2009年07月28日

Cardinal

経理上の伝票を起こし、いかなる災害をも人間としての取引の対象とするのは、以前に確認した 以下は体験的な経験知なる事例であるが、これらの不当賃金未払い事件発生に関する、‘ほんと、惨めでやりきれなさすぎる思いのタケ’っていうヤツは図らずも山のようにやってくるといった調子だ 何故こうも大惨事は後を絶たないのだろうかという災害検証をしなければならなくなった その昔、世相事態が暗かった、正しく暗闇だった もうみんなが考えている何もかもが暗かったし、必然的に私はピエロ風なバカっ騒ぎを頻繁に繰り返したりもしていたのかもしれない ‘地下経済’に潜り込んでいるという怪しげな経済倫理がその辺に転がりこんでしまっていた そういったところに出入りしなければならなかった 屈託なく明るい感じに惨めさといったモノは微塵もなかった たまにフ~ッと、そういった四方山的な惨めな空気が通り抜けていくといった感じだったのかもしれない 惨めというよりは一種の寂しさというかちっぽけさかな・・・ そういったのを感じないように騒ぐ席に行っては思いっきり、そのお通夜のような場を盛り上げては、喜ばれていたような調子でさえあった だから、相乗効果かもしれなかった できれば汚いことや、辛辣なことは、早急に頭から消し去りたいというので、特に忙しくする もうやたら滅多と全くのところ、別の考えに没頭するというので埋め合わせをやっているといった感じですらあった 頑なな拒否と、また何かそれらの方向へと向かってしまわないような対策を考えることでの盾ならぬ武装化をやってるようなものかもしれない それじゃなければ、だんだんと身体が低温になってしまうのである さっきまでは冷凍だったようだったが、今は切り出されて間もない氷の彫刻の上に鎮座させられてしまっているような地獄 急に寒くなってくるときもある 何もしていないが、急に冷たくなってしまう 特に下半身だが、それらは自然治癒力を診る方には、内臓がよろしくないというのを診断され、半身浴だとかや、蒟蒻シップをやるだとか、鍼灸の先生を紹介するだとかいったモノとなってきた しかし、続けられないでいた いつもだったら何とかして治療しようとかするものなのだが、そういった一切に関しての不安が付き纏う 不安が不安を呼び込むような風でさえある 「どんなことが不安ですか」という宗教者 子どものことが一番に不安が積もり積もっている 一生、障害児の親というのをやらされなければならないという不安 仕事のことでの不安はもっと大きい、何か社会的な不都合が、なくならない不安というものに関しての憤りというのは強く感じられてしまう その中でのこの人権無視の今のこの地域社会をどうしたら、子ども達が、自分の長所というものをきちんと表現できるのかどうか、それが出来なければ、いつまでたっても、自己像というものが育まれてはいかない 善い自己像を持って生きている 社会的責任を果たしている目標足るおとながいるのかどうかというものは、一つのステイタスであって指標なのかもしれなくもない 周囲を見渡したときにそういった何らかの指針を話したくなるような目標とした人間というのは、どこにいるのだろうか・・・? これらの疑問におとなサイドが最も否定的なのでさえあった 人権という唯一の尊厳といった品位であるとか、これらの学習がないからに他ならない そういうのはもういいという もういいというのはどういった意味なのか? 或るご婦人は、「人権はもうみんなしっかり出来ている」という どういう風なのがきちんと出来ているのかという問には答えられないのだが、兎に角もううんざりするとだけ云う 相変わらず、子ども達の自己評価というのがない こういう長所が好きで、こういうところを褒めたいだとか、そういった自己認識が出来ていないように感じてしまう いつも相変わらず飛ばし飛ばしで来てしまっていた なんで、こういったものは繋げていくといった面倒な手作業を介されてしまうので、やりきれなさで一杯でもある ところで、今からざっと1●年前のことだろうか、、、そもそもあの忌わしい斎場が職場になる以前、何をいったい職業としていたかというのを回想してみると、確かあれは、フル回転営業の居酒屋駅前店とか、当時深夜の女性勤務が問われていたとも思った(平成9年男女雇用均等法改正)がそんな時期だった ほんとにその居酒屋って言うのは辛かった 何が辛かったかと云えば、夕方5時から朝5時という勤務体制にその多くはあった 普通のサラリーマンが帰宅してくるような時間帯の電車に乗り込んでの出勤である 昼夜逆転の感もする あれは季節的には、夏だったかで、しかもあの店は、新装開店というおめでたさの最中でもあった 出勤していくと、すぐに制服に着替え、ティッシュ配りに通りへと出て行く、ティッシュ配りのティッシュの在庫がないときに限って、みなさんと一緒に朝礼に出る 売上高だとか、入店客数だとか、何らかの諸注意だかなんだかを店長が何か論うようにブツブツ言っている みんなは、下を向くか、休めの姿勢になってダランとしているか、ヘアスタイルを整えようと前髪に手を持っていくだとか、黙っていた 店内のイメージであった和装の曲がただ静かに流れていた なぜここでこーしているのだろうか・・・よく分からなくなるときがあったし、前に働いていた職場の誰々さんの顔が浮かんでもきた (なぜ、以前の派遣での単純労働工場であった職場は辞めたんだろうか)そーいったヤツを振り返ると、何だか常に理不尽さが、実ってやってくるといった調子だ 何がいったい理不尽極まりないような状況であったのか? 首切りとかではなかったというのは分かっている 自己都合退職というのをやっている 何か自分が気にいらないことが突出してくる=必然的に辞職といった感もあった 次なんか何も決めてないし、適当でさえあった 何もかも灰色に見えていたし、何処かに頼ることも何も考えもしなかった 就職のことや職業のことや、職安にさえ、そういった家庭との絡みでの相談やカウンセリングといったものは一切なかった ただ自己解決に任せるというモノであって、何か話をしたところで、こういった生活圏内の悩みともつかないようなモノは何もどうにもならないだろうと感じていた 今よりももっと、無法地帯だった携帯電話や電話の怪しげなサイトというものが 蔓延っていたし、もうあれらの世界というヤツは、女というのは、何か商材とした武器といった感覚すらあったと思われて久しい そういう武器を突きつけられて困っていたのは、いつの時代でも弱者であった 気軽に騙されてしまうし、騙されていても気がつかないといった状況ですらあったといえる さて、当時東京から店長が短期間飛ばされてきていたというのもあって、何だか都市銀行の口座でも作った方がいいのかなって、●u●iB/Kの口座を開設した その口座を店長に給与振込届けとして申請した 「給料、入ってるよね」 私より少し遅く入社したJ子くんに店長が聴いていたのを小耳に挟んだ 「はいっ、入ってました、店長」 そういっていたというか、そういう会話らしかった その後、店長が急に東京へ舞い戻るっていうんで、私は、「店長、口座をここ来る前に確認してきたんですが、ほらっ、あそこのATMですよ、まだ入金ないんです、ほらっ、残高100円のまま」 通帳を見せて店長の忙しくウロウロとする隙に話しかけてみた 店長:「あっ、ごめんっまた出張から帰ってきたら確認するね」 そのまま、特急に乗って行ってしまって、5日ぶりに店に顔を出した 相変わらず、毎日飽きもせず、あのATMに通っていた私は、残高が100円のままになっていることに俄かに苛立ちを隠せずにいた 既に以前居住していたところの家賃やガス、水道、光熱費、電話料金といったものは滞納がその前から続いていた それもそのはずだった その一ヶ月前の分から、ここでのバイト代で工面させようと思っていたからである まぁ、まだ一ヶ月遅れだし、といった軽い気持ちもなくもなかったけど、それでも、もうここでは、一ヶ月と二週間目じゃんか といったやりきれなさがあった それと、J子の通帳を見せてもらえるチャンスがあって、そこには、3◎万円というバイト代が入金されていた 私には、いったい何が起きているのか、全くのところわからなかった ただ未だに支払われていないのにもかかわらずに働き続けているといった状況だった そりゃ、J子にも愚痴ったし、何かの間違いだとしか思えなかった 店長なんかは、来てもすぐに店の売り上げ金だけを夜間金庫に即入れてから、消えてしまう 私は足がガタガタ震えてきていた ‘ダマサレテいるのかな’という怯えに似た感情と、自分に対する落ち度を振り返ってみたりしていた ただ私って、調理場に入り込んでるけど、J子はレジ打ったりして、働いてるっていう証明みたいのがあるのかなって、、、ただそれだけの違い、タイムカードの打刻は間違いなく打たれていたし、無断欠勤なし 何か悪いことをしたのだろうか? してないよなぁ、寧ろ、みんなとも仲良くやってると思うし、盛り付けがトロイっていうのでもない だんだんこの店に関しての‘不信’が募っていった そして、あの見掛け倒しの店長の素振りだとかにも、私はバイト二ヶ月目になったときには、自らバイバイした そしてもう二度とこの店に足を踏み入れなかった その後も残高が100円になったままの通帳を何年か保持していたが、管理料の方が高くつくのか、銀行からの連絡で、その口座を閉鎖するに至った それからだいぶ経過した或る日、Webで、賃金支払い請求だとか使用者責任を問われていたあの怪しげな組織が争われている裁判の記事を見つけた 私のような労働者で溢れかえっていた 驚愕した そして、これは私ではないのだとも思ってしまった こうまでしても、生き延びるのかといった残忍さが、私自身にさえも、自責の念を責め立てるようだった そんなのは世の中、ごまんとある みんなそれでも生き延びているし、それでもそういったごまかしの店はなくならない 地方にいる私のような人間は、恐らく未だに泣き寝入りだろうな 私が泣き寝入りしているくらいだから、だからって何をどうしたらいいのかさえもわからなくなったし、近場の弁護は何もない ただJ子は今でもあそこで働いているのかなって思うくらいで、もういないだろうなっていうのも感じている ただその後も、前の会社の手当てもなかったし、なんちゃらで、惨めな思いはしていた だからって、見合いをさせられて・・・そういうのが、ツライ上に更に追い討ちをかけられてしまっているといった心情だった本当に辛かったと感じる 年齢制限というのではなく就職もなかった、全くないといった調子だった 今と同じくらいなかったかもしれない、必然的に盛り場のような仕事でやっていくしかないといったのも仕方なかったのかもしれなかった ただこうして盛り場のバイトに不審感を募らせてしまったのでXXX そんなこんなであったが、そこは二十代後半の若さで乗り切れっていったとこだったのかもしれない 若さって凄いことだったって、何だか今更ながらに驚いてしまう もうどうやってきたかってのが、よくわかんなくなっていたのは確かだ そんな調子でありながらも、MLMの仕事だとか、御法活動だとか、落ち着きのない日々が単に続くといったことになっていた 子どもらはいったい何をしていたのか?上は養護学校の寄宿舎で、下は地元の小学校に通いだした 安定しているといえば安定していたのかもしれない 寄宿舎は月曜日の朝、時間までに送迎し、金曜日の夕方迎えに行くし、医療機関を受診の際は、それに合せることだけ、そんな風に遣り繰りしていたのかもしれない なぜ、今こんなことを思い出さなければならないんだかというのは、よくわかってないし、こんなのを公にしてもどうなるというモノでもないのかもしれないが、ただ生活リズムと云うか、乱れっぱなしで、養護の児のお薬づくりが大変だった 今みたいに分包を薬局がやってくれなかった時代だったんで、寄宿舎で飲む一週間分とかを藁半紙を細かくしてカッターでカットしつつ、ピット糊で貼りあわせ、4種類くらいの朝昼夕に分けたものを作っていたのだから、それは緻密な無償労働だった あのお薬の分包をもうやらなくて済むようになったときの何だか空しさと云うかなんというか、感極まるものがあったりなんかした もうあの作業はしなくてよくなったといった感慨深さと、あの作業はいったい何だったのかといった、講釈が頭の中に過った クスリの種類も然ることながら、学校に当時、看護士などの手が全く入らなかった 今はどうなってるんだろうと思いますが、未だにそんなに体勢が変化しているとは言い難いだろうけど、クスリを自分で飲むことが困難な場合は、医療行為ということになっているわけだから、それっていうのは、必然的に医療行為が出来る人がいくら強制収容所であったにしろ、手厚いナースのケアが入って当然だったとはいえないだろうか ちょっと長くなりすぎましたが、肝心要のところかもしれない 一番働けるといった時期には、大した仕事に就けなかったといった 結果とすればそうなってしまっていたのでもある
忍耐強く最後までお読みくださいまして、誠に有難うございました
 蓮華合掌


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Posted by このは なさくや at 08:27│Comments(0)ヒューマンフォーミュラ
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