2009年08月01日
いのちびろい
人生僅か30年だとか50年といった人類滅亡の危機や、自然の連続性がたびたびにして途絶えたらどうなるか?といった遇ってはならにような事態というか、空間というかに偶々にして在ったとした 古代の人類は、現代のような不自然さで汚染された人類の魂を切なく思うだろうか それとも、自然には逆らえないわけなので、実に哲学的な見解になるかもしれないが、精神世界での繋がりが急速に広まっていくのだろうか 自然とわかってくるだとか、成っていくといった現象というやつは、信頼性に長けているし、またそういうものは永く続くと考えられている ここで“律義な商人”というやつが出てくるのだが、おととい私は、個人的に在日外国人と、この辺では呼ばれている方々の集まるレストランへと出かけて行った そこで、様々な方々と懇談させて頂き、帰ろうとした際、二階から降りようとした 階段を上の3段目くらいから踏み外したというか、夏様ミュールのヒール幅の狭いサンダルだったことも加担し、履いていたレース様の網の目のような引っかかりにミュールのヒールが絡み付いてしまった ギョッとした 一世を風靡した蒲田行進曲の階段オチじゃぁあるまいしね、そこから転げ落っこちたのだ 途中で体勢を立ち直せるようにも出来そうだったが、書籍だらけの厚い辞書までもが入ったトートバックなんかを持っていたために及ばず終い、その重みもあっての‘見てくれの大惨事’となってしまった 居合わせたのは、店の奥さんと他二人、みんなの目の前でのサプライズだった 恐らくもう二度とこんなことは出来ないかもしれない… すぐに椅子に座って、私は兎に角、どーいうことになっても痛みを感じられないといった調子なので、痛いところはない、ただ、両腕、両足に擦り傷と、右手首を突いたのか、血が流れ落ちてくるように真赤だ しかしながら衝撃のサプライズは、居合わせた人々の丸で何か咄嗟に忍法が飛び出したかの如くに訓練された身のこなしだったという ただ本人は、そういったものは一切のところ、何ら思わないし、自然だった ただ呆気にとられていただけだ そして、その後(これが一っ番重要なんだけど)、店の奥さんの温かい介護が嬉しかった 身体を看て、傷が観られるところをすべて、清潔なタオルに氷を包み、ご自身の手が冷たさで真っ赤になっていたにも関わらずに介抱してくださった、さっき御目にかかった半ば通りすがり的な私人に対して、誠に在り難いことです 人の慈悲心に接したという場面でした 今朝は、“水の日”これらの記述は後にするとして、両腕なんかは階段落ちなどの行動は、何事もなかったかのような調子、スネ皮膚の特に左足と臀部に擦り傷が確認されているだけでしたが、相変わらず痛さといった感覚がマヒ そういう自然界の中にいるだけです 魅せられたっといったのは、ジュディーオングさんの歌ではないにしろ、車中泊を迫られている方々の生きざまには、胸を締め付けられるものがあります それでも、こういった生き方もあったのかというのには、もう感情を奪われてしまうようなサプライズがあります ただここで詳しいことは述べないにしても、自然ではない人類だからこそ、“自然から学ぶ”といったことが子ども自身の自己像を形成していう上でなくてはならない経験の一つだと思います ただ自然から学ぶということについても、今は夏休みで、ムシ籠と虫とり網を持ってそこら辺をうろついている子どもらをチラホラと見かけますが、物珍しさの延長での昆虫採集です ベランダにウジが這いまわっている なぜこんな尺熱の場に丸々と太ったウジが這いまわっているのだろうか?疑問は深まるばかり、金めのモノならぬ、肉めのモノが在るのだろうか…ベランダのウジやキッチンのウジは、ご主人さまでおわす奥方の‘肉’のムンムンとする毒々しさを醸し出すニオイに誘き寄せられているに違いない 奥方の出没する場には、大体ウジが出没しているからだ そこにはカマドウマの姿は確認されない ゲジゲジもいた ゴキブリは寝ている間、足もとに潜り込んで、‘肉’の甘い誘惑を避けられないようだった 友人が先日、大きな鯉を携帯電話の画面に映したヤツを見せてくれた :「どーしたの?」 友人:「釣りして、こう網かけてとりました」 :「こんなビックなのだったら、私だったら市場とかどっかで競売にかけるよ!」友人:「煮て食べました」:「そっかぁ、肉厚で美味しかった?」友人:「三日間食べ続けたよ」:「表彰もんだね、キミは、、、」そんな暮らしぶりにも拘わらず、ニコニコしていた彼は、「この前、●▼■人に‘オマエは、世の中が厳しいことを知っとるのか’と怒鳴られました しかし、今、衣食住の心配の何もない●▼■人からそう言われても…」:「対等じゃないし、フェアじゃないし、全部なくなっても何も知らないと思うよ、そういった●▼■人なんかね」こんな展開だった さて、本題の“いのちびろい”ですが、これは深海の懐に似た何かがあり、そのパワーだとかエネルギーが培われた瞬間に私たちは、いのちをあらゆる場面で失いも拾われもする 運命というよりは、自然の成り行きかもしれない 私は今、こうした経験に裏打ちされたヒューマンフォーミュラとしたパワーを少なからず感じずにはいられない 二重の虹が歓迎してくれてもいた 蓮華合掌
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