人返し令

このは なさくや

2009年05月28日 09:40

 限界集落化を加速させてしまった主因といったものはいったい何か?というやつを勘ぐった際に私の個人的な思惑には、やはり一種の“情報の質”に課題が存在しているのは否めないのである 私は特に一極集中の集団的な軍隊化が加速する都会へは、足を踏み入れたいと思わなかったし、あまり生活をしたいとかって感じたことはなかった 働くという意味では人口が密集すれば、何をやっても(良きにつけ悪しきにつけ)或る意味での自己実現が達成できるのは必然的なことだろうと思える 即ち特にあまり労力を使わなくても職業が確保され、特に騒がなくてもサーヴィスの質も頭の質も上昇するのは、特に珍しいことではなさそうだ ただ相対性理論的にいえば、時間軸の回転が異常な加速を示すのは周知されてもいる われわれは年を重ねる 年をとるということは、酸化が促進する、ものすごい加速して、心臓の回転がフルモードで全開する 消耗が夥しい というのは、結局は、‘浪費に全身全霊突っ込んでいるだけ’それだけが今 こういったことに氣付くか氣がつかないでシンでしまうか こんな二者択一的な文明が築かれてきたのではなかろうか いろいろとクソミソなことを鋒鋩が騒ぎたててはいるが、誰が聞き役なのだろうか 実のところ、誰がひそやかな暮らしぶりを訴えるのだろうか? たまたま営業で寄った民家で、引きとめられて人生相談を請けてしまう その内容は深刻なものばかりだった がしかし、なぜ…? 私のようんばモノにこーいった深刻極まりのないことを玄関を開けてみたら、一秒の瞬間から訴えてこられるのだろうか? 私は聖徳太子の耳も持っていなければ、二宮尊徳の態度もない ただただ、右から左へと流れていくだけ どーなるものでもないし、どーしよーもない そーいった話が右往左往している 家族にも話してないとか、妻には話せないとか、ママには言いたくないとか… 山のように積み重なり続ける‘訴え’の地層化 ここ50年足らずで高く聳え立つ山脈は縮んできたが、人々の混沌とした‘シニタイ病’のような‘訴え’が積み重なり続けていた 誰も聴かない ‘知るかっ’といった態度を主張し、横柄にあくまでも個人的に基づいた極めて利己的な‘自己主張’をオープンにディファインする しかも、その主張は何にも基づいてはいない、根拠がなく、痺れの切れる、子孫を脅かす、自然界の破滅をも齎すような… それが正しいという 手を叩いて賛成する 賛成は大多数である 多数派の軍指令のもとにひれ伏すしかない いわゆる‘むし化’しかも、顕著なそれである いまを大切にすることは貴重なことである 勿論持続性も大切かもしれない ただわれわれ、〝ヒューマンフォーミュラ〟におけるキーワードには、左の文字は見当たらないだろう それは、あくまでも、むしより人間だし、いまよりむかしに学ぶし、持続より循環を選ぶからだ 比重をどこに置くのかとか、何をどーというものは、個人的にあっても、そんなもんは一過性の感情みたいなものだし、それを話題にするなんていうこと事態が極めて取るに足らないことのナニモノでもない 前置きが長すぎたので、行を変えます
 あまりにも一極集中した人口をどうバランス良く地方へと配分させるのかというやつが、今後の極めて重大なプロセスでもあるのかもしれない 誰からそーいった移動は始まるのかだとか、もう始まっている 知らないうちにそーなっていく 自己実現だけでは、目標が足りなかったのかもしれない そーいって空虚になって、また地元にUターンしてくる そんなことの繰り返しみたいな氣もする ただこういうのは、氣がついたからという意味であって、一極集中型ライフプランだった人生の折り返しをするという判断が適当なのかもしれない 先日、新宿御苑の中を散策させて頂いたところ、その後山の手線に乗車したら、真新しい制服姿の小学生が、一人で乗り込んできた この小学生らは、きっと、この辺りには生活の居なんかは求めないだろうなと…、もう姿を観ただけで、将来像まで観えてきた ただ日本かどこかは想像に絶し難かった あまりにも野蛮化の加速する現状が、この教育の貧困国に課せられた罪深い十字架にも観て取れる 犯罪の起こる主因が観えても、水際でなんとか出来たに違いなく感じさせて頂く なぜか… それはやはり、その人間が触れ合ってきた人々から成るのではないのだろうか そして、それは“人為”そのもの だとしたら、われわれは、この目の前の人間にどー接していくのだろう それはほんの一瞬のこと…のようだけど 蓮華合掌 

関連記事