2009年07月14日
今、末法に値ひ、
かの道元らや、久しく各々が記す所によれば、文体は異なりつつも、変わらない本質的な‘終末’を予言するような記録が実にこの世を憂いでいるように感ずるところでもある先の今、末法に値ひ、にて始まる道元の記述によれば、全くの所何ら狂いもなく同じというものでもあった というよりも、合ってしまうのでもある 最低階級の奴隷にさえ入ることが許可されないアウトカーストといった身分の烙印を押された人々が、そのアウトサイダーに触れてしまったら、二進も三進もいかないとんでもない被害である穢れた存在の末を覚悟しなければならなかった それというのが、やはりこのわれわれ、ヒューマンフォーミュラが、本来志したシステムでもある まぁ実に時代は経過するだけだったが、編集のやりように縁る所の意義解釈は、ここまで進化してしまった 何がいったい、他の俗悪な人間が触れたからといって、そっち側が汚れるのだろーか・・・?これこそ、意味不明のナニモノでもない まさに民族・階級を超越した平等な人間性に立脚するのみ仏教哲学的な窮みさながらである 昨日なんかは、非常に疲れた 徹底して運転の舵をとったので、しかも7時間もぶっ通しで運転し続けてしまった 身体は小刻みに震えだしていて、またもやシの予感が過ぎったが、笹団子を食べたら正気になった こーした自己解決力というか、誰かに何かを負ぶさろうということは考えないという生き方に徹するものなのかもしれない 即ち“拒絶、しかも盲目的な拒否や偏見を超えた強烈なる拒絶”である 悩みの類でもあるのであろうが、蟻が天から降ってきた蟻は、考え込んだようにその小さな身体の節々を自身の四肢で触れている 植物同士なんかも接触するように狭い単位に植えられていたりなんかすると、必然的に相互の何処かしらの部位が激しく損傷してしまっているのでもある だから、、、有る程度の適度な間隔という“間”があってこそ、本来の姿でもあるし、行く行くは実に誰とも接触なんかはしなくても構わないのではないのかなってことも感じられてしまう となると、不都合なレイバーに携わっている人は、何かに身の振り方を考えなきゃなんないし、転職を繰り返すことにもなってしまうよね、きっと・・・大体がそんな浪費関連で何かを為そうというのは、霊と肉の争いを招いてしまっているのだともいえないだろうか ともすれば、以前からも考えていたのが、‘人間免許制度導入’なんかをやる子孫が出てくるのではないのかなっていう感じ 冗談じゃないかも、、、寧ろそーいったことでプレミアをつけてじゃないと、これからの世代が何か生き残っていかれなくなってしまう 幼いころから培われるべく精神性というものはいったい何なのであろうか? よくよくそーいった事物を考えさせられてもいた こども心がなくなる瞬間とはいったいどのあたりなのかって、、、そして、それらはどーいった観点で製造されるのだろう・・・? 生き残りを賭けた何か獲物を追い回すといった事象さながらでもある 結局は、免状だとかなんだとかかんだとかっていう物質的な制度とか、許可させるだとかいうのは、崩壊していってしまうのみなのだろうとしか、考えられないし、普遍的な人間性に対する開眼でしかない 何でも筒抜けのような具合に解ってしまう場合がテレパシーなのである テレパシーでの会話を楽しんでいると、それでもう十分に充足し、精神的な安定を約束させられてもしまう それほどにテレパシーの絶大なる抱擁性のような受け入れられている感覚でさえある よく恥の文化圏日本を知らし召させるご意見番は誠にして多なり、、、でもある おとといまでの何日間かは、食の試験的な人体実験をした所謂、コンビニやジャンクと呼ばれる食を通して、我が身はどーいったことになるのだろう・・・というものであった 昨日までの>文献を見ればそーいったものは一目瞭然とさえいえるのである いかに食が大事であり、いかにして食を粗末にさせることが恥か その点、他宗教特に カトリックやプロテスタント等では、ひとに知られなくても、犯した罪を僧或いは、神の御前において懺悔し祈りを捧げるのは、当然とする 反して日本人といわれているひとの多くには、誰にもしられていないのにわざわざその罪を告白するバカはいないという、悪い行動と云うものは、誰も観ていない所では、躊躇なく思い煩うことすらないという 義理とか人情とか、どーあっても、引き継がれてしまったとしかいいようもありません 先のアウトカーストへの待遇は、排他的のナニモノでもなく、それはごくごく近親者のみだけに親切心をといった号令がかけられているだけなのであり、その他カンケイナイと思われる人々に対しては、憎しみしかないのでさえある ここでわが国日本における自殺問題の特徴は、その当事者個人の大半が個人的な課題によるものとして扱われているように思われる これらの問題は、訴訟となり、当時の市当局並びに政府行政等の責任追求にまで発展し、恰も魔女狩り的様相を帯びてきたが、問題解決の本質を見失ってはならない これら難題解決の本質とは、この自殺発生の事実関係を 感情論や組織論に捕われずに明らかにさせることであって、何もスケープゴートを差し出すことではない 生存していると云うよりは、特に死にたくはないが殺されるのではないかといった生死への脅威の可能性があれば、それら被害者の迅速な救済、真相究明委員会の設置、政策決定プロセスのあり方、医事行政及びそれら組織のあり方、地域社会体制等について等の提起である とりわけ、情報の公開、政策決定のプロセスの改革及び第三者等の調査検討委員会による自殺問題の真相究明についての要望を傾聴することは重要である ただ単に嗤ってごまかす、今までのそれを何らかの酒の肴的に扱ってきたメディアは大いに反省すべき時期がやってきたともいえよう 蓮華合掌