2009年07月19日
poorness_mind
経済的貧困という課題の解決は容易に成され、もう既にうん十年とも経過しはしたが、相も変わらずにそれらの課題を会議にかけている人々が夥しくも存在しているのが確認できてしまう 価値観というか尺度というか無我の境地というか、精神的貧困といった課題は永久的な課題とされてきたようだ しかしながら、精神的貧困といったもので溢れかえってしまっているのが現状であれば、それらはいったいどーいった深みなのだろうか、、、哲学者などがよくこーした課題は半永久的な難題とし、未来永劫にさえも解決は困難であるというのに達せられていたが、果たしてそーなのだろうか? 精神的貧困課題というものが存在する土壌、まさしくこれらの蔓延る敵の土壌や水分を調べなければならないのかもしれない そういった専門家集団は、これら社会的集団のお悩みに対応する技術レヴェルを保持しているが、あまりにプロフェッショナル過ぎて、地域社会に対しての還元方法が結びつくノウハウを頓挫させてしまっているだけなのではないか 数年前に非常に枝っぷりの極度に曲がったブナの苗木をワザワザ植樹した これは自分かなって感じて、植木屋に行って、即この苗木に決めたのである 強烈に捻れたその枝が、今は全くどこも捻れてないのである 植樹してから今日まで、特に手間隙をかけて大事に育てて手をかけていたということはないし、たまに話しかけていただけだ そーいえば、おととしくらいにこのブナの樹は、枯葉を落さずにいただとか、どーも頑なに落葉しないので不思議に思ってもいたことさえあった いつの間にか、何をどーしたわけでもなかったが、捻れた幹がまっすぐになった ただ何故、ブナをワザワザ植樹したのかっていえば、その樹木の特性をこの地域社会へ還元できるのかなっていうのを思った どんぐりなんかも植えた もう巨大な実を山奥から拾ってきてどんぐり林になってしまうのじゃないかなって思うくらいにどんぐりがわぁーっとなって、ニョキニョキと伸びて来たしまったりもした その際に地元の新聞にどんぐり苗を無料提供というのを載せさせて戴いた その際に対応した記者なんかは、ちょっと躊躇っていたが、私はそーいったモノには動じなかった その際にかなりの地元の人から連絡があって、その乳児のようなどんぐりの苗を軽トラだのに積んで行って戴いたのであった 今頃あの苗木らは、葉を繁らせているのだろうか 例年のようにそのどんぐりの葉は、こがねなどに多少やられながらも、光合成をする まだ実が出来たことはないが、いずれ実もつくのかもしれない そんなことを思いながら、翻って“万民徳用”の章で、「売買をせん人は、先ず“得利”の増すべき心づかひを修行すべし」とある これらの意味するのは、商人として生きる場合は、正直の徳を尊び、それを身につけるという行動である 根性の捻くれたような態度が自然がただ癒されたかの如く、そうした影響が拡大されていく 封建社会もここまで急成長してくれたお蔭様で、倹約を美徳とする健全な精神性が国民に宿ったようだ それをいかに移民へのかかわり方とするのかといったアウトカーストへの“知足安分”といった普遍的な徳であるという 現在のような消費経済における徳は倹約することであって、それら分配過程では“布施”のナニモノでもなさそうだ 前々から考えていたモノの一つには、やはり律儀な商人の育成であり、それはスポーツ、特にであるが、バスケットボールチームをつくってトレーニングをすることなのだろう なぜこんなことを考えていたのかといえば、マックスウェーバーを読みすぎていたのかもしれないし、仏教における財と労働の価値といったことに関して、四六時中なにやら、頭を悩ますことに苛まれてしまっていたりもしたのであった そこでまた精神的貧困というものだけど、マザーテレサも何か、孤独というものを恐ろしい深みとさせていたようであるけども、そういうのは経済的貧困に晒されている人々の下における孤独とした表現なのであって、精神的貧困が孤独とは限らないといえる 人間なんか、まぁ双子とか生まれてくる場合もあるんだけど、結局自分一人で生まれてきて、一人で死んでいくという感じで、なんだか昔の‘一殺多生’さながらに正当化された、ある特定の個人を犠牲にさせておいて全体を生かす行動さながらが続くだけだ これらはどーも、誰とは言わないまでも、どこぞのじいさまが仏教は、国家の公益に有用なるものであらねばならぬとし、そのスローガン下で、日清日露戦争その他に積極的に協力を惜しまなかったのでさえあり、全体的にはどにもこーにも、本来の仏教精神の実践を支えているはずの無我や慈悲の教えが、資本主義の精神とは結ぶに及ばなかった歴史が存在したのだともいえる しかしながら、青銅期とは言わずとも、カタイといったおかたいものはいらないので、“近未来銅時代”とすれば、そういった文明は超越するのだろうといえる 公益の名の下に自己犠牲を強いての‘偽りの菩薩精神’といったヤツは第二次世界大戦が終わった途端に もはや死滅したはずだったわけである ところが、何かまたそーいったナショナリズムの雰囲気を感じさせてしまうのも否めない だから、何もしないでいるわけにはいかないと感じてしまう スリランカから大量に来訪してくる難民には、生産力の未発達、生産手段の未熟さの課題が根底にあり、もっと言えば、“法施”の重視所謂、分配の宗教的な意義づけなのではないか あまりにも難しく考えすぎるのは頭によくないので、ここらへんを持ちまして、またなんちゃらかんちゃらへとお出かけしてゆくのであった 蓮華合掌
Posted by このは なさくや at 11:25│Comments(0)
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