溢れる自然

このは なさくや

2009年07月13日 16:03

もとはと言えば、誰のナニモノでも借りものでもなかった‘私有財産的な価値観’に広く覆われてきた事に起因する重大な違法行為が罷り通ってきてしまった ただやってる本人さまにもまったくもって、それが善であるのか、はたまた悪なのかという判断すら説明がつかなくなってしまっているし、それって何が誰に対しての‘良きこと’なのであるのかだとか、寧ろそれが、果てしなく‘良きこと’に傾いて区分されてきたのだから、呆れるのを通り越さなければならなくなってしまっただけだ 通常に生活していて、こーいった‘決してあってはならないとんでもない’疚しい事態で覆い尽くされた日本の感じでさえある 夥しい恰も丸で何ら知らなかった処刑場に ただ連れられて来られた人々に対する屈辱と処刑は実行されてしまってまで…まだ、その実体なる観えている部位を‘従属させよう’っていう魂胆が見え隠れしてもいる 先進国に暮らしていながらにして貪りの局地の人間のような仮面を被った殺人鬼らは、なぜそーいった処刑を日常的に何らの考えも、意味すらも何もなく侵し、尚一層喜んでいられるというのだろうか…? 理解の出来ない烏合の衆らが、問い糺す「ムネ、掴まれたぐらいでジタバタするなっ!キスぐらいヤラサロよ、減るもんじゃねぇだろーっ!」中年以降の御婦人に最も支持されている左記のような態度、人格とか人権とか、人である前に良妻賢母である的な意見でさえある ただ単に支持だけであるなら、まだしもそれらを忠実に子孫が継承している 所謂‘魚のめ’ 通常、こーした目を表現すると、例えるなら死んだ人の目みたいなもう生きてないみたいな時に使用したりしまう この魚の目をした乳幼児の多さに度肝を抜かれたりします この先進国における魚様のとろりんとした目、目がうつろであったり、何を毎日、見せられたらこーした目付になれるのだろうかとさえ感じさせてしまう ただ似ている瞳を観た それはやはり、途上国だろうと発展途上国であろうと、‘世界中にある争い’のその間にあった ただ在ったという感じだ 魚の目が大勢がまさしく、極端で冷酷なる自己主張、自分側だけからの他人の感じ方を無視した殺人鬼の考え方でさえある こーいった御婦人やおじいさんら殺人鬼様に家畜化傾向をただ闇雲に行進するのみは誠にしかも確実に多くを占拠してしまってもいる もはや私の独自の市場暗渠調査包囲網では、ほとんどがそーだと言ったとしても過言ではないほどでさえある 即ち進行形、、それら殺人鬼認定の烙印を押すとか押さないといっただけならまだしも、その価値観で、人間を判断しているだけ、つまりこーだ、‘今、損か得かのどっちか’だけの感覚そのもの ただでさえ、暮らしには経済的や精神的や肉体的ゆとりは皆無だし、そもそも学ぶということが大のニガテ分野でもさえある ただただラクをして面白おかしくケタタマしくにこにこで暮らしたいだけ、「いいですね、軽くって」」と、、思います どこが溢れる自然なのかっていえば、全滅も自然だったというだけなのかもしれない そんなことばかり氣になりだしたら、とまらなくなってしまい…ヤダナ、、、蓮華合掌