2009年08月03日

昔話のお相手

何かとてもではないが公には出来ない辱められる事態なんてのは秘密裏の内にそれら何らかの重大事項が解決させられてきた経緯が否めない それらが確かに昔からそんなふうなことは起きていた 少なくともちょっと小耳に挿んだとかいうのですらもでわあるが、こうした内容は、よく大学等での一コマでの設定で取り上げられたりして話題性を持たされたりしてもいた その後、また同じような問題が、別の場所で起きるのだが、また一からやり直しで、人間が単に入れ替わったか、それらの営みである筈の‘不都合や不安’といった精神的貧困が、その場では解決済みだとされてしまう 解決済みの結果を出されてしまう ということは、もう半永久的にはこの手の課題は、起きないというのを想定している筈でもありそうなのに、、でも…また違う場所で、同じようなことがあって大騒ぎに拍車がかかるようなものであって、結局はそんなので、可もなく不可もなく或いは、善悪の裁きもなく、感情論や組織論といった、一瞬の出来事とされる即行詩人的な裏技に時間を割いている これらの時間が占める割合を無駄と無理と無茶クチャとすると、人類は果てしなく、これらに時間を割いているかのようでもある 喜怒哀楽主義がそのナニモノでもなさそうではあるが、いつの時代にも、“笑うこと”は身体に良いとされた信仰をもたされてきた 笑うこと、泣くことで清々するような行動への準備の感情のようでもある 随って、それら笑うといった感情には、害がないし、寧ろ奨励するばかりである昨今だ 私はこれらに疑問を抱く者の中の一人になるかもしれない 激怒したり、楽をしたりという感情は有害性の迷信を強いられてもいる よく言われていることは、怒るとなんちゃらかんちゃらリンが体内から発せられて、身体を蝕むし、ラクしたいばっかりにや、楽しいことばかりしていたら身上を潰すといったモノまでもある 私も痛みという行動がどんなときに認知されて、すべての痛みをとろうということで、様々な痛みの苦悶を抱えておられる方々にお会いさせて頂ける機会があった 外傷や歯痛とか、、、とされた傍目から確認できるような観えている部分での痛みが、自身がそれらの肉が痛むといった感じはない、にも関わらず内面的な痛みとされている腰痛、頭痛、腹痛といった苦痛は分かったりする しかしながら、こうした苦痛というのは、個人差も然ることながら複雑化してもいる 決定打の原因因子というものがない あるとすれば、それら全体が責任であるにも関わらずに 全体の責任は何もないとされているのが、現実でさえある ここで叫んでみたのは、きっと様々なところでも叫ばれてしまっているんだとしか言いようもなくなってしまった 先月の月末に ダンナの給料が乏しくも出たということで、前抱っこ紐で吊り下げられた赤ちゃんのいる若くキレイナお母さんが、大きなカートにありったけの買い物をしていた 特に注意をして観ていたのではなかったが、このお母さんがキレイだったので、ちょっと見とれてしまったのですが、、、何か一週間分くらいの買い物をしていたのである そこにダンナさんの姿はなかったし、平日の真っ昼間ということもあって、もう食料のやまと化していたそのカートの中には、きちんとレジ袋は要りません表示をし、三つものトートバックをカートの上下に入れて、レジの方がそこへ会計済み食料を丁寧に入れていくといった様子だった 生後5~6ヶ月ばかりの赤ちゃんがムズがって、「ごめんごめん」とお母さんが赤ん坊の背中をさすりつつ、財布からお金を出していた こんな光景はいつも観る 観ている度に何かムダ・ムリ・ムチャな生活だなぁと感じていた 宅配便とかそういった繋がりの手が届かない人がいる 個配とかは高価で、一定の人々しか手にできないものとなっている情報網があるだけだ こんなことも感じ、やっぱり今日もスーパーの特売に出かけていく、ただこういうのが楽しみとする人々が大勢いるんだから、大型スーパーへと向かう 考えてみれば、この前の夕方、腰の曲がりが120度くらいになっている高齢者が一人で、お買い物カゴを腕に下げて、惣菜コーナーで品定めをしていた 継母が、私が家族と一緒のご飯をとらないといった悩みで悩んで悩んで、発作的に深夜、叫び声とともに嗚咽が始まった こうしたことはずっと以前から続いていて、そのたびに私は氣付いていたもののどうすることもできなかった がしかし、私がやさしい言葉をかけることでや、孫たちがやさしく接するということで、これらの継母の不眠対策には一定の効果がありそうだと感じ、今までの無視といった私の行動を懺悔させて頂くとともに翌日からは、行動は変えないが、感情はやさしくするということに徹し、孫らはもっとこれらの殺人鬼にやさしい言葉かけや、温かい態度といったものを 昨日まで以上にしましょうということで、行動も変えてみようといった努力をしようと試みてもいたりする 昨日は昨日で、友人とカフェ、…のつもりだったが、ハチャメチャな領主のもとで半ばレイバーになっている彼らは、ほとんど寝てもいないのにまた、そういった領主の気分次第なレイバーに就かされ続けた 私はいつも彼らに会う時には、コーヒーを飲む 彼らのその宗教性というか、“血の道”を感じることがある そのコーヒーは、どこの種類よりも私には飲みやすいし、なくてはならない水や空気のような存在なのかもしれない そしてまた、彼らも私と全くのところ同じ内容のことを言うのでもある 私には、祖国がない、しかしながら祖国なんかは、舞い落ちた種子みたいにではあるが、外来種という分類にさえも入らないのかも知れないのではあるが、それはそういうことでいいんだと思えるようになった 子どもの頃は、何も不思議ではなかった行事だとか、その他大勢の●▼■人と言い張っている友人には、私の訴えが空気のように透明だった 大なり小なり、ただ単に頼まれることは甚大に多かったし、頼まれはしたが私の注文は決して聴いてはくれなかった 心が通じないのかなって諦めてもいる とっくの昔からそうだった だけど、こういう内容はタブー視させられている ‘心が通い合わない’という昔話に付き合ってきただけだった そして今日は清々しい夏らしい夏、風もサラサラ吹いてくると、風鈴が幻想的な音色で耳を包む 蓮華合掌 

タグ :コーヒー

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Posted by このは なさくや at 14:10│Comments(0)ヒューマンフォーミュラ
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