2009年07月11日
普遍的な水
専門の医療機関から見放され、難民化してしまった人々、精神障害者といった“心の病”に関しての加療では、表面的な表情だとか、いつもニコニコしているだとか、恃み易いだとかいう様に事例がありますが、今まで精神科外来の治療を受けていた人だとか、現に外来受診している人、そして、今病院に入院している人、時々は病院から抜け出して行動が出来る人、殆どそーいった人々が吸い寄せられてしまったかのように集まってきたしまったというのも否めません これは自身にとっても大変な問題でした というのは、様々な医療機関或いは専門を標榜する相談に対する不信感が積もり、更には最も頼りにしていた医師からも見放されたのですから、、、(ほんとうに自分はビョー氣なんだろうか・・・?もし、ビョー氣とすれば、抗うつ薬を大量に飲んでいるだけでいいものだろうか・・・?或いは、カウンセリングに通っていて、『あぁそーですか、そーですか』とただただ聴いて貰っているんだけれども、それだけで果たしていいものなのだろうか・・・?)と、、、心理分析を詳細にテストさせられて、『貴女はこれこれこーだ』と分析されて、それで非常にキズついてしまった 新聞などの記事でも、書いてあることに惑わされたり、多くの人々が支持しているといった内容に対する不信感を持ってしまった それと同時に全体主義が齎す専門性が出した結果への大きな不安感もぬぐえなくなってしまった 勿論、全部が全部そーいった意地悪な対応というものではありませんが、中には知能的な段階には何らの教養はない人々の中では、蹲ってはいられるだとか、単に知らないといった人々の中ではどーにかやっていかれるのではないだろうかとか、その場凌ぎの出逢いで取り繕っていたり、恰も‘サンドウィッチマン’にでもならされたようにその板ばさみに喘いで、バランスをとることに始終追われてしまう 詰まるころ、専門の有能と云われている医師の元での治療を受けていて、それが逆に状況を悪化させてしまっているというか不信感を持ってしまって、もう医師の処へも行かない、他の人の話も聞かないといったカタチでのひきこもりとなってしまって、一歩も外に出られなくなりそーです 今引きこもって、ずっとインターネットをやったりして、なんとなく過ごして、人生の大半がもう経過だけしていってしまう、、、そんな魂を煩った人が、ごまんといるような中で、自分の考えを聴いてほしい、親にもわかってもらえない、勿論精神科の先生にもわかってもらえないし、友達にはいい様に何か利用されてしまうのではないかとかいった、解ってもらうどころの騒ぎではないということで、自分の気持ちを聴いて貰えるところをさがしてさがしてさがして、、、探し回って、ようやくブログでこーして書けるようになってきた よーやくたどり着いたという感じ ただこれが、誰が観たかとか観なかったかとは別としても、、、こういう所謂、身体は大人かもしれないけれど、中身は子どものまま成長が止まってしまっているといっても疑いの余地はない、こーして色々と、つまらないことかもしれないけれども、こーして綴っていて、綴れていて、、、これがどーして、精神病なのかなって・・・?自分でもいったい、自分はどこが精神を病んでいるのかなって・・・?どこが、うつ病なのかっていう風に自分自身では、どこも悪いという風には思えない ただ果たされてない出来事がネックになってしまって、それが滞留の主な原因となっているというのは、もう正当性のある理由だと感じます 小学校のときの登校拒否であるとか、拒食症だとか、げーげー吐くとか、不眠症とか、極端な冷え性だとか、腰痛、腹痛、、、様々なカタチで表現が主立ってきてしまう しかしながら、ワタシがいま、急にこれを読んでいてくださっておられるような方々と、例えばお会いしたとしても、どーってことなく表面上は、なんということもなく、そこらへんにどこにでもいる人に見えて、どこか氣が滅入っているだとかは感じられないし、寧ろゲラゲラ笑ったりなんかして、氣が狂ってるという風には思われないと、、、じゃあ、何が一体おかしいのかといえば、やはりこれは、こういう私自身の主体性であったり、大事に思っている気持ちをまったく理解できない‘地域社会やおとなの社会’というか、地域社会やおとなの決まりきった考え方、こーしたことが、寧ろ子供達自身を究極的な孤独に追いやっているということをただ知らないし、おとな側は学ばないということだけを痛切に考えさせられて悩んでしまっている ‘吃音’といったことに関しても、‘吃音’が出るときは、大概は、聴いてくれるおとなが誰も存在しないし、ただそーですかそーですかって、聴いてだけいて、釈迦に説法的なものだというのとは違う ‘吃音’の根っこというのは深いです ‘吃音’とかになるなって思うのに話をしろっていうのは、屈辱のナニモノでもないし、‘吃音’でも喋り通して、相手の態度がそのうち、ニヤニヤしてくると、やっぱりなという風に察知してしまう 細かい取り越し苦労のただその中で、繊細なところをどーにかしてうまく乗り切ろうとしてしまう 危険な人々が近寄ってきて、でも周りは、もっと危険な人々しかいない、そんな冷たい地域で、どーしたら生命力を取り戻せられるのか・・・? 全くの所、わかりません そーいった世代に埋もれながらやっていくという意味です ただ誰にも理解も支援も何のツテさえも微塵も与えられもせず、ただ与えるのみです いくら説明に回ったところで、何も通じません 通訳どころではありませんでした その人がいったいどーいった教育を受け、どーいった人と接してきたのか、、、ただそれだけでした 狭い地域内で、かたつむりのような行動をしているだけのおばあさん達に その行動様式をやめなさいと云っていてもムダだというものでしかない もしかしたら、ちょっとは違うことを考えるかもしれません ですが、昔教員だったとか、昔は●▼■だったといった方々だとか言う身分的補償がある方と云うのは、まったくのところ、頭っから押さえつけようとするキョウイクを相変わらずやろうとしている 虫けらのように他人を従わせていた過去の勲章が存在しているので、シぬ間際まで、そーいった虫けら同然にワタシのような存在をコキ使い、特に何らの意味も感じないし、感じていないし、私が今どーいった状態なのかの詳細を云うと、お気の毒にといった調子で、自分らの達成させたい意見を更に追加までさせるのである 意味不明である 法治国家と云う言葉が、放置国家さながらに思えてきたりもする 何しろロクな●▼■士が近くでは探せない そーいったことを云うと危険かもしれないが、敢ていえば、法▼ラ▼なんかは、何度も相談に出かけていったが、あるセンセイは、『人格なんか弁護に関係ない』とか云っていた あるセンセイは、『リコンの問題かかえてる他の女いたら、紹介しろよ』だとか、、、馬鹿にしるのもいい加減にしろっていう感じだった だから、、、いつまでたってもどーにもならないのかなって、センセイが算術ばかりを主張できる地域、これが言いたくはないが、現実でもある センセイのご自宅を拝見させてもらうテレビでもやれば、よくわかる どこかのコーチョーだったとか、キョートーだとかっていう方々のお住まい=ゴーテーに ワタシは幾度お邪魔をし、そのたびに身に余るような接待をその子女や奥方方にお受けしたが、一向に何らの悩みの解決に繋がらなかった 繋がらなかったし、こんなセンセー方の暮らしをトモダチのホームレスや難民が観たら、いったいどーなるんだろ?とか、果てしなく田舎の高い山々へ逃れるのが正解なのだろうか、その快適なクラシを維持させる今だけのためには・・・そんな氣もしないではない 何か専門性というものが、地域とは掛け離れてしまって、隣とは掛け離れてしまって、周りがどーなっているのかも、まったく氣がつかなくなってしまっているのではないのだろうか?そんな氣さえしてきてしまう 今何をしなければならないのかだとか、やはりもう、自分だけのいまの守りにハイってしまうのみなのかもしれなかった 未だに何の不都合も何も解消もされない現実を観ると、尚一層、それどころではなく、悩みが降り積もるというよりも、川下の方で、流れが拡大されてしまうように 人々の不都合さが、怒り心頭となって表面化してくるだけとなってしまった 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at 10:01│Comments(0)
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