものでもある”所謂、既に沸き起こってしまった現象をありのままの実相というのに高付加価値を見出すことなのでもある それらは、無論普遍性といったありふれがちでありながら、無視の対象とみなされてきたものでもあり、自分はバカですだとか、リコウですだとかを吹聴している単なる実相のようでもあります これらを保つように工夫されてきたシロモノが、コレまででは十分ではなく、寧ろ機能不全を起こしつつあるだとか何だとか、より強力な耐性を持つ‘悪性細菌’に犯されつつあるようでもある 我々はこういったモメンタム期をどういった心構えで迎えるか否かを十分に考えないようで感じずにはいられないのでもある 現実的な話題にもっていけば、数年後には、キミらにも同じような悪夢が再来してしまうというものでもある これは恐怖映画さながらなのでもあり、待ったなしの現実を突きつけられてもいるのである 私の通過してきた過程に関しての経験知からすれば、さほどの苦しみでも侘しさでもなかろうにとさえ感じてしまう なぜならば、叡智を還元しようというジェネレーションが存在するのである この悦ばしい僭越さながらなアクシデントをわれわれは、火星人来襲の如きに祝福せずにはいられないのでさえある 蓮華合掌  


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2009年06月01日

〝暴走する文明〟

(o_ _)oドテッとコケついでに(o_ _)o よくコケまくってることが多いのですが、〝暴走する文明〟を読まさせて頂きまして、これら地上の球のようなところにカロウジテ引っかかりを観付けつつ乗っかっているとですね、さまざまなことに遭遇するし、俄かそこらじゅうで起こっているのも、まっ必然的な受験対策みたいな氣もしないでもなさそーだ とりあえず、私的には一応、認識はされているようでありますが、まったくのところ弾かれていくといったところでしょうか そんなこんなで、知識人との対談をさせていただきますと、どーも私には、ネガティヴであるというようなものをチラつかされてしまうのです そして、全身が凍りついてしまっています 製氷器のようなガラスケースに入れられてしまっているような感じ、ただそーすることで生き延びられている或る意味での延命措置と言うのかそんなものまで感じています 文明とか文化とかって、説明つけてみろっていうのも、すべては繋がりなのかもしれないのかな ただ在るだけというので、どれだけ生き延びられるのかを人体実験しているかのようでもある 何かを奪うために、自分らの
行動が成り立つものだったら、それっていうのは、いったいナニ?という氣もします 前述の本を開いたページが、こういったものでした 私はいつも開いたページから読み始めるという質でもあるわけですので行を変えてみます(o_ _)o
 〝肥えて柔かい大地がすっかり流れ去り、かつて存在したものに比べて、いま残るものは病人の骸骨に似ている ・・・・・いまや蜜蜂の食べ物しかなくなった山々には・・・・・そー遠くないむかし。樹木が生えていた 毎年の雨で滋養を与えられ、現在のように裸地から海へ流れて失われることがなかった 土壌は深く、それが水分を受け取ってローム質の大地に留め・・・・いたるところに泉や沢を生じさせた 今日では見捨てられた社が、かつて泉の流れた場所をしめすばかりである〟(出典:プラトン〝クリティアス〟) 要するに外国も日本もどこもかしこもそんな風だというように感じている ただ世界中を観て旅行をして汗を流したのではないにしても、あまりにも身近なところを見捨てるだとか見限る人間が多いのも尋常ではない しかしながら、やはり千年単位だとか、非常に長期戦な時間的な流れを観るにつけ、その期間をのんびりと、もっと他の学習や研究時間として与えられているようにも思える 石だとか樹木だとか葉っぱだとかに精霊が宿っているとか妖精が現れるおとぎ話を信じるのもいい がその半面、そんな石っころは何も考えてはいないし、樹木から小人は現れないのが常かもしれない ただ前にも何らかに記したけど、石は冷たいばかりではないし、樹木の樹皮からの恩恵が様々なことにも謳われているし、葉っぱは葉っぱで、光合成をし、酸素を供給してくれるといったありふれたことの連続を成している おとぎ話が嫌いでもなければ民話を支持するというものでもないのですが、やはり人間とすれば、雨が激しかろうが靄がかかっていようがその経験を積むのと、それはしないと決め込むのとでは、人生の生き方に対する耐性のようなものに歪みが出てきてしまうのかなとも感じています 何はともあれ、自然の流れに触れてみようとすることも、いろいろと詮索とかされて説教がましいことに囚われて、それらの(親とか教師とか上司だとかも)呪縛(ゴメンナサイ)から抜け出すことが或る意味での“教育の質”でもあるように感じてしまいます ですが、いったいからして“質”というものは何かといった会議は終わることなく続いてしまっているだけなのでしょうか 即ち、一日二十四時間の配分としたら、いったいあなただったら何に時間の帯を傾けてしまっているのかと、これから傾けたいのか?といった単純明解過ぎるのですが、時間の使い方の検証を知り、それを自分で納得する必要を迫られているのが、今、進行形で病んでいるからこそ出来ることの一つなのかもしれないですね 蓮華合掌   


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2009年06月01日

人間の苦悩

 われわれの日々の〝ヒューマンフォーミュラ〟とした活動といったものは、要請が発生すればやるといった受け身的なものが主だったものではなく、社会の中の位置づけに関していうならば、社会的な秩序を正しい方向に導く道標的な活動といっても言い過ぎではなく自己評価をさせて頂いております 所謂民間の主体的な環境福祉的なニュアンスの民間人の活動といったものでしょうか ところが、本邦の福祉、とりわけご承知のように古典的には、仏教を主流とした戦後は、特に‘官主導型環境や福祉’であって、そこへわれわれの活動は、従属させられてしまうようになって身動きがとれなくなりました 私は個人的には、633制の制度の範囲内での教育レヴェルしか学習環境は用意されてきませんでしたが、ただ一つ違った野外活動的なことといえば、募金活動やバザーなどや、身体や心(気持ち)が思うように動かなかったり働かなかったりする人々に対する様子を幼いころから観てきてしまいました 判例六法などを読み漁っていると、随分昔からの生活を起点とする福祉課題が山積しておりました それがこーして、連綿と繋がり続けてきたように思えます いったい全体、時代背景がこんなにも進化してきているにも関わらず教育の質そのものが、こんなにも変わってなくていいものなのか?というのを驚嘆するしかない PTA活動で先生とお話すると、先生方は一律に‘時間がとれない’というのを口を揃えて仰られます そんなに時間がないというのは、教育を抱え込んでいるという風な、或る意味での“教育の質”を考慮されてないのではないだろうかと… つまるところ、私から云わせて頂ければ、時間の使い方がオゾイのではなかろうかということである 教育の質を考えるときにそれらの教育に携わっている方々の連携プレーがなされずにある一人の先生のみがワークをレイバー的に抱え込むことで、その先生は英雄と見做されてしまっているような雰囲気でもある 制度の枠組みの中のみで、右往左往とする援助サーヴィスは、あって当たり前にしても、制度には入らないサーヴィスと言ったものにも、〝等価値〟として、様々な人々が雑多に入り乱れて学んでいかなければならないテーマであると感じています 今後、裁判員制度といったモノでも、調停の中での態度が、然もすれば民間人でありながら、裁判所の中では非常勤の公務員といった任命された役柄が付いてしまうことでの危惧として、何か偉そうな立場になって裁くということになりはしないかというものが、非常に試される 特にこういった地方の何でもないような場所での出来事は、特にそーいった態度を表明するのは、もう目に観えている 普段の暮らしぶりがその裁判で人間が人間を裁く行動のような場面では、あからさまに現れてきてしまう 国家の思想を担っている裁判官や専門職としての調査官がいますが、国家権力や権限を何も持っていない、むしろ持っていないからこそ、そーいった利害だとかには無縁の人々の自由な立場からの観た、謂わばそーいった眼力を備えた人間が入り込んで初めて、複雑な地域問題や、人間が人間を裁くといった行動に付する裁判所事態が開かれた機能を期待されるようになるのではないでしょうか ですから本来ならば、純粋に民間人として参加すべきなのですけど、何か国家が承認を降した一種の資格めいたものを持たされてしまうと、人格も何もかも優れたものに成りあがったという氣になってしまう こーいった感情が心の中にあり、それがそのまま、行動になってしまう このような感情と行動をよく弁え見つめる必要が迫られているように思われてなりません 〝良心的〟なことを感じさせて頂いてしまえば、例えば区長に給料をやれといったものは、ギョーセーから御墨付きを与えられた資格に頼った福祉だとか環境だとかの活動が中心になり過ぎると、純粋に活動を積み重ねてきたわれわれのような主体性を重視した活動なんかは、育たなくなってしまうのが目に観えてしまいます われわれにしろ、さまざまな主体性を持つ活動をされている方々というのは、各地に散らばっていても活動らしい活動ができていない 外野が観ると個人的に援助しているふうに観られたり、余裕があり余っているからやっているにすぎないだとか、外野の評価というものは非常に厳しいことを平気で何の躊躇いもなく言う 経済的な基盤が脆弱である そーいったものは仕方がない 寄付がほしいからやっているわけでもなく、名誉や社会的地位を得ようとしているから活動を拡散させろなんていうのもない こういった地味で目立たなくひっそりとやっているところへの金銭的な評価は、ない なので、人材も育たないし、然もすると権力をもった多数派の外野には、手厳しく扱われてしまう そしてそれが唯一の金銭価値での評価になってしまう 臨床の場を踏むことができないつかめないという悩みのようなことをいう組織もあるかと思います 実際の現場で学ぶということは、辛辣極まりない忍耐の連続なのです 知識ばっかりを理論攻めで長時間やってこられた専門家さんは、その理論でわかったような氣でいて、この現場の中での一つ一つの事実から学び、こうして忍耐強く地域の中で鍛えられない限り、この複雑懐疑的な生きとし生けるものとしての人間には到底近づけません (出典:聴こえない声をきく)蓮華合掌  
  


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2009年05月28日

人返し令

 限界集落化を加速させてしまった主因といったものはいったい何か?というやつを勘ぐった際に私の個人的な思惑には、やはり一種の“情報の質”に課題が存在しているのは否めないのである 私は特に一極集中の集団的な軍隊化が加速する都会へは、足を踏み入れたいと思わなかったし、あまり生活をしたいとかって感じたことはなかった 働くという意味では人口が密集すれば、何をやっても(良きにつけ悪しきにつけ)或る意味での自己実現が達成できるのは必然的なことだろうと思える 即ち特にあまり労力を使わなくても職業が確保され、特に騒がなくてもサーヴィスの質も頭の質も上昇するのは、特に珍しいことではなさそうだ ただ相対性理論的にいえば、時間軸の回転が異常な加速を示すのは周知されてもいる われわれは年を重ねる 年をとるということは、酸化が促進する、ものすごい加速して、心臓の回転がフルモードで全開する 消耗が夥しい というのは、結局は、‘浪費に全身全霊突っ込んでいるだけ’それだけが今 こういったことに氣付くか氣がつかないでシンでしまうか こんな二者択一的な文明が築かれてきたのではなかろうか いろいろとクソミソなことを鋒鋩が騒ぎたててはいるが、誰が聞き役なのだろうか 実のところ、誰がひそやかな暮らしぶりを訴えるのだろうか? たまたま営業で寄った民家で、引きとめられて人生相談を請けてしまう その内容は深刻なものばかりだった がしかし、なぜ…? 私のようんばモノにこーいった深刻極まりのないことを玄関を開けてみたら、一秒の瞬間から訴えてこられるのだろうか? 私は聖徳太子の耳も持っていなければ、二宮尊徳の態度もない ただただ、右から左へと流れていくだけ どーなるものでもないし、どーしよーもない そーいった話が右往左往している 家族にも話してないとか、妻には話せないとか、ママには言いたくないとか… 山のように積み重なり続ける‘訴え’の地層化 ここ50年足らずで高く聳え立つ山脈は縮んできたが、人々の混沌とした‘シニタイ病’のような‘訴え’が積み重なり続けていた 誰も聴かない ‘知るかっ’といった態度を主張し、横柄にあくまでも個人的に基づいた極めて利己的な‘自己主張’をオープンにディファインする しかも、その主張は何にも基づいてはいない、根拠がなく、痺れの切れる、子孫を脅かす、自然界の破滅をも齎すような… それが正しいという 手を叩いて賛成する 賛成は大多数である 多数派の軍指令のもとにひれ伏すしかない いわゆる‘むし化’しかも、顕著なそれである いまを大切にすることは貴重なことである 勿論持続性も大切かもしれない ただわれわれ、〝ヒューマンフォーミュラ〟におけるキーワードには、左の文字は見当たらないだろう それは、あくまでも、むしより人間だし、いまよりむかしに学ぶし、持続より循環を選ぶからだ 比重をどこに置くのかとか、何をどーというものは、個人的にあっても、そんなもんは一過性の感情みたいなものだし、それを話題にするなんていうこと事態が極めて取るに足らないことのナニモノでもない 前置きが長すぎたので、行を変えます
 あまりにも一極集中した人口をどうバランス良く地方へと配分させるのかというやつが、今後の極めて重大なプロセスでもあるのかもしれない 誰からそーいった移動は始まるのかだとか、もう始まっている 知らないうちにそーなっていく 自己実現だけでは、目標が足りなかったのかもしれない そーいって空虚になって、また地元にUターンしてくる そんなことの繰り返しみたいな氣もする ただこういうのは、氣がついたからという意味であって、一極集中型ライフプランだった人生の折り返しをするという判断が適当なのかもしれない 先日、新宿御苑の中を散策させて頂いたところ、その後山の手線に乗車したら、真新しい制服姿の小学生が、一人で乗り込んできた この小学生らは、きっと、この辺りには生活の居なんかは求めないだろうなと…、もう姿を観ただけで、将来像まで観えてきた ただ日本かどこかは想像に絶し難かった あまりにも野蛮化の加速する現状が、この教育の貧困国に課せられた罪深い十字架にも観て取れる 犯罪の起こる主因が観えても、水際でなんとか出来たに違いなく感じさせて頂く なぜか… それはやはり、その人間が触れ合ってきた人々から成るのではないのだろうか そして、それは“人為”そのもの だとしたら、われわれは、この目の前の人間にどー接していくのだろう それはほんの一瞬のこと…のようだけど 蓮華合掌   


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2009年05月22日

風 

 まぁね、やる氣がないんならやんなきゃいいわけですから…投げやりな態度ととって頂けるかもしれませんが、ここでこーして打ってることってには、もう今じゃないんですよね 刻々と過ぎて往く時間軸のことであって、あぁ、昔そんな風なことが在ったよね~あんときは、誰も協力してくんなかったよねだとか、自分の態度のでかさ比べをしてたよね というやつが残っただけで、どーということもなくなってしまった 第一、発展途上国の制度とこの御国のかたちと、どこが違うのかとというのがある 一部の人間は、三権分立さんけんぶんりつサンケンブンリツと叫んでたって、周囲の人間は、一権ずつの分業になってしまってるわけで、その前後左右だとかや、繋がりは毛頭考えないし、何も繋がってることを意識しないで、個々の独立を奨励しているだけとしか思えない 広大な敷地内に血筋系統だった二世帯だとか三世帯住宅の塔を建立し、そこでやっと独立しただとか、独立させてやったといった証になってしまっているにすぎない 私なんかは、この独立宣言に対抗し、古民家に籠城していたこともあったが、その顛末は見事に破壊させられたのでもある そして、なぜそんなことを感じていたのかと言えばだっ、それはビジネスとかそーいったほっつき歩いている時間棒の方が長かったので、ただそこに在るといった場所には、そもそもまったくのところ架空と化されていたからでもある つまり、外に働きに往っている時間軸が極めて多くを占めているわけであるし、またその移動時間も長きに及ぶ このような言わずと知れた理不尽極まりなく、エネルギー浪費のようなどー観ても観なくても、あってもなくても済みそうな時間軸に大量の時間を浪費染みての吸収せざるを得ない こんなにも文明が進んでいるというのにこのザマである 私が以前から取り組んでいた地域の課題だとか何だとかかんだとか言った類は、そこに住んでいる人が決めることだというのを認識していた 極端に言えばだが、東山の保全などは、必ずそこの市長なりが率先して藪を片づけたり、ナイフを使ったり鉈で作業したり、早朝住民の誰よりも早く起きてこの仕事をすることが、そこの市長の唯一課せられた仕事であって、ソファーのような所にふんぞり返って青っチロい宇宙人風な人でなしではないのは、紛れのない事実だった そーいった学習会を積み重ねてきていた しかし、その先達も寿命がきて逝ってしまった 霊魂は死んでないと往っても、私だけが観えていても、他の誰も観ないし、判断ができない だから、霊魂なんかない 実際在ってもない いろいろと無念だったに違いないことを感じている またこーいった事柄に触れるだけで、悔し涙が頬を伝う 別に自分のことではないし、こんなことを張り裂けそーな思いでいるっていう時点でもう、バカ扱いだっていうのは勿論知っているし、いつだってそーだった ただどっちがバカなのかは…? そうとー疑問だったことも確かだった 兎に角、もうこの打ってる瞬間ていうのは、課題が課題ではないような氣もしてしまう 過ぎ去ったものなのであり、もう取り返しがつかなかった ただそーなってしまった そして、今日も風当たりが強さを一層増してきている 逆風には従えというものだろうという流れでもある 向かい風も経験値のうちのただ一瞬にすぎないような氣もする 今年は石垣イチゴが毎日収穫できる グミも実がついてきた 枇杷も青くなってきた 花ばっか咲いて実が出来ないっていう年もあったが、今年は花も咲いた実もついた そして、コットンの発芽も確認されてきた 一部の種子は、逆さまになってしまい、根元が天を仰いで干からびて発芽してきたものもあったので、憐れんでいたりもした まるで、発芽とシンクロナイズドスイミングをかぶらせたようでもあった 芽の双葉は何やらもじゃもじゃとしてくしゃくしゃっとなってギャザーが入っている まだ開かずに手を合わせて天を向いている こーいった過程といったものも実際に観た方が感動的なのかもしれないし、こーいったシネマが干からびた人間の気持ちに潤いを与えるのかもしれません 蓮華合掌   


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2009年05月18日

immigrant

住宅困窮者自身からの提起、その後:

沿革:
2000.01 y2k問題は、何事もなくクリアし過ぎていってしまいどーってこと無い日が続く
2000.05 知人の在日外国人の仕事量が減ってきたといった報告があった(気のせいかもねといったいい加減な対応をしてしまった)残業のことだと思う
2000.12 障がい児者・在日外国人等のためのケアハウスに関しての会合を持つ
2001.01 ●●地籍ブラジル民族レストラン“ベンブラジル”での生活者相談開始
2002.08 日系ブラジル新聞報道機関への困窮発信 当時の県営住宅並びに町営住宅に住宅困窮者のためのコミュニティケアとした場に再利用できないものかを××県住宅供給公社に打診(当時の回答等の原本担当者等詳細はコチラ)
2003.03 ××町政へ打診したが、何も回答は得られず、難色を示された
2004. 一部の県営住宅が取り壊された、日系人等含め、非常に悲しい思いをし、ショーゲキが走る(何月に取り壊されてのか記憶があいまいになってしまっている)
2005.07 在日外国人等の生活状況は更に悪化の一途であったが、鋒鋩に相談してはみたが、どこへ行っても‘わからない、知らない、難しい’といった調子であったし、生活のQOLや在日外国人の教育等の相談窓口が業務時間や担当者が一人とかいった狭いものであったために解決困難にさせていた

問題点が理解できないのが問題となってしまっている:
1.人種の違いや様々な差別的な待遇から働く意欲や地域からの孤立を余儀なくさせられた上に何らの対策という対策も配慮しないために更に荒み切った生活に陥っていくばかりだった Japanese takes no heed of what others say.
2.住宅確保に関してまったくのところ闇に包まれていて安心が確保されないとか、その住宅費を支払うための職場を確保しなければならないために日本国内を行ったり来たりしなければ立ち行かなくなって、自治内では最低線の水準で、ほぼ難民状態で暮らすことを余儀なくさせられてしまっている
3.信頼できる方の恩恵のみでは限界域に達してきている
4.中には、心的外傷後ストレス障害といったライフワークを持ち合わせているが、本人には病識がなく一口にくくっても、うつ病・性的虐待・DV・差別等々の重度重複障害を併合し抱えているためにどこにどー相談をし、絡まりあった複雑懐疑な詳細の解決を見出すかは、すべてが自己責任に押し付けられてしまっている (本人が好き好んでこのような状況に遭遇させられた訳ではないにも係わらずに)
5.当事者が、口々に発するのは、現状の住居の地籍近くが殺戮の遇った場である拷問を強いられているためにその被害を口にすることでの報復やお礼参りを恐れて躊躇してしまっていてガチガチにフリーズしている
6.国境を越えてネットワークを整備する必要に迫られている(裁判員制度は、これらにとってはモメンタムだといえよう!)
7.上記並びに国境を越えて続々と日本を目指してこられる働く意欲のある方々には、飽くなき学習意欲の継続性が重要であり、これらの移民側が、いったい何を望み、どんなライフスタイルを目指され、何に時間を傾けたいと考えているのかといった揺らぎのない指針が尚一層求められるであろう (今後、日系人の多死社会による孫世代の大量な介護を必要とされる多文化といった排除されがちな地域社会の孤独死における深刻な課題等、目白押しであることは考えに及ばないはずでもある)

 日系人の死に際がどんな状況下におかれているのか 多くの人間が存在するところではまだ、それらは何か仕組みが当然、組まれてはいるのかもしれない ただ地方、特に閉鎖的なカースト制度が歴然として布かれてしまっている現地ではどうだろう? 行き倒れに近いし、その後も誰にも後始末もされないまま、死んだ場所で、樹木のように身動きがとれないまま、そこで朽ちていくといった状況ではないか そこには干乾びた人間関係の成れの果てが顕著に観てとれるのである ただ骨が残るという意味においては、このような最後は故人が生き抜いた証しとでもいうものが残るので、さほど氣にはしなくてもいいのであろう 残されたものがどのような遺志を継ぐのであろうとも、いま生きている人間の行動次第ではないのだろうか 感情は仕方ないのである 異常感情をどーのこーのと批判はできない その怒りに満ちた感情をどういった行動で顕すかが、いい大人の考えなくてはならない難関であることは間違いないのでもある These tires endure for several years.
社会倫理の視点から見れば、報恩施についても崇高なる評価と、財モノを用いなくも行なえる布施として、眼施・和顔悦色施・言辞施・身施・心施・床座施・房舎施の無財の七施を実践することで、陀羅尼経をあげるように貪らない心を呼びさますのだとも教えられてきた また、ビジネス面においても、“三輪清浄”が、布施によって貪りの心を離れつつ彼岸に達するといった大乗仏教の教えである布施波羅蜜を実践していこう 当方では、早4年目となりましたが、房舎施を有難く、御布施させて頂いております お近くにお立ち寄りの際にはコメント等に、ご連絡をお願い致します 蓮華合掌  


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2009年05月16日

abject

“狩野芳崖の悲母観音”が描かれた時代的な背景や、こういった緻密な描写というか、こういったものは何処かでも観た風景でもあった どーしてこういうイメージ画が描けるのだろうかということに感嘆としたりした しゃぼん玉のような中に赤ん坊がその観音さんの眼差しに何かを示しているような清浄なこの二者の瞳という氣がしてならない これが、われわれドロップアウトした少数精鋭派の目指しているものは、事実上、施者の三つの縁が、この赤ちゃんと悲母観音の無償の愛ともとれるお互い様を映し出したいと考えているわけだし、そういうモノを創り上げていこうというのみでもあります どうしても、二者という存在では、証明をする必要に迫られてしまうし、ゲームは二人からというルールの前衛のようなものまでがあった これは何か違うような氣がしてしまう やはり、三人からといったルールを定着させる なぜか それは追々と説明をつけてはいきたいのではありますが、日本人の文化としての三すくみを辿ると、その関係がよくわかるようにも感じられてなりません こういったことは、どこかの新聞の社説にもございましたが、兼ねてからわれわれが願うのは、何かの利害関係がまだ発生しないという観点からの出発でした そりゃー何か善い事をやっていくというんだから、仲間を作った方がいいに決まっている だけど、そういった際にどーしたらその場が生まれるかっていうのを考えてみたら、何もないとかどこかの地位から抜け出しているだとか、今現時点で何処かに所属し何かを命じられているようなビジネスでは、身体を縄でグルグル巻きにされた上にまだ頭や足の裏や側面から圧縮されてしまって呼吸困難な空間に晒されているというものであり、そのしがらみからは逃れられない かといって、その柵から自由になったりすることは、非常に勇氣がいるだとか、労力が掛かるとか、法律的な縛りがあって、どーにもこーにも自由ではない 自由という言葉が齎すものが、自由がゆえに恐怖に感じている人々が大勢いる その前衛に鎮座するのが、何か日本の教育界っていう感じがしてしまう じゃなくて、そう なぜ、そんなことを感じるのかといえば、あまりにも知識一点バリのバリバリの所謂、頭脳集団を生産しはしたけど、そこにはある意味、日本はみせかけの知識集団をいっぱい産み出しはしたので、これはある意味においては成功だったのであろう がしかし、こういった頭脳は、持っているというただこういった部分がジャマになってしまう場合が多くなって悩んでいるという変な循環になってしまっていると感じる 頭脳は持っていても、気持ちが追いついてこないといった状況なのかもしれない 例えば、自然界では、石について、辞書には、石というのは冷たいとか、そういった冷却として冷え冷えとしたことは書いてあるわけですから頭脳ではお利口さんになってれば分かる でも、石のみんながみんないつも冷たいかっていえば、それは場所によっても違うし、そこに出かけてみて初めて、冷たいのかそーじゃないのかとかが分かるというものだということなんだなと・・・ こういうのを人間に置き換えてもそーなんです わたしなんかは、どーも、ある集団からは、「あんな●●校のPTA会長やってんだって、ふふふっ、★★じゃないの」と陰口を叩かれてしまっている これは集団とか全体主義に染まっているほぼ90%の地元人間もっとかもしれない99%かもしれない そー言われたりどこかの●ち●ん●るとかいうやつに平然と発言は繰り返されている そんなこともう50年くらい変わってないし、知っているけど、誰もそれが重大な国際法を無視したジェノサイドに加担しているといったことを意識していないし、意識せずに済まされた地域が出来上がってしまっている これはもうわれわれドロッピングアウトしてしまった少数精鋭派にとってはゲームオーバーのなにものでもない そういった小ざかしい変な意味でのインドのカースト制度みたいになってしまっている そこで競争社会に打ちのめされてそこでの居場所をあてにしていた友達とか家族だとか親戚だとか、そういった人々にさえも、刃向かえないのが現状である もうそーいったカースト制度さながらの枠が決定されてしまって、そこに収まったやつらには、低所得や低賃金や非常に劣悪な就職しか見当たらないのである 誰も努力だとか何かの能力だとか成果だとかを一番身近な親でさえ認めてはくれない 認めないどころかそういったジレンマを暴行や虐待といった態度で、さらに脆弱と思われる誰か、例えば個人的に筆者だとか そういうやつらに もうさんざんにぶちのめす ぶちのめされている本人なんか、何でそーいった状況なのかっていうのはまったくのところ、把握できてないし、そんなヒマなんかない そーいう最も、先ほどのしゃぼん玉の中に入っている赤ちゃんみたいな人間に対する“態度”が、人道を標榜させている人間に限って、貧困そのものなのである 貧困っていうのはね、何も銭かねが、家中かき集めたって一円しか出てこなかった人間( *極端な事例ですんで決してマネはしないでください)だとは限らない ほんとうの貧困っていうのは、すぐに潰されて跡形もなくなるってわかりきってる“しゃぼん玉”の中に包まれてどーなるのかわからない赤ん坊を一捻りでお陀仏にさせている‘力’が漲った全体主義とした悪魔さながらのなにものでもない これだけははっきりとしているのは確かであり、しかもそーいったことには、何も意識なく向かってきた 法施を学んでいない乞食集団とも似た、疚しく野蛮で無智で、迷信をただひたすらに信奉する ありのままありのままっていう 信頼できるつながりっていったいどういうものなのかなって? そんなのは検索してたってわかんないし、すぐにつながりたいっていってて、違う言語圏の人々とやりとりが完璧にこなせるっていう技術的な手段を持ち得ない 理不尽なんだよね こういったことで、どんなにか心の闇を抱えている人間らしい人々が、抑圧され続けているのかってことに そんなのは、ある人がどういった画を観ているかだとか、どういった本を観ているかだとか、どういったことを伝えようとしているかで、想像つくし、どういったことをしゃべっているかとで判断が容易にできてしまう だけど、今まではこーだったけど、やっぱこーの方がいいなとか、そんな小さなことから氣付いてくることで、場が生まれてくるのかもしれないと切実に感じてさえいます 蓮華合掌  


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2009年05月14日

light and shade

世の中の動きに時々ついて行きそびれる ついては行けないと言った方が正解だった 周りを見渡してみても誰もいなかったことの方が多かった 視界では確認が困難だったが、そこには移りゆく自然界がただあった  私と同じ病名の人々が早々といのちを誰からも拾ってはもらえずにバタバタと逝ってしまうことに本当に感極まり難い空間を観てしまうのは私だけであろうか もし日本の教育界が、出来なければ宗教界が、出来なければ個々の家庭が、男の子、殊に長男に背負わせるレッテルみたいなナンバリングを外せたら、どんなに空気がうまくなるかと感じてしまう そーいえば、昨日だって大型スーパーでの食料品売り場で、まだ5歳児ほどの男の子がママにきつく、大きな張り裂けんばかりの声で叱られて叩きのめされていた所に遭遇してしまった 男の子は「きゅうりを買わなきゃ」と言ってきゅうりの置いてあるところから離れずにいた ところが、ママは「きゅうりなんか誰が食うんだ」とかって、魚売り場から大声でイカってしまっていた 怒り狂いながら、きゅうりの場所まで駆け足で向かって行き、その男の子を頭を小突いて首を引きずりまわすようにして、私の眼前から遠のいて行った 震撼とした その後も、この親子が現れるのは、私のすぐ斜め横にぴったりといるので、会話が聞こえる 小さな声での会話ではなく、もう5m先でも聴こえるような声なのに隣にいる どうも、この男の子は上に姉のいるような長男らしかった 私は別に聴くつもりではなかったのだが隣にいたし、聴こえてきてしまった 所有物の何物でもなかった 肉や加工食品やジャンクフードに入り浸って、その中でさえも厳選しているようだった 厳選してもしなくても同じような氣がするのだが、そーしていた この時には、もう眼前からがかなり遠ざかっていた 考察をするわけではないが、どうもりんご★家のようだった しかしそーいった詮索はしない なぜそんなにも長男を叱り飛ばし、路線価に乗せたがるのか? ただそこら辺を感じる まだ幼児だとか児童だとか、そーいった時分には特段の意識はなにのかもしれない しかしながら、このような悪しきマザコンの醜態は社会人となってからその人格形成の歪みが噴出してしまうに過ぎない このようなことは蔑ろにされている 一部の人々しかわかっていない 全体の中に小さくなって埋もれているだけだ 中国の人が劣悪な住居に住まわされ、低賃金の御犬さまや御豚さまよりもヒドイ扱いをされているのと同じようでもある 私はこの眼で観てきてしまった 観ようとしたのではなかったが、そこにはそーいった映像が広がってしまっていたのである 本末転倒とはまさしくこのような映像でもあった 日本人のやりたがらない仕事であったりレイバーさながらのワークをとても喜んで、誰にも知られないように楽しくやっている どうしてこのような崇高な人間になり得るのか… 驚嘆せざるを得ないのである それも、在る日には、自分の方がどー考えても給料も、なにもかもが低い貧困と呼ばれている環境でありながら、もっと多くの賃金労働者の日本人に施すのである 何を施すのか ありとあらゆることを施すのである もうこういった進化の世界には、慈しみしか生まれてはこないだろう 蓮華合掌
  


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2009年05月14日

L D

幼いカラスが事故に巻き込まれ、その被写体が平らになってしまった あまりにもギャーギャーと泣きわめく親からす達の深刻な叫びに動揺を隠せずにいた それらは、あのLethal doseが関連しているとしか思われない ペシャンコにお陀仏化された幼いカラスは、毒性に脳が身体がマヒしていたのだろうと…思われてならない でなければなぜ、あんな軽トラの下でウロウロとしているなんていうすばしっこいトリの芸当ではなかろうに 親ガラスは、その最後を信じたくなくて、ギャーギャーと鳴き喚き散し、正気の沙汰ではなかった 凄まじい勢いで、ひき殺したジジめがけて、飛びかかってきそうな感触すらあった もうあの幼いカラスは、この世にはいない カラスが死んだら四次元の世界に逝くらしいから、カラスの遺体は観たことがないんだよって、何かのセミナーで言ってたけど、河原に叩きつけられてフワフワとした幼い毛で覆われ、仰向けで口から、首から流血を観た 目玉に至っては潰されてその外枠が確認できるのみになってしまった 誰もいなくなってから弔いの準備と悼みの線香に火を燈した “幼くして逝ったカラスよ、どうか恨まないでおくれ この全体主義が齎したこの画一化された収益重視の日本での教育の劣悪なる質だった 幼いカラスには何ら関係のなかったことであり、ほんとうに切なく、かけがえのない子供を失った親がらすよ、どうか仕返しをするとは考えないでください、ほんとうにお悔やみ申し上げます” 悔やんでも悔やんでも悔やみきれぬ現実を受け入れ、‘赦し’とはいったい何であるのか? 何がいったい‘赦し’なのであるのか…見極めたく感じさせて頂く 私自身の御身で恐縮ではあるのだが、やはり歯を折られたなどというのは間違っても氣がつかなかった記憶でさえあり、あの終★処★場でのジェノサイドとの因果関係を問われることは先ずなかったし、誰一人としてこの真相究明には加担したくなかったのである ですから、国際法にての然るべき対応を加味しつつ、準備をしなければならないのでもある 真実はどこにあったのだろうか…? いつまでも野晒のままにしておくことは、今後のかけがえのない見ず知らずの生贄を遍く増加させてしまうに過ぎず、誰かが強い意志を持ちたい これだけを今は語ろう そして、真相が明らかにされつつある時に どんなにか不屈のその中におられる友なき友の声なき声がゾロゾロと噴出してくるか あまりにも残酷過ぎた そして、あまりにも長きに亘ってしまった これからだってもっと長い時間を弔いに費やすことにもなる だから、精神の深みのみで活動をしていくよりほかには何もない あるがままといった意味は、現行の体制に付き従うだけといったことになりがちである というよりも、そうであった これが自然の流れというような本邦のさびしい捉え方の顛末だ 中国的思考では、老子ならびに荘子が聖人として、経世の変革を促した 陸続きではないがゆえに集団やまとまりやその中での‘竹槍で一突きだっ’といったあまりにも直ぐに結果を出させようとする野蛮な国民性が教育の賜物として浮き彫りになっていないか まだどこかの国家と陸続きであった方がまだ学ぶことが多かったのかもしれないが、そーいったことはタブー視され、また現行の体制に順応させるのみを推し進めていたのみにすぎない 結果的には、あるがままの状況に単に身を任せただけの日本人特有の自然観がそもそもそういったものであったのだ 出典:人生と仏教 伝統の再発見より 蓮華合掌  


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2009年05月13日

命の水

どこからどう話そう、そうだ、昨日は、不思議なネパールのバザールに吸い寄せられていたのだ そこでいい氣になったのがそもそもの誤りだったのかもしれない ‘生霊’が憑いているといったことを判断され、“マニボウ”を欲したが故に‘金縛りに遇ってますか?’とも云われた 実は“命の水”について地域文化の掘り起こしを独自にしていて、その中で、大宮熱田神宮へと誘われたのだ そこでは、人っ子一人いなかった ただ鳥が鳴いていた ビデオカメラをまわし続けて、なぜこの場所が、水の神様なのか・・・?といった意味を捉えてもいた 黒沢というものにも関係し得るのではあるが、埼玉から長野へと移行したのはどういった意味があったのか・・・? そのあたりが解明はできない ただ寂れていた 長野県では樹齢にしても何にしても記録的な杉が存在している そして、杉と松が合体したりして、所謂ベトちゃんドクちゃん状態だった それをなぜか縁結びのヨロシク、その樹木の股のような分かれ目には、50円玉が置き去りにされてもいた 50の縁に肖りたいとの切実な願いでも有らせられたようだ その撮影を終えると、確かにこのは入り口付近は、恐らく私が事業を起こす場所なのだなと、壮大なスケールを掲げて脳裏に焼きついたりもさせていただいた 恐らくこういったオーガナイジング・アビリティは、整えられつつ在るのであろう そして、白檀のお香を焚き、身を清めつつ、今朝を迎えはさせていただいたのだが、一向に眠れないのであった 目が爛々とするばかりであった 目は起きていてしまうのだ どーにもこーにも、起きている 抑えようもないのだ そして、丑三つ時を過ぎた頃に 歯磨きをさせていただいた あまりにも眠気が来ないので、歯でも磨けばこの呪縛から逃れられるだろうにといった安易な気持ちでもあった しかし、明け方の五時を回ってしまっていた 氣がついた時には、もう・・・ 常にそーなんだ この朝、子ども達の弁当を忠実に作る 卵焼きだのサラダだの具沢山のスープだのといったようにいつものごとく、それらは何ら変わりない 弁当を作り終え、それぞれを送り出す そーいった決まりきった毎日の動く中で、なんと、継父が劇物毒物である除草剤をこの家の近辺に撒き散らした しかもその後、継母もスプレーに消毒薬の濃いい液体を撒き散らし始めたのである 私はもうどーすることも出来ず、成す術もなく平伏した蛙のような存在になり、事態を見据えた そして、継母は言う「もう二年足らずで寿命」というのを近所の老婆に語っているのであった 叱らば、この毒物のドクロマークが醸し出すオゾマシイ鼻がもぎ取られるような臭いの効能をどのように処分せしめるのであろう? もうこの課題に直面させて頂いて、40年も過ぎようとしてはいるのだが、一向に和解の兆しすら見え難い状況と化しているのも事実である そして、私は寝込んでいた 苦しみに耐え抜いてさえいた しかし、誰もこのようなジェノサイドに晒されているといった意識はない 寧ろジェノサイドは存在しないといった暴行を仄めかされてしまう 野蛮人の群れに在住し過ぎた境地に在住してしまう 稀にとか偶にといった、マクロの偶発的さながらの事態なのでもある カラスが勢い余ってびゃーびゃーと泣き喚いている 分かっている分かってはいるが、どーすることもできずにいる ただ毒薬の★ル★ランが、継父を洗脳させ、継父の寿命を減らすのには一役買ってもいるのであろう もうこのような囚われた境遇に存在するのには、歩度ほど懲りた この人類は何を問いたいのであろうか? 私には今現在さえ良ければいいといった頭にしか思えない しかし、この威圧的なジェノサイドでは、そーいった能書きは一切、通用しないのだ なぜここまで、統制させたがるのだろう…?意味がわからない 生態系が狂ったから、ウシやブタを飼い過ぎるから、蜜蜂が消えたとかって、数日前には言っていたのが、今日はもう日の出前から、殺虫剤をありったけ、この屋敷のまわりにどさまくと撒いておいて知らん顔だ もう朝から苦しくて苦しくて息をしない方がましだとさえ感じていたのに さらに追い打ちをかけるyぽうに継母は、霧吹きでその行為をマスクもせずに続けているのである 驚異の他になんといった表現のしたら良いのだろうか?この悪魔の仕業にどういった態度をとったらベストなのか…? 今のところは未解明鎖ながらでもある そーいえば、ワイナリーの見学をさせていただいた際にブドウの成長新着状況のログまでも教えて頂いた 白い土がブドウの成長には好影響を与えることや、薔薇を傍に植えるということで、害虫などのバロメータになりうるなどの詳細な説明をして頂いたりもした 今後のワインには少なからず期待ができそうだった 引き継ぐことの重要性も与えられたように感じさせても頂いた 明日はもう、継父母の撒いた殺虫剤は、その辺の野山に散らばっていってないのだろうか…? この無知の罪を被るのは、われわれ子孫の宿命なのであろうか…、ほんとにオゾマシイ現状である そして、ここまで画一的に統制され、半ば洗脳されてしまった継父母の憐れさを思えば、不憫でさえあり致し方ない このような教育の熟れの果てをどのように説明をつけるのか?私には今のところ、まったく分からずにいる このように汚染された土壌や大気の回復困難な道しるべをどうしたらいいのか…? 怒りはなく、淋しく情けなさとでいっぱいになってしまってもいる 野蛮人の国に拾われてしまったがゆえに… 蓮華合掌  


Posted by このは なさくや at 19:45Comments(0)ヒューマンフォーミュラ