〝暴走する文明〟

このは なさくや

2009年06月01日 13:18

(o_ _)oドテッとコケついでに(o_ _)o よくコケまくってることが多いのですが、〝暴走する文明〟を読まさせて頂きまして、これら地上の球のようなところにカロウジテ引っかかりを観付けつつ乗っかっているとですね、さまざまなことに遭遇するし、俄かそこらじゅうで起こっているのも、まっ必然的な受験対策みたいな氣もしないでもなさそーだ とりあえず、私的には一応、認識はされているようでありますが、まったくのところ弾かれていくといったところでしょうか そんなこんなで、知識人との対談をさせていただきますと、どーも私には、ネガティヴであるというようなものをチラつかされてしまうのです そして、全身が凍りついてしまっています 製氷器のようなガラスケースに入れられてしまっているような感じ、ただそーすることで生き延びられている或る意味での延命措置と言うのかそんなものまで感じています 文明とか文化とかって、説明つけてみろっていうのも、すべては繋がりなのかもしれないのかな ただ在るだけというので、どれだけ生き延びられるのかを人体実験しているかのようでもある 何かを奪うために、自分らの
行動が成り立つものだったら、それっていうのは、いったいナニ?という氣もします 前述の本を開いたページが、こういったものでした 私はいつも開いたページから読み始めるという質でもあるわけですので行を変えてみます(o_ _)o
 〝肥えて柔かい大地がすっかり流れ去り、かつて存在したものに比べて、いま残るものは病人の骸骨に似ている ・・・・・いまや蜜蜂の食べ物しかなくなった山々には・・・・・そー遠くないむかし。樹木が生えていた 毎年の雨で滋養を与えられ、現在のように裸地から海へ流れて失われることがなかった 土壌は深く、それが水分を受け取ってローム質の大地に留め・・・・いたるところに泉や沢を生じさせた 今日では見捨てられた社が、かつて泉の流れた場所をしめすばかりである〟(出典:プラトン〝クリティアス〟) 要するに外国も日本もどこもかしこもそんな風だというように感じている ただ世界中を観て旅行をして汗を流したのではないにしても、あまりにも身近なところを見捨てるだとか見限る人間が多いのも尋常ではない しかしながら、やはり千年単位だとか、非常に長期戦な時間的な流れを観るにつけ、その期間をのんびりと、もっと他の学習や研究時間として与えられているようにも思える 石だとか樹木だとか葉っぱだとかに精霊が宿っているとか妖精が現れるおとぎ話を信じるのもいい がその半面、そんな石っころは何も考えてはいないし、樹木から小人は現れないのが常かもしれない ただ前にも何らかに記したけど、石は冷たいばかりではないし、樹木の樹皮からの恩恵が様々なことにも謳われているし、葉っぱは葉っぱで、光合成をし、酸素を供給してくれるといったありふれたことの連続を成している おとぎ話が嫌いでもなければ民話を支持するというものでもないのですが、やはり人間とすれば、雨が激しかろうが靄がかかっていようがその経験を積むのと、それはしないと決め込むのとでは、人生の生き方に対する耐性のようなものに歪みが出てきてしまうのかなとも感じています 何はともあれ、自然の流れに触れてみようとすることも、いろいろと詮索とかされて説教がましいことに囚われて、それらの(親とか教師とか上司だとかも)呪縛(ゴメンナサイ)から抜け出すことが或る意味での“教育の質”でもあるように感じてしまいます ですが、いったいからして“質”というものは何かといった会議は終わることなく続いてしまっているだけなのでしょうか 即ち、一日二十四時間の配分としたら、いったいあなただったら何に時間の帯を傾けてしまっているのかと、これから傾けたいのか?といった単純明解過ぎるのですが、時間の使い方の検証を知り、それを自分で納得する必要を迫られているのが、今、進行形で病んでいるからこそ出来ることの一つなのかもしれないですね 蓮華合掌 

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